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2024/04/25 『最強最悪の信長軍を倒せ!』。フローチャートのズレた部分を修正いたしました。いえね、全角のなかに半角が混じっていると、ブラウザで表示されたときにズレが起こるのでございますよ。作業中は大した違いないので、それにちょっと気づきにくいのでございます。
[8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18]
 収録作は以下のとおり。石ノ森章太郎コレクション
 
 「かげろう」
 「ごいっしょに白鳥のみずうみをききません?」
 「雪おんな」
 「そして…だれもいなくなった」
 「永遠の女王ヒミコ」
 「びいどろの時」
 「うしろの正面だあれ」
 「ヒュプノス」
 
 
 

 「初期少女マンガ」のほうはすべて読んでいたが、こちらは半分ぐらい……。
雪おんな」と「そして…だれもいなくなった」は読んでいる。
かげろう」は作品リストかなにかでタイトル部分だけ見たことがある。
と思ったのですが、サンコミックス版『青い月の夜』に収録されておりました)

ごいっしょに白鳥のみずうみをききません?」は未読
 
 で、新しい四作のほうが、かえって分からない
びいどろの時」は「マンガ少年」なので読んでいると思うが。
うしろの正面だあれ」は、
p.252の「かごめかごめ」を調べているシーンだけ良く覚えている。
永遠の女王ヒミコ」は、
何か作品といっしょに収録されていたのなら読んだと思うが……。
ヒュプノス」も同様。
 
 この四作、2回目に読んだら何か読んだことがある気がしてきたけれど、
そういうのってアテにしちゃいけないよね。
 
 ……でも読んだことある気がするなぁ。
 
 この四作品、四者四様なのだが、
スタイルとタッチが完成されてからの作品は、どこか同じに見える
 
 ファンタジーというよりも奇譚だろう。
現実的なところから始まって、謎にたいする解釈があって、少々ホラーテイストで。
 
 完成されているがゆえに記憶に残らなかったのだと思う。
 
 別に石ノ森先生が描かなくても、という気がしてしまうのだ。
他の、連載作品などとあわせてみても、
確かに石ノ森先生のその時代のテイストなのだが。
 
「龍神沼」のところで問題となった、風景についても同様。
 洗練され、流れが自然なので、印象に残らない。
 自分としては、やはり、テクニックを使っている
と分かるようなものの方が好きだ。
そもそも、そういう部分に魅せられたのだから。
 
 
 
 こういう短編集の場合、
連載ものの一篇が何作か取り上げられることがしばしばあるが、
それがないのは素晴らしいと思う。
 
 ただ、新しい四作のほうについては、
連載の一作のほうがレベル高い作品あるのでは? とも思ってしまう。
 やはり、この時期は連載ものがメインだった気がするのだ。
 
 とはいえ、だからこそ、その時期の短編を取り上げてくれるのはありがたいが。
 
 
 それでは各作品について。
 
かげろう」は、この時期の作品らしく、
色々な効果を取り入れようとしているのが楽しい。
 ただ、急いで描いたのか、絵が雑で、その効果が薄れていると感じる。
 例えば、p.29-31の風景描写などは、もっとちゃんとした形で見たかったところだ。
 面白いのは8ページと10ページの一コマ目。
 同じような絵を配することで、短い時間に起きた白日夢のような出来事を表現している。
p.41あたりからの逃避行は、『イナズマン』を思わせるね。
 

ごいっしょに白鳥のみずうみをききません?白鳥の湖
 タイトルだけ見たときは、知ってるかなと思ったのだが、
石森章太郎作品集① 少女版ミュータント★サブ
(サンリオ/1978)所収の「白鳥の湖」だった。

 
 この「ごいっしょに~」、
レコードをかけるところから始まり、
それを取り出すところで終わっているが、
同じ事は『ジュン』の「音楽を聴く」でもやっているね。
 
ジュン』という作品は、
まったく新しいことをやっているように見えるけれど、
「初期少女マンガ」やこの作品などで分かるとおり、
それまで色々なところで試してきた手法を、            (白鳥の湖)
その時点での先生の最新の技術で描いてみたという
意味合いも強い。
それによって、自身のスタイルを
さらに一歩進めていったのだろう。
 
 

雪おんな
『鶴女房」と「雪おんな」の伝説を合わせたような作品。
それに笠地蔵も入っているのかな?
「龍神沼」では発揮されなかった超常の力が、
今作では発揮された形になっている。
 最後の新幹線は、今は昔の物語ということなのだろう。
 
 
 
そして…だれもいなくなったそして…だれもいなくなった
5つの物語が交互に現われる作品。
ザッピングというか、
カットバックの魅力をふんだんに
活かした造りだ。
 
 絵物語風のメインとなる物語を中心に、
スパイ物、学園もの、
ハンターの話、それに四コマと、
舞台やジャンルの異なる作品が展開する。 
 様々な作品を様々なタッチで描いてきた
石ノ森先生の面目躍如と言っていい。
 
 とは言ってもアクション要素が強い作品が多い。
 カットバックの相乗効果が、           (そして…だれもいなくなった)
その方がより強く表れるという計算からだろう。
 
 このような結末ならば、どんな終わり方をしてもよさそうだが、
四コマの「しあわせクン」を別にすれば、
すべてちゃんと結末まで描いて終わりにしている。そこら辺は見るべき点だろう。
 
 そして、p.154-156。走馬燈のようなシーンには、
劇中に出演した登場人物に加え、
石ノ森キャラの有名どころがゲスト出演している。
こんなところにゲスト出演していいのか、という気もするが、
細かく見る楽しさがある。
 
 
 
 あとの作品については、自分には語ることを持たない。
なので落ち穂拾い的な雑談を。
 
 

永遠の女王ヒミコ
永遠に生き続ける女王という設定は、
怪奇ハンター100万年の女王でもやっていた。
ハガードかなにかに元ネタがあるのかな……と思ったのだけど、よく分からない。
 
 

びいどろの時
 今みたいにループものがあたりまえだと、こんな不幸はないんだけどね。
このころは、そういうのないから、ねぇ。
 
 

ヒュプノス
p.281 5コマ目。石ノ森先生のキャラクターがこんな表情をするのは珍しい気がする。
 なんかほかの人の絵みたい。
 
 
 
 最後に、竹宮恵子先生の解説で、 
石ノ森先生は「………」を多用すると書いてあるのを見て、ハッとなった。
 あれ、多いのか。
 石ノ森先生の作品、たくさん読んでいるから、あれが普通だと思っていた。
 だから自分でも「……」や「──」は普通に使うけれど……、
多いのかなぁ……?
 

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 この作品だけ、テイストが違っておりますな。MYフレンド
 コミカルで軽い感じなのはもちろん、
さらっと描いているあたりがプロっぽい。
 作中作は、 よくある少女マンガ
に対する批評でございますな。
 
 意味のないスタイル画っていうのは、
かつてそれを入れるように編集者から強要されて、
イヤだったんじゃないかなぁ。
 
 たとえば、『龍神沼』p.106の二コマ目なんか、
ポーズをつけていて
ちょっとスタイル画っぽいですよね。
それを小さいコマで描いているのは、
石ノ森先生の抵抗だったりして。
 
 
 
 
 
 さて、この作品にはミュータントモグラが出でまいります。
 手塚治虫先生のスパイダーやヒョウタンツギのようなキャラクターを
ということで作られたのでございましょう。
それとも自然発生したのかな?
 
 本作では色々介入して来ておりますが、
手塚先生のキャラクターとは違い、
いつもはいるだけのキャラクターでございますよね。
 
 この辺に、作者の性格が出ているのかもしれません。
 
 
 このキャラクター、いつ頃からいるのでございましょうか。
 作中では十年程前と書かれておりますが、果たして?
 
 ミュータントモグラなんだからミュータントという言葉を知ってから、
ということは『ミュータントサブ』のあたりからじゃないかな、
とも思ったのでございますが──。
 
『ミュータントサブ』は作品リストによりますと、
1961年に「ミュータントX」という作品があり、
そこから始まっているようでございます。
 
「MYフレンド」が1967年ですから、それですと6年ほど前……。
 さらに調べると、案外簡単にわかりました。
 
 これ。
「石森章太郎落書きノート』(小学館/昭和55年)。
 
ミュータントモグラ

 
 これ自体には、日付が入っておりませんが、
前後の絵を見ると、1957年に描かれたものらしいのですよね。
 
それだとちょうど「MYフレンド」の10年前。
 
 つまり、ミュータントモグラは、
デビュー時かそれ以前には存在していたキャラクターだったのでございます。
 
 そのときに、
すでにミュータントという名前がついていたかどうかは分かりませんが、
メタルーナミュータントが登場する『宇宙水爆戦』が1955年なんですよね。
 
 その時点で映画を見ていなかったとしても、
ミュータントという言葉と、その概念は知っていたはずだと思います。
 
 ですから、ミュータントのモグラということでこの形が生まれたのか、
それとも落書きでこんなモグラができあがって
後からミュータントのモグラということにしたのかは分かりませんが、
まあ、その当時からいたのでございますな。
 
 にしても、このころからミュータントモグラって毛が3本生えておりますよねぇ。
 となると、オバケのQ太郎が毛が3本なのも、
ミュータントモグラの影響ということになるのかも?
 
 あるいは逆にオバQが最初、
毛が3本じゃ無かったのはミュータントモグラの真似をしたくなかったとか?
 
 いずれにせよ、影響はございましょう。
 
《追記》
その『オバケのQ太郎』にも、ミュータントモグラほ発見いたしました。
(単なるモグラとしての登場ですが)

 しかも全身像が描かれている!

 見るんじゃなかった……、
 とおっしゃられる方もいるかも知れませんので、
 覚悟のあるかたのみでお願いいたします。

(→ミュータントモグラの全身像

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 この作品なども、本当に当時の映画にありそうですよね。「あかんべぇ天使」(石ノ森章太郎コレクション 初期少女マンガ傑作選」)
 
 この時代をよく、古き良き時代と書いてるものをみかけますが、
現実としてはそれほどいい時代とも思えません。
 
 ノスタルジックに語られるのは、
このようなドラマから受ける印象でございましょう。
あるいは、こうした物語が受け容れられた、
そのこと自体がいい時代だったと言えるかもしれません。
 
 
 ボロアパートを舞台とした市井の生活。
どの程度トキワ荘をモデルにしたかは存じませんが、
その日常のドラマがいいですよねぇ。
 
 石ノ森先生と申しますと、
ヒーローものをはじめとする派手な作品が目を引きますし、
このような作品は少ないので見過ごされがちですが、
日常をしっかりと描けるということがお分かりいただけましょう。
 
 日常を描けるからこそ、
派手な作品を描いても土台がしっかりとしているのでございましょうし、
後年の市井のを描いた時代劇につながっているのでございましょう。
 
 
 そしてこの作品、
なんと言っても、子犬を拾った女の子、ヤッコちゃんがかわいい。
 石ノ森先生の作品で、
このような幼い子供が主要人物として登場するのはめずらしいですが
(001とかは別ですよ、もちろん)、それは作品の内容によるのだと思います。
 
「昨日はもう来ない~」で書かれていたように、
先生自身は動物や子供の出てくるマンガも数多く手がけたかったようでございます。
 
 が、この時代以降、マンガの読者年齢はどんどん上がっていきましたし、
石ノ森先生に求められるものも違っていた。
 それでこうした、動物や子供を主人公にした作品が少ないのでしょう。
 後年は、このようなキャラクターを描けなくなった節もございますが。
 
 このヤッコちゃんと同じような幼い女の子を主人公にした作品に
いやんポコ」がございます(りぼん/1960他)。
 
いやんポコ
 
いやんポコ
 
 
 主人公のポコは一切喋らず、
まわりの人のセリフや簡単なキャプションを挟むだけの
ハーフサイレントといった作品で、
子供の動作や意味の分からない行動がかわいらしいコメディでございます。
 
 サイレントマンガを高く評価する方もおられますが、
映画と違って動きも(音楽も)なく、難しいものでございますよね。
 
 そのため空回りしたり無理矢理だったり……。
 第一、サイレント映画だって状況を説明するキャプションは出てまいります。
 それも無くしてしまうと、やはり厳しすぎる。
 そのような制約のために面白さを犠牲にするのは、
コメディにとって本末転倒と申すものでございます。
 
 この作品の場合、
ポコは喋らないというルールを守ることで、サイレントとしての雰囲気を維持し、
他のキャラクターのセリフを入れることで
マンガをサイレントにした場合の難しさを回避するとに成功していると存じます。
 
 ちょっと本題からずれましたな。
 
 さて。
 
 この作品、タイトルを「あかんべぇ天使」と申しますよね。
「天使」といえば、
石ノ森先生の実質的デビュー作が『二級天使』という作品なのは、
ファンならご存じのことと存じます。
 
 二級天使

 
「あかんべぇ天使」には、足の不自由な子犬が出てまいりますが、
それがこの作品のピントだと思うのですよね。
 
 つまりこれは、もう一つのピントの善行なのでございます。
 
 天使の神通力で解決するわけではないのですが、それがこの作品のいいところ。
 神通力は作品全体にほんわりとかかっているのでございます。
 
 ちなみに、もう一つの二級天使である「2級天使」(新・二級天使/1965)は、
コメディタッチの強い3品でございますが、この作品の主人公もヤッコちゃんで、
同じような髪型をしているのでございますな。
 ただし、年齢はもう少し上のようでございます。
 
 あと、作中にボクシングが出てくるマンガといたしましては、
ガタコン教室』というのがございます。
コメディで、あまり関係ない内容ですが、
連想で思いついたということはあるかもしれません。
学園とタイトルにはついているものの、
あまり学園ものっぽくない作品でございました。
と申しますか、石ノ森先生の学園ものらしい学園ものって、
ないような気が……。
 枠に収まりたくない……のかなぁ。


 また脱線してしまいましたな。
 
 「あかんべぇ天使」に戻りましょう。
 
 ラスト、夜空を飛行機が飛ぶ音で幕を閉じます。
幽霊少女』のラストでも、
木の葉の間を飛行機が飛ぶ音で物語を終わらせておりますが、
大切ななにかが遠い世界へ行く象徴が、この飛行機なのでございましょう。
 
 一抹の寂しさを感じさせる終わりでございます。
  

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 過去・現在・未来の三部構成

きりとばらとほしと
 吸血鬼となったリリという女性が主人公
(吸血鬼なので、時代を超えて生きられるのですな)
という共通点はあるものの、
 
各部は、オーストリア・日本・米国と場所もバラバラ
 
ジャンルも
古典的なホラー、ミステリー風サスペンス、そしてSFと、
 
それぞれ異なるという。実験的な作品ですな。
 
 ジャンルの違う5つの作品が同時進行で展開する
「そして……だれもいなくなった」
と双璧をなすと申してもよろしゅうございましょう。
 
 

 それぞれの部の冒頭には、
」「薔薇」「」に関連する詩が引用されております。
 この作品集に掲載されているものを見ると、
詩や音楽を起点としているものが多いですよね。
 
「青い月の夜」のイメージの1つは「くるみ割り人形」でしょうし、
「夜は千の目を持っている」は言わずもがな、
「龍神沼」でも「黒く声なく沼は眠れり」という詩が紹介されておりました。
(「龍神沼」の記事にも書いておきますがこの詩、ベェルレェヌの詩ではなくて、ピエエル・ゴオチェの「沼」という詩だそうでございます「茂りし林の奧深く 黒く声なく沼は眠れり」と「茂りし村」ではなく「茂りし林」が正しいのだとか。確かに、「茂りし村」では意味が通じませんものな。これ、石ノ森先生の字が汚かったため、読み間違えられたのかなぁ。今回の「コレクション」で直っていないことからすると、思いっきり村としか読めない字が書かれていたのかも知れませんが。でも、ポール・ヴェルレーヌの作だと勘違いしていたというのは分かる気がいたします。そして勘違いしたということは、記憶で書いているってことですよね。お気に入りの詩だったのでございましょう)
 
 少女マンガには叙情性を、叙情性には詩を、という事なのでございましょうか。
 
いずれにせよ、意識と教養の高さが感じられます。
 
 一部の「霧」は、作画的には点描の凄さを見せたかったのだと思います。
p.187の下のコマがそれでございますな。
他のコマは……時間が無かったのでございましょう。
最初のほうの馬車のシルエットなどはカケアミがデタラメですが、
最後の方では方向が統一されているあたり、
描いているうちに修正していったのでございましょう。
逆に申せば、すべて点描にしていないことや、
馬車のところを描き直していないことから、
締め切りがかなり迫っていたのでは、とも勘ぐれます。
 
 ストーリー的にはオーソドックス。
 最初の詩は、「きりとばらとほしと」という作品全体の
結末を暗示しておりますな。
 
 二部は、あなたの血を全部いただくという吸血鬼からの予告状を軸にした
ミステリ仕立ての物語にございます。
ネタバレをしてしまうと、
その予告状の主は当然リリさんではないのでございまして……。
 
 最後の薔薇が印象的。
 
「霧」と「薔薇」の章は、
「吸血鬼カーミラ」および、
その映画である『血と薔薇』に拠っているようでございますな。
 
 第二部で花火が出てくるのも、映画準拠でございます(出方は違いますが)
 吸血鬼が触れると薔薇が萎れるというのも、この作品からのようでございます。
 
 
 その目で見ると、表紙の女性も『血と薔薇』のミラルカに似ている気がいたします。
 
 薔薇のしおれ方は、この作品のほうが印象的でございますな。
 
 
 そして三部、「星」は未来の話。
 一応話はつながっているものの、
まったく別物と言えるほどテイストはがらりと変わります。
 
 SFで破滅テーマ。
 石ノ森先生の少年マンガによくある、強大な敵に挑んでいく物語でございます。
 
 そしてラスト、主人公がただ1人取りのこされる。
 
 人類滅亡とは限りませんが、
主人公が孤立無援となる話は、石ノ森先生の短編ではいくつかございます。
 
 例えば「護(まもる)」や
ラストがそれに似た『ジュン』の「想い出のジュン」、
それに「おれはだれだ!?」、
「狂犬」などもそれに含めてよろしゅうございましょう。
 
護
       「護」
 
想い出のジュン
          「想い出のジュン」
 

「ファンタジー編」「SF編」などでまとめるよりも、
そのテーマ、もしくは人類滅亡で一冊作った方が面白いんじゃないかと言うぐらいに。
 まぁ、タイトルが買う人の目を引きそうにないのが欠点ではございますが。
 でも、石ノ森先生の主人公が、終末に向けてどう挑んできたかを考えるのは、
『サイボーグ009』のラストを考えるにあたって、
興味深いことだと思うのでございますよね。

 
 細かいところを見ていきますと、
 
 登場する未来ガジェットがレトロフューチャーで面白い。
 登場する怪物が009ギリシャ神話編みたいでございますな。
 それに薬。
『仮面ライダー』の蝙蝠男でも、
吸血鬼に噛まれた人に対して血清が有効でございましたが、
ここでも薬によって、吸血鬼は人間に戻せる設定になっておりますな。
 まぁ、病気のようなものと考えれば、常識的な考えではございますが。
 
 
 各部のラストシーンは、
それぞれリリと「霧」「薔薇」「星」でまとめられており、統一感がございます。
本来、霧のところも大ゴマでやる予定だったんじゃないでしようか。
作者コメントを挟んだのは、吸血鬼ものをやる照れくささなのか、
ちょっと言い訳したかったのでございましょうな。
 
 
 さて、吸血鬼をテーマにした作品として石ノ森先生は
吸血」という短編も描いておられます。
 
 新聞記事から始まる時事をもとにした風の作品で、
最後に事件に関わった石ノ森氏の推理として、
吸血鬼に支配された超未来の地球が出てくるのでございますな。

 
 吸血  
 

 吸血
 
それが事件を説明する1つの仮説となっているのでございますが……。
 
 ラストは、ある作品と同じアイデアを使っております。
 
 なお、この作品の吸血鬼は、伝染能力はございません。
 

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西洋アンティーク・ボードゲーム西洋ボードゲーム
   19世紀に愛された遊びの世界』
    エイドリアン・セビル:著
    鎌倉僚介:訳
   "Vintage Board Games" by Adrian Seville 
 (日経ナショナルジオグラフィックス/2021/1)
 
 タイトルどおり、
19世紀のボードゲームを紹介した本にございます。
  

 ザッと見たかぎりでは、
p.128-9の『襲撃(アサルト)』というチェッカーのようなゲームや、
ふくろうのゲーム』の章であつかっているギャンブルゲーム以外の大部分は、
スゴロクのバリエーションのようでございますな。
 
 スゴロクと申しますと子供の遊びのように思われますし、
確かに子供を対象に作られたものも多いのですが、
マスの指示に「チップを○○枚払う」などもあり、
賭け事のように楽しまれていたものもあったようでございます。
 
 色々なタイプがございますが、
絵的に面白かったり美しかったりするものが多ございますな。
マスに描かれている絵はさし絵のようで、それだけで物語を感じさせてくれます。

 しかも、マスには番号がふってあるので、
何だかゲームブックを感じさせてくれるのですな。
 ボード自体の絵が鳥瞰図や地図になっているものなどは、
順路などにしたがって番号がふられていたりするため、
点つなぎのようにあっちこっちにマスが散らばっていて、
それがまたゲームブックを感じさせてくれるのでございます。
 
 ルールもチップを払うほかは、1回休みとかスタートに戻るなど、
スゴロクの域を出ないようでございますが、
それでもそれなりに面白いアイデアがございます。
 
 
 例えばこの『騎士のゲーム』。
 これなどは単純ながら戦闘ルールがあるのですな。
 
ボードゲーム 騎士のゲーム
 
 中央62の下に描かれた24のマスがそれで、
どちらか骸骨のマスに止まってしまった方が負けになるのだとか。
 
 19世紀にこのような戦闘ルールを含んだゲームがあったのか、
とワクワクした……のですが、
決戦をするのは62、ゴールに着いた1着と2着の2人のみ
つまり、まったくスゴロクの域を出ていないのですな。
 
 しかも1番手は2番手が到着するまで待たないとならないというあたり、
 なんとももっさりした感じ。
 ですが、
こうしたスゴロクはゲームブックのヒントになるのではございませんでしょうか。
 
 そうでなくても、変わったスゴロクを作りたい気にはさせてくれます。
 
 昨今は、さまざまなボードゲームが出ており、
スゴロクと申しますと時代遅れと思われるかもしれませんが、
それでも工夫次第で面白いものになると思います。
 
 第一、ルールが分かりやすいですしね。
 

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(上に書ききれなかったのでこちらへ)

 ちなみに、アイリッシュの『夜は千の目を持つ』は、

ヒロインの父親の死を予言した青年の言葉が、
本当に超常的な力なのか、それとも犯罪性のある企みなのか、
予言は成立してしまうのか、それとも阻止できるのか、

という謎で読者を引っ張るサスペンスでございます。
 
 予言などあるはずはない。
でも、それまでに成立した予言を考えると、
よほど綿密な計画と組織、それに偶然がなければ不可能としか考えられない。
 
 はたして、真相は──。
 
 といった感じですな。
 
 本文の2/5でしたか、かなりの部分をヒロインの独白が占め、
しかも彼女が1回だけ、ミス・リードって表記されるんですよね。

 そのため、叙述トリックもあるかな、って考えなければならないのが悩ましいところ。

 アイリッシュの作品でもございますし。

 捜査側は警察ですが、ボランティアみたいな立場で任に当たっております。
 
 その行動──と申しますか、途中のエピソードのほうかな、もう少し緊密な
感じがあった方が良いようにわたくしには思われました。
 
 事件と捜査が交互に展開するのですが、
そのせいか淡々とした印象を受けたのでございますよね。

 とは申せ、最後まで緊張感をもって読ませてくれる作品でした。
 
(もう少し書きたいのですが、結末に触れることになりますのでこの辺で)
  
 
 ちなみに、予言に出てきたライオンは、
早い段階でだいたいどこのものか分かりました。
 
 都筑道夫先生が書いておられたことで、
大して重要そうでもないところで、不必要なほど描写が細かい場合、
そこがあやしいっていうのがあるんですよね。
 この場合も、それに当てはまるかと存じます。

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 この作品などは、本当にそのまま映画になりそうです。夜は千の目を持っている
 元になった作品があったんじゃないか
と思うぐらいに映画的です。
 私もあまり映画見ていませんが、
当時の東宝や日活映画にありそうですよね。
 
 クライマックスの、街に歌声が響き渡る中、
ビルの一室では銃撃が行われ、
その室内に歌声が聞こえてきて……、
という展開は元がどこかにありそうで、
小骨が喉に引っかかった思いがします。
 
 というか、このパターンっていくつかありますよね、
ラジオから歌声が流れてきて改心するとか。
ゴジラ』の芹沢博士もその例でした。
 
 と言っても、、石ノ森先生のオリジナルであることは間違いありません。
続・マンガ家入門』に、構想メモが載っているので明らかです。
 
 夜は千の目を持っている 夜は千の目を持っている  

 この作品で重要な役割を果たす「夜は千の目を持っている」の詩も、
原詩で書いていますから、この詩から発想したのでしょうし、
作中の歌も石ノ森先生自身が訳されたものでしょう。
 
 この詩、とにかくイメージが広がりますよね。
 千の目と表現された星々。
 それに対して1つしかない心。
 でもその1つはすべてでもあり、それが失われればすべてが失われてしまう。
 
 冷静に考えると、昼の日が失われてすべてがなくなるんじゃ、
夜の立場はどうなるということになりますが、それはヤボというもの。
イメージの広がりを楽しむのです。
 
 
 千の目を持つというファンタスティックな比喩から、
予言や千里眼をイメージさせる詩でもありますね。
ウィリアム・アイリッシュの『夜は千の目を持つ』や
石ノ森先生の『千の目先生』などは、
そうした能力が設定の核になったお話です。
 
 
 ですが、この話は違います。
「夜は千の目を持っている」という詞(ことば)の空間的な広がりと、
「愛が終わりをつげたとき 命のすべての明かりも死んでしまう」という
ドラマチックなフレーズにインスピレーションを受け、
クライマックスのシーンが思い浮かんだのでしょう。
 
 最初はだから、クライマックスは星空だったのではないでしょうか。
この詩を元にしたということは、
星がすべてを見つめているというイメージがあったと思われます。
 
 メモでは「雪の日」とつけ足されていますから、
構想を考える段階でそうしたのでしょう。
(雪の日ということで、クリスマスの物語かなと思ったのですが、
 物語は1月9日の出来事なんですよね。掲載が正月増加号だからでしょう) 
 
 雪がクライマックスをドラマチックに盛り上げ、
ラストの一コマの星空が、すべてを見守っている。
 
 見事な構成だと思います。
 
 
 さて、「夜は千の目を持っている」の訳についてです。
 先ほど書いたとおり、石ノ森先生自身が訳されたものだと思いますが、
歌詞としてうまいと私は思います。
  
 ネット上にもこの詩の訳はいくつかありますが、
それらと比較しても優れているのではないでしようか。
 
 それほど難しい詩ではないので誰でもそれなりに訳せるでしょう。
それに、私が素晴らしいと思ったのは、
2連の冒頭、それを忠実には訳さないで1連と同じ
「夜は千の目を持っている」にしたことなのですね。
 
 訳というのは、原典に忠実なのが基本ですから、
そうではないものがそれよりもいいというのは、ずるいと思うかもしれません。
でもこの場合は、その判断がいいのです。
 
 この詩の訳で悩むのは、2連の最初の Mind です。
 単純に訳す場合には心でいいのですが、
そのあとに heart が来ているので、そうは訳せません。
 
 そこで辞書を調べてみると、理性とか知性とかいう言葉が出てくるんですよね。
 
 ならば、それを当てはめればいいかというと、そうではない気がします。
 
 意味はそれで通ずるもののこの場合、
千の知性や理性に対して1つの心というのは、
対比として合っていない気がします。
 
 heart は中心にあるものであり、1連で太陽にたとえられていますから、
魂であり、相手を思う本当の気持ちでしょう。
 
 だとすると、千のココロとは、瞬間瞬間で現われるさまざまな想い、
感情の揺れみたいなものではないかと思われます。
 
 想いは千々に乱れ、などという言葉がありますよね。
 
 そんなものが、この mind なのではないかと思うのです。
 
 mind という言葉を使ったのは、単に1連の night と韻を踏むためでしょう。
 
 だとすれば、知性とか理性とかとは訳さなくてもよくなります。
 
 では、どう訳せばいいか。
 想いでもいいと思うのですよね。
 でも心との対比として弱い。
 と言うか、心という単語が
日本では、中心にあるもの、魂としてのイメージが弱いため、
mind にどんな単語を持ってきても
対比としての意味があまり出ないのだと思います。
 
かといって解説してしまえば台無しですし、
heart を魂と訳すのも違う気がする。
第一、語呂が悪い。
 
 それに劇中出てくるのは、歌われるものとしての詞です。
それも考えると、やはり、1番の繰り返しである
「夜は千の目を持っている」にした判断は正しいな、と思うのです。
 
 
 
 最後に重箱の隅を。
 サンコミックス版では、名字に間違いがありました。
 平井加代子さんが土井加代子さんに、
 ひらいまことさんがうめみやまことさんに
 それぞれなっていたのですね。
 
 平井のほうは、おそらく石ノ森先生の書いた字が雑だったので
写植打つときに間違われたのでしょう。
 
 梅宮のほうは、主人公の女性が梅宮紀子なので、石ノ森先生が混乱したのでしょう。
 締め切りが迫っていて、チェックしなかったのかも?
 
 でも、単行本収録時にそのままっていうのは……。
 まぁ自分も、異同を見るまで気づきませんでしたけど。
 
 ちなみに『続・マンガ家入門』では、手直しされています。
初版はサンコミックス版のほうが後ですので
どの時点で直したのかは分かりませんが、
自分の持っているサンコミックス版は、
その手直しされたものよりも後の版なのですよね。
 
 うーむ。

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2021/04/02 『ゴジラ』のアニメは完全に寝ている時間なので
見ることができなかった。
アニメ『シャーマンキング』1話を見る。
こんな話だったのかぁ。
何しろ、GBAの『超占事略決3』しかやっていない。
阿弥陀丸って名前にはいきさつ無かったのか。
彼はもっとボスっぽい存在で、対決して仲間になるのかと思っていた。
ゲームだとりりしい顔しか見せていないから、コミカルな表情は想像していなかった。
 
 
 
2021/04/07
 『都会のトム&ソーヤ』ゲーム・ブック第3弾、
「ぼくたちの映画祭」6月2日発売予定。
作者は、はやみねかおる先生と藤浪智之先生にございますかぁ。
ゲームブック第2弾で終わりかと思っておりましたので、これはうれしい驚き。
「SF? ホラー? 恋愛映画?」
「自分しか撮れない映画を撮ってみてください」
なんて書いてあるということは、マルチエンディングかな? 
映画のパロディとか入っているのかな? 
いったん忘れて発売日に本屋さんで驚きたいところでございますが……
 
無理だなぁ。
 
 

2021/04/08 起承転結について」ようやく書き終えました。
右往左往しながらの文章なので、だらだらと長くなってしまってすみません。
結論もスパッとしたものではございませんし。
それは起承転結自体が悪いとも申せますが。
ホント、1日で簡単に済ませるつもりだったんだけどなぁ。
まぁ、わたくしとしては勉強になりました。
他の方に読んでいただく価値があるかはわかりませんが、
記事にしなかったらこんなに考えはしなかったので、
自分としては良しでございます。
時間のことを考えなければ、でございますが。
 
 
 
2021/04/16 日本で電子マネーが普及しないのは、
「いつもニコニコ現金払い」って言葉があるからじゃないかな。
 
 
 
2021/04/17 イチゴをスポーツドリンクで育てると
スポーツドリンク味になるそうでございます。
BS1の日本の農家を訪ねる番組で
農家の人がそんな失敗をしたとおっしゃっておりました。
 
イチゴを育ててる方は、色々な味の飲み物でぜひとも試してみてくださいな。
 
メロン味とかカレー味とか出来るかも?
……おいしいのか?
罰ゲームに使えるかも?

 
 
2021/04/18 弟切草ってチュンソフトのサウンドノベルが出た時は、
架空の植物だと思っておりましたし、実在することを知ったあとでも、
知らない花だと思っておりました。
が、カタカナで書かれたものを見て気がつきました。
「オトギリソウ」
この字面は見たことがある。
検索して花の写真を見ると、見たことある。
まぁ、似たような花は多そうなので、ホントにそうかは分かりませんが。
要するに、「オトギリソウ」という文字とかわいらしい花が、
「弟切草」という漢字とその由来に結びつかなかったのでございますな。
 
 
 
2021/04/22 「新型コロナ論文解読2」を見る。
NHKで
審査前論文の話題が多い。
コロナウィルスのワクチンは後遺症に対してもある程度効果があるらしい。
 
変異ウィルスにたいしてのワクチンの効果は弱いとはいえ、
十分な量を投与するため、それでも一定の効果は期待できるそうだ。
 
いずれにせよ、ウィルスの変異とワクチンの更新はいたちごっこになるようだ。
コロナは収束はしても終息とはならないのだろう。
その収束も、今年いっぱいは難しいみたいだ。
 
 
  
2021/04/23 きのう「所さん 大変ですよ」で、
プレミア価格のウィスキーをやっていたけれど、すごいね。
何百万とか何千万とか一億以上とか。
メーカーから買う場合にも競争が激しくて、
お金の他に作文審査がある場合もあるのだとか。
転売屋さん対策なんだろう。
あれ見てると、転売屋さんって中国の方が多いみたい。
すごいなぁ、
共産主義……じゃないなぁ全然。
プラモデルとかも転売の話聞くけど、
そのうち自分の作ったプラモの画像を添付して応募
ってことになるんじゃないかなぁ。
と思ったけど、そうなったら、そこら辺のツイッーーかなんかから写真を
コピペして送る人が絶対出てくるよね。
転売屋さんなら、それぐらいのこと普通にやるでしょう。
 
 
 

2021/04/25 きのう静岡市街へ行って、
近場の本屋さんでは買えなそうな本を中心に調達。
買う段になって初めて、
トロール牙峠戦争』を間違えて覚えていた事に気づく。
峠という字は認識していたにもかかわらず、
「トロール牙戦争」と読んでいた……。
 峠は国字なので音読みがない。
だから「とろーるきばとうげせんそう」と読むしかないけれど、
ちょっと語呂が悪いよね。
 
 ところで「とろーるきばとうげ」と打ったら、
ATOKの変換候補で「トロール牙峠《駅名》」と出てきたんだが……。
実在の地名にはないよね?(今打ったら、もう出てきませんでした)
 
 
 
2021/04/26 「GMウォーロック vol.1」、
こあらだまり先生のFF紹介記事
ファイティング・ファンタジーとは」(p.010)。
ゲームブックの文章の例で
 
「02 司祭は助走をつけてきみを殴った。(中略)。
 拳には剣で対抗するしかない。(中略)。
 敗北したらきみは神の元に召され冒険は終了する」
 
ってあるけど、
司祭に剣で斬りかかって天国なんか行けるのか、地獄行きだろ
って思ったけれど、
多神教の世界で違う神を信仰しているのだったら別に問題ないなぁ。
ファンタジー、
特にファイティングファンタジーは悪神に仕える司祭が普通にいるんだし。
 
 でも司祭って、なんかひらひらした重い服を着ている印象があるから、
助走をつけて殴りかかってくるイメージないなぁ。
 ……。
蛮族の司祭ならあるか──。
 
 でも、蛮族の司祭っていうのも、
ファイティング・ファンタジーっぼいイメージだよね。
 ゲームブックの説明の段階で、
すでにファイティング・ファンタジーについて
知っている人に向けて書いているような。
 
 まぁ実際、そういう人しか読んでいないだろうからいいんだけれど。
 
 
2021/04/28 「龍神沼」の記事、ようやく書く終えました~。
わたくしの冗長文体で書いていたら、
スパゲッティのようにこんがらがることこんがらがること。
結局、ご主人さまの文体に委ねることに──。
それにしても、書きたいことがどんどん溜まっていくなー。
 
 
 
2021/04/29 前方後円墳って、
絵で描くと円のほうが上で方が下ですよね。
なぜだろ? 字は方のほうが先に来ているのに……と思ったのでございますが、
あれ、円のほうが主役なので、上で当然なのでございますな。
鍵穴とか人の形みたいで見ていて安定感があるせいかなぁ、
などと考えてしまいました。
 
 
 
2021/04/30 4月24日、菊池俊輔先生がご逝去なされていたそうでございますな。
ウィキペディアを見ますと……、いやぁ、作風広いなぁ。
けっこう色々なところでお名前を目にしておりましたが、これほどとは。
と申しますか、
ドラえもんの音楽やっていたなんて存じ上げませんでしたよ~。
でも、そっちから知った方も多いのでしょうなぁ。

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  さて、『龍神沼』。龍神沼
 
 サンコミックス(朝日ソノラマ)版では、
タイトルの「」が「」になっていた
(そのため「竜」のタイトルでこの作品を語る方もいる)。
 
「龍」の字が難しいと判断されたのだろうが、
その割に本文中では「龍」表記になっているから、
ぱっと見た場合や目録などに載せる場合、
字がつぶれて見えなくならないようにという
配慮なのかもしれない。
 
 この作品、先生も『自画自賛」(『言葉の記』p.98)
するほど気に入っている作品のようだ。
初期の代表作として衆目の一致するところだろう。
 
少年のためのマンガ家入門』(秋田書店/1965/8)では、
この作品が丁寧に解説されているのを知っている人も多いかと思う。
 
 その解説の冒頭で、先生はお書きになっている。
「このマンガは、雑誌に発表されたのは、かなりあとになってからですが、
 僕がマンガ家になる前に考えておいたものです。
 ほんとうは、もっと長い物語で、社会風刺や活劇場面もはいっていました。
 しかし、ここては発表した雑誌(少女クラブ)の関係もあって、
 ファンタジックな詩情だけを前面におしだし、
 活劇やその他のものは一切はぶきました。」(p.76)
 
 藤子不二雄先生の『まんが道』にあった、
手塚治虫先生の『来たるべき世界』のエピソードを思い起こさせる話だ。
 方向性を一にして濃縮したからこそ良い作品となったのだろう。
加えて、取捨選択の才もあったということだ。
 
 社会風刺や活劇など、省いたものは他の作品に回されたと考えていい。
 作中に登場する神主と村長のようなキャラクターは、
姿を変えて他の作品でも登場する。
 
 
『石ノ森章太郎コレクション』の解説では、
時間がない中この作品が描かれたことが強調されていたが、
作画的にはともかく、設定やストーリーはさほど時間がかからなかったと思われる。
 
 前々から考えていた作品でもあることだし、
 1957年には「龍神沼の少女」という10ページほどの作品を描いている。
ページ数が少なくて失敗だったということだが、
思い入れのある作品が失敗したことで、捲土重来を考えていたのではないか。
 
 加えて、この作品は臨時増刊号に載った作品だ。
 サンコミックス版の前書きによると、
夏冬2回の臨時増刊号では好きな作品を描かせてもらえることになっていた
そうだ。「龍神沼」もそれに当たる。
 おさらく重点的に前々から準備をしていただろう。
 
 これらの理由から、作画のための時間はなかったかも知れないが、
物語は十分に練られていたはずだと考えられる。
 時間の無さを奇跡のように扱うこともないだろう。
 
 
 
 主人公は東京から龍神祭を見に村にやって来た研一という少年。
 物語は、彼が村にやって来たところで始まり、去って行くことで終わる。
 
 外部のものが共同体内に入ることで、その共同体が抱える問題が解決し、
解決したことでその来訪者は去って行く、
というのは、神話の時代からある物語の一つの典型だが、
『二級天使』やヒーローものをはじめとして、石ノ森先生の作品にはそれが多い。
 
 それが主人公に傍観者的な側面と、孤独を付け加えている。
 
 石ノ森先生がジャーナリストを志していたということもあるだろうが、
それ以前に性格的なものがあるのだろう。
 
 

『石ノ森章太郎コレクション』全体を紹介したとき、
そのまんま映画にしてもおかしくないと書いたが、
この作品については、映画のほうが原作より劣るものになるかもしれない。
 
 クライマックスの顕現する龍。
これが映画では難しいと思うのだ。
実写で幻想的に描くこと自体が難しいし、
これを動かすとなるとシーンが格段に難しくなる。
 やはりここは、一枚絵の魅力というところだろう。
 
 
 
 
 この作品、先ほども書いたとおり
マンガ家入門』において、詳しい説明がなされている。
 石ノ森先生がいかに映画を研究し、
それをまんがに活かしたかがよく分かる解説だ。
 
 それらの解説、特にシンボライズなどの技法について、
石ノ森章太郎論』山田夏樹著(青弓社/2016/11)では、次のように書かれていた。
 
 まずは、泉政文氏の文章からの引用。
「『残念ながらおそらく石森が意図したとおりに辿り着いた読者は、
 ごく一部にしか過ぎないだろう』
(……)。
石ノ森自身は、そうした「風景」によって登場人物の「内面」を表現した解説するが、
泉は単純に森の風景、祭の風景としても”通じる」
ためにその意図した効果に疑問を呈している。
 さらに伊藤比呂美氏の評価。
 『龍神沼』、『ジュン』に対して。
 『マンガ家入門』を読んだ時はすごいと思ったけれど、
「季節はわりとあたりまえにその季節感を表わす風物をマンガにうつしとり」
「心理は、連想したものを季節や背景に組み入れたもの」
「まるでナニナニのような、
 という直喩を使いまくって文章を作るもたつきを感じた」と否定したあと、
 『佐武と市捕物控』が
「あたりまえな連想や映像の方法に寄りかかる方法は(略)見られなくなってきた」
 と結ぶ。 
 
 これらの批評を紹介したあと、山田夏樹氏は、
『マンガ家入門』では「風景が内面を作り出す」と書かれているが、 
この『マンガ家入門』を書き、表現を言語化し体系化することで
「内面が風景を作り出す」ことを発見した。
 とまとめている。
 
 自分には、これらは評論につきもののうがった見方に感じられる。
 
 
 まず、比喩的表見についての伊藤比呂美氏の批判は、
この手法を使った映画にも当てはまるものだ。
 
『映像のリテラシー』Ⅰ( p.177)には次のように書かれている。

 こうした比喩的な対照は独創的なものといえるが、
 この種の編集の大きな問題点は、見え透いていすぎること、
 もしくは理解できないほど不明瞭なものになりやすいことである。
          (中略)
 映画ではこの種の(文学に見られるような)比喩的な工夫はもっと難しい。
 編集することで多くの比喩的対照を生み出すことは出来るが、
 それらが文学においてとまったく同じように機能するわけではない。
 エイゼンシュタインの衝突モンタージュ理論は、
 主としてアヴァンギャルド映画やミュージックビデオ、
 テレビコマーシャルにおいて探求されている。
 フィクション映画の監督の多くは、
 彼の理論は押しつけがましく高圧的すぎると考えているのである。
 
     
 映像による比喩表現は、当時は新しい手法でもあり、
作家性も高いため、当時の石ノ森先生が感銘を受け、
自作にも素直に貪欲に取り入れたのだろう。
 
 それも「竜神沼」が叙情性を前面に打ち出した作品だからこそ
ふさわしいと思って使ったのだろうし、
『ジュン』についてもアヴァンギャルドな作品だからこそ、
これらの手法が使われたのだ。
 
 それ以外の作品では、それが前面に出されることはない
 だが『佐武と市』などの作品にしても、風景の中に巧みに取り込まれていると思う。
 
 さらに言えば、『石ノ森章太郎論』では、
シンボライズだけがことさらに取り上げられているが、
『マンガ家入門』ではそれだけを強調しているのではない。
風景、効果線、カケアミ、白黒の比率など、
背景によって心理を表現するものの一つとして、この手法が取り上げられているのだ。
 
「龍神沼」
 

 「龍神沼」
 
 
「龍神沼」
 
 
「龍神沼」
 
 
 シンボライズについては
  
 p.108上の段の3コマを
 蜘蛛の巣にかかったチョウ=少女に対する疑問と魅惑の虜になった少年の心理
 ひとりぼっちのカブトムシ=少年の孤独、静寂。
 花=少女のイメージ
 としたり、
 
 p.116の神楽舞を少女の嫉妬
 としているのは、
 確かに読み取れない。
 
 ただ、作者の意図がどこにあるのかにかかわらず、
p.108では、前のコマの少年の呼びかけに対して
何も応えることのない森の静寂を感じることは出来るし、
p.116では、激しい感情を感じ取ることが出来る。
 
 作者の意図が伝わらなくてもそれが伝わればいい
──むしろ、解説どおりに伝わるよりも、
そんななんとなくの雰囲気だけが伝わった方がいい部分だと私には思える。
 
 解説として言語化したためにあのように書いてはいるものの、
石ノ森先生も描くときは雰囲気で書いていたのではないだろうか?
 
 さらに言えば、
ここは小ゴマで違う絵をポンポンと差しはさんでいること自体に意味がある。
 それによって目新しさとテンポが生まれるからだ。
 
 この場面、こういう挿入がなくて話は通じる。
 だが、他と同じようなコマが続いたら単調なものになってしまったことだろう。
 それほどの静寂も、ドラマチックな緊張感も伝わらなかったはずだ。
 
 そう言う意味でもこのコマたちには意味があるのだ。
 
 そもそも、こうした批判は『マンガ家入門』の解説ありきのものと言っていい。
 この本で、一つ一つのコマを取り上げ、それについて解説するから、
それは伝わらない、あからさますぎるという論が発生する。
 
 だが、解説なしで読めば、それらはそんなに気にならない箇所ではないだろうか。
 
 マンガを読む場合、登場人物の言動は印象に残るが、
物語に直接関わりのない背景だけが描かれたコマなど、
サッサと通り過ぎてしまうものだ。
 
 映画なら監督が時間を決めることが出来るが、
それすらも読者に委ねられているマンガの場合、
そのようなコマに費やす時間はほんの一瞬だろう。
 
 
 では必要ないものではないかというと、それも違う。
効果線や白黒の比率も含め、背景に対する手法を工夫することで、
他とは一線を画す画面となるし、
作品が持つ雰囲気もより読者に伝わるはず。
 
 つまり、より一層深い作品となる。
 そのためにこそこれらは、作品において不要ではないのだ。
 
「風景が内面を作り出す」が、
『マンガ家入門』で書表現を言語化し体系化したことで
「内面が風景を作り出す」ことを発見した、
という山田夏樹氏の説は、言葉のあやのような気がする。
 背景が心理を表現するためには、心理がそのような状態でなければならない。
 背景によって内面を語ることと内面が背景を作り出すことは、
作家の中では同時に行われていることだ。
 
(山田氏は泉氏の言葉を引いて「風景」という言葉を使っているが、
 石ノ森先生の書いたのは効果線や白黒の比率なども含めた
 背景についてである。そこに見解の相違が生じたのかもしれない)
 
 風景→心理から心理→風景の変化という、山田氏の説は、
次の章で主人公たちの心理について書くためのブリッジとしての説なのではないか。
 
 言葉として書くことによって認識を新たにした部分はあるかもしれないが、
石ノ森先生の姿勢はそれほど変わっていないように思える。
 
 以降の作品で比喩的な手法が影を潜めたのはそのためではない。
 
 映画の場合で見たように、この手法がジャンルを選ぶものであること、
当時は目新しかったがその後あまり見られなくなったものであること、
それに石ノ森先生が自信のマンガのスタイルを確立したこともあるのだろう。
 
 あまり見られなくなったのはそのためだと思われるし、
シンボライズの手法は背景による心理描写の一部に過ぎない。
先ほど書いたとおり、
その後の作品ではこれらは背景の中に巧みに溶け込ませているものと思われる。
 
 
 後の作品ほど洗練・進化をするのは当然だろう。
 だが、だからこそ、この時代の石ノ森作品が私は好きだ。
 
 プロとして手法が確立した後の作品は、その辺割り切っている部分もあるし、
流れで書いているところも見受けられる。
 
 それに対して初期の作品は、まだその方法論が確立されていない。
 そのため、映画の手法をもってマンガに新しい風を吹き込もうという
情熱が感じられるし、内容も濃い。
 
 それがこれらの作品に、生き生きとした力を与えているように思うのだ。
 
 
 
☆ さてさて。 
  ところでこの作品、
イメージのヒントとなったと思われる詩が作中に出てまいります。
主人公の研一さんが口ずさむ
茂りし村の奧深く 黒く声なく沼は眠れり」という一節でございますな。
 これ、ベェルレェヌの詩と言っておりますが、
実際には、ピエエル・ゴオチェの「沼」という詩なのだとか。
茂りし村」も間違いで、「茂りし林」が正しいのだそうでございます。
 確かに村が茂るという表現は変ですよねぇ。
「村」と「林」でございますから、
石ノ森先生の字が雑で読み間違えられちゃった可能性がございますな。
 
 それはそれとして、
ポール・ヴェルレーヌ作と勘違いしていたというのは分かる気がいたします。
なんか、そんな雰囲気の詩ですものな。
 
 そして勘違いしたということは、記憶で書いているということ。
作者を間違えて覚えていたというものの、お気に入りの詩だったのでございましょう。
 
 
 
《追記》
 
 その後、「龍神沼」関連でいくつか見つかりました。
 この記事の中心と関係はございませんから、
 読んでくださいというものではございません。
 単独で読める記事でございます。
 もしよろしければ、ごらんくださいませ。
 
 (→)『龍神沼」補遺
 

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石森章太郎 昨日はもう来ない 「きのうはもうこない だがあすもまた」
は、映画もしくはロバート・ネイサンの小説
『ジェニーの肖像』を基にした作品にございます。
 
 この作品と『ジェニーの肖像』については、
以下のPDFが参考になりましたので、
興味のある方はお読みになるとよろしゅうございましょう。
 
『ジェニーの肖像』のアダプテーション
─小説から映画、そして日本の少女マンガへ
ローベル 柊子 
 
 https://www.toyo.ac.jp/-/media/Images/Toyo/research/labo-center/ihs/bulletin/kiyou22/22_p47-65.ashx?la=ja-JP&hash=738C0F39DEBFA34691F7C30C58B7447A4397F196
 
 
  
 この作品、
ファンの女の子が遊びに来て、というがあるのが変わっておりますな。
 
 でも、枠のないバージョンもございます。
 サンコミックスの『竜神沼』(ママ)に収録されているものは
枠のないバージョンでございますな。
 (右上と右はその表紙と一ページ目でございます)
 
 石森章太郎 昨日はもう来ない  枠のあるものとないものでは、まず扉絵が違っております。
 それに枠の話のためにいくつかのコマがなくなっておりますし、
第七章に枠の話が1ページ挿入されたため、
その後のページがズレてしまっております。
 
 この2つはどのようにして成立したのでございましょう。
 
 
 「石森章太郎の世界」の作品年表を見ますと
昨日はもう来ない、そして明日も
という作品が1959年にあるのですよね。
 
ですからそれが、外枠のない話かもしれない……
のでございますが、コミックスをあらためて見ますと、
「そして」ではなくて「だが」なんですよね。
 
 それに、この作品リストの他の部分には間違いがあるみたいなので、
ここも間違っているのかも。
 
 ネットで探しても見つかりませんし。
 
 国立国会図書館デジタルコレクションのデータを見ても
よく分かりませんでした。
調べ方が悪かったのか足りなかったか。
 
他の作品でも、リストにあって載っていないものも、
逆にリストに無くて載ってないものもございました。

 
 加えて、1959年に描かれたとすると、そもそも疑問な点が1つ。
 
p.70に主人公の健二さんが現実に負けて描いたマンガがございますが、
その「まだら」何とかが、快傑ハリマオっぽいのでごさいますよね。
 
 ハリマオの連載は、1960年4月から。
1959年の作品で出てくるのはちょっと難しい
 
テレビドラマ(マンガと同時に放映) のマンガ化ですから
企画がそれ以前から動いていて、
キャラクターデザインはすでに出来ていたなども考えられますが──。
(ちなみに、連載開始からしばらくは、
 手塚治虫先生が下描きまでの構成をしていたのだそうでございます)
 
 月刊誌から週刊誌への移行期で、しかも連載。
仕事量はグンと増える。アシスタントも雇わなければならない、
と困難は認識している一方で、やってみたい作品とも
思っていたらしいのでございますよね(『言葉の記憶』p.97)。
そんな作品を開始前からこのような形で採りあげるかどうか──。
 
 一方で、1959年と申しますと、
先生のお姉さまがお亡くなりになられたのが1958年でございますから、
その一年後
 
 その時期にこの作品を描いたというほうが、
もっとあとよりも納得できる気がいたします。

(一方で、この時期にそれを描いたとすれば、
 そのときの気持ちはいかに、と気にもなりますが。
 精神的な強さなのか、それとも作品にすることが
 気持ちの整理や解消に少しはつながったのか、つなげようとしてなのか……)
 
 また、赤塚不二夫先生が、そのころ石ノ森先生にそんな提案をした
という話もあるそうでございますし。
 映画『ジェニーの肖像』の日本公開は、1951年だそうでございますから、
名画座か何かで観たのでしたら時間的に問題ございません。
 小説も訳されたものが出ております。
 
 
 さらに加えますれば、枠の話で石森先生は「だが」にするか「そして」に
するかを迷っております
 
 これは、「そして」という作品があったことを示すものではないか。
そう思うのでございます。
 
 
 それらを総合して考えまするに、個人的な見解ではございますが、
 
 1959年あたりでお描きになったのですが、
そのときはボツになったのではございませんでしょうか。
 
 ボツにされるマンガ家を描いた作品がボツになるとは皮肉でございますが、
SFであり、時間ものであり、
主人公がマンガ家の青年。読者とはかけ離れているなど、
ボツになる理由はあると存じます。
 
 新しすぎる、難解すぎるなどの理由でボツになったという話は、
先生のお書きになった文章に出てまいりますから、可能性はあると存じます。
  
 
 それを締め切りが迫っていたのか、受け容れられる素地が出来てきたのか、
石ノ森先生がどうしても発表したいと思ったのか、
描き直しをし、ページ数の都合からか枠の物語をつけて発表したのでございましょう。
 
 それでバージョンが2つになったのでございましょうな。
 
 枠なしのものは、枠つきに描き直したものから、枠を取っ払ったものなのかも。
 
 どちらかを選ばないとならないとなれば、
ページ数の多い枠付のものを採用するのが当然ですが、
枠のない方が作品としてのまとまりはございます。
 
 両バージョンをと言いたいところでございますが、
似たものを2つも載せると、無駄と思われてしまうでしょうしねぇ。
 
 難しいところでございます。
 
 ただ枠の話を省くだけですので、
枠のない物語は掲載された作品から想像してくださいませ。
 
 
 
 
 さて、解説でも描かれておりますとおり、石ノ森章太郎『ジュン』
この作品、
ジュン』の底流を流れる主題となっております。
 
 この作品では解説でお書きになっているとおり、
イノセンスや姉の記憶でよいかと思われますが、
『ジュン』では異性を含めた未知未知なるものとか、
理想、神秘なるものとか、
広い意味が付加されているように存じます。
 
 そしてそれらは、少女の死に暗示されているとおり、
手に入れることが出来ないものなのかも──しれません。
 
 さらに 「昨日は~」の外枠のセリフ、
時間はどんどん過ぎ去ってしまうというのは、
ジュン』の
やがて秋が来て冬が来る」に連なっております。
 
 作中作で語られる自分の描きたいマンガが石ノ森章太郎『ジュン』
編集部の要請など外部的な理由によって
描けないことについては、
たとえば『続マンガ家入門』のあとがきでも、
マンガ家を目指す読者に対して
だいたい次のような感じでお書きになっておられますな。
 
 
 あなたの世界を10として、
それをすべて理解してくれる人はいない。
理解力0の人、5の人……ごく少数は9まで理解してくれる
人はいるかもしれないけれど、10を理解してくれる人はいない。
 
 そこであなたは
あなたの世界を変えていかざるを得ない。石ノ森章太郎『ジュン』
やがてあなたの世界は、
以前1だけ理解してくれた人にも
理解できるような世界になる。
 
 つまりあなたの世界は
だれもが理解できる世界に変わったというになる。
 
 だれもが楽しく遊べる世界を作ったあなたは、
人気者であり英雄でありその世界の”王さまとなった。
 
 けれども、もはやあなたはその世界では遊べない。
 すでにそれは
アカの他人たちの世界になってしまったから──。
 
 
 
プロの意識が芽生えるというのは、
そういうものを吹っ切ることなのでございましょう。
 
 ただ、その一方で、吹っ切ったあとも、
こうした思いはいつまでも持っていたものではないかと思います。
 

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 解説では扉絵の俯瞰前衛的と評しておりますが、青い月の夜
ヒッチコックの映画あたりにあるのではないでしょうか。
その一コマだけで特筆する必要は感じられません。
 
前衛的というよりも、少女のいる部屋を描写しつつ、
彼女の不安や孤独を表現したコマとして
評されるべきでございましょう。
 
 それに語るのてしたら、この一ページだけではなく、
それを起点とした5ページ、p.9までの流れを語るべきですな。
 
 少女がドアを小さく開けて
こっそり外の様子を聞いている一コマ目(p.5)。
 
二コマ目では彼女の顔がアップとなり、 
不安な表情に迫ります(p.6)。
 
そこからp.7・三コマ目まで彼女がのぞき見る部屋の外が描かれ、
少女の不安の理由──両親の諍いですな──が明らかにされます。
 
p.7・四コマ目はp.6・一コマ目と同じポーズで扉を閉め、
ここまでを1つのシーンとしております。
 
 そこから、p.9の月光が部屋の中に差し込むまでが一連。
少女がぼくちゃん人形に話しかけるまでをスムーズなカメラワークで描いております。
 
 月の光とともに起は終わり、物語はオモチャたちの話に移ってまいります。
 
 で、ミッドポイントは、え~と、5ページから35ページの中間だから、
一本足の兵隊が登場するあたりでございましょうか。
 
 解説ではアンデルセンの「鉛の兵隊」(スズの兵隊)と書いてありますが、
ホフマン、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」も下敷きとなっておりますよね。
 
 「おもちゃのチャチャチャ」はどうなのかなぁ。
ウィキペディアに拠りますと、野坂昭如先生の詞のバージョンは1959年。
1回きり使われ、その後1960年にダークダックスが再度採りあげた、
となっておりますから、ギリギリと申しますか、
リアルタイムということになりますが、
何しろ一度や二度の放送だけみたいでございますからな。よくわかりません。
 
 まぁ、「おもちゃのチャチャチャ」は、
キッカケにはなったとしても、影響は最小限のはずでございます。
 
 何しろ、石ノ森先生はデビュー作『二級天使』の中で
一本足の兵隊」という作品を描いており、
それがこの作品の直接の元となっているからでございます。
 
 この作品、『二級天使』の中でも唯一の3回連載。
石ノ森先生としても思い入りのあるテーマだったのだと思うのですよね。
 
「青い月の夜」のp.32に一本足の兵隊が窓を割って放り出される場面がございましょ? 
コマの関係とこの作品では脇道なので目立たない扱いでございますが。
 
 ここで『二級天使』の「一本足の兵隊」の話をいたしますと、
 
 かの作品では、オモチャたちの持ち主の病弱な女の子が、
『毎日毎日、こんな生活もう嫌」と思わず人形2人をはたき、
ガラス戸を破って窓の外へ。
 
そこまでが1話で、2話目から放り出された一本足の兵隊人形モンティと、
ジプシー人形ナナパットの冒険の話となっているのでごさいます。
  

二級天使 一本足の兵隊
 
 
 アンデルセンのスズの兵隊の話はご存じでございましょうか?
 あの物語では、スズの兵隊は魚に飲み込まれますが
「一本足の兵隊」でもやはり飲み込まれます。
 でも、自力で抜け出すのですな。
 
 ラストも、アンデルセンのそれは、涙を誘う終わり方をいたしますが、
「一本足の兵隊」は、二級天使・ピントの力を借りてハッピーエンドで終わります。
 
 きっと、アンデルセンの話の結末を不服に思って、
そのような結末に仕立てたのでございましょう。
 
 一方、病弱な女の子は天に召され、人形たちの王国は後日取り壊されるという、
かわいそうな結末に。
 
 そんな少女の結末をなんとかしてやりたいと思って描いたのがこの作品なのだと存じます。
 
 
  女の子が両親に泣きついて家族が再生するという結末は、お話として、少しありきたりな気もいたしますな。
 
 ただ、家族を見守るような満月で終わるエンドは、それを補って印象的でございます。
 

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.「石ノ森章太郎コレクション  石ノ森章太郎コレクション
  初期少女マンガ傑作選」(ちくま文庫/2021/1)
 
 副題のとおり、
石ノ森先生の初期少女マンガから選択した作品集でございます。
 
 収録されている作品は、以下のとおり。
 
  
 ちなみに、
『石森章太郎の世界 イラストアルバム』(徳間書店/昭和53年2月)や
『ぼくの漫画ぜんぶ』(廣済堂/昭和52年6月)では、
『あかんべぇ天使』は、昭和40年となっております。
 しかし、サンコミックス版でも昭和37年となっており、
この年号で正しいのでございましょう。
 
 
『二級天使』でデビューした昭和30(1954)年16
 (解説だと、1955年デビューで17歳となっておりますが、
  一月号はその前年に発売されるのが普通ですし、
  執筆していたのはそれ以前ですからまぁ同じことでございます)
とすると、
「MYフレンド」をのぞけば、22~25ぐらいで書かれた作品となりますな。
 
 ちなみに、先生のお姉さまがお亡くなりになられたのが、
 1958年(昭和33年)4月、
 
『世界まんがる記』の世界旅行に行ったのが1961年だそうでございます。
 
 スタジオ・ゼロ設立が1963年。
 
 「MYフレンド」をのぞけば、だいたいその間に描かれたということにあいなります。
 
 
 これら少女マンガについて、
石ノ森先生は『石森章太郎の世界』で次のようにおっしゃっておられます 。
 
石森 『龍神沼』だけではなく『そして誰もいなくなった』
   『あかんべぇ天使』など、初期の少女もの短編が好きなんだ。
   というのは、このころ、まだ
   自分の進む道は絶対マンガ家じゃなければならないとは考えていなかった。
   それで、読者にうけることは考えずに、
   本当に好きなことを書いた作品ということでね。
 
──結果的には<それがうけましたね?
 
石森 そうなんだ。同じ感覚で呼んでくれる人がいるとわかって、うれしかったね。
「絶対マンガ家じゃなければならないとは考えていなかった」
とおっしゃってはおりますが、
小説家とか映画監督とかアニメ作家とかジャーナリストとか、
他の職業と申しましても、
ものを書(描)いたり作ったりする仕事という点は確かぶれていなかったと存じまする
 
 それにそうはおっしゃられましても、
マンガのことをおろそかにしていたというわけではございません。
 
 むしろ、マンガを映画と同じような総合芸術と考え、
マンガを映画と同等、
いや、それ以上のものとするために、日夜考えておられたのでございます。
 
 さらにインタビューを読みすすめていきますと、
サイボーグ009(1964)でプロ意識が完全に芽生えたともおっしゃっております。
  
 このプロとそうでない時代の違いは何か、
 作者が作中キャラクターとして登場している
きのうはもうこない だが あすもまた」(1961)
の特に作中作の主人公と、
MYフレンド」(1967)を比べて見ると、一目瞭然でございますな。
 
 自分の描きたいものがあって、
それを描いて断られているのがプロ以前の段階。
貧しくて、でもマンガに対して純粋で。
 
 
 一方、「MYフレンド」の石森先生は、先生と呼ばれております
おうちも立派なものを持っておりますし、自分を二枚目に描いていない。
 プロのマンガ家として自信も自覚もあり、まわりからも認められている。
自分のスタイルもすでに確立している。
 作中で女の子の作品を評価しておりますが、
つまりは編集者の目で作品を見ることができるということでございますな。
 
 評価される側の作品も、
石ノ森先生らしく手なれているのはご愛敬というところでございましょうか。
ちょっとアマチュアっぽくないですな。
 

 
 
 というわけで、
マンガの理想と描きたい作品に情熱的に取り組んでいたのが、
この少女マンガの時代でございますな。
 週刊誌ではなく月刊誌の時代でございます。
しかも読み切りなので、派手なコマはない代わりにストーリーが濃密でございます。
 
 締め切りに追われていたとはいえ、
大人気作家となる以前でございますから、
作品に工夫を凝らす時間もあったのでございましょう。
 
描きたいものも頭の中にあふれ、また映画などから物語や技法などを吸収して、
それをマンガに取り込んでやろうという意欲にあふれていた時だったとも存じます。
 
 作品を見ても、映画的な作りでございますな。
 
 「龍神沼」「夜は千の目を持っている」「あかんべぇ天使」あたりは、
そのまんま映画にしてもおかしくない作りだと思います。
 
 また、ここで試した技法が『ジュン』など後の作品で、
より先鋭化して使われているということもございます。
 
逆に、日常のていねいな描写などは、作風が派手になってからは
あまり描かれなくなったような気も?
 そのあたりは、時代がスピーディな方向に流れたせいもございましょうな。
 
 というわけで次回は、各作品について見ていくことにいたします。

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都会のトム&ソーヤゲーム・ブック第3弾
ぼくたちの映画祭」ということもあって、
  
『キートンの探偵学入門』(Sherlock Jr./1924年)を見てしまいました。
 
フィルムのコマのフレームにつかまってのアクションがあるのはこれだったっけ? 
と思ったのですが違うみたい。
 
(いや、そういうシーンがゲームブックにあったら面白いんじゃないかな、
 と思ったのでございますよ。夢の中のシーンとして)
 
お話の中ほど、映画に入り込んだ直後に
シーン転換のギャグはありましたけど。
 
 
あらためて見たけど、以前見た記憶よりも面白うございました。
  
見たのが画質が良かったせいも大きいと思うんですよね。
以前見たものは、もやがかかった感じで、
細部がハッキリいたしませんでしたし、迫力が違います。
  
ニコニコにあるのが、以前見たものに近い気がいたします。
 コメントが色々教えてくれるので、そちらははそちらで見る価値がございますが
  
 特にクライマックスのバイク&カーアクションシーンは圧巻でございますな。
ジャッキー・チェンが敬意を表するわけでございます。
 
 
 この作品のミッドポイントは実に分かりやすい。
と申しますか、二幕構成と申した方がよろしゅうございましょう。
 
 現実の世界が一幕。映画の世界に入り込んでからが第二幕。
 実に分かりやすい。
 
 この作品の場合は、
二幕目のはじめ(ミッドポイント)からクライマックスまでが転
と断じてもいいような気がいたします
(まぁ、チェイスシーンからでも良ござんすが)。
 
 伏線の張り方、回収も分かりやすく見事。
 エンディングも洒落ております。
 
 無声映画ですし、
後発の作品に比べ派手さに欠けるとおっしゃられるかもしれませんが、
キートンの動きのキレといい、一見の価値はあると存じます。
 

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「起承転結」について(1)

起承転結について(2)
 


 
(8)落とし話やアイデアストーリーなど。
 
 (6)は四コマやごく短い小話のことを考えてみました。
  それではもう少し長い話の場合はどうでございましょう。

 
  長い小話やショートショートあたりから、
  短・中編あたりまででございますな。
 
 そのような作品であっても、
ワンアイデアを軸とした話ならば、基本は変わらないと存じます。
 
 オチやサゲのある話は、四コマなどと同じ起承転結の論法に従います
 
 違うのは、長いということでございますな。
 
 そのため、より「仕掛ける」ことができるというものでございます。
 
 特にの部分は大事ですな。
 最小単位の漫才を考えたときは、
起と転のつなぎぐらいの扱いでございましたが、
実はもっと重要なのでございます。
 
 ともかく、起から順番に見てまいりましょう。
 アイデア中心の話では、もちろんそのアイデアが重要。
 そのアイデアを中心にすべてが回ってまいります。
 
 
(1) 起
 
 いわゆるセッティングの部分でございますな。
 アイデアが成立する状況、
そのアイデアをもっとも効果的に見せることができる設定、
なおかつ、この段階でネタがバレないようなことを考えて
初期条件を考えてまいります。
 
(2) 承
 
 起から転への受け渡しの場であると同時に、
伏線を張り、転での爆発力を最大にするための
仕掛けをする場でございます。
 色々な要素を足して目くらましをしたり、誤誘導をかけたり。
 腕の見せ所でございますな。
 
(3) 転
 
 そこまで来た道筋に立ちはだかる意外の壁でございますな。
 起と承からの流れに沿いつつ、
 切り札のごとき驚きを見せる見せ場でございます。
 
(4) 結
 
 すべてをまとめる部分でございます。
 オチやサゲなど、
 ショートショートなら一言で終わってもよろしゅうございますし、
 全体をまとめるエピローク的なものが添えられるかもしれません。
 
  
 ここで述べておりますのは、純粋にアイデアのみを軸とした話でございます。
 
 ですから、起承転結は
そのアイデアを最大限に活かすために構成されなくてはなりません。
 
  キャラクター要素も、この場合必要ございません。
 が、アイデアのみで通用するのは、
短編かせいぜいが中編までが限度でございましょう。
 それ以上はキャラクター要素が必要になってくると思いますし、
短編でもそこは重視する方が多いかと存じます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 (9)石ノ森章太郎先生の説明。
 
 さて、ここで、石ノ森先生が『マンガ教室』などで書いている、
起承転結の説明について紹介しておきましょう。
 
 わたくしが起承転結という言葉を知ったのも、この書によってでございます。
 
『石森マンガ教室』(昭和44年/黒崎出版)
 
 

 四コマについてはこう。
 
四コマ
 

 
 それをつなげていけばストーリーマンガになるというのは、
 スーパーマーケット方式と同じでございますな。
 
スーパーマーケット方式
 
 さらにストーリーマンガについては、
このような図によって起承転結を説明しております。]
 
ストーリーマンガ
 

 見て分かりますとおり、
ことさらに特殊なことをお描きになっているのではございません。
 
 むしろ、これが起承転結に対する大方の認識であると存じます。
 
 ただ。
 だからこそ、気にしなければならない箇所がございます。
 
 物語の上昇曲線を解説した図で、
石ノ森先生は、はっきりと「」をクライマックスとしているのでございます。
 
 となると、(6)の最後で書いた疑問が浮かび上がってまいります。
 
 クライマックスは確かに要(かなめ)のポイントなので、
ピンポイントであっても、構成の一として入れるべきなのか。

 それとも、重要ではあるがピンポイントであるという理由によって、
承か結の一部、あるいはその中間と考え、三部構成と考えるべきか。
 
 はたまた、ある点からクライマックスまでを転と考え、均等な四部構成を考えるか。
 さて、いかがいたしましょう?
 
 
 
 
(9.5)とは申せ。
 
」をクライマックスとするのは納得のいく考えでございます。
 
 クライマックスは
物語の均衡状態に決着がついて結末になだれ込んだり、
意外な展開があったりするものでございますからな。
 
 それに「転」を四コマなどの「転」と同じように考えるより、汎用性がございます。
 
 四コマの転では意外なことが起こらなければなりませんが、
クライマックスとなりますと、
それが必要というわけではございませんからな。
 
 オチのある短編とか、推理小説以外でも
それなら説明ができるというものでございます。
 
 
 ただ、汎用性が高すぎで、それこそあたりまえという感もなきにしもあらず。
 
 クライマックスという言葉はそれこそ誰でも知っておりますし、
それが最後に来る方が面白いということも経験的に分かっております。
 
 でも、あたりまえだから無視していいというものでもございますまい。
 むしろあたりまえだからこそ、
それをもっとも効果的に盛り上げるのにはどうすれば良いのかを
考えることは、やはり重要なのだと存じます。
 
 
 
 
 
(10)映画
 
 石ノ森先生のお描きになった物語の上昇曲線は、
おそらく映画の構造論に由来するものにございます。
 
(2)で書いた『映画技法のリテラシー』にも
古典的なパラダイムとして紹介されております。
 

 映画の上昇曲線  
 
 目標に向かって一直線に進む主人公の行動を追うような映画に使われる手法で、
 
「それは特にアメリカではもっとも人気のあるストーリー構成の型であり、
 実際にいまだに揺るぎない地位を保っている。
 その型が必ずしも芸術的に高度に洗練されているわけではないが、
 実際の制作規範となっており、
 それゆえに「古典的」と呼ばれているのである。
 言い換えれば優れた映画も駄作も、
 この伝統的な語りの定石を使っているのである」(p.61)
 
そうでございます。
 
映画技法のリテラシー』では、
引き続いてこのパラダイムを伝統的な演劇技法に沿って説明した
シド・フィールドの説を紹介しております。
 
(この伝統的演劇技法については、
 ウィキペディアの3幕構成なども参考になさるとよろしいかと。
 ここには書いてないことがいろいろ書かれてございます)
 
 
第1幕:状況設定(4分の1)
第2幕:対決(2分の1)
第3幕:和解(4分の1)
 
下に書いた分数は、全体に占める割合ですな。
内容的には、
 
 
第1幕で主人公の目的は何か、
 目標達成の障害になるものは何かなど、物語の前提が設定され、
 
第2幕で物語が動き、
 
第3幕でクライマックスの対立の結果、何が起こったのかが示される。
 
という感じでございます。
 
 石ノ森先生の描いた物語曲線と比較すればお分かりいただけましょう。
 
 つまり、石ノ森先生は
 
第1幕=起、第2幕=承、第3幕=結と当てはめ、
クライマックスを特別な一点として「転」としたのでございます。
 
 これは、西洋の三幕構成を起承転結に置きかえる方法として、
非常に正しい方法だと存じます。
 
 
 
 
(11)ミッドポイント
 
「転」=クライマックスで決着はついたわけでございますが、
 話はまだ続きます。
 
 シド・フィールドの映画論で最も重要なのは、
ミッドポイントという考えにございます。
 
 彼の論が日本に紹介されたのは、
 1984年の別冊宝島「シナリオ入門においてですから、
 石ノ森先生が起承転結についてお書きになったときには
 無かった考えですな。
 
 
 このミッドポイント
 名前のとおり映画のまん中あたりにあるポイントでございます。
 ここで起こったことにより物語のベクトルが変わり、
 そこから一気にクライマックスへ向かって加速するような
 一点のことでございます。
  
 面白い映画にはそこに重要な転換点がある
 とシド・フィールド先生はおっしゃるのですな。
 

 ミッドポイント
 
 難しい例を先生は挙げておりますが、
 そういったものばかりではございません。
 
 例えば
 
 恋愛ものだったら、
彼女も自分のことを想っていることに気づくですとかね。
 
 ゾンビものなら、ある薬品が見つかって
それまで逃げているばかりだったのが攻撃に転じるですとか。
 
 信じていた人物の裏切りに気づくですとか。
 
 まぁ、色々あるじゃないですか。
 
 RPGでしたら、
シティアドベンチャーでダンジョンの情報が見つかって、
双方向移動から一方向移動になるとか。
 
 ギャグベースだったのが急にシリアス展開に、
 なんて言うのもございますな。
 
 目立つものそれほどでもないものございますが、
とにかくストーリーの方向が変わるポイントでございます。
 
 
(10)でも書きましたとおり、シド・フィールド先生の映画論は、
3幕構成を基本にしておりますが、
このミッドポイントも、かなり重要でございます。
 
 
 そこで、ミッドポイントで分けた四部をそれぞれに当てはめて起承転結とすると
収まりがいいのではないかな、という考えもできると思うのですよね。
 
 ミッドポイントでベクトルが変わって、
そこからクライマックスまで一気に駆け上がるところまで
を転とするのでございますな。
 
 物語のギアが上がり、トーンが変わりますから、
そこをひとかたまりと考えてよろしいのではないでしょうか
(個人的には展という字を当ててもいいかなとも思いますが)。
 
 3幕構成は1:2:1の割合ですから、
ミッドポイントで分ければ
ちょうど4分の1ずつの配分になるのもちようどいい。
 
 転換点からクライマックスまでが
四コマで説明される転と同じかと申しますと難しくはございますが、
転換点からクライマックスでございますから、合っている気もいたします。
 
 ミッドポイントは発明ではなくて発見でございます。
 シド・フィールド先生がたくさんの脚本を読んで、
面白い脚本にはこれがあると発見したことでございます。
 
 つまり、それ以前の方でも上手い人は、理論化していないとはいえ、
経験的にミッドポイントに
重要な転換点を置いていたということでございますな。
 
 あらためて石ノ森先生の図をごらんください。
 承のまん中あたりに、ひときわ盛り上がった部分がございますね。
 上には、ミディアムクライマックスとあり、
「中間のヤマバ。これは小刻みにたくさん入っているほうがよろしい」とあり、
ミッドポイントという意識はございませんものの、
やはり、その中でも重要な山場を
物語のまん中あたりに置いているということは
ミッドポイントという考えを、
無意識のうちに持っていたのだと思います。
 
 最近、先生の『幽霊少女』(昭和31年)と
『幽霊船』(昭和35年)を読んだのでございますが、
どちらもカッチリとまん中あたりに父親の打ち明け話が入っていて、
それで主人公と物語の関係が強くなるんですよね。
 
 ですから、石ノ森先生の作劇術の中にも、
ミッドポイントは無意識のうちに染みこんでいたのだと存じます。
 
 
 というわけで、先人にもこのミッドポイントに気づかれた方がいて、

3幕構成の1幕を起、
2幕のミッドポイントまでを承、
そこから3幕までを転、第3幕を結として、
起承転結としたのだろう

と結論づけようとしたのでございます。
 
 が。
 
 ここまで来て、問題に当たりました。
 
 3幕構成では、クライマックスは最終幕である第3幕、
つまり今配分した起承転結ではの部分に入ってしまうのですよね。
 
 それでいいのか?
 
 四コママンガのことを考えますと、三コマ目が緊張で、
四コマ目でその緊張が解除される感じがございますから、
それで合っている気もいたします。
 
 が、一方でクライマックスは転に入れたいという気もいたします。
 
 結局のところ、どちらかはわかりません。
 どちらでもいい気がいたします。
 そもそも、起承転結という言葉があいまいなのでございます。
 
 ただやはり、大方のイメージといたしましては、
クライマックスは転だと思うのですよね。
 
 と申しますか、結はエピローグ部分というのが一般的で、
だからその前のクライマックスはやはり転だと思うのでございます。
 
 ですから転は、そのクライマックスの一点、
もしくはクライマックスを終点として、
ミッドポイントか第3幕の終わりを起点にするぐらいではないかな、
とそのように思います。
 
 
 伝統的な演劇技法が
ミッドポイントやクライマックスで区切りを置かないのは、
幕によって分けているからと申せます。
 
 物語のまん中の重要なシーンや
クライマックスで決着がついた瞬間なんかで幕は下ろしませんものな
(テレビのCMなら逆にそこにこそ入れそうでございますが)
 
 ですから、幕による区切りとそれとは関係ない区切りで
分け方が違ってくることは仕方がない、と申しますか、当然だと存じます。
 
 というわけで、起承転結を3幕構造に当てはめてみますと、
 
 起は、第1幕
 承は、第2幕
 転は、クライマックス
 (だが、ミッドポイントか第2幕の終わりから
  クライマックスとまでを転と考えてもいいかもしれない)
 結は、第3幕のクライマックス以降。
 
 とちょっとあいまいな結論とあいなりました。
 
 
 あいまいな結論ではございますが、先ほども書きましたとおり、
起承転結自体があいまいなので仕方がございません。
 
 漢詩や四コマならば一行一コマに起承転結を当てはめるだけなので
問題は起きませんが、長いものになってくると無理があるのでございますな。
 
 まぁ、クライマックス=転でいいと思います。
 ですが、ミッドポイント重要性も知っておいて欲しいと存じます。
 
 
 
 とここで、新たなる考えがひらめきました。
 漢詩や四コマの起承転結は、ピンポイント。
 ならば、映画的な起承転結も重点的な一点を指すものと考えてもいいのでは、
という考えにございます。
 
 まぁでも、起と結は同じ。
ミッドポイントとして、クライマックスとするのでございます。
 
 そこら辺を押さえておけば、要点はつかめると思うのでございますよね。
 
 
 
 
(11)まとめ
 
 ここまで、起承転結について、あれこれと考えてまいりました。
 
 四コマや小話など、ごく短い話での起承転結。
 
 落とし話やアイデアストーリーなど、
 ショートショートから中編ぐらいの話の起承転結。
 
 構成に拠らないスーパーマーケット方式。
 
 クライマックスを転とした映画的な手法。
 
 映画の3幕構成をミッドポイントで分ける起承転結と、その変形。
 

 ミッドポイントを承、クライマックスを転と、ポイントで考える方法。
 
 
 構成のないスーパーマーケット方式以外は、起承転結と申せましょう。
 
 
 紹介してきたそれぞれには得意がございまして、
 
  
 アイデアストーリーの起承転結は
 ワンアイデアを核とした作品で、超短編から短・中編ぐらいまで
 
 
 スーパーマーケット方式は
スラップスティックのように勢いだけで行くのでしたら短めのもの、
エッセイマンガのように淡々とエピソードを連ねるものならば、
延々続けることができますが、作品としてのまとまりには欠けます
 
 
 映画的な手法は、主人公を核にしたもので、
 メリハリの利いた長編に向きます。
 
 
 面白い物語を作りあげるためという目的の認識は共通しておりますし、

物語には始めと終わりがあり、
 最後のほうに面白さを持っていく、
クライマックスを華々しくするということでも共通していると存じます。
 
 目的が一緒なので、組み合わせが可能です。
 と申しますか、組み合わせないと成立しない部分もございます。
 
 
 短編の起承転結はワンアイデアが軸になるものでございますし、
 
 スーパーマーケット方式は、スラップスティクにしろ日常系にしろ、
 核になるのはその場その場のエピソード。
 
 映画的手法は、主人公にございます。
 主人公の行動によって物語は進行し、その葛藤が物語の主題となります。
 クライマックスにしても、主人公がどう行動し、
 どう解決したかが問題となります。
  
 
 多くの方は主人公の行動や運命に注目いたしますし、
 それが話題を呼びます。
 加えてメリハリがあり、1つの作品としてまとまっていて、長編
 となると、やはり、映画的な構成をメインに考えるべきでございましょう。
 
 
 
     ☆   ☆   ☆
     
     
 とまぁ、起承転結について長々と書いてまいりました。
 
 (ホントはこんなに長く時間かけるはずじゃなかったのになぁ。
  一日で終わる予定だったのになぁ)
 
 このように起承転結と申しましても、いろいろとあるわけでございます。
 
 加えて申しますれば、起承転結
 これを知っていればいいものが書けるというものではございません
 
 出発点に立った程度のものでございます。
 
 
 サッカーのフォーメーションと同じですな。
 
 一流のチームと同じシステムを採用したとしても、
 チームが強くなるわけではございません。
 
 プレイヤーのフォーメーションに対する理解、
 他の保持ションとの連携、
 そして何よりもプレイヤー個人の技量と身体能力、
 スタミナなどが無ければ、優れたチームとはなれないのでございます。
 
 
 そういう意味で申しますれば、
 
起承転結と申しますか構成は、
お話作りにある程度慣れてから考えるべきことかもしれません。
 
まずは練習と実戦。がむしゃらに挑んでみるのもよろしいかと。
 
そうして、各選手のスタミナや身体能力、テクニックのレベルアップを図りつつ、
全体を整えていくのでございます。
 

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(タイトル下には書ききれなくなったのでこちらへ)
 
庵野監督なら作品内容を理解してきちんと仕上げてくれる……でしょうけど、
エンターテイメントを目指すとおっしゃっておられますからなぁ。
尖った作品にはならないかも
 
シン・ゴジラ』もエンターテイメントとしてまとめておられましたからなぁ。
 
インターネットや
当時の国民総背番号制度に当たるマイナンバー、
新疆ウイグル自治区をはじめとする中国の監視支配体制など、
現実に起こっている出来事から、
原作「仮面の世界(マスカーズワールド)」を映画化するとしたら
などとという妄想はすぐに思い浮かびますが、
万人に受け容れられるものを作るとなりますと、
マイルドになりましょうなぁ。
 
 一方、ホラー性やアクション性には大いに期待、
期待させて欲しいところでございます。
 
YouTubeで見た記者会見では、どの程度の信憑性かは不明でございますが、
蜘蛛男・蝙蝠男の登場をほのめかしておりました。

スパイダーマンとバットマンですよ。
 
というヨタはともかくとして、

今やるのでございましたら、
アメコミヒーローレベル動きは当然期待されますよね。
それに応えることが出来るのか。
興味あるところでございます。

それにヨタとは書きましたけれど、
バットマンはともかくとして、
スパイダーマンとの差別化は出来るのかなぁ。

いやできましょうけれど。
 
ビルの谷間ではロープアクションではなくて、
ビルの壁をかさこそ這い回る動きが中心になるとか、
ロープを使うにしてもターザン的な持ち方にしないとか、ね。
 
ともあれ、スパイダーマンに似せようと思わなければ、
原作でも違っていたので問題はございますまい。
 
でも、ビルの谷間での縦横無尽の空中戦は見たいなぁ
 
サイクロン号はどう使うのかなぁ?
  
敵に体当たりとか、ビルの壁を走ったりとか?

でも、そんなアクションは無くてもいいかな。
 
あまり何でもありというのも、
ヒーローが強くなり過ぎちゃってつまらない気がいたしますし──。
仮面ライダーの場合は特に。

 
ライダーキックはそう叫んで蹴るのだろうか?
叫ぶ意味はないですし、リアリティという意味からも必要ないですから、
叫ばないんだろうなあ、
でも、キックでトドメは変わらないのかなぁ。
原作ではそれほどキックでもないですよね。


 映像表現にも期待。
 万人受けする作品を目指すそうでございますから
それほど極端なものは入れてこないかもしれませんが、
それでも期待せずにはいられません。
 
 

 エンターテイメントを目指すということは、
主人公が死んでエンドということはないでしょう。
 
続編やシリーズ化への含みを残すのかなぁ?
 
『仮面ライダー』という作品ということで考えますと、
2、3作は作って欲しいところでございます。
 
アメコミヒーローと肩を並べるぐらいに注目されるためにも
それはやって欲しいですな。
 
 一方、映画として考えますと、「仮面の世界(マスカーズワールド)」中心で考えますと、
1作の映画としてきれいにまとまるんですよね。
 
テレビシリーズなどの関係もあるのでございましょう、
原作でもキッチリと終わらせてはいなくて、
続いていく体で話を終わらせてはいるけれど。
話としてはテーマを書き切ってあそこで終わりという感がございます。
 
 一作ごとに完結する三部作で、
そのラストに「仮面の世界(マスカーズワールド)」を持ってくるぐらいが、
贅沢だが満足のできる作りになるという気はいたしますが。
それはやはり、贅沢ともうすものでございますなぁ。

 公開は、2023年3月だそう(ホント?)。
 いろいろと気になる作品ではございます。
 
 
* 出だしを『スカルマン』みたいな感じにして、
  連続して起こる怪事件を刑事か記者が捜査しているうちに、
  仮面ライダーに出会う、みたいな形にしても良さそうなぁ。
  その方が仮面ライダー誕生のエピソードを短くできそう。
 
  一方、「仮面の世界(マスカーズワールド)」をラストに持ってくるとすれば、
  誕生編を描いた方がそれが生きる気もするので、一長一短ではあるけれど。
  
  うーん、もうホント、
  「仮面の世界(マスカーズワールド)」をやってくれるものと思って書いているなぁ。
 
  臆断は禁物禁物。

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2021/03/01 来訪者カウンター終了してしまいましたねぇ。
そういえば、以前のお知らせでそんなこと書いてあったなぁ、
残念。
書ければいいと思っていたけれどモチベーション下がるなぁ。
というわけで、どこぞから引っ張ってきました。
数字が小っちゃくなっちゃいましたね。
上のカウンターが同一IP制限無いかもなので、テスト(検討)中です。
 
 
 

2021/03/02 『よつばと』の15巻が売っていた。
そう言えば家にあるはずの14巻は、
フィルムかぶったままどっかに行っちゃってる。
まだ読んでないや。密封してあるのって、
すぐ開けるか、
なんとなく開封するのがもったいなくてそのままにしてしまうかのどっちかだけど、
その後者だった。
かなり探さないと見つからなそう。
それにしてもチラッと見ただけだけど、15巻は厚そうだねぇ。
 
 
2021/03/03 「Role&Roll」はきのう3/2に買いました。
前にも書いたけど、一部発売が遅れる場合もある書店なのかも。
雨が降っていなかったら、
遠く静岡市街まで買いに行っていたかもってところだから危ない危ない。
小さい本屋さんですと、一度買いに行かなくなると、
次から置いてくれなくなることってあるじゃないですか。
そうすると、その後は街まで行かないと変えない羽目に。
まぁ、買っている本屋さんも、近くというわけではございませんが、
ホラ、地域の本屋さん応援したいですし……。
 
 
 

2021/03/04 静岡ホビーショー開催決定!! なのですが、業者のみですって。
さもありなん。
ぬか喜び。残念! 
同時期に別会場で
愛好家による合同展示イベントを開催する方向で調整中らしいですけど、
無人でショーケースに入れての展示という感じになるのでしょうかねぇ? 
どっちにしろ、それだけ見に行くほどの模型ファンじゃない……
アワワ、何でもございません。
いや、じっくりと見る時間があれば、面白いのでございますけれどね。
 
 
 
2021/03/05 あれ?
「2021/03/03 (Wed) vol.196 道化の真実の絵が見られるのは、このブログだけ!!」
拍手がついてる~。「今回も何もございませんでした」だけの内容なのに……。
ありがとうございました。
他の記事に拍手を下さった方も、
この際まとめてですみませんですけれど、ありがとうございました
励みになります。
こういうボタンは基本押さないという人もいらっしゃいますから、
拍手してくださったかたのうしろには、
きっとその十倍のいいねと思ってくださった方がいるんだ、
と身勝手な解釈をさせていただくことにいたします。
 
 
 
2021/03/06 血湧き肉躍る は冒険小説だけど、肉が湧いて血が躍ったらホラーだなぁ。
 
 
 

2021/03/07 慣れないことはやるもんじゃないな、
という言葉は、結局永遠にやらないってこと?  なのかなぁ。
似たようなものにスコットランドかアイルランド、
あそこらへんのことわざ(パラドックスの本に載っていたので、
警句的ジョークといったところでございましょう)で
泳げるようになるまでは水に入ってはいけない」とかいうのがございます。
うろ覚えではございますが……。
なぜ、あそこら辺と覚えているかと申しますれば、
ドワーフのことわざとして使おうかと思ったことがあったからでございます。
 
 
 

2021/03/10 ペースメーカーは電磁場による電磁干渉の影響を受けて、
動作に異常を来すことがある。
そのため、常時強力な電磁場を発生する機器は避ける必要がある。
それはぼんやりと知っておりましたが、
その例として挙げられているのが全自動麻雀卓というのが意外でございました。
なにしろ、写真や映像でしか見たことないからなぁ。
そーか、あれってそんなに強い磁気が出ているのか。
なにかに使えそう……、
ペースメーカー以外にも誤動作するものってあるだろう、
とは思ったのでございますが、そういう科学的な知識が無い。意味ないなぁ。
 
 
 

2021/03/11 御坂美琴さんなんか病院とか研究所で行動しておりましたけど、
大丈夫なのかなぁ。
いくら自在にコントロールできると申しましても限界がございましょう。
あれだけ電撃や電磁力を使ったら、精密機械が狂ったりして気づかれない? 
変なことにならない? 『超電磁砲』見ていて心配でございました。
まぁ、AEDの代わりを果たしたり、
肩こりを解消したりという効能はございましょうが。
 
 
 
2021/03/12 超電磁の先輩と申しますれば、
超電磁ロボ・コンがいらっしゃいますな。
御坂美琴さんも超電磁スピンぐらい身につければ……
(動作的には、似たような動きはしているかも?)。
 
それはさておき、コン・バトラーの場合、電子回路を保護すべく、
内装は電磁波が漏れないような構造になっているのでございましょう。
でも、外部には電磁波まき散らしまくりですよね?  
近隣の家では
電波障害や通信障害が起こっているのではございませんでしょうか。
数分のこととはいえ、パソコンとか壊れるかも?
 
 
 

2021/03/16 大塚康生先生がご逝去なされたそうでございますな。
何か信じられない思いがいたします。
 キャラクターと特にメカの、表情ある日本独特の動きにご尽力なされた方、
という評価でいいのかな。
カートゥーンのオーバーアクションでもロトスコープのリアルでもなく、
見ている人の感情に沿った溜めとか緩急とかアクションでございますな。
そういうものを築きあげていったお一方でございましょう。
 
☆ この報を聞いたあと、このサイトを見つけ見ておりました。
  
http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/ohtuka/ohtuka.html
 
昔の話や専門学校の話、アメリカのアニメなど、
実体験に基づいた足が地に着いた言葉が興味深うございました。
 
 

2021/03/17 百円玉を落としたので自動販売機の下を手探りしたら、
五十円玉が2枚見つかった。
割れた?
 
 
 
2021/03/18 ちょっと気になって、
新城カズマ先生の『物語工学論 キャラクターの作り方
(角川文庫/平成24年5月)を取り出してみる。
結果、どうも目当ての本ではないことは分かった、
が、せっかくなので、前半のキャラクター論は跳び越して
(面倒くさいんだもの)、
賀東招二先生との対談を読む。
ついこの前まで『とある科学の超電磁砲』のアニメを見ていて
感心していたことが書いてあって驚いた。
この書の直接影響があるかは分からないけれど、
同じような考えを取り入れて設定や物語作りがなされているようだ。
 
 (起承転結があたりまえのことを言っていると
 書いてあるのはこの本だったかな、と思って開いたのですが、
 ザッと見た限りでは、違ったみたいです)
 
 
 
2021/03/24 『ゴジラ S.P<シンギュラポイント>』 の予告映像を見ました。
キャラクターはマンガ的。
ゴジラだけでは間が持たないのでございましょう。
複数の怪獣が登場するようでございます。
町工場でジェットジャガーを作って戦う? トライダーG7? 
それって怪獣に勝てるのぉ? 
予告を見た感じですと、話の流れはストレートですが
円城塔先生の脚本だけに、難しい言葉が散りばめられておりました。
どうやら未来が関わってくるようでございますな。
面白くなるのかどうかは正直申し上げまして分かりません。
何しろ、ゴジラはイメージが定まっている上に死なないと難物、
扱いが難しいキャラクターでございますからなぁ。
なので、ゴジラという思い入れはあまり持たないで見ようかと思っております
(無理かな?)
 
 もしかして、ジェットジャガーがプラモデルになるのかなぁ。
カラフルに塗るのが正しいのか。リアルに仕上げるのが正しいのか、どっちなんだろう。 
 
 
 
2021/03/25 聖火リレーってホントにやるのか。
ってことは、オリンピックってホントにやるんだ。
記録にも記憶にも残る大会になるなぁ。
 
…………えっと、いい意味で。
 
 
 

2021/03/30 桜の季節となりましたな。
ただ、開花が早くなっておりますよねぇ。
地球温暖化でございましょうか。
これでは、桜のさくころ一年生
ではなくて、桜の散るころ一年生でございますな。
このままいくと、桜の散るころ合格発表、になったりして。
さらに進めばお正月を初春と呼ぶのがなんの不思議もなくなったりして。
そこまで行くと、冬はどうなってしまうのかなぁ。ちょっと心配。夏もすごく暑そう。
 
 
 
2021/03/31 来訪者カウンター、消しました。
よく分からないし、この頃は見てもいない。
一番困るのは、自分が見た分もカウントされてしまうことでございます。
登録なしのカウンターなので仕方ないのかもしれませんが。
しかも、更新するたびにカウントされるので、
記事を書き直して確認するたびに一増えてしまうのがなんとも……。
結局、自分のブログだというのに、あまり見に行かなくなりました。
困ったことでございます。

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(「起承転結」について(1)り続く)
 
 
(5)いしいひさいち
 
四コマの起承転結を破壊したと言われるいしいひさいち先生は、
インタビュー風の文章で次のようにお書きになっておられます。

 (「文藝別冊 総特集 いしいひさいち」
    (河出書房新社/2012/6/2016/7増補新版))
 
 そもそも四コマに起承転結というセオリーは存在しない。
 起承転結に則って描くプロはいない。
 
 楽しむにしてもリズムは多様であって要件ではない。
 
 笑いがすべての世界では秀作か凡作か以外にはない。
 
 あるとすれば読者の認識の観念的なフレーム、後知恵であり、
 四コマに起承転結がないのはけしからんという議論は幼い。
 
と。
最後に「今の見解は?」「でっちあげです」とごまかしておりますが、
本心でございましょう。
 
 
 また、日常系四コマについても、
 
 面白いかつまらないかは起承転結とは関係ない
 
 とお書きになっておられます。
 
 オチがないからつまらないのではなく、
 つまらないものはつまらないからつまらないのだと。
 
 四コマのオチは落語のサゲやシメと違い、
 四コマで腑に落ちればよいのであって四コマ目である必要はないと
 再認識させられた、だそうでございます。
 
 実にいしい先生らしい。
 傾聴すべきお言葉だと存じます。
 
「読者の認識の観念的なフレーム、後知恵」というのは、
(3)で書いたことでございますな。
 
 起承転結はある意味あたりまえのことを言っているので、
 物語というものは、(このコマは起承が一緒になっているとか、
 この二コマで承になっているなどとすれば)、
 大抵起承転結の枠に収めることができるのでございます。
 
 
 
 そしてギャグとは驚き、意外性こそ命でございます。
 
 こういう流れなのだろうという予想を裏切ってこそなのでございますから、
 起承転結という安定した形を外すことも、
 その意外性と申すことができると存じます。
 
「楽しむにしてもリズムは多様」ということも重要で、
 四コマのような短いものの場合特に、
 同じパターンが並ぶとそこに意外性がなくなってきてしまうのですな。
  
 繰り返しのギャグや、
 パターン、マンネリズムの美学を用いる場合には有効でございますが。

 
 
 でも、いしい先生の作品の中でも起承転結になっているものはあるぞ?
 
 まぁ、それは観念的なフレームだとおっしゃられるのでございましょう。
 起承転結になっていることを否定しているのではなくて、
そのような構造のセオリーはないとおっしゃられているのでございますから。
 
 
 
 でも
そうはおっしゃられても、起承転結というセオリーはあるのだと思います。
 
 ただし、それは古いセオリーなのでございましょう。
 
 ですから、
いしい四コマがそれを崩したという説は、正しいのでございます
(いしい先生の前にも、セオリーを無視したスタイルはあったと存じますが)。
 
 四コマのオチは落語のサゲやシメとは違う
とおっしゃっておりますが、そのサゲシメこそが古いスタイルなのでございます。
 
 そして、
それらがある作品については起承転結のセオリーが通用するのでございますな。
 
 例えば落語の小話や昔の漫才、そして古い四コマなどがそれらに当たると存じます。
 
 
 
 
 このようなセオリーがなくなり、ルール無用になったのは、
「ザ・マンザイ」あたりのマンザイブームのころからでございましょうか。
 
 ビートたけしがつるべ打ち式にボケをエスカレートさせていき、
きよしが合いの手のようにうながしたりツッコんだりするというような、
一番面白い転の部分だけ残し、
他の部分を話の流れに組み入れたり簡略化していって、
スピードアップと濃縮化をしていったのが新しいスタイルでございますな。
 
 (その際、起承転結を意識していたかは存じませんが)。
 
 いしい先生のほうがマンザイブームよりも早い気がいたしますが、
そういうルール無用のセオリーに立っているからこその、
起承転結などないという発言なのだと存じます。
 
 
(6)小話、漫才、四コマ
 
 その古典的なスタイルはどのようにして成立したか。
 漫才の最小単位から考えてみましょう。
 小話も会話で進行するので、基本は一緒でございます。
 それらの最も短い形は、おおよそ次のような流れで成り立っていると存じます。
 
(1) ボケが話を切り出す。
(2) ツッコミが続きをうながす。(「ヘェ」「それで?」)
(3) ボケがトンデモないことを言う。
(4) ツッコミが、常識的な観点から意義を申したる。=ツッコミを入れる。
  (「なんでやねん」「そんなわけないやろ」)
 
(3)のボケが単体ではわかりにくい場合には、
(4)で補足説明が入ったりもいたしますな(「そりゃ、○○やろ」)
  
 小話や四コマの場合も結の部分でオチがつくことが多いので、
補足があるほうが基本でございましょう。
結がツッコミだけで終わるのは、その短縮形ですな。
 
 
 いずれにせよ、これが古典的な笑いの最小単位でございます。
 
 この形は自然発生的に出来たものでございましょう。
 無駄がなく、基本的で、安定感がございますな
 
 
 それが、小説の構造を説明するための
起承転結のために使われたという流れでございます。
 
 ただ、漢詩とか四コマでしたら起承転結とは
一行一コマとの間で一対一対応できますが、
ある程度の長さの作品となると話は違ってまいります。
 単純に四等分というわけにはまいりません
 
 特にの部分。
 
 転換点という言葉があるとおり、
転はある一点、もしくは短い箇所を指すような気がいたします。
 
 それをどう考えたらよろしゅうございましょう。 
 
 ピンポイントである転を構成の1つとして入れ、
ちぐはぐなバランスの起承転結でよしとするのか。
 
 それとも三部構成と考えるのか。
 
 あるいは、○○からクライマックスまでを転と考え、
 起承転結を均等な配置とするのか。
 一体どうなのでございましょう。
 
 
 
 
 
(6.5)ところで
 
起承転結という言葉が物語構造の基本として紹介されているのは、
日本だけのようでございますな。
 
 ついでに申しますれば、
コママンガで特に四コマが一般的なのも日本だけみたい。
 
 その四コマが日本で主流になったのは、
新聞マンガとして定着したからみたいでございますな。
 
(ふと思ったのでございますが、文章が縦書きということが縦四コマのマンガが合っていたのかも?
 ……。それほど自信のない説ではございますが)
 
 
 
 

(7)スラップスティック その他
 
 さて、これとは別に、特に構成をしないという話の作り方もございます。
 
 無声映画やアニメの短編コメディで見られる手法でございますな。
 
 『トムとジェリー』のようなものを想像していただけばよろしいかと。
 とにかくつるべ打ちにギャグを連発し、視聴者の心を上げていくことで
「ああ、面白かった」と、思わせる手法でございます。
 
 瞬間的な興奮が積み重なりが、
最終的な面白さの盛り上がりとなるという方式ですな。
 
 大塚康生先生のインタビューで知ったのですが
「スーパーマーケット方式」というのだそうでございますな。
 
 似ているものと言えば、ゲームの面白さでございましょうか。
 
 ゲームの場合、イベントやアクションを時系列によって変化させるには
一工夫が必要になってまいります。
 
 トランプのカードはどこで出してもスーツと数は変わりませんし、
野球の場合ならどの回であっても、
バッターのやることが増えたり変化したりはルール上ございません
(作戦上はあるにしても)。
 
 それでもそうしたアクションが重なっていくことで、
後半に向けてどんどん盛り上がってまいりますな。
 それと同じような感じでございます。
 
 ただこれは、構造とは申せませんな。
 
 ゲームの場合ですと、一方的な結果となって
盛り上がれないということもございますが、
作品の場合でしたら時系列を調整できます。
 
 ですから、「スーパーマーケット方式」などと申しましても、
完全に並列ではなく、
視聴者が盛り上がれるような配置をするのか普通てこざいますな。
 
 
 このスラップスティックの手法を含めまして、
マンザイブーム以前で起承転結のセオリーに乗らないものは、
やはり外国のコメディの影響があったのだと存じます。
 
 
 
 と、スラップスティックの話としてこの形式を語ってまいりましたが、
エピソードを並列していくだけの構成は、何もギャグに限ったことではございません
 
 日常の風景や紀行など、
淡々とエピソードを羅列していくものはこの方式でございます。
 
 構成が無いのでございますから、他にも例は色々とございましょう。
 そんなわけで、この方式には意外と多くの作品が含まれるものと存じます。
 
→ 起承転結について(3)
 に続く

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 起承転結という言葉はご存じでございましょう。
 もとは、四行から成る漢詩の絶句の構成を説明する言葉であり、
日本では文章構成の基本として、多くの方が知るところとなっていると存じます。
 この起承転結について考えてみたいと存じます。
 
 ということで、まず基本的なところを
ウィキペディアの「起承転結でお読みください。
とりあえず「構成」のところだけ。
それ以上読まれると、この文章と重なるところも出て来ちゃう。
 
 読みましたか?
 まぁ、そんなところでございます。
 
 
 この「起承転結」という言葉、とにかく字面が分かりやすいですな。
何かが起こり、それを承けて話が続き、転換点があって、結論にいたる
 
 特に説明を受けなくても、字を見ればどういうことかが分かります
それゆえに、日本では多くの方に受け容れられたのでございましょう。
 
 ただ、それが同時に困ったところ
 
 是とする側も、起承転結ね、と安易に取っているのではないかと思われますし、
批判する側も分かった気でいるのかもしれません。
 
 と申しますか、これでいいという側は比較的広い意味で取っていて、
間違っているという方は逆に本来の意味にこだわっているのではないかと、
そんな気がするのですな。
 
 それ故に、再考してみる価値があるというものでございます。
 
 ということで順番に考えていって見たいと思います。

 まず
 
(1)実用を目的とした文章の構成法ではない。

 これはウィキペディアにも書いてございますな。
 
 パンフレットは、事実のみ書かれていればいいのでございますから、
物語性などは必要ございません。
 
論文も、最後まで読んできて、
結局わかりませんでしたや、最初と正反対のことが結論では
読んでいる側が疲れるというものでございます。
 
 事実を証明する過程
(仮定→異論→異論に対する反証→結論)が
起承転結になることはございますでしょうが、
そうすべきものというものではございません。
 

 
(2)面白さを目的とした、物語性のある作品を作るための構造である。
 
映画技法のリテラシー』
(ルイス・ジアネッティ:著 堤和子・増田珠子・堤龍一郎:訳
 /フィルムアート社/2004/7) によりますと、
 
映像作品は主に
リアリズム・古典主義・フォーマリズム
3つに分けて考えることが出来るそうでございます。
 
 ジャン的には、
ドキュメンタリー・フィクション・前衛作品でございますな。
 
 このうち、起承転結が必要とされるのは、
古典主義=フィクションであるというのは明白でございましょう。
 
 リアリズムは構成をすることでリアルを歪めることをよしといたしませんし、
フォーマリズムは作者の内面にしたがって構成されて
(あるいは構成されないで)おりますからな。
 
 古典主義というとなにやら古めかしい気がいたしますが、
フィクションをそのように呼ぶようでございます。
我慢してください。
 
 
 
(3)ある意味、あたりまえのことを言っている。
 
  物語に始まりがあるのは当然のことでございます。
  終わりがあるのも当然。
  そして、物語である以上、なにか出来事が起こらなければ意味がありません。
  
  Yさんは寝ていました。
  寝ています。
  寝ています。
  寝ています。
  
  では、何の面白みもありません。
  ですから、
物語が始まって、それに続く話があり、終わり、ではなくて、
続いたあとに大小はともかく何らかの変化があるというのは、
どんな話でも普通にあって然るべきことなのでございます。
 
 ですから、どんな話でも起承転結に結びつけようと思えば。
 結びつけられるのでございますな。
  
 ただ最初に書いたように、あたりまえのことだからこそ、
 安易に考えられている節はあると思うのですよね。 
 
 

(4)あくまで基本形であるということ。
 
 起承転結の話を持ち出すと、そうではないかたちも存在する
などとおっしゃる方もおられますが、
起承転結というのあくまで基本だと思うのでございますね。
 
 その基本さえ分かっていれば、各部を調整したり、
大胆に組み替えてもいいものだと思います。
 
 そうでない形を論じる場合にも、
こういう基本があったほうがよろしゅうございましょう。
 
 たとえば、アクション映画では、
アバン(タイトル前)に派手な活劇シーンがあったりいたしますな。
 
 連続活劇からの引用で、クライマックス、
つまり転や結を最初に持っていっているわけでございますが、
これがどんな世界で主人公はどんな人物なのか、
といった説明──起にもなっているのでございます。
 
 そういうことを説明するためにも、
起承転結という言葉は必要なのだと思う次第でございます。
 
 というわけで、今回はこの辺で。
 
 続きます。
 
→ 起承転結について(2)
 
→ 起承転結について(3)

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「ロール&ロール」誌vol.197 p.158-165
「暗黒神話TRPG トレイル・オブ・クトゥルー・ゲームノベル
 深き眠りの淵より」
 
 フローチャートを書いてみました。
 
 使用人である君は雇い主に依頼され、
ある情報と品物を入手するためにニューヨークを探索する
 
 ルールは簡単。
 構成は、短編ゲームブックとしてはオーソドックス、王道。
 文章は良く、ストーリーも面白い。
 
 なかなか楽しめるゲームブックでございました。
 
 というわけで、フローチャートは、下のタイトルをクリックしてください。
 
 深き眠りの淵よりフローチャート

 細い線と太い線が交差している(━╂━)のは、
またぎ越しを意味しております。
 
  
  
 で、思うのでございますが、
ゲームブックをゲームとして楽しむのと、フローチャートを描くのでは、
 楽しみの感覚としてまったく違う。
 
 ゲームブックはストーリーゲームでございますし、
フローチャートはパズルではございませんが、
 
 本質的にはどうあれ、
ゲームとパズルも、
ゲームブックをプレイする楽しみとフローチャーを描く楽しみが違うのと同様に
やはり違うたぐいの楽しみであると、体感的に思います。

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