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2024/03/27 「サイボーグ009」が舞台化されるそうですな。キャストで登場人物を見るに、0010をやるみたい。加速装置に電撃と派手な戦いとなりそうですな。以前には出来なかった技術が駆使された演出となるのでございましょう。ラストの愁嘆はクサくなりそうな気もいたしますが、それもまた舞台に向いていると申してよろしゅうございましょう。
『深い穴に落ちてしまった』『深い穴に落ちてしまった』
イバン・レピラ:著 
白川貴子:訳
(創元推理文庫/2023/4)
 
EL NINO QUE ROBO EL CABALLO DE ATILA
by Ivan Repila,
2013
 

 このブログを見に来て下さる方は
多分興味ございませんでしょうし、
わたくし自身も、虫を食べる描写などが気持ち悪いので、
本来なら読む作品ではございません。
 
 ですから、今回は読まないでスルーしてください。
 
 ではなぜこのご本を買ったのかと申しますと、
章番号が素数のみということが1ページ目の紹介に書かれておりまして、
その一点に興味を持ったからでございます。
 
 なんかパラグラフ小説的に新しいことをやっているんじゃないか、
そう思ったのでございますな。
 
 結論を申しますと、そういうことはうかがえませんでした
 作者的に意味はございますでしょうが、
 
 裏には現代版『星の王子さま』と書かれておりますが、
児童書に分類できる代物ではございません
 
 寓話的で暗喩的な部分を『星の王子さま』と比したのでございましょう。
 
 お話しは題名どおり。
 
 おかあさんに食べ物の入った袋を届けに行く途中で、
兄弟が穴に落ちてしまいます。
 
 7メートルぐらいの底が広まった穴でございまして、
入り口が狭いために脱出できません。
 食べることが出来るものは虫とかそんなものでね、
おかあさんに持っていくための白い袋の中身は
お兄さんが断固として開けさせません。
 
 というわけで、二人ともやせ細っていくわけでございますよ。
 
兄の方は自分でルールを決めて命令するので
意識をまともに保っているのでございますが、
弟の方がね、反論しても受け容れてもらえず、
どんどんおかしくなられていくわけでございますよ。
  
ただ、兄の方はまともとは書きましたが、
この状況下でまともというのは異常なわけで、
やはり兄の方もおかしくなられているのだとは思います。
 
(シチュエーションとしては安部公房先生の「砂の女」に似ているのかなぁ、
 とおもったけれど、と思ったけれど、
 Eテレかなんかであらすじ聞いただけなので、黙ってよーっと)
 
 まぁ、マジックリアリズム的な幻想作品な感じでございますな。
物語の大半が穴の中で終始するので、
前衛的な舞台劇にもなりそうでございます。

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ややこしくてすみません。
2/15の記事からの続きにございます。
 
 シェイクスピアの書いた『あらし』の物語は、あれでおしまい
ヨーロッパから来た人たちは故郷へと帰ります。
プロスペーは観客にお伺いを立てておりますが、
赦されて帰ったと考えてよろしゅうございましょう。
 
 彼らがもとの世界に戻ったことで、この島も戻ります。
 エアリアルはプロスペーから解放され、キャリバンもまた……。
  
 で、めでたしめでたし。
  
 でよろしいのでございますが、その後の島について、
  
 『エンサイクロペディア ファンタジアエンサイクロペディア・ファンタジア
 想像と幻想の不思議な世界』
 
 マイケル・ページ:著

 ロバート・イングペン:イラスト
(教育社/1989/11)
 
"ENCYCLOPAEDIA OF THINGS THAT NEVER WERE"
Micheal Page 1985
Robert Ingpen 1985 and 1989
Dragon Warld
  
 
には次のようなことが書かれておりました。

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テンペスト『あらし』
シェイクスピア:作
大場健治   :訳
 
研究社シェイクスピアコレクション 1
(2010/9)
 
 
 昔読んだことはあるのでございますけれどね。
読み始めても、とんとなじみがない。
  
 なんとなーくのあらすじは知っているのですが、
ここのところ読んだ、とピンとくるところがございません。
  
 読んだ当時理解力が無かった…せいもございましょうが、
むしろ妖精に対する興味だけで、エアリアルという空気の精がどんな感じなのかを
つまみ読みしただけだったのかもしれません。
  
 いや、『水星の魔女』がこの作品に関わりありそうでよかった。
  
 それでなければ
再読はするつもりではございましたが、いつになったか分かりませんし、
このあたり関係あるのかな、と考えながら読むと、やはり理解力が違います
(とは申せ、そんなに深く読んだわけではございませんが、それでも)
  
 特に、プロスペーのセリフをプロスペラの言い方に脳内変換して読みますと、
そんなこと言いそうとか、何となくの共通点が出てきて
理解が深まるのでございますよ。
まぁ、置きかえにくいところも多々ございますが──。
   
 ですが、細かいことを抜きにすれば、
プロスペーが女性であってもそんなに問題ないと存じます。
 近年の映画では、まさに女性にしたものもあるようでございますし。
 
    ☆   ☆   ☆
   
 さて、お話はともうしますと、

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『フレドリック・ブラウンSF短編全集(4)』
安原和見:訳(東京創元社/2021/2)
その昔のSF入門書には、たいてい、
まず読むべきは星新一のショートショート、
次は、レイ・ブラッドベリフレドリック・ブラウン
書いてあったものでございます。
 
 星新一先生の作品はショートショートで短くて、
文章も読みやすいですからな。
そんなことを言われる前に大抵読んでいたのではございませんでしようか。
 
 ちなみに個人的な星新一作品ベストは「終末の日」。
 
 『妖精配給会社』に収められいているそうでございますが、
そちらではなく、講談社文庫の年間ミステリ傑作選で読んだのが
インパクト強かったのかもしれません。
 
 試しに友達に読ませたところ、
授業開始のベルが鳴ったあとだったにも関わらず、大爆笑しておりました。
 
 

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『幼年期の終わり』幼年期の終わり
アーサー・C・クラーク:著 
福島正実:訳
 (ハヤカワ文庫SF/1979)
 
 
 クラークは正直、ほとんど読んでいません
 もしかすると『2020』は読んだかも? ぐらい。
 
 あとは、アンソロジーで短編を読んだことがあるかも、
でございます。
 
 だって、SFの入門書なんかに、ハードSFの雄
みたいに紹介されているんですもの。
 
 ハードル高そう。
 物語性が薄く、難解な用語が使われていそう。
 
 特に『幼年期の終わり』は、色々なところで紹介されていて、
なんとなく知っているからいいかな、と思っていたのでございます。
 
 
 でも今回、
石ノ森章太郎コレクション』のSF編について書こうと思ったときに、
それらに影響を与えただろう作品だから、読んでおいた方がいいかな
と思い、試してみることにいたしました。
  
 
 そしたら。
  やはり長く読まれている作品名だけのことはございますな。
  
 きちんと読みやすいし、ドラマとしてもしっかりしている。
 専門用語はむしろ少なく、ミステリ的な趣向もアリ、面白い。
 
 構成は、前半はオーバーロードとのやり取り、
中盤は家族のドラマがしっかりと描かれます。
そして後半はテイストが変わり、
新人類の出現とその時に起こった変動についてが描かれることになります。
 
 小説は読んでおりませんが、後半で進化の現象にテイストが変わるという点、
『2001年宇宙の旅』と構成は似てるのかな、とも思いました。
 
 でも、作品的に、思っていたのとはかなり違っておりました。

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『第八の探偵』アレックス・パヴェージ:著 鈴木恵:訳第八の探偵
(ハヤカワミステリ文庫/2021/4)
"EIGHT DETECTIVES"by Alex Pavesi(2020)
  
 
 とある小島に隠遁する作家のもとに、女性編集者が訪れる。
 作家がかつて発表した『ホワイトの殺人事件私有』を、
復刊したいというのだ。
 
 2人は収録作を読み返し、
それについての議論を交わしていく……。
 
 作家は『探偵小説の順列』という論文を書いたことがあり、
7つの短編はそれを証明するように書かれている。
 
 というわけで作品は、短編とその短編に対する感想、意見が、
交互に来る形で書かれている。
 そして、最終章では──。
 
 
 
 解説には『十角館の殺人』以降の日本の新本格を思わせる
と書いてあったが、それはあまり感じなかった
 
 理由は1つ。
 
 作中作家のセリフにもあるが。
 
「ぼくは"探偵小説"ではなく”殺人ミステリ”という言葉を使うんだ」(p.149)
 
 これだ。
 
 推理小説の書くとなるアイデアのことを日本ではトリックと言うのに対し、
英語ではプロットだそうだが、その違いと言ってもいい。
 
 日本の探偵小説では、
とある1つの事実がひっくり返ることによってすべてが逆転し、
探偵がそれを指摘することで解決するという形が多いが、
この作品ではそういう要素は薄い。
 

 探偵役がいない場合もあり、
アイデアよりもドラマ重視で物語は淡々と進行していく。
きれいに解決せず、結末がほのめかされて終わることもある。
 
 文学的ではあるが、探偵小説的ではない。
 
 当然だろう。
 
 作者が探偵小説としてではなく、殺人ミステリとして作っているのだから。
 
 最終章で、それまで提示された短編が書き換えられ、様相が一変する部分も、
それほどの驚きはなかった。
 
 インパクトがあっていいはずなのだが、それほどないのだ。
 これも、書き方のせいだろうか。
 
 作中作家の唱える『探偵小説の順列』は、
犯罪ミステリの集合と言い換えた方がいいもので、
犯人は何人以上何人までなら可能か、被害者はどうか、などが書かれている。
 
要するに、アガサ・クリスティが書いた有名な作品のような
極端なケースを考えているわけだ。
  
 そのようなことを考える意味はあると思うが、それ以上ではないように思う。
 
 極端な人数の犯人などは、推理小説としては飛び道具で、
最初にやることは意味があるが、それ以外はアンフェアのそしりを受けたり、
そうでなくても読者が釈然としないものを感じるだろう。
 
 容疑者全員が犯人なら、どんなことでも出来てしまうからだ。
大きな組織が動いている場合ならよいが、それだと逆にそれが当然になってくる。
 
 作者は犯罪ミステリについて書いているので問題ないが、
探偵小説としてはどうだろう、という話だ。
 
 新本格は、このような理論を軽々と超えているように思う。
その上で、探偵小説として読者が犯人を指摘でき、
なおかつそれを超えて驚きを与えるように作られていると思うのだ。
 
 
 やはり、海外の作品だ。
 それを差し引いて、解説では新本格に比しているのだろうけれど、
私はそれに乗ることは出来ない。
 
 新本格には、探偵小説としてのキレが欲しいのだ。

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(上に書ききれなかったのでこちらへ)

 ちなみに、アイリッシュの『夜は千の目を持つ』は、

ヒロインの父親の死を予言した青年の言葉が、
本当に超常的な力なのか、それとも犯罪性のある企みなのか、
予言は成立してしまうのか、それとも阻止できるのか、

という謎で読者を引っ張るサスペンスでございます。
 
 予言などあるはずはない。
でも、それまでに成立した予言を考えると、
よほど綿密な計画と組織、それに偶然がなければ不可能としか考えられない。
 
 はたして、真相は──。
 
 といった感じですな。
 
 本文の2/5でしたか、かなりの部分をヒロインの独白が占め、
しかも彼女が1回だけ、ミス・リードって表記されるんですよね。

 そのため、叙述トリックもあるかな、って考えなければならないのが悩ましいところ。

 アイリッシュの作品でもございますし。

 捜査側は警察ですが、ボランティアみたいな立場で任に当たっております。
 
 その行動──と申しますか、途中のエピソードのほうかな、もう少し緊密な
感じがあった方が良いようにわたくしには思われました。
 
 事件と捜査が交互に展開するのですが、
そのせいか淡々とした印象を受けたのでございますよね。

 とは申せ、最後まで緊張感をもって読ませてくれる作品でした。
 
(もう少し書きたいのですが、結末に触れることになりますのでこの辺で)
  
 
 ちなみに、予言に出てきたライオンは、
早い段階でだいたいどこのものか分かりました。
 
 都筑道夫先生が書いておられたことで、
大して重要そうでもないところで、不必要なほど描写が細かい場合、
そこがあやしいっていうのがあるんですよね。
 この場合も、それに当てはまるかと存じます。

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【ジョイス・ポーターの作品たち】

(タイトル下には書ききれなかったので、こちらへ)
  
スパイ小説に話をふられたので、中から1つ。
 
ジョイス・ポーター先生の『天国か地獄か』あたりを挙げておきましょうか。

〈なまけスパイ・シリーズ〉『天国か地獄か』
ジョイス・ポーター:著 沢川進:訳
〈ハヤカワ・ポケットミステリブックス〉1210
 
"NEITHER A  CANDLE NOR A PICHFORK"
by  JOYCE PORTER(1969)

 
なまけスパイシリーズ」と題されつつ、
これ一冊しか翻訳はされておりませんが──。
 
主人公はイギリスの諜報員、エディ・ブラウン
 
アメリカでの仕事かと思ったら、
パラシュートで放り出されたのは、ソ連の集団農場だった。
 
というわけで、ソ連邦でのグタグタな作戦が展開されてまいります。
まぁ、色々と計画どおりにはいかないわけですな。
 
 速水螺旋人先生あたりの作品が好きな方には、おすすめです。
 
 
 ジョイス・ポーター先生と申しますれば、
史上最低の探偵・ドーヴァー警部が有名でございますが、
個人的に面白かったのは4の『切断』ぐらい。
なにしろ、捜査はしない・推理はしない・動かない探偵でございますからな。
展開が地味で……。
作者も真相の出し方には困っているような気も……。
今読んだらもう少し評価は変わるかもしれませんが。
 
切断』は、動機において他に類を見ないでしたか、
そのような評がございましたが、まさにそれでございますな。
 
まだ推理小説をそれほど読んでいないころだったので、
物理トリックを考えておりましたから、
最後のドタバタで、えっ、そういうことだったの? と、唖然としてしまいました。
 
 最初は作者のことを男性だと思っておりましたが、
まぁ、女性らしい作品だと思います。
お読みになった方ならばご納得いただけましょう。
 
 
 もう一つ、「ホン・コン」おばさんシリーズというのもございますな。
 
 「ドーヴァー」が、ポアロさんあたりの探偵をデフォルメ・逆転して
作られたキャラクターであるとするならば、
 
こちらはミス・マープルさん。マープルさんと申せば、
控えめでおとなしく、行動はほぼ室内に限られるのでございますが、
 
それを逆転させたホン・コンさんは、まぁオバチャン
関係ないのに事件に首を突っ込み、人の迷惑かえりみず、
あちこちで衝突しながら、トンチンカンな推理をしながら、勝手に捜査を続けていく。
積極的に動き回りますので、キャラクター的にはドーヴァーよりも面白いと存じます。
 
 この「ホン・コン」シリーズ、3作が出ておりますが、
その3作目殺人付きパック旅行』がソ連を舞台にしております。
サービスの悪さと強行スケジュールにうんざりしていたホンコンおばさんが
殺人未遂事件の解決におせっかいにも乗り出すというもので、
こちらも面白い作品でございます。
 
(記憶で書いているので、間違っていたらごめんなさい)
 
 

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 もうひとつ、年賀状のネタとして考えていたのが、これ。
 
ハナアルキ 
 
 鼻行類はもちろんネズミの仲間ではございませんが、なんかネズミっぽいということで。
 
 絵は、Nasobema lylicum
 
クリスティアン・モルゲンシュテルン(CHRISTIAN MORGENSTERN)氏が、
その詩で言及しているという、
モルゲンシュテルン・オオナゾベームでございます。
 
 現地の言葉でホーナタタ(Honatata)。
4本の鼻を使って歩く、鼻行類を代表するものでございますな。
 
 それにしても、
1957年あたりの核実験の影響によるハイアイアイ群島の崩壊で、
これらのほ乳類はおろか、
それを研究していた方々や原住民の方まで全滅してしまったということは、
残念に他なりません。
 
 
 第五福竜丸の被爆やゴジラの出現 (ともに1949(昭和29)年)など、
当時はビキニ環礁などでの核実験が問題となっていた時代でございますからなぁ。
 
 
 鼻行類

(『鼻行類 新しく発見された哺乳類の構造と生活』
 ハラルト・シュテンプケ:著
 日高敏隆/羽田節子:訳
 思索社/昭和62年4月)
  

☆ 鼻行類についてまったくご存じのない方は、
  この書をお読みになったり、

  他のかたのお書きになったものを参考になさったりして
  いただくとよろしいかと存じます。

 

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(タイトル下に書くつもりだったのですが、またもや長くなったのでこちらへ)
 
『火星ノンストップ』
山本弘:編 
(早川書房ヴィンテージSFセレクション―胸躍る冒険篇/2005/7/1)
 
「時の脇道」冬川亘・訳 の解説によりますと、
 
 パラレルワールドの概念は
1934年にアスタウンディング誌に発表された
マレイ・ランスター
時の脇道」("Sidewise in Time")
が最初だそうでございますな。


 
 それまでにも、
異世界ものや、オルタネート・ワールド(歴史のifをえがくやつですな)はあったものの、
無数に異なる世界が平行して存在するというアイデアは、彼が最初だったそうでございます。
 
 で、それが、SFのアイデアから物理学の仮説に格上げされるのが1957年。
 
 量子力学上の問題を解消するためには無数の世界が同時に存在していると解釈すべき
だという「多世界解釈」を物理学者のヒュー・エバレット三世が提唱してから、
なのだそうでございます。
 
 
 
 
 この「時の脇道」、
無数の未来について、どこかへ行く場合のルートに例えて説明しております。
 
「地上にあるそれらの道が二つの異なった都市へ通じている可能性があるのと同様に、
 未来にあるそれらの道は二つのまったく違った運命へと通じている可能性がある。」


「可能な未来は不特定多数あるのであって、適切な時間の“分かれ道″さえ選べば、
 われわれはそのどれとも遭遇することができるだろう。」
 
 一般的なたとえではございますが、
やはり、なにかゲームブックを紹介する説明文みたいでございますな。
 



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『パイド・パイパー 自由への越境』
ネビル・シュート 著/池央秋訳
(創元推理文庫/2002/2)

 ネヴィル・シュート先生と申せば、『渚にて』が有名でございますよね。
終末ものSFの傑作。
なんか暗い感じなのかな、と敬して遠ざけてきたのでございますが、
なぜか今回この作品を読んでみたわけでございます。
 
「自由への越境」なとという、
おそらく日本でつけられたしゃれた副題がついてございますが、正直要りませんな。
「パイド・パイパー」――「ハーメルンの笛吹き男」で知られる
ドイツの民話のタイトルだけで十分でございます。
 
 主人公は、ジョン・ハワードという老弁護士。
 休暇を利用して、フランスの片田舎へ釣りに出かけたのでございますが、
なんと、それが1940年の夏。
ドイツがフランスを占領したそのときだったのでございます。
 イギリスへ帰ろうとするハワードさんは、
宿泊先の家族から、子供をいっしょに連れて行って欲しいと頼まれます。
 断れずに、連れて行くのでございますが、
旅を続けるうちに、同行の子供が次々と増えていって……。
 
 北上次郎先生も解説でお書きになられているとおり、
本作はほんとうにそれだけのお話しでございます。
敵地潜入ものの変形ですが、同行するのが幼い子らなので、
この手の作品に共通する「内部の裏切り者はいない」……
たしかにそうなのでございますが、無邪気で気ままな子供たちの行動が、
それに変わるものとして機能しているのでございますな。
 
 とにかく、子供が増えていくことが、旅を困難にしてまいります。
 
 それぞれの子供たちに、個性があるのがよろしいですな。
 
 最初のロナルドとシーラは好奇心旺盛、
あとで加わる孤児のピーターやマリヤンは無口だったりドイツに敵対的だったり、
最後にはドイツ人の娘・アンナも加わり……というふうに、
さまざまな人種、さまざまな性格の子供たちを引き連れて、
老人は難局を乗り越えていくのでございます。
 
 占領下の道中なのでトーンは暗いですが、
そこにユーモアとそこはかとない前向きさがあって、
イギリスらしい小説でございますな。
 
 最後のほうでは、ハワード自身のものではないが、回想的な恋愛話も入ります。
 
 これがなんとも。
 何の関係もない流れに見えて、その束ね方が実にうまい!!
 こういうエピソードをこの話に入れようという発想には、さすがと感心いたしました。
 
 
 
 さて、
 小説を読むとき、普通の人なら誰だって、
この作品をゲームブックにしたらどうだろうと考えますよね。
 ……。

 ますよね!!
 
 この作品などは、まさにそれ、
ゲームブックにぴったりな題材だと思うのでございます。
 
 最初のほうでは、ハワードさんは、
ドイツ侵攻に対する見通しの甘さとその他の理由で、出発を先送りしてしまいます。
 それがもし、すぐに行動していたらどうだったでしょう?
 子供が病気になったとき、その地でとどまったことが正解だったのか、
それとも先を急ぐべきだったのか?
 子供たちのあしらいはどうだろう?
 移動手段は? ルートの選定は? もっとささいな場面でどう行動するか……?
 
 いちいち選択肢を立てていたらその数は膨大になってしまいますし、
収拾もつかなくなりそうですが、
あらゆる局面で、緊張感のある判断を読者に求めることができそうでございます。
 
 特にクライマックス。ゲシュタポに捕まってからどうするのか?
 身一つならばさらに大胆な行動を取れるかも知れないが、
 子供を連れてどう行動するか? 
 
 少々ネタバレになってしまいますが、
この物語では、結果的に子供連れだったことが、正解だったのでございます。
 おそらくそうでなかったら、生きていなかったでございましょう。
 
 そのあたりも含めて、面白い。
 運命と人間の心の機微がよく描かれている作品だと存じます。
 

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『宿命の交わる城』イタロ・カルヴィーノ
 

これも、以前読んだ感想で。
たしか知ったのは、スターログ誌の紹介記事だったかな?
 
これも期待が大きかったために、あまり印象に残っていない作品でございます。
 
 タロットカードによる物語生成と聞いたので、
 
 物語の断片が書かれていて、開いたカードに対応したその断片を読むことによって
自然と物語が形作られていくというようなものかと思ったのでございますが、
 そうではなくて、作者がタロットカードを開いていって、
それにしたがって物語を書いていくという形式でございます。
  
 それでしたら、
『鏡の国のアリス』のチェスの形式にしたがって進行する(ただし、
実際の対局ではあり得ない形らしいです)というものが先行してございますし、
何よりタロット占いそのものが、
カードによって運命を物語り化するものでございますから、
それほどの新味はないように感じたのでございます。
 
 それに、物語がもうろうとしていて、それほど構築的ではない。
『冬の夜ひとりの旅人が』の解説だったかな? 
それがこの作品の狙いだというようなことが書いてあったような気もいたしますが、
となると、求めていたものが違ったということになりますな。
 
 本来なら構築的になるはずのないカードの導くままに進行する物語を、
カルヴィーノならきれいにまとめ上げてくれると
思って読んだのでございますから。
 しかも、最初に書いたように、
読者がどんな順にカードを開いても、それなりの物語が作られるような……。
  
 やはり、カルヴィーノと申しますれば、『不在の騎士』。
 あの、2つだったか3つだったかの物語が、最後に来てみごとにまとまり、
美しい大団円を迎える……。
 そのような物語を期待してしまいますからな。
 
 
 ところで、物語生成系のカードゲームと申すは、いくつか出ていると思います。
 
 わたくしは、ホビーベース/イエローサブマリンから日本語版が出ている
『ワンス・アポン・ア・タイム』ぐらいしか手にしておりませんが、
どうなのでございましょうかねぇ。
 
 もっともっと可能性があるような気もするのでございますが……。

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『ブラマタリの供物 クトゥルフ神話ブックゲーム』(新紀元社)
           発売記念イベント フーゴ・ハルと語る、
         ゲームブック/ブックゲームの楽しみ方/つくり方
 
の紹介で、聞き手の岡和田晃先生が上げていたのが、次の作品たち。

 デニス・ホイートリー『マイアミ沖殺人事件』、
 フリオ・コルタサル『石蹴り遊び』、
 イタロ・カルヴィーノ『宿命の交わる城』、
 バーナード・ルドフスキー『人間のための街路』、
 ミロラド・パヴィチ『帝都最後の恋』、
 泡坂妻夫〈ヨギ ガンジー〉シリーズ、
 円城塔「世界でもっとも深い迷宮」。
 
 『マイアミ沖殺人事件』は、捜査ファイルミステリでしょ?
 羽毛とか石ころとか布きれとかが入っているやつ。
 それを調べるとなると、失敗したらそれでおしまいなんじゃないかと思って、
 買いませんでした。
 あとで文庫で出ているところを見ますと、
そんなことは全然なかったのでございましょうけれどね。
 
 この中で読んだのはというと、『石蹴り遊び』と『宿命の交わる城』ぐらい……。
 不勉強で申し訳ございません。
 
というわけで、
 
 『石蹴り遊び』フリオ・コルタサル
 
 についてでございますが……。

 これ読んだのは、かなり前。
 ゲームブックより前に知って、ゲームブックのころ読んだのかな?
 そのときの印象で書いてみることにいたします。
 ですから、多大な間違いがあってもご容赦を――。
 
 
 ご存じのとおり、この作品はパラグラフ小説でございます。
 一応分岐型。
 一方向の直線型で、束ねたロープ型でございます。
 
 ただ、ループものの「束ねたロープ」とは違っておりまして、
元のパラグラフに戻ってくるのではなく、
その次のパラグラフに戻るのでございますな。
このほうが束ねたロープを戻した場合、わかりやすく直線になるので、
小説からの進化といたしましては、こちらの方が自然でございましょう。
 
 冒頭には、この本は2つの読み方ができる、と書かれております。
 要するに、
分岐、ロープを束ねた方ですな、を無視して、ページどおりに読んでいく方法が1つ。
 もうひとつは、読み方の指示に従って、分岐のほうも読んでいく方法でございます。
 
 最初の、短い方で読んでいくと、
主人公オリベイラさんの見たことや行動がそのまま書かれております。
 で、2つ目の読み方に従って分岐をたどっていくと……、
そのときの彼の心象や、その他いろいろなことがモザイクのように描かれていて……。
 
 内容についてはほかの方の解説をお読みください。
わたくしは、2つ目の読み方は主人公の心情のみが書かれている
と思っていたのでございますが、ほかのことも書かれているようでございます。
「ジャズのセッションのように」……。
ああ、そんな言葉解説で読んだ気がする……。
 
 その程度の理解から推しはかれますように、
わたくしといたしましてはこの作品、それほど心に残ったわけではございません。
 
 分岐する物語ということで期待が大きかったのが、悪かったのでございましょう。
 
 この程度なら、ページの下1/3か、作品の最後の方のペーシを使って、
分岐部分を注釈のように書いていった方がいいんじゃないかな、
と思ったものでございます。
 
 それに、この作品、
短いルート――主人公の行動ですな――と、
つけたしとなる心象の部分にそれほど振幅がないのですね。
 
 
 たとえば、本編上は何気ない会話が淡々と続いているのだけれど、
別に書かれているそれぞれの会話の内面を読むと、
それとはまったく逆の、どろどろとした戦いが展開されていたとか。
 あるいは逆に、行動はカッコいいのに、心象がへっぽこだったり
 
 といった具合に、あの行動の裏には実はこんな気持ちが隠されていたんだ……、
というのなら、二つを読み分ける意味もあるではございませんか。
 
 読む前と後とで印象がそれぐらい変わるのでなければ、作品として面白くない。
逆に、そのぐらいギャップがあれば、面白い作品になるのではないか、
と思ったものでございます。
 
 
 そういう意味では、この形式には大きな可能性があるとも感じられました。
 
 
☆ ちなみにわたくしは、
  ゲームブック「ギリシャ神話三部作」(社会思想社)を読んでいたとき、
  この作品のことを思い出しました。
  あれって、神託を得るためにパラグラフジャンプをいたしましょう?
 
  
  あとは、藤子不二雄先生のSF短編「絶滅の島」ですな。
 無声映画に宇宙人の言葉で字幕が挿入されいて、
 最後のページにその訳が書かれているというもの。
 
 その訳を読む前と後とでは、その映画の意味合いがまったく違ってしまう、
という作品でございます。
 

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"(……) Be cunning, and full of tricks,

and your people will never be destroyed. "

(またまた上だと文字数オーバーになりそうなので、こっちで)
 
ウサギつながりで、「ウォーターシップダウンのうさぎたち」より。
創世の神さま・フリスが、ウサギのご先祖・エル・アライラーに与えた言葉の
最後の一文でございます。
 
この作品を原作とするアニメーション映画の、
1980年に公開された日本語吹き替え版では、
小さな女の子童話的に朗読しておりましたが、
 
英語のLPレコードだと重々しい男声で、
父なる神からくだされる神託=運命といった感じがものすごくカッコいい!

(You-Tubeで見たら、ちょっと思い出補正が入っていたことを確認。
                     でも、カッコいいですよ)

 声に出して読みたい英語でございますな。


 「あらゆるテを使え、小ずるく立ち回れ。
        そうすりゃ、てめえらの種族はけっして滅びやしねぇ」

 原作の流れを無視して、神さまの言葉であることも忘れて、
わたくしが訳すとこんな感じでしょうかねぇ。
 
引退した盗賊が駆け出しに言っているような、
乱暴な感じが出したかったんですよね。

「お前らの種族」なので、ウサギの王に対してなんですけれども……。
かわいさと裏腹な感じを、どうにか強調してみたかったのでございます。

 
 ホントの訳文は、原作をあたるなどしてくださいませ。
 ネット上でも……あるのかなぁ?
 
 
 ともあれ、
原文でも訳したものでも、ゲームブックの巻頭を飾る言葉として、
引用してみたい一文でございます。
 作品自体がそれ相応でないと、
看板倒れになってしまいそうではございますけれどね。
 
 
 ところで、ウィキペディアを見ていたら、

「2018年12月25日には、NetflixとBBCの共同製作で
  アニメーションのミニシリーズが配信予定である」とのこと。

――そのつもりはなかったのに、案外タイムリーな記事になってしまった……。
  そんなこともあるのですなぁ。

日本での放映はあるのかなぁ。
日本語版は?
 
気になるところでございます。



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パルプフィクションと申しますと、粗雑で安っぽいというイメージがございますな。

 確かにその表紙絵を見ると、そんな感じですが、

キャプテン・フューチャー」や、「火星シリーズ」、
コナン」、「クトゥルー」などを読んでも、

そんなに安っぽいといった感じはしない……。

 もちろん訳者が優れているためということはございましょうが、
やはり内容がなければそうはいきませんでしょう。

 実際、ウィキペディアで
「パルプ・マガジンに書いたことのある著名な作家」を見てみると、
けっこう有名な作家の方々が名を連ねているのですよねぇ。

有名になるまえとか、落ち目になったときということなのかもしれませんが、
それにしても、「安っぽい雑誌」というだけでは片付けられない気もいたします。

 時として、パルプ雑誌はライトノベルと比されたりもいたしますが、
ラノベがそうであるように、
時代によっても、ある程度変化とか進化をしていったのでございましょうか。

 まぁね、ラノベでも(そうではない小説でも)、そうでございますが、
本を読んでいてよかったという作品と、
最初の数行でイライラし、途中で壁に投げつけたくなり、
読み終わったときには「時間を返せ~!」と叫びたくなるものとがございますよね。

 シオドア・スタージョン先生が、
「あらゆるものの90%はクズである」とか申したそうでございますが、
ジャンルを形成するぐらいある一定量の作品が出てくれば、
傑作・駄作は必然的に出てくるのでございましょう。

 まぁ、厳しい選評眼を持たないわたくしなどは、90%は大げさだと思いますが。


 ゲームブックに関しましても、
よく粗製濫造がたたって衰退したと書かれたりしますが、
(まえにも申しましたとおり)ゲームブック上陸から最初の一年は
確かに訳も分からずに出版されたひどいものもございましたが、
それ以降は、そこまでひどくはなかったのではないかと存じます。



 閑話休題。

 翻訳されたパルプ由来と言われる作品を読むと、
けっこう表現に凝っているものが見受けられるように思えます。
 もっと荒っぽいものかと思っておりましたのに――。

 これは、そういう力量ある作家だけが訳されているのか。

 当時の小説の作法なのか。

 それとも翻訳者の力?

あるいは、しばしば凝った表現よりも、リーダビリティが重視される
昨今の作品を読み慣れているためにそう思うのか……。


 リーダビリティと申しますか、小説のスピード感については、
日本語と英語の違いということもあるように存じます。

 アニメなども、英語に翻訳されたものを見ると、
非常に歯切れよく、スピーディに感じると申しますからな。

日本語にすることで、そのスピード感がそがれてしまうのでございましょう。

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ゲームブック以前


あなたまかせのお話
レーモン・クノー著 塩塚秀一郎訳
(国書刊行会/2008/10)

あなたまかせのお話」(P.193-200)
(ウリポ第83回定例会・同年、雑誌「レ・レットル・ヌーヴェル」初出
                            /1967年)。

 訳者あとがきによりますと、
ゲームブック的な仕掛けのアイデアとしては、もっとも初期のもの
だそうでございます。


「1 三つの元気なお豆さんの話を聞きたいかい?」

と、親が子供に寝物語を聞かせるような調子で話が進んでまいります。

 で、

   「はい」なら4へ
   「いいえ」なら2へ

 と、選択肢があり、どちらかを選んでそのパラグラフに進む、
というあたりまで、ゲームブックと何ら変わることはございません。

 ただ、主人公が「きみ」か、といわれると、そうではございません

 親が子供に語ってやり、途中の選択を子供が選ぶという形ですから、
子供を主人公と考えれば、主人公は「きみ」ということになるのですが、
お話の中の、たとえば「お豆さん」を主人公と考えると、
その行動をどうこうできるわけではないあたりが、
主人公はきみではないと申すのでございます。

 選択肢にしても主に、
このはなしの続きが聞きたいか、別の話が聞きたいか、もう話が聞きたくないか、
というものでして、
聞き手である子供が関われるのは、続けるか続けないかだけ。
内容を積極的に変えるということはないのですな。

 この小説、わたくしのような何も知らないものが読むと、
子供向けのたわいもない話でしかないのですが、
そこは実験的な小説をものにしております著者のことでございますから、
この作品も実験的な意味合いがあるようでございます。

 あとがきによりますと、
ツリー構造だから、お豆さんの物語であり
「添え木」や「低木」の話を選ぶと進展しないのは、
形式にお豆さんの成長の意味合いを込めているからだとか。

 ただ、そのあとがきにもございますとおり、
作者は「ツリー型物語」の可能性を真剣に探究していたわけではないのでしょうな。
「むしろ、情報学の展開に伴い、当時すでに可能性が見えていた『ツリー型物語』が
揶揄されていると考えるべきかもしれない」(P.324)

というほうが、あたっているような気もいたします。


 ところで、
「ウリポによるアンソロジー『潜在文学』(一九七三年)の説明によると、
どのような選択がなされても破綻することなく物語が成立するためには、
ブール論理学という数学的な道具立てが必要になるらしい」(P.323)とか。

 ウィキペディアで見ると、集合とか、AND や 0R みたいなものみたい。

 なんとなく、わざわざ言うまでもないような気もするけれど、
最初の段階ではそうではなかったのかも知れませんな。

 まぁ、いずれにいたしましても、
最初は実験的・前衛的な作品として、形式と内容を合一させたり、
難しい理論で武装して発表された作品が、
後の時代で、その形式的、技術的な部分だけが使われて、
そうした重苦しさを軽々と乗り越えて行ってしまうことはよくあることでございます。

 ゲームブックも、まぁ、そうしたものの一つというわけでございますな。


 というわけで、以下フローチャートでございます。

 線がぶれるのはあきらめました。

対策はあるのでございましょうが、そういう技術がなくてすみません。

テキストエディタなどにコピペして、MS系などのフォントを使い、
ついでに行間なども調整してやればちゃんとなると思います。


 ちなみに、[11]の片割れが、「これ以上話すのはやめましょう」の[END]、
[20]と[21]が、「この話はおしまい」で[END]でございます。
 なお、フローチャート上に[21]がたくさんあるのは、
ひとつにまとめるよりも、その方が見やすいと思ったからでございます。


     1  
    ┏┻┓
    4 2
  ┏━┫ ┃
  9 ┃ ┃
┏━┫ ┃ ┃
↓ ┗┳┛ ┃
21  5  ┃
  ┏┻┓ ┃
  ┃ 6 ┃
  ┃┏┫ ┃
  ┗┫┃ ┃
8←→7┃ ┃
┗┳━┛┃ ┃
 10  ┃ ┃
┏┻┓ ┃ ┃
┃ ┗┳┛ ┃
┃  11  ┃
┃ ┏┻┓ ┃
┗┳┛ ↓ ┃
 12 [END] ┃
┏┻┓   ┃
13 ┃   ┃
┃ ┃   ┃
14 ┃   ┃
┗┳┛   ┃
 15    ┃
┏┻┓ ┏━┫
↓ ┣━┛ ┃
21 16   3
┏━┫ ┏━┫
↓ ┃ 17 ↓
21 ┗┳┛ 21
  ┏┻┓
  18 ↓  
 ┏┻┓21
 19 ↓
┏┻┓21
20 ↓
  21

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 お買いもの

『タイタン』を買ったあと、

せっかく大きな本屋さんに来たということで、ついでに買ったのがこれにございます。


トールキンの『指輪』とワーグナーの『指輪』


トールキンのシグルズとグズルーンの伝説<注釈版>』
 J・R・R・トールキン クリストファー・トールキン 
       小林朋則訳(原書房/2018/7/25)。




普段行かないと、いろいろ発見ありますよね、大きな本屋さんって。
 目移りしてそのまま何も買わずに帰っちゃうこともしばしばではございますが
今回は……。なぜだろう。衝動買いとかほとんどしないのですけどねぇ。

 それにしても、なぜだろう、こんな本があるなんて、全然知らなかったー、とか
思って奥付を見ると、ホントつい最近出版されたものだったのですな。
 知らなくて、当然でございました。


 さて、

『指輪物語』『ニーベルンゲンの指輪』の類似性については、
よく指摘されるところではございますな。


 それに対してトールキンは、

「二つの指環は共に丸い、そしてそこで類似性は終わる」
(Both rings were round, and there the resemblance ceases.)

否定しているとか(中つ国Wikiの「ニーベルンゲンの歌」の項)。

ーーワーグナーと言えばヒトラーを思い浮かべる人もおりますから、
   そこら辺を嫌っての発言なんでしょうな。

ぐらいに思っていたのでございますが、どうもそうではないようでございます。



 この『シグルズとグズルーンの伝説』というのは、

英雄シグルズヴァルキュリアブリュンヒルデ
   ニーベルング族の女王グズルーンを主人公とする悲劇ーー。

 典拠『ニーベルンゲンの指輪』同根でございます。
  (「翻訳か原典かの違いがある」(p.10)とございますから、
         ワーグナーは翻訳で読んだということなのかと)

 ただし、そういうタイトルのまとまった一つの作品がある
と言うわけではないみたいでございます。

 この物語は、

散文物語『ヴォルスンガ・サガ』『古エッダ』の十数編の詩のなかに登場する話で、
それらは矛盾していたり分かりにくい点が数多く存在しているそうでーー。

 それをトールキン先生が比較・検討して、一つの物語としての一貫性を持たせ、
古ノルド語の韻律に従って現代英語で書いてものが、この本に掲載された詩。

もともとこういう詩があったのではなくて、
『こうした詩があったのかもしれない』とトールキンが考えて創作した作品なのだ」
               (p.452訳者あとがき)そうでございます。





 ワーグナーの楽劇『ニーベルンゲンの指輪』とのちがいについては、
注釈者であるクリストファー・トールキン先生

(このお方、J・R・Rトールキン先生の三男にして遺著管理人
 なのだそうでございますが、以下クリストファーさんと略します。
 トールキン先生が二人もいると、書くのがややこしくって……)

               が次のようにお書きになっておられます。


 J・R・R・トールキン先生のこの著作が、古代文学を解釈する試み
であるのに対し、楽劇『ニーベルンゲンの指輪』は、

 「変形させて新しいものを生み出そうとする衝動であり、
  古い北欧思想からさまざまな要素を取り出して新たな関係の中に置き、
  自分の好みや芸術的意図に合わせて、
  大々的に脚色・改変・創作するというものだった。
  そのため『ニーベルングの指環』の台本は、古い伝承に基礎を置いてはいるものの、
  時を越えて伝えられた英雄伝説の続き、あるいは発展形と見るのではなく、
  まったく新しい別個の芸術作品だと考えるべきであり、
  その精神においても目的においても、
  『ヴォルスング一族の新しい歌』や『グズルーンの新しい歌』とは、
  ほとんど無関係と見なさなくてはならない。」(p.10)



 言ってみれば、三国志の研究者が、自分の研究を元に小説を書いたら、

「これって、横山光輝先生のマンガ元にしたんでしょ」とか、
「誰それの三国志小説の影響受けてるよね」とか、

そんなふうに言われた、というようなものでございましょうかねぇ。

 それはまぁ、嫌な気分にもなろうというものでございますな。


 さて内容は、
 と申しますと、タイトルのとおり、

 トールキン先生の『シグルズとグズルーンの伝説』

 原文は現代英語で書かれているとはいえ、
 古ノルド語の韻律に従っており、読みにくいのだそうでございますが、
 訳者の方の労苦のたまものでございましょう。

 格調高く、力強く、かっこいい。

 『指輪物語』なども「です・ます」調でなくて、
こうした格調高い感じの訳だったらなぁ、とわたくしとしては思うところでございます。

評論社の文庫版を読むとき、
ときどき「です・ます」を「だ・た」に変えて、朗読したりしておりましたもの
(黙読だと、すぐに書いてあるとおりの「です・ます」調に戻ってしまうため
 でございます。まぁ、朗読も、疲れるのでそれほど長続きはしないのでございますが)。



 おっと、話が逸れました。


 で、本文である詩をはさむ形で、

クリストファーさんの非常に詳細な注解が入るという形になっております。
 いや、詩と解説は同じか、解説のほうが長いので、
はさむというのは正しくはございませんでしょう。

 トールキン先生が遺した古エッダの講義の草稿や断片的なメモなどを駆使して、
かなり細かい注釈がつけられております。
 

 トールキン先生がすべてに注釈を加えておられれば、
という思いはございますが、それは詮なきこと。

 細かいメモなども拾って書かれたこの本は、

ベストとは言わないまでも、
そこに限りなく近づいた注釈本

と申せるのではないでしょうか。

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ゲームブック以前

リドルストーリー

『謎の物語』
紀田順一郎 編 ちくま文庫 2012/2
「女か虎か」
F・R・ストックトン 紀田順一郎訳
p.29-40



 ゲームブック以前のゲームブック的なものについて、もう少し挙げてみましょう。

 口承を発端とする文芸については、前に書きましたな。

 聖書や古事記、それにさまざまな昔話などでございます。

 それらは語られていくうちに、忘れられたり、付け加えられたり、
あるいは変えられたりすることが、意図のあるなしにかかわらずございます。

 それが、ある書に曰くといった具合に集められるとあたかも
分岐する物語のようになるということですな。
 事典・辞書のたぐいについては書きましたでしょうか?

 参考とする項目が、末尾や巻末、欄外などに示されていて、
それを読み継いでいくと、物語が展開するごとく
読む者を全く違った場所に連れて行ってしまう……。

 それがゲームブック的だと申すのでございます。

 ただし、これらは意図的なものではございませんな。


 というわけで今回は、小説として意図的に作られたもの
「女か虎か」を取り上げてみることにいたしましょう。

 この物語は、ご存じの方も多いのではございませんかな。

 リドルストーリーの代表として知られた作品でございます。

 リドルストーリーと申すのは、
意図的に結末を明らかにせず、読者にゆだねるという形式の物語でございます。

 ただ、結末を明らかにしないというだけでは、
それはもう、ありとあらゆる……とはいかないまでも、
結構な割合のお話がそれに含まれてしまいますよね?

 たとえば、たった二人生き残った主人公たちが、 
難攻不落の敵要塞に向かって歩き出すところでエンドですとか。

 ゾンビを掃討し、家族との再会を喜んでいると、
手前の地中から、腐った腕がヌッと出てきてエンドですとか。
 そんなものまで入れたら、もうキリがございません。

 やはり「リドル」というのですから、答、つまり結末ですが、
どちらなのか、あるいはなんなのか、読者に迷わせる要素がないといけないでしょう。
 今回参考にした『謎の物語』の解説には、日本の作品の代表例として、

 芥川龍之介先生の「藪の中」と、
五味康裕先生の「柳生連也斎」を挙げております。

 これらも、7人の証言者、2人の対決、
どれが正しいのか読者を宙ぶらりんに置くという意味で、
この定義に当てはまりますな。

(もっとも、『謎の物語』掲載の作品には、
 どうなのだろうと思うものもあったような……)


 この、リドルストーリーという分野に挑戦した作品はいくつもございます。
形式の面白さゆえでございましょう、現在も書かれているようでございますな。

 わたくしが読んだものですと、
謎の謎その他の謎』山口雅也(早川書房/2012年8月)などがそれにあたります。



 こうした作品は、今回取り上げる「女か虎か」が嚆矢……

と思ったのでございますが、 それ以前があるそうでございます。

 マーク・トゥエイン先生の『恐ろしき、悲惨きわまる中世のロマンス』がそれ。

この『謎の物語』の最初に掲載されておりますな(大久保保博訳/p.9-28)。
 ただですなぁ、これ。

一読、話題を呼ばなかった理由がわかるというものでございます。
 というのも、最後が打ち明け話のようになっていて、

「一体どのようにすれば彼を(つまり彼女を)
いったいどうすればそこから救い出せるか判らないのだ」

と書かれており、作者が作品を放棄したかにみえるのですな。

 加えて最後には、この作品の再掲の条件なども書いてございますし――。

 要するに、失敗作か中途の作品と見られたのでございましょう。



 さて、前置きはここまでにいたしまして、『女か虎か』でございます。


 半未開の王国。そこでは野蛮な国王によって、とある裁判が実施されていた。
 ある臣民が重大な罪で告発されると、彼は巨大な闘技場に連行される。
 広い空間を隔ててその正面には二つの扉があり、
被告はそのどちらかを開くことが義務づけられている。
 その片方には凶暴な虎が、
もう一方には王が被告にふさわしいと選んだ女性が待っている。
 虎なら男はズタズタにされるだろうし、
女なら無罪を得ると同時に彼女と結婚しなければならない。
 さて、この王国には一人の美丈夫の廷臣がいた。
彼は王の娘と相思相愛の仲となり、そのことが父王に知られてしまった。
 彼はとらえられ、闘技場に送られることになったのだが……。
 彼が開けた扉の先にいたのは、女か虎か?


 あらすじはこんな感じでございます。

 これだけなら単なる当て物に過ぎないのでございますが、
ここでこの話を面白くしているのが、扉の向こうにいる女性の存在でございますな。

 彼女と恋人は、好き合っているのではないかという疑心を、王の娘は抱きます。
時がたつに連れ、その疑心は次第に大きなものになっていき……。

 二つの扉の前に立った男に、一瞬彼女は、右手を指して合図を送ります。

 単純に考えれば、そちらがより安全な女のいる扉なのですが……。

 嫉妬に狂った王女は、
いっそのこと男を虎に食い殺させることを選ぶのではないか……。

扉の向こうは、女か虎か。

その王の娘の考えがどうであろうか二択のまま宙ぶらりんにしておくことで
物語に深みが加わるわけでございます。



 このあたり、ゲームブックなら、簡単ですな。

 この選択肢のその先を、両方ながら書くこともできるわけでございますから。

 でも、それで面白くなるかというと、そうではございませんでしょう。

 書いたところで、女性と結ばれてめでたしめでたしか、
虎に食われてバッドエンドでございますから、
奥行きのある話にはなりそうもございません。
何か付け加わったとしても、蛇足になりそうでございますし。

 まぁ、ゲームブックの場合、ゲームでもあるので、
そういう即物的なところは、ある意味必要ではございますが。


 もう一つ、ゲームブックとの違いは、
主人公が「君」ではないということでございます。

「果たして右手の扉から現れ出たものは、女であったか、それとも虎であったか?」

と、最後の一文がなっておりますように、
主人公の行動ではなく、状況を選ばせているのでございますな。

 これは、ゲームブックとそれ以前を分ける
大きな違いと申してもよろしゅうございましょう。

『君ならどうする食糧問題』のような、国の運命を左右するようなゲームブックでも、
どういう政策をとるかを君が選ぶ、つまり主人公はきみという形式を取っております。


 もちろん、ゲームブックにも状況を選ぶ場面があるものもございますが、
作品の中の限られた部分であり、
またそういう箇所は違和感を感じるものではないでしょうか?
 まぁ、作品についてはそのあたりにしておきましょう。


 ゲームブックのファンなら、この作品を読んで思うことがございましょう。

 もしも自分が作品の主人公だったら、この場面どう切り抜けるか――。
「ウォーロック」誌の「編集部からの挑戦」を楽しみにしていた方なら、
読後すぐに考えていると思います。
 そのあたりは、作者もよーく承知しているようでございまして、

 扉をガンガンたたいたらどうだろう、

 などと考えておりましたら、
分厚い革のカーテンを垂らしてあるので音は伝わらないとのこと。チッ。

 その程度だっら、伝わるんじゃないかと思うのでございますが、
仕方がございませんな。

 実際、この謎に対しては、何人もの方が挑戦したようでございます。

 そのうち、一番妥当と言われる解答が、後のほうに収められております。

「女と虎と」J・モフィット 仁賀克雄訳(p.53-106)。

ネット上でもそのあらすじは読めるかも? しれません。

 この答、わたくしも思いついた……と思うのでございますが、
何か先にこれ読んでいたような気も……。

 まぁ、残酷ではございますが、設問からして正しい答ではございますな。
 ただし、答が正しくともそれが生き残る道であるかどうかは別問題でございまして――。

 この解答編を書いた作者も、その点は見越しておりましたようで、
主人公は、さらに残酷な死刑を与えられることになるのでございます。
 どういうことかと申しますれば、

 カイヨワ『遊びと人間』で申しますところの
「アゴン」「ミミクリ」でございますな。

 ルールだけで考えれば正しいのでございますが、
王様の一存というルール外の要素が、それを上回って存在するため、
「女と虎と」の主人公は運命に負けたというわけでございます。

 つまり、扉を開けて虎が出てきた場合、
王様を満足させる方法で何とかしなければならないということでございます

が、それが難しい……。

 一番いいのは、虎と直接戦って勝つということでございましょうが、
普通勝てませんもの。

 だからこそ成立している話とは申すものの、なかなかの難問ですな。

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『伝奇集』
J.L.ボルヘス作
鼓直訳
岩波文庫 (1993)
“FICCIONES” 1944
 Jorge Luis Borges


文学部ゲームブック科の必読書。

 

『幻獣辞典』のほうを紹介してしまったが、
本当はこちらが先の予定だった。

 ボルヘスについては、作品を読んだことかなくても、
名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。

 南米を代表する幻想文学の作家で、
代表作としては、「バベルの図書館」が挙げられるだろうか。

 過去そしておそらく未来を含む、世界、いや、宇宙のすべて、
無限であるはずのものを、
有限であるはずの書物の中に封じ込めた図書館の幻想は、
ボルヘスの作品を象徴するイメージであり、
まさに物語の迷宮・迷宮の物語という言葉にふさわしい。

「八岐の園」もやはりそのような作品だ。
 そのイメージは「バベルの図書館」に勝るとも劣らないのだが、
惜しむらくは作品が、その「八岐の園」のイメージだけを語っているのではない点だ。

 物語は、

 スパイである主人公が、敵である大尉に追われて逃げ、
スティーヴン・アルバート博士の家に入りこむ。
 そこには、主人公の曽祖父、崔奔(サイペン)の作った
「八岐の園」があった……。

 そこから、
アルバート博士の「八岐の園」に関する長い挿話が始まるのだが、
これは、全体の物語とあまり関係ない。

 枠の物語は枠の物語として完結しているし、
「八岐の園」のイメージはそれだけで成立している。
 両者がかかわりあって存在していれば、
それはそれでひとつの傑作となったろうが、
そのつながりが弱いのだ。

 とはいえ、「八岐の園」のイメージは、
そうした作品としての欠点を補って余りあるものだ。

 どういう内容かは……。

 まあ、この「文学部ゲームブック科」で絶賛しているのだから、いうまでもあるまい。

 ここに描かれているのは、理想状態の分岐小説だ。

「分岐し、収斂し、並行する時間のめまぐるしく拡散する」(p.136)物語――。

 崔奔(サイペン)が13年の歳月をかけて作った、
迷宮でもあり、混沌とした小説でもある『八岐の園』とは、
まさにそのような物語だった……。

 と、言葉を尽くしても、あまり伝わらないと思う。
 やはり、実際に読んでそのイメージを感じてほしい。

 短編だから、読むのにそんなに苦ではないはずだし、
大きな本屋さんや図書館なら置いてあると思う。
手に取るのも、そんなに難しくないだろう。

 ぜひとも、読んでみてほしい。
 そして、出来得るなら、同じ本に収録されている他の作品も読んでみてほしい。

 それらもまた、
物語の迷宮と、
言葉の中に世界のすべてを押し込めようというボルヘスの幻想が
読み取れる作品であり、
ゲームブックを含む分岐小説のイメージを、
大いに広げてくれるものだと思う。


 ちなみに、山口雅也先生もこの作品を評価しておられるようで、
『生ける屍の死』『奇偶』で言及されている。

 『13人目の名探偵』も、
この作品の影響下に書かれたようだ。

「ミステリマガジン」早川書房 No.629 2008,July

「迷宮解体新書 第七回 山口雅也」
             文・村上貴史

p.9  この年(1987)にはまた、ゲームブック『13人目の名探偵』を刊行した。
 「当時は既に作家になろうと決意していたんですが、自分の作風は江戸川乱歩賞向きじゃないと思い込んでいたし、受け皿がなかったんですね。だから投稿とかも全くしていなかった。そんななかで、これは小説依頼に最も近い仕事でした。自分としてはボルヘスの『八岐の園』を意識して、時間の並行分岐的な趣向と本格ミステリの骨格をゲームという形式のなかでやったら前代未聞で面白いだろうと考えました」

 作者は、『13人目の~』のあとがきで、
ゲームブックには興味がない、というようなことをお書きになっているが、
それは、「八岐の園」のような理想状態には達していないゲームブックに対して
興味がない、ということなのだろう。

 さらにいえば、
現存のジャンル化、定型化されたゲームブックに対して
興味がない、ということなのかもしれない。
 

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