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2024/04/24 古代の大型投石機。ギリシアでは片腕を意味するモナンコン、ローマではオナゲルと呼ばれていたそうでございます。ローマでの呼称は投げるという日本語とは特に関係なくて、野生のロバという意味だとか。ロバがひづめで背後に石を蹴り飛ばしたという寓話に基づくそうでございます。アラビアではそれがマンガニク。古代アラビアの人たちはマンモーを狩っていたのでございましょう。
[1] [2] [3] [4]
 3月29日のこととか。
 
 ほんと今年は何なのでしょうね。
 信じられないことばかり起こります。
 
 先生と申しますれば、
「モンスターの逆襲」「四人のキング」シリーズなど
「ウォーロック」誌に掲載された作品、
「剣と魔法と竜の国」「バトル・プラネット」など
辰巳書房のゲームブックシリーズがございますな。
 
「ウォーロック」誌 Vol.39(1990年3月号)「ロストワールドからの脱出」の後、
TRPGに比べて自由度がないとゲームブック断筆宣言をされ
 
(わたくしの読みましたものは、
 賢者の石井文弘さんの同人誌に寄せられたものでございます。
 が、結局幻光の集まりが悪かったために、
 その同人誌は未刊行と成ってしまいました。
 他でも同様の宣言をしていらっしゃるかは存じません)、
 
 その後22年の刻を経て
クトゥルー・ミュトス・ファイルズ『超時間の闇』(創土社)
にて「超時間の檻」を発表、
 
と、まぁゲームブック的にはこんな感じでございますか。
 
 それ以外にも、SFをはじめとする小説。TRPGまわりの作品、
と学会を代表としたエセ科学批判など、さまざまな分野にわたって、
バイタリティあふれる活動をなされたかたでございました。

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謎図鑑
『謎図鑑』
 SCRAP
 (SCRAP出版/2023/7) 
 
 太古の時代より謎は存在いたします。
それを解いて楽しむ行為もまたしかり。
 それがいくつかの段階を経て、
今に至っているわけでございますな。
 
 そうした流れの中で生まれた「謎解き」は、
パズルやなぞなぞの要素を採り入れつつ、
さらにひねりを加え、
一つの新しい段階を作りあげてまいりました。
 
  
 売り文句は「ひらめけば誰にでも解ける」。
──ではございますが、
それでは問題の幅があまりにも狭まってしまいますので、たいていの場合、暗に
〈同じ言語を理解する人で、小学生程度の知識と常識を身につけている人〉
という条件が付されているとは思います。
 
謎解き」という言葉でくくられるジャンルは、
そうしたことを意識したときに始まったと考えてよろしゅうございましょう。
 
 ゲームブック的には『人狼村からの脱出』あたりでよろしいかと。
 
 その上梓が2015/5月。早8年以上が経っているわけでございます。
 ウィキペディアのSCRAPの概歴の最初が2004年となっておりますから、
それを考慮に入れますと、もう少しで20年
 
 
 そんな「謎解き」を牽引してきた謎集団、
SCRAP団公式の謎解き公式本が本書にございます。
 
 目次を見ますと、
謎解き問題の「お約束」について書かれた序章=「謎解きの基本」から始まって、
ありとあらゆる謎が、思いつくばかりに詰め込まれております。
 
謎図鑑  
 
それもすべてが例題つき
その謎も流石のSCRAP団。一筋縄では解けません。
 
 テーマ別に分けられているなら、
そのテーマに沿って考えれば良いのだから簡単! と思われますでしょ? 
 
 ところがぎっちょん、そうはまいりません。
 
 テーマそのままでもやすやすと解けるものではございませんし、
さらに他のテーマの要素も加わって複合的な謎となっていたりと、
凝っているのでございます。
 
 単に謎解きを楽しみたいという方も、おなかいっぱいになれましょう。
 

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vol.213の読者欄に載せていただいた絵。
vol.211の「ボードゲームジャンクション」より
「そういうお前はどうなんだ」リプレイからヒントを得たものにございます。
 

UFO
 

 マーダーミステリー風パーティゲームとなっておりますが、
ランダム性、即興性のある物語ゲームでございますな。
 
 ランダム性がございますから、物語も二転三転。
つじつまは合っていないのでございますが、
その場のノリと雰囲気でそういうものは薄められ、
高揚感が得られるのがこのタイプでございます。
  
 TRPGでもそういうところございますが、
ゲームマスターがコントロールしない分だけランダム性が強まるという。
  
 あとで思い返すと、あれ何だったろうと思ったりいたしますが、
そんなこと気にする必要なし。
 
 その場が楽しければいいのでございます。
 
 ただ一方で、ソロでプレイする場合にはそうもまいらないかもしれません。
 
 そうした場合は、全体を見て物語に整合性をつけて楽しむか、
それともあえてデタラメさ加減を強調するか──。
  
 いづれにせよ、面白くするためのあなたのさじ加減が必要でございましょう。
でなければ、ソロでやる意味ないと言えるかと存じます。
  
 さて、リプレイの話。
 被害者である館の娘さんは、
話の流れでなんと宇宙人ということになってしまいました。
 
 で、UFOに呼び出された彼女を阻止するために犯人は彼女を爆殺したと──。
 
 で彼女を殺害した犯人は──でございますが、ぐだぐだな展開となって、
犯人は誰でもいい、誰でもおかしくない状況で終わります。
 
そこにこじつけと言いがかりで犯人をでっちあげて決めていくのが
このゲームの本質でございますな。
  
 というわけで、途中で出て来たので最後には忘れられた感ございますが、
注目すべきは「ホルマリン漬けの指」でございます。
 
 絵として描くときは、
こういう本編では軽く扱われているものに注目するのが楽しいところ。
  
 指とUFOとなれば、誰でも思いつきますのが、「ET」だと存じます。
  
 娘さんを爆散させたおばあちゃんは正しいことをしたのでございますが、
指をとっておいたのが運のツキ。
それが光って、仲間を呼ばれてしまいったのでございますな。
 
 館の中では、犯人捜しが行われておりますが、
外ではスペースインベーダーの襲撃が開始されているというわけでございます。
 
「WE ARE NOT ALONE」はもちろん、「未知との遭遇」のキャッチコピー。
「われわれ人類は孤独ではない」という風に訳されていたと思いますが、
これを「われわれは単独ではない」と訳せば、
「スペースインベーター」に当てはまるじゃん、
と両方のブームが去った数年後に思いついたものでございます。
  
 絵に関しましては、典型的な役割の感じで。
 
 ただですねぇ、お医者様に関しましては、最初男性だと思っていたのですよね。
 なので、医者と申しますれば手塚治虫先生、ということで、
お茶の水博士あたりよろしく、
鼻を大きく頭ツルツル、ヒゲも生やして描いていたのでございますが、
あとで女性と気がついて、あわててヒゲをなくし、髪の毛も生やしました。
 
 それでも何か、今度はドクターマリオに似てしまったので、修正。
 このような女医さんになった次第でございます。

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「本の雑誌」2022/4 「◯図書カード三万円使い放題!」(p.76-79)を、
  寝起きに書いた方の名前も見ずにぼーっと読んでいました。
 
 わかりやすいしユーモアもあるしいい文章だなぁ、
と思ってタイトルの下を見返すと、新井素子先生でございました。
 
 このコーナーの文章って、
本屋さんに行って、これ欲しかった、こんな本がある、
額内でおさまった、ちょっと越えてしまった、みたいなことを
つれづれに書いていることが多いのですな。
 
 それが書きやすいですし、まぁ普通でございましょう。
 
 でも、新井先生の文章には構成がございました。
 
 自分が本中毒であるという話から始まって、
普段の生活のことを書いていくのですな。
それが自然に買った本ついての話につながっていく。
最後には、軽いオチもついていて、
一つの話としてまとまっているのでございます。
 
 別表で買った本のリストがあるので、文章に入れる必要はないのですが、
それらすべてをちゃんと入れているあたりも手際の良さを感じました。
 
 最初に著者名を見ていれば、こんな感想は浮かばなかったと思います。
多分なんとなく、読んでいたことでございましょう。
 
 
 文章を書くときは、読みやすくてわかりやすい文章を書くようにと、
国語の授業などではおっしゃいますな。
 
 ですが、そのいい例というのが見つからない
 
 小論文の例として乗っているものは、
お行儀がよすぎたり興味を引かなかったりで
そういう文章を書こうという気にさせてくれなかったりいたします。
 
 さりとて、巷の文章は読んでおしまいになってしまいがちですよね。
 
 ひねった展開とか、グッとくる表現があるものでしたら、
そこを覚えていたりするものでございますが、
読みやすい文章となると読んで面白かったで終わり。
読みやすい工夫にさえ気づかないこともございます。
 
 かく言うわたくしも、読みやすいと気づいたのは今回が初めてぐらい。
 読みやすいを読みやすいと認識することは、なかなか難しいことなのかもしれません。
 
     ☆      ☆      ☆

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(]2021/11/07 (Sun)の記事
『ルパン三世ゲームブック さらば愛しきハリウッド 復刻版』にルパン三世
 続けて書く予定だった記事でございます。汗顔 (^_^;)
ルパン三世ゲームブック」には、資料編として
ゲームブックの歴史」と
ゲームブックの作り方」という
2つコラムが収められております。
 
 そのうちの「ゲームブックの歴史」についてでございますが、
 
 
 まず最初、p.246の上段
この本では」という言葉が2回使われているところがわかりにくく存じます。
 
 最初が基本的な意味2回目が厳密的な意味ということなのでしょうが、
2回目のほうが「この本では」を結ぶ言葉がないので尻切れトンボに思います。
 
 一般的にゲームブックは、
「小説のように読み進められ、選択肢を選ぶことで異なる展開が楽しめる本」
ですが、ゲーム+ブックなのですから、そこにゲーム性がなければ、
本当の意味でゲームブックとは呼びにくいと考えます。
そこでこの本では、
選択肢の選び方でバッドーエンドに行きついてしまったり、
ポイントが変化することで駆け引きが生まれるような、
そんなゲーム性を含んだものを特に扱っていきたいと思います。
 
 ここの文章は、だいたいこのぐらいの意味ではございませんでしょうか。
 
 そのあとの血縁関係でたとえたゲームブックとその周辺領域については、
分かりやすくしようとした結果、かえってわかりにくくしてしまったような気が。
 たとえなんか持ち出さなくてもいいのに。

 まぁ、以上のことは、どちらかと言えばわたくしが、
ゲームブックの物語的な部分に興味があるので、
気になってしまうことなのかも知れません。
 
 さて、それはともかくといたしまして、
ゲームブックのブームに関してでございます。


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「起承転結」について(1)

起承転結について(2)
 


 
(8)落とし話やアイデアストーリーなど。
 
 (6)は四コマやごく短い小話のことを考えてみました。
  それではもう少し長い話の場合はどうでございましょう。

 
  長い小話やショートショートあたりから、
  短・中編あたりまででございますな。
 
 そのような作品であっても、
ワンアイデアを軸とした話ならば、基本は変わらないと存じます。
 
 オチやサゲのある話は、四コマなどと同じ起承転結の論法に従います
 
 違うのは、長いということでございますな。
 
 そのため、より「仕掛ける」ことができるというものでございます。
 
 特にの部分は大事ですな。
 最小単位の漫才を考えたときは、
起と転のつなぎぐらいの扱いでございましたが、
実はもっと重要なのでございます。
 
 ともかく、起から順番に見てまいりましょう。
 アイデア中心の話では、もちろんそのアイデアが重要。
 そのアイデアを中心にすべてが回ってまいります。
 
 
(1) 起
 
 いわゆるセッティングの部分でございますな。
 アイデアが成立する状況、
そのアイデアをもっとも効果的に見せることができる設定、
なおかつ、この段階でネタがバレないようなことを考えて
初期条件を考えてまいります。
 
(2) 承
 
 起から転への受け渡しの場であると同時に、
伏線を張り、転での爆発力を最大にするための
仕掛けをする場でございます。
 色々な要素を足して目くらましをしたり、誤誘導をかけたり。
 腕の見せ所でございますな。
 
(3) 転
 
 そこまで来た道筋に立ちはだかる意外の壁でございますな。
 起と承からの流れに沿いつつ、
 切り札のごとき驚きを見せる見せ場でございます。
 
(4) 結
 
 すべてをまとめる部分でございます。
 オチやサゲなど、
 ショートショートなら一言で終わってもよろしゅうございますし、
 全体をまとめるエピローク的なものが添えられるかもしれません。
 
  
 ここで述べておりますのは、純粋にアイデアのみを軸とした話でございます。
 
 ですから、起承転結は
そのアイデアを最大限に活かすために構成されなくてはなりません。
 
  キャラクター要素も、この場合必要ございません。
 が、アイデアのみで通用するのは、
短編かせいぜいが中編までが限度でございましょう。
 それ以上はキャラクター要素が必要になってくると思いますし、
短編でもそこは重視する方が多いかと存じます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 (9)石ノ森章太郎先生の説明。
 
 さて、ここで、石ノ森先生が『マンガ教室』などで書いている、
起承転結の説明について紹介しておきましょう。
 
 わたくしが起承転結という言葉を知ったのも、この書によってでございます。
 
『石森マンガ教室』(昭和44年/黒崎出版)
 
 

 四コマについてはこう。
 
四コマ
 

 
 それをつなげていけばストーリーマンガになるというのは、
 スーパーマーケット方式と同じでございますな。
 
スーパーマーケット方式
 
 さらにストーリーマンガについては、
このような図によって起承転結を説明しております。]
 
ストーリーマンガ
 

 見て分かりますとおり、
ことさらに特殊なことをお描きになっているのではございません。
 
 むしろ、これが起承転結に対する大方の認識であると存じます。
 
 ただ。
 だからこそ、気にしなければならない箇所がございます。
 
 物語の上昇曲線を解説した図で、
石ノ森先生は、はっきりと「」をクライマックスとしているのでございます。
 
 となると、(6)の最後で書いた疑問が浮かび上がってまいります。
 
 クライマックスは確かに要(かなめ)のポイントなので、
ピンポイントであっても、構成の一として入れるべきなのか。

 それとも、重要ではあるがピンポイントであるという理由によって、
承か結の一部、あるいはその中間と考え、三部構成と考えるべきか。
 
 はたまた、ある点からクライマックスまでを転と考え、均等な四部構成を考えるか。
 さて、いかがいたしましょう?
 
 
 
 
(9.5)とは申せ。
 
」をクライマックスとするのは納得のいく考えでございます。
 
 クライマックスは
物語の均衡状態に決着がついて結末になだれ込んだり、
意外な展開があったりするものでございますからな。
 
 それに「転」を四コマなどの「転」と同じように考えるより、汎用性がございます。
 
 四コマの転では意外なことが起こらなければなりませんが、
クライマックスとなりますと、
それが必要というわけではございませんからな。
 
 オチのある短編とか、推理小説以外でも
それなら説明ができるというものでございます。
 
 
 ただ、汎用性が高すぎで、それこそあたりまえという感もなきにしもあらず。
 
 クライマックスという言葉はそれこそ誰でも知っておりますし、
それが最後に来る方が面白いということも経験的に分かっております。
 
 でも、あたりまえだから無視していいというものでもございますまい。
 むしろあたりまえだからこそ、
それをもっとも効果的に盛り上げるのにはどうすれば良いのかを
考えることは、やはり重要なのだと存じます。
 
 
 
 
 
(10)映画
 
 石ノ森先生のお描きになった物語の上昇曲線は、
おそらく映画の構造論に由来するものにございます。
 
(2)で書いた『映画技法のリテラシー』にも
古典的なパラダイムとして紹介されております。
 

 映画の上昇曲線  
 
 目標に向かって一直線に進む主人公の行動を追うような映画に使われる手法で、
 
「それは特にアメリカではもっとも人気のあるストーリー構成の型であり、
 実際にいまだに揺るぎない地位を保っている。
 その型が必ずしも芸術的に高度に洗練されているわけではないが、
 実際の制作規範となっており、
 それゆえに「古典的」と呼ばれているのである。
 言い換えれば優れた映画も駄作も、
 この伝統的な語りの定石を使っているのである」(p.61)
 
そうでございます。
 
映画技法のリテラシー』では、
引き続いてこのパラダイムを伝統的な演劇技法に沿って説明した
シド・フィールドの説を紹介しております。
 
(この伝統的演劇技法については、
 ウィキペディアの3幕構成なども参考になさるとよろしいかと。
 ここには書いてないことがいろいろ書かれてございます)
 
 
第1幕:状況設定(4分の1)
第2幕:対決(2分の1)
第3幕:和解(4分の1)
 
下に書いた分数は、全体に占める割合ですな。
内容的には、
 
 
第1幕で主人公の目的は何か、
 目標達成の障害になるものは何かなど、物語の前提が設定され、
 
第2幕で物語が動き、
 
第3幕でクライマックスの対立の結果、何が起こったのかが示される。
 
という感じでございます。
 
 石ノ森先生の描いた物語曲線と比較すればお分かりいただけましょう。
 
 つまり、石ノ森先生は
 
第1幕=起、第2幕=承、第3幕=結と当てはめ、
クライマックスを特別な一点として「転」としたのでございます。
 
 これは、西洋の三幕構成を起承転結に置きかえる方法として、
非常に正しい方法だと存じます。
 
 
 
 
(11)ミッドポイント
 
「転」=クライマックスで決着はついたわけでございますが、
 話はまだ続きます。
 
 シド・フィールドの映画論で最も重要なのは、
ミッドポイントという考えにございます。
 
 彼の論が日本に紹介されたのは、
 1984年の別冊宝島「シナリオ入門においてですから、
 石ノ森先生が起承転結についてお書きになったときには
 無かった考えですな。
 
 
 このミッドポイント
 名前のとおり映画のまん中あたりにあるポイントでございます。
 ここで起こったことにより物語のベクトルが変わり、
 そこから一気にクライマックスへ向かって加速するような
 一点のことでございます。
  
 面白い映画にはそこに重要な転換点がある
 とシド・フィールド先生はおっしゃるのですな。
 

 ミッドポイント
 
 難しい例を先生は挙げておりますが、
 そういったものばかりではございません。
 
 例えば
 
 恋愛ものだったら、
彼女も自分のことを想っていることに気づくですとかね。
 
 ゾンビものなら、ある薬品が見つかって
それまで逃げているばかりだったのが攻撃に転じるですとか。
 
 信じていた人物の裏切りに気づくですとか。
 
 まぁ、色々あるじゃないですか。
 
 RPGでしたら、
シティアドベンチャーでダンジョンの情報が見つかって、
双方向移動から一方向移動になるとか。
 
 ギャグベースだったのが急にシリアス展開に、
 なんて言うのもございますな。
 
 目立つものそれほどでもないものございますが、
とにかくストーリーの方向が変わるポイントでございます。
 
 
(10)でも書きましたとおり、シド・フィールド先生の映画論は、
3幕構成を基本にしておりますが、
このミッドポイントも、かなり重要でございます。
 
 
 そこで、ミッドポイントで分けた四部をそれぞれに当てはめて起承転結とすると
収まりがいいのではないかな、という考えもできると思うのですよね。
 
 ミッドポイントでベクトルが変わって、
そこからクライマックスまで一気に駆け上がるところまで
を転とするのでございますな。
 
 物語のギアが上がり、トーンが変わりますから、
そこをひとかたまりと考えてよろしいのではないでしょうか
(個人的には展という字を当ててもいいかなとも思いますが)。
 
 3幕構成は1:2:1の割合ですから、
ミッドポイントで分ければ
ちょうど4分の1ずつの配分になるのもちようどいい。
 
 転換点からクライマックスまでが
四コマで説明される転と同じかと申しますと難しくはございますが、
転換点からクライマックスでございますから、合っている気もいたします。
 
 ミッドポイントは発明ではなくて発見でございます。
 シド・フィールド先生がたくさんの脚本を読んで、
面白い脚本にはこれがあると発見したことでございます。
 
 つまり、それ以前の方でも上手い人は、理論化していないとはいえ、
経験的にミッドポイントに
重要な転換点を置いていたということでございますな。
 
 あらためて石ノ森先生の図をごらんください。
 承のまん中あたりに、ひときわ盛り上がった部分がございますね。
 上には、ミディアムクライマックスとあり、
「中間のヤマバ。これは小刻みにたくさん入っているほうがよろしい」とあり、
ミッドポイントという意識はございませんものの、
やはり、その中でも重要な山場を
物語のまん中あたりに置いているということは
ミッドポイントという考えを、
無意識のうちに持っていたのだと思います。
 
 最近、先生の『幽霊少女』(昭和31年)と
『幽霊船』(昭和35年)を読んだのでございますが、
どちらもカッチリとまん中あたりに父親の打ち明け話が入っていて、
それで主人公と物語の関係が強くなるんですよね。
 
 ですから、石ノ森先生の作劇術の中にも、
ミッドポイントは無意識のうちに染みこんでいたのだと存じます。
 
 
 というわけで、先人にもこのミッドポイントに気づかれた方がいて、

3幕構成の1幕を起、
2幕のミッドポイントまでを承、
そこから3幕までを転、第3幕を結として、
起承転結としたのだろう

と結論づけようとしたのでございます。
 
 が。
 
 ここまで来て、問題に当たりました。
 
 3幕構成では、クライマックスは最終幕である第3幕、
つまり今配分した起承転結ではの部分に入ってしまうのですよね。
 
 それでいいのか?
 
 四コママンガのことを考えますと、三コマ目が緊張で、
四コマ目でその緊張が解除される感じがございますから、
それで合っている気もいたします。
 
 が、一方でクライマックスは転に入れたいという気もいたします。
 
 結局のところ、どちらかはわかりません。
 どちらでもいい気がいたします。
 そもそも、起承転結という言葉があいまいなのでございます。
 
 ただやはり、大方のイメージといたしましては、
クライマックスは転だと思うのですよね。
 
 と申しますか、結はエピローグ部分というのが一般的で、
だからその前のクライマックスはやはり転だと思うのでございます。
 
 ですから転は、そのクライマックスの一点、
もしくはクライマックスを終点として、
ミッドポイントか第3幕の終わりを起点にするぐらいではないかな、
とそのように思います。
 
 
 伝統的な演劇技法が
ミッドポイントやクライマックスで区切りを置かないのは、
幕によって分けているからと申せます。
 
 物語のまん中の重要なシーンや
クライマックスで決着がついた瞬間なんかで幕は下ろしませんものな
(テレビのCMなら逆にそこにこそ入れそうでございますが)
 
 ですから、幕による区切りとそれとは関係ない区切りで
分け方が違ってくることは仕方がない、と申しますか、当然だと存じます。
 
 というわけで、起承転結を3幕構造に当てはめてみますと、
 
 起は、第1幕
 承は、第2幕
 転は、クライマックス
 (だが、ミッドポイントか第2幕の終わりから
  クライマックスとまでを転と考えてもいいかもしれない)
 結は、第3幕のクライマックス以降。
 
 とちょっとあいまいな結論とあいなりました。
 
 
 あいまいな結論ではございますが、先ほども書きましたとおり、
起承転結自体があいまいなので仕方がございません。
 
 漢詩や四コマならば一行一コマに起承転結を当てはめるだけなので
問題は起きませんが、長いものになってくると無理があるのでございますな。
 
 まぁ、クライマックス=転でいいと思います。
 ですが、ミッドポイント重要性も知っておいて欲しいと存じます。
 
 
 
 とここで、新たなる考えがひらめきました。
 漢詩や四コマの起承転結は、ピンポイント。
 ならば、映画的な起承転結も重点的な一点を指すものと考えてもいいのでは、
という考えにございます。
 
 まぁでも、起と結は同じ。
ミッドポイントとして、クライマックスとするのでございます。
 
 そこら辺を押さえておけば、要点はつかめると思うのでございますよね。
 
 
 
 
(11)まとめ
 
 ここまで、起承転結について、あれこれと考えてまいりました。
 
 四コマや小話など、ごく短い話での起承転結。
 
 落とし話やアイデアストーリーなど、
 ショートショートから中編ぐらいの話の起承転結。
 
 構成に拠らないスーパーマーケット方式。
 
 クライマックスを転とした映画的な手法。
 
 映画の3幕構成をミッドポイントで分ける起承転結と、その変形。
 

 ミッドポイントを承、クライマックスを転と、ポイントで考える方法。
 
 
 構成のないスーパーマーケット方式以外は、起承転結と申せましょう。
 
 
 紹介してきたそれぞれには得意がございまして、
 
  
 アイデアストーリーの起承転結は
 ワンアイデアを核とした作品で、超短編から短・中編ぐらいまで
 
 
 スーパーマーケット方式は
スラップスティックのように勢いだけで行くのでしたら短めのもの、
エッセイマンガのように淡々とエピソードを連ねるものならば、
延々続けることができますが、作品としてのまとまりには欠けます
 
 
 映画的な手法は、主人公を核にしたもので、
 メリハリの利いた長編に向きます。
 
 
 面白い物語を作りあげるためという目的の認識は共通しておりますし、

物語には始めと終わりがあり、
 最後のほうに面白さを持っていく、
クライマックスを華々しくするということでも共通していると存じます。
 
 目的が一緒なので、組み合わせが可能です。
 と申しますか、組み合わせないと成立しない部分もございます。
 
 
 短編の起承転結はワンアイデアが軸になるものでございますし、
 
 スーパーマーケット方式は、スラップスティクにしろ日常系にしろ、
 核になるのはその場その場のエピソード。
 
 映画的手法は、主人公にございます。
 主人公の行動によって物語は進行し、その葛藤が物語の主題となります。
 クライマックスにしても、主人公がどう行動し、
 どう解決したかが問題となります。
  
 
 多くの方は主人公の行動や運命に注目いたしますし、
 それが話題を呼びます。
 加えてメリハリがあり、1つの作品としてまとまっていて、長編
 となると、やはり、映画的な構成をメインに考えるべきでございましょう。
 
 
 
     ☆   ☆   ☆
     
     
 とまぁ、起承転結について長々と書いてまいりました。
 
 (ホントはこんなに長く時間かけるはずじゃなかったのになぁ。
  一日で終わる予定だったのになぁ)
 
 このように起承転結と申しましても、いろいろとあるわけでございます。
 
 加えて申しますれば、起承転結
 これを知っていればいいものが書けるというものではございません
 
 出発点に立った程度のものでございます。
 
 
 サッカーのフォーメーションと同じですな。
 
 一流のチームと同じシステムを採用したとしても、
 チームが強くなるわけではございません。
 
 プレイヤーのフォーメーションに対する理解、
 他の保持ションとの連携、
 そして何よりもプレイヤー個人の技量と身体能力、
 スタミナなどが無ければ、優れたチームとはなれないのでございます。
 
 
 そういう意味で申しますれば、
 
起承転結と申しますか構成は、
お話作りにある程度慣れてから考えるべきことかもしれません。
 
まずは練習と実戦。がむしゃらに挑んでみるのもよろしいかと。
 
そうして、各選手のスタミナや身体能力、テクニックのレベルアップを図りつつ、
全体を整えていくのでございます。
 

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(「起承転結」について(1)り続く)
 
 
(5)いしいひさいち
 
四コマの起承転結を破壊したと言われるいしいひさいち先生は、
インタビュー風の文章で次のようにお書きになっておられます。

 (「文藝別冊 総特集 いしいひさいち」
    (河出書房新社/2012/6/2016/7増補新版))
 
 そもそも四コマに起承転結というセオリーは存在しない。
 起承転結に則って描くプロはいない。
 
 楽しむにしてもリズムは多様であって要件ではない。
 
 笑いがすべての世界では秀作か凡作か以外にはない。
 
 あるとすれば読者の認識の観念的なフレーム、後知恵であり、
 四コマに起承転結がないのはけしからんという議論は幼い。
 
と。
最後に「今の見解は?」「でっちあげです」とごまかしておりますが、
本心でございましょう。
 
 
 また、日常系四コマについても、
 
 面白いかつまらないかは起承転結とは関係ない
 
 とお書きになっておられます。
 
 オチがないからつまらないのではなく、
 つまらないものはつまらないからつまらないのだと。
 
 四コマのオチは落語のサゲやシメと違い、
 四コマで腑に落ちればよいのであって四コマ目である必要はないと
 再認識させられた、だそうでございます。
 
 実にいしい先生らしい。
 傾聴すべきお言葉だと存じます。
 
「読者の認識の観念的なフレーム、後知恵」というのは、
(3)で書いたことでございますな。
 
 起承転結はある意味あたりまえのことを言っているので、
 物語というものは、(このコマは起承が一緒になっているとか、
 この二コマで承になっているなどとすれば)、
 大抵起承転結の枠に収めることができるのでございます。
 
 
 
 そしてギャグとは驚き、意外性こそ命でございます。
 
 こういう流れなのだろうという予想を裏切ってこそなのでございますから、
 起承転結という安定した形を外すことも、
 その意外性と申すことができると存じます。
 
「楽しむにしてもリズムは多様」ということも重要で、
 四コマのような短いものの場合特に、
 同じパターンが並ぶとそこに意外性がなくなってきてしまうのですな。
  
 繰り返しのギャグや、
 パターン、マンネリズムの美学を用いる場合には有効でございますが。

 
 
 でも、いしい先生の作品の中でも起承転結になっているものはあるぞ?
 
 まぁ、それは観念的なフレームだとおっしゃられるのでございましょう。
 起承転結になっていることを否定しているのではなくて、
そのような構造のセオリーはないとおっしゃられているのでございますから。
 
 
 
 でも
そうはおっしゃられても、起承転結というセオリーはあるのだと思います。
 
 ただし、それは古いセオリーなのでございましょう。
 
 ですから、
いしい四コマがそれを崩したという説は、正しいのでございます
(いしい先生の前にも、セオリーを無視したスタイルはあったと存じますが)。
 
 四コマのオチは落語のサゲやシメとは違う
とおっしゃっておりますが、そのサゲシメこそが古いスタイルなのでございます。
 
 そして、
それらがある作品については起承転結のセオリーが通用するのでございますな。
 
 例えば落語の小話や昔の漫才、そして古い四コマなどがそれらに当たると存じます。
 
 
 
 
 このようなセオリーがなくなり、ルール無用になったのは、
「ザ・マンザイ」あたりのマンザイブームのころからでございましょうか。
 
 ビートたけしがつるべ打ち式にボケをエスカレートさせていき、
きよしが合いの手のようにうながしたりツッコんだりするというような、
一番面白い転の部分だけ残し、
他の部分を話の流れに組み入れたり簡略化していって、
スピードアップと濃縮化をしていったのが新しいスタイルでございますな。
 
 (その際、起承転結を意識していたかは存じませんが)。
 
 いしい先生のほうがマンザイブームよりも早い気がいたしますが、
そういうルール無用のセオリーに立っているからこその、
起承転結などないという発言なのだと存じます。
 
 
(6)小話、漫才、四コマ
 
 その古典的なスタイルはどのようにして成立したか。
 漫才の最小単位から考えてみましょう。
 小話も会話で進行するので、基本は一緒でございます。
 それらの最も短い形は、おおよそ次のような流れで成り立っていると存じます。
 
(1) ボケが話を切り出す。
(2) ツッコミが続きをうながす。(「ヘェ」「それで?」)
(3) ボケがトンデモないことを言う。
(4) ツッコミが、常識的な観点から意義を申したる。=ツッコミを入れる。
  (「なんでやねん」「そんなわけないやろ」)
 
(3)のボケが単体ではわかりにくい場合には、
(4)で補足説明が入ったりもいたしますな(「そりゃ、○○やろ」)
  
 小話や四コマの場合も結の部分でオチがつくことが多いので、
補足があるほうが基本でございましょう。
結がツッコミだけで終わるのは、その短縮形ですな。
 
 
 いずれにせよ、これが古典的な笑いの最小単位でございます。
 
 この形は自然発生的に出来たものでございましょう。
 無駄がなく、基本的で、安定感がございますな
 
 
 それが、小説の構造を説明するための
起承転結のために使われたという流れでございます。
 
 ただ、漢詩とか四コマでしたら起承転結とは
一行一コマとの間で一対一対応できますが、
ある程度の長さの作品となると話は違ってまいります。
 単純に四等分というわけにはまいりません
 
 特にの部分。
 
 転換点という言葉があるとおり、
転はある一点、もしくは短い箇所を指すような気がいたします。
 
 それをどう考えたらよろしゅうございましょう。 
 
 ピンポイントである転を構成の1つとして入れ、
ちぐはぐなバランスの起承転結でよしとするのか。
 
 それとも三部構成と考えるのか。
 
 あるいは、○○からクライマックスまでを転と考え、
 起承転結を均等な配置とするのか。
 一体どうなのでございましょう。
 
 
 
 
 
(6.5)ところで
 
起承転結という言葉が物語構造の基本として紹介されているのは、
日本だけのようでございますな。
 
 ついでに申しますれば、
コママンガで特に四コマが一般的なのも日本だけみたい。
 
 その四コマが日本で主流になったのは、
新聞マンガとして定着したからみたいでございますな。
 
(ふと思ったのでございますが、文章が縦書きということが縦四コマのマンガが合っていたのかも?
 ……。それほど自信のない説ではございますが)
 
 
 
 

(7)スラップスティック その他
 
 さて、これとは別に、特に構成をしないという話の作り方もございます。
 
 無声映画やアニメの短編コメディで見られる手法でございますな。
 
 『トムとジェリー』のようなものを想像していただけばよろしいかと。
 とにかくつるべ打ちにギャグを連発し、視聴者の心を上げていくことで
「ああ、面白かった」と、思わせる手法でございます。
 
 瞬間的な興奮が積み重なりが、
最終的な面白さの盛り上がりとなるという方式ですな。
 
 大塚康生先生のインタビューで知ったのですが
「スーパーマーケット方式」というのだそうでございますな。
 
 似ているものと言えば、ゲームの面白さでございましょうか。
 
 ゲームの場合、イベントやアクションを時系列によって変化させるには
一工夫が必要になってまいります。
 
 トランプのカードはどこで出してもスーツと数は変わりませんし、
野球の場合ならどの回であっても、
バッターのやることが増えたり変化したりはルール上ございません
(作戦上はあるにしても)。
 
 それでもそうしたアクションが重なっていくことで、
後半に向けてどんどん盛り上がってまいりますな。
 それと同じような感じでございます。
 
 ただこれは、構造とは申せませんな。
 
 ゲームの場合ですと、一方的な結果となって
盛り上がれないということもございますが、
作品の場合でしたら時系列を調整できます。
 
 ですから、「スーパーマーケット方式」などと申しましても、
完全に並列ではなく、
視聴者が盛り上がれるような配置をするのか普通てこざいますな。
 
 
 このスラップスティックの手法を含めまして、
マンザイブーム以前で起承転結のセオリーに乗らないものは、
やはり外国のコメディの影響があったのだと存じます。
 
 
 
 と、スラップスティックの話としてこの形式を語ってまいりましたが、
エピソードを並列していくだけの構成は、何もギャグに限ったことではございません
 
 日常の風景や紀行など、
淡々とエピソードを羅列していくものはこの方式でございます。
 
 構成が無いのでございますから、他にも例は色々とございましょう。
 そんなわけで、この方式には意外と多くの作品が含まれるものと存じます。
 
→ 起承転結について(3)
 に続く

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 起承転結という言葉はご存じでございましょう。
 もとは、四行から成る漢詩の絶句の構成を説明する言葉であり、
日本では文章構成の基本として、多くの方が知るところとなっていると存じます。
 この起承転結について考えてみたいと存じます。
 
 ということで、まず基本的なところを
ウィキペディアの「起承転結でお読みください。
とりあえず「構成」のところだけ。
それ以上読まれると、この文章と重なるところも出て来ちゃう。
 
 読みましたか?
 まぁ、そんなところでございます。
 
 
 この「起承転結」という言葉、とにかく字面が分かりやすいですな。
何かが起こり、それを承けて話が続き、転換点があって、結論にいたる
 
 特に説明を受けなくても、字を見ればどういうことかが分かります
それゆえに、日本では多くの方に受け容れられたのでございましょう。
 
 ただ、それが同時に困ったところ
 
 是とする側も、起承転結ね、と安易に取っているのではないかと思われますし、
批判する側も分かった気でいるのかもしれません。
 
 と申しますか、これでいいという側は比較的広い意味で取っていて、
間違っているという方は逆に本来の意味にこだわっているのではないかと、
そんな気がするのですな。
 
 それ故に、再考してみる価値があるというものでございます。
 
 ということで順番に考えていって見たいと思います。

 まず
 
(1)実用を目的とした文章の構成法ではない。

 これはウィキペディアにも書いてございますな。
 
 パンフレットは、事実のみ書かれていればいいのでございますから、
物語性などは必要ございません。
 
論文も、最後まで読んできて、
結局わかりませんでしたや、最初と正反対のことが結論では
読んでいる側が疲れるというものでございます。
 
 事実を証明する過程
(仮定→異論→異論に対する反証→結論)が
起承転結になることはございますでしょうが、
そうすべきものというものではございません。
 

 
(2)面白さを目的とした、物語性のある作品を作るための構造である。
 
映画技法のリテラシー』
(ルイス・ジアネッティ:著 堤和子・増田珠子・堤龍一郎:訳
 /フィルムアート社/2004/7) によりますと、
 
映像作品は主に
リアリズム・古典主義・フォーマリズム
3つに分けて考えることが出来るそうでございます。
 
 ジャン的には、
ドキュメンタリー・フィクション・前衛作品でございますな。
 
 このうち、起承転結が必要とされるのは、
古典主義=フィクションであるというのは明白でございましょう。
 
 リアリズムは構成をすることでリアルを歪めることをよしといたしませんし、
フォーマリズムは作者の内面にしたがって構成されて
(あるいは構成されないで)おりますからな。
 
 古典主義というとなにやら古めかしい気がいたしますが、
フィクションをそのように呼ぶようでございます。
我慢してください。
 
 
 
(3)ある意味、あたりまえのことを言っている。
 
  物語に始まりがあるのは当然のことでございます。
  終わりがあるのも当然。
  そして、物語である以上、なにか出来事が起こらなければ意味がありません。
  
  Yさんは寝ていました。
  寝ています。
  寝ています。
  寝ています。
  
  では、何の面白みもありません。
  ですから、
物語が始まって、それに続く話があり、終わり、ではなくて、
続いたあとに大小はともかく何らかの変化があるというのは、
どんな話でも普通にあって然るべきことなのでございます。
 
 ですから、どんな話でも起承転結に結びつけようと思えば。
 結びつけられるのでございますな。
  
 ただ最初に書いたように、あたりまえのことだからこそ、
 安易に考えられている節はあると思うのですよね。 
 
 

(4)あくまで基本形であるということ。
 
 起承転結の話を持ち出すと、そうではないかたちも存在する
などとおっしゃる方もおられますが、
起承転結というのあくまで基本だと思うのでございますね。
 
 その基本さえ分かっていれば、各部を調整したり、
大胆に組み替えてもいいものだと思います。
 
 そうでない形を論じる場合にも、
こういう基本があったほうがよろしゅうございましょう。
 
 たとえば、アクション映画では、
アバン(タイトル前)に派手な活劇シーンがあったりいたしますな。
 
 連続活劇からの引用で、クライマックス、
つまり転や結を最初に持っていっているわけでございますが、
これがどんな世界で主人公はどんな人物なのか、
といった説明──起にもなっているのでございます。
 
 そういうことを説明するためにも、
起承転結という言葉は必要なのだと思う次第でございます。
 
 というわけで、今回はこの辺で。
 
 続きます。
 
→ 起承転結について(2)
 
→ 起承転結について(3)

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2021/02/01 (Mon)の記事永遠回廊からの脱出に対する
ただ者ならぬポール・ブリッツ 様の、コメントに対する回答でございます。
 
 直接の回答は、コメント欄に記しておきました
 回答といたしましてはそれで十分と思われますが、
この記事もあわせてお読みいただければ幸いにございます。
 
 また、自分のゲームとパズルに対する考えは、
に書いておきました。
 そこからそう変わるわけではございません。
 ただし、あれは、雑誌の記事に対してのものでございましたし、
 書き方が変わると印象も変わるかもしれませんので、
あらためて書いておくことにいたします。
 
 
 
     ☆     ☆     ☆
 
 
 
 とは申せ、基本的には同じことを書いております。
 その辺りはご了承を。
 というわけで、   

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 そろそろ各地区について書くのかな、と思った人もおられましょう。
 
 ですがそこに踏み込むつもりはございません
 そのあたりは、実際に本を手にとってご自身の目で読んでいただくのが
一番よろしいと存じますので。
 
 そんなわけで、
 今回書きますのは、ブラックサンドの周辺について。
 それとそこを訪れる人住人についてでございます。
 
 書いていて思ったのは、
わたくし本当にタイタン世界のこと知らないなぁ、ということでございます。
 
 特に住民などは、想像で補ったことも多くございます。
 
 ですから、間違っていること、書き足りていないこと
マシマシだと思いますが、平に平にお許しを
 
 
   ☆    ☆     ☆
 
 
 『タイタン』に拠りますと、
 本来のアランシアは、この大陸の西の果て、
氷指山脈からドクロ砂漠までの比較的狭い地域だそうでございます。
 
真夜中の盗賊』にございます、ブラックサンドの悪名が
とどろいているという「ゼンギスからシャザールまで」と
だいたい同じぐらいと考えてよろしゅうございましょう。
 
 ゼンギスはアランシアの地図に載っているのでよしとして、
シャザールはどこか、お分かりでしょうか?
 
 山本弘先生の「四人のキング」の舞台がそれでございます。
それに拠りますと、ドクロ砂漠の北に接する南部平原に存在するようでございます。
  
 アランシアという言葉の意味は、太古エルフ語で「騒乱の大地」とか。
  
 北方平原にはオークや人型異種族がすまわっており、
それらがしばしばこの地に攻勢を加えていたと申しますから、
それでエルフたちによってこの名がつけられたのでございましょう。
エルフの客観的・傍観者的な性格が表れたネーミングのようにも思えます。
 
 と思ったのでございますが、どこか分からなくなりましたが、
アランシア国」という表記もあったりするのですよね。
 
 となりますと、そこに住む人がエルフ語で「騒乱の地」と名づけた? 
 でも、自分たちの国にそんな物騒な名前つける国民ってあまりおりませんよねぇ。
 
 となりますと、国として成立する以前に、
エルフたちがその辺り一帯を「騒乱の地」と呼び習わしていて、
それが意味が分からないまま国の名前になったのでございましょうか?
 
 その辺りよく分かりません。
 
 この言葉に関しても一つ疑問なのは、
どう「アランシア」なのかということでございます。

 なんとなく、アラン騒乱でシアが大地だと思うのですが、
この地には「アランティス」という場所もあるんですよね。
これが古代から「司祭が博識なことで知られていた
(『タイタン』p.18)と書かれていて、
それほど騒乱とは関わりなさそうなんですよね。
 
 現在は海賊の被害に遭っているみたいですけれど、
ポートブラックサンドがなかった頃もそうだったから
「騒乱」がつけられた? 
それとも「シア」のほうが騒乱で「アラン」が地?
 
 まぁ、司祭が博識でも騒乱の地はあるかもしれませんし、
そもそもエルフの命名法など、わたくしにはわかりませんが。
 
 ……
 
 今思ったのでございますが、もしかすると、
」が「大地」で「ランシア」が「騒乱」とか? 
ならば「ランティス」が「騒乱」とはまったく関係無い言葉だとしても、
問題は無くなりますな。
 
 うーむ。
 太古エルフ語について、どこかに単語帳は載っておりましたっけ? 
 
 
  ☆   ☆    ☆ 
 
 さて、「氷指山脈からドクロ砂漠まで」
「ゼンギスからシャザールまで」というアランシア国
実際どのぐらいの大きさなのでございましょう?
 
 ヒントは二つほどございます。
 
 まず『盗賊都市』。
 ここには君が依頼を受けるシルバートンという市が出てまいります。
 そこの市長の発言で、ブラックサンドが
このあたり数百キロもの地域に出没するありとあらゆる
悪人の巣窟だと申しております。
  
  もう一つは「タイタン」でございますな。
  (p15)で、ゼンギスを「異境の町」としております。
  だいたいここがアランシアの西のかぎりということでございましょう。
  この地が、海から(でしょう)コク川の流れをさかのぼって20日
  これは徒歩でということだと思いますが
(まさか川の流れでということはございますまい)、
例えば1時間4キロを8時間、20日で640キロ。
道のりとして考え、さらに道中の障害もあるとすれば、
盗賊都市』の数百キロ妥当な線ではございませんでしょうか。
 
 東西はだいたいそんなものでございましょう。
 南北も氷指山脈からドクロ砂漠まででございますから、
それでだいたいの距離感もつかめると思います。
 
 そう考えると、カーセポリスから徒歩で30~40日ぐらいが
旧アランシアの領土ではないかと──。
で、そのあたりまでがだいたい人が住む地、
金のにおいがする場所と盗賊たちが考えている場所と思ってよろしいかと存じます。
 
 その国家の中心が悪の巣窟になるということは、周囲の人たちにとって
本当に困った恐ろしいことだったと想像するに難くはございません。 
 
 主要道はすべて首都につながっているでしょうし、
経済の中心、貿易の拠点もここにあったのでございましょう。
 
 それが使えなくなるどころか略奪の拠点となったとなると、
それは不便どころの騒ぎではございません。
 
 港もそうでございます。他の川の河口にもあるでしょうが、
 ナマズ川は「アランシア居住区のど真ん中を走る
(『タイタン』p.117)川でございますからな。
それが海賊・盗賊の街の中を流れるとなれば不便なこと極まりございません。
 
 陸路にしても
ブラックサンドを避けることは幹線道を避けることになりますから、
不便で遠回りになることが予想されます。
 
 例えば『死の罠の地下迷宮』の「背景」では、
「君」は立て札のあった場所(どこかはよく分かりません)
から西へ向かい、船でコク川の河口まで行き、
そこから筏で4日ほどさかのぼってファングの町に着くのですな。
 
 地図を見ると異境平原を通った方が距離的に短いですし、
多くの冒険者や旅人がそのルートを通っているそうですが
(『タイタン』p.52)そのときは何かあったのでございましょうか?
 
 とりあえず、異境平原を通るルートというのは
本来のルートではないのでございましょう。
盗賊を恐れないのならば、
旧カーセポリスに続く主要幹線道路のほうが
都合のいいこともあるのではございませんでしょうか。
 
 とは申せ、周辺諸都市との関係は、無いもしくは敵対的でございましょうな。
盗賊相手に公式に交渉を持つ国なとございませんでしょうし、
盗賊都市としてもそのそぶりは見せませんでしょう。
 
 
 にもかかわらず、ブラックサンドは四六時中賑わっているようでございます。
 この街にいるためには高価な各種許可証が必要ですし、
アズール卿配下の黒鎧のトロールやオーガの警備兵が闊歩しておりますのに。
 
 一体どのような方々が、この喧噪をもり立てているのでございましょう。
 
 まぁ、一番多いのは、当然仕事終わりの盗賊さんや海賊さんでございましょう。
 遠征して派手に稼げば派手に金を使い、負ければヤケで飲む。
近場で稼ぐ方々も宵越しの金は持たねぇとばかりに飲む。
 
 明日の運命も知れぬヤクザな稼業、銀行も機能していない街とあっては、
そうなるのもむべなるかな。
 
 ちなみに、海賊たちが猟場としている場所のひとつとして、
「タイタン」には、アランティス北西岸の海賊海岸が挙げられております(p.18)。
ライバルはあたりを根城とするエルガー湾の海賊らしいですな。
大型船で押し寄せるブラックサンドの海賊と、
小船で立ち回るエルガー湾の賊という構造が見えてくるような気がいたします。
ブラックサンドとしては地元の賊を掃討したいところですが、
湾が入り組んでいて大型船では入れない
などという理由でつぶせないのではないでしょうか。
  
 そんなこんなの海賊・盗賊たちで、街は賑わいを見せてまいります。
 呑む打つ買うが充実し、夜の光が虚飾にきらめきはじめますと、
蛾のごとくそれに誘われるよく分かってない人が集まり始めます。
 
 悪名や噂を歯牙にもかけない冒険者や、
事情を軽くしか感じていないおのぼりさん、
自分だけは大丈夫と意味のない根拠で自らを説得する浮薄人、
行ってはいけないという心の声を耳にしながらも誘惑に勝てない観光客……。
恐いもの見たさというのも多分にございますでしょう。
 
 そんな人がやってくるのでございましょう。
 
 で、泣きを見る。
でも泣きを見ても「今度こそ」と懲りない御仁もおられるわけで──。
 
度しがたいですな。
 
 語り部の派手な口舌に惑わされたり、他で食い詰めたりした、
盗賊志願の若者というのもおられるでしょうな。
 
 大抵はカモにされるのでございましょうが。
 
 もちろん、街には賊の類いだけが住まわっているのではございません。
 
 店を営むもの。そこで働くもの。
ものを作る人や、漁師など、さまざまな生業を持つ人がいるわけでございます。
 
 ただ、盗賊都市のことでございますから、
他にくらべて抜け目がない方が多いと考えるのがよろしゅうございましょう。
 
 もちろん、それは誠実でないということではございません。
その抜け目なさを自己防衛のためだけに使い、
企みをもって接してきたのでなければ誠実に当たるという人も多いと思います。
定住者にとっては、
その場限りの利益よりも信用のほうがずっと大事でございますからな。
 
 まぁでも、盗賊まがいの商売人が多いと考えた方がいいのかも。
 ご用心。
(もちろん、悪事から足を洗い、
 改心して誠実な働きをしている方も多くいるはずでございます。
 盗賊上がりだからといって悪と決めつけませんように、念のため)
 
 
 港町でございますから、船に関わる方も訪れるようでございますな。
海賊だけではなく、貿易や漁業、交通の手段など
まともな船もあるようでございます。
先ほどの『死の罠の地下迷宮』の冒険者も、
ここから船に乗ったのでございますから。
 
 ただ、付近の海域では海賊に気をつけなければならないのは
「造船所」(p.73)に書いてあるとおりでございます。
 
 さらにはビジネスや所用で訪れる方もございましょう。
 ビジネスと申しましても盗賊都市のことでございますから
ろくなもんじゃないような気もいたしますが、表向きはまともに見えるものや、
取引の部分だけはまともというものもあるかもしれません。
 
 ブラックサンドが『盗賊都市』という単体作品の背景として
作られたもののためか、他とのつながりってあまり書かれていないのですよね。
でも、裏ではいろいろとあるのではございませんでしょうか。
 想像してみるのも楽しいかと存じます。
 
 
 所用のうちには裁判なんかも入りましょうな。
 ブラックサンドの人間が関わる犯罪は、現行犯などは別として、
ブラックサンドの法律が適用されるとかありそうでございます。
 
 なんかね、カーセポリスが首都だったせいか、旧アランシア地域って、
ブラックサンドよりも大きな街って無さそうな感じなんですよねぇ、
人間が住む街としては。 
 
 サムビット卿のファングにしろ、5月1日あたりには賑わいをみせるにしろ、
それ以外は普通の町みたいですし。
 
 だから力関係上、ブラックサンドの無法な法がはばを利かすのだと思います。
周辺の街が団結して国を作り、首都を作るとかすればいいのでしょうが、
そこまでまとまれないのでしょうな。タイタン世界らしくはございますが。
 
 でもですから、外部の人間がここで裁判やって勝てるかなぁ、
という気はいたしますな。
 もし勝ったとしても、裁判費用や袖の下で
結局ブラックサンドにお金が落ちるのではございませんでしょうか。
加えて行き帰りで盗賊に遭ったりしてね。
特に訴訟相手の仲間から非合法な仕打ちを受けそう。
 
 大きな事件ならいざ知らず、
泣き寝入りになることも多いのではございませんでしょうか。
 
 
 他には、神殿を目指す巡礼者などもいるのではないかと思います。
ブラックサンドにはありとあらゆる宗教の館があるようでございますからな。
 
 ここの住民がそれを必要としていたということもございましょう。盗賊都市には
それがどういう神かはいざ知らず、神の力を借りたい方は多ございましょうからな。
 
 神殿が多いのはそれに加えて、この地が旧首都だったこともあるのだと思います。
 カーセポリス時代にここに神殿があった宗教は、
悪党どもの巣窟となっても元の聖地に宗教施設を建てたのだと思います。
 紛争地帯にそのような建物がある宗教と同じでございますな。
 
 ブラックサンドの宗教でございますから、
現世利益をうたうものや、邪教の類いが巾を利かせていると思います。
 
 けど、カーセポリス時代からあったものの中には、健全な宗教もございましょう。
 ただ、そういう場所が悪党どものたまり場になることはあると存じます。
現実世界でも中世イギリスでは
ウェストミンスター寺院のようなところがそうなったように。
 
 教会の敷地に逃げ込んだものは
罰することが出来ない決まりになっていたのですな
(少し違いますが、江戸時代の日本も町方と寺社奉行に分かれていて、
寺や神社に逃げ込んだ場合、管轄違いで捕らえることが出来ない、
というのがございますな(火付盗賊改はそのかぎりではないようですが))。
  
 なので十五世紀ぐらいのアビー(ウェストミンスター寺院)のまわりには
不逞の輩がはびこっていて、
巡礼に来るおのぼりさんがその歯牙にかけられたとか。
 
 そのようなことは、この地でもありうることでございましょう。
  
 あるいは巡礼帰りに、ブラックサンドの賑わいに、
敬虔な信者がわれを忘れて悪の道にはまり込んでしまうとかですな。
 この地は、そのような誘惑と危険の街でございます。
 
 
 そんなさまざまな街に集まる人によって、
毎日が喧噪にみちた悪の祝祭空間となったブラックサンドでございますが、
光が強ければ強いほど闇は一層深くなるもの。
それは悪のきらびやかさとて同じことでございます。
 
 この街でおちこぼれ、それでもこの街から離れることの出来ない人たちが、
社会の片隅にわだかまっていたりするわけですな。
 
 そのような方は、許可証を買えなかったり奪われたりして、
持っていない方がほとんどだと思います。
 
 警備兵のきまぐれで
どのような扱いを受けても不思議ではない方々ではございますが、
それでもこういう人が減らないのは、
いつの間にか増えてしまうからだと思います。
この街の犠牲となり、転落する人は後を絶たないと思われますからな。
 
 加えて、トロールやオークの警備兵にとって、
面白みがないということもあるかも知りません。
金を持っているわけでもございませんし、戦うだけの力もないものでございますからな。
 
 数も多いですし。
 
 一掃をアズール卿に命じられるのでなければ、
気晴らし以外には相手にしないのではございませんでしょうか。
 
 そんなわけで、
ヘンリー・メイヒューが記録したヴィクトリア朝ロンドン裏路地のような生活が、
そこには見られましょう。
  
 日銭を稼いでは酒と賭博におぼれる者。
日雇いの職を求めてテムズ川のドック地帯には毎日人が押し寄せたと申しますから、
そのような光景はこのブラックサンドでも見られることでございますしょう。
 (江戸時代のヤクザも、問屋に集まる日雇い人足の口入れみたいのから
  成立したようでございますから、事情は似たようなものでございますな)
 
 もちろん、このような悪の巣窟の片隅、
誠実でつましく生きている弱く優しい方はおられると思います。
 そのような方を扱っても、ドラマになるのではございませんでしょうか。
 
 
   ☆    ☆   ☆
 
   
 地方の中心でありながら無法の街でもある
──その異常性が、このブラックサンドを特徴づけている点ではないかと存じます。
 
 その辺りをふまえて、いろいろ考えてみるのがよろしいのではございませんでしょうか。
 
 ただ、TRPGとして遊ぶ場合、
この無法と暴力を嫌うプレイヤーっていうのはいると思います。
 日本のような治安の良いところでは特に。
 
 そのようなときは手綱をゆるめるか、
この街を参考に違う街を作って、そこで遊ぶのが手かもしれません。
 えっ、タイタン世界で冒険するのに、そんなヤワな心構えではダメですって?
 
 でしたら、タイタンごとラノベ世界にしてしまえば──。
 などと申しますと、ホビージャパン版FFシリーズが思い浮かびますが、
あれは翻案ではなくてアレンジ少なめですからな。
 
 も少しゆるめでいいかも?
 
 そうなると、FFシリーズではないという声が聞こえてきそうでございますが、
だとしてもよろしゅうございましょう。
 その場が楽しく盛り上がればよろしいのでございますよ。
 
  
     ☆      ☆    ☆ 
 
 なお、port blacksand map で画像検索すると、
この街の色々な地図か出てまいりますな。
 
 ご覧になってみるのもよろしいかと。
 
 
 
 というわけで、『ポート・ブラックサンド』の話はここまで。
このあたりでお開きにしたいと存じます。

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 このソースブック、アドバンスト・ファイティング・ファンタジーTRPGで
初めての都市ガイドブックという位置づけでよろしいのでございますかな? 
 
 とかく街の各地区に何があるかが気になるところではございますが、
まずはポートブラックサンドがどういう街なのか、全体を知ることが肝心
最初に読む必要はなきものの、とりあえず押さえておくべきと存じます。
 
 アランシアについて『タイタン』では、
世界一悪名の高い」(p.014)という言葉で始まっております。
 
 ただ、この言葉は枕詞と申しますか、惹句と考えていいのではないでしょうか。
 
 タイタン世界は他の場所も悪名が高い場所
 なにもアランシアに限ったことではございません。
 だいたい「もっとも悪名の高い」とは、
もっと場所を限ったときの言葉ではございませんでしょうか。
 
「クール」「旧世界」と比較して悪名の高い、
という比較は出来るかもしれませんが、
それはあまり意味のないことのように存じます。
他の大陸が平和で穏やか、というのなら別ですが、
そんなこともございませんし、ね。
 
 この世界の、ヒーロー活躍の舞台となるのは、
大抵野蛮で薄汚い「悪名高い」地なのではございませんでしょうか。
 
 YouTubeの実況動画でしか見ておりませんが、
コンピュータ版の『火吹山の魔法使い』も、
原作以上に野蛮さや汚らしさを強調しているように感じたものでございます。
 
 その汚らしさ野蛮さというのは、
ヨーロッパの過去のそれでございますな。
広い意味での中世、品性や衛生観念が未発達な時代
この世界はもとにしているのでございます。
 
 そうした、中世の都市の悪を集めた典型が
「ブラックサンド」というわけでございますな。
 ですから、街としても典型でございます。
 
 領主がいる地区があり、神殿(教会)地区があり、庶民の地区がある。
河を中心として都市は成立していて、上流には領主が居を構えている。
 
『盗賊都市』としてそれをデフォルメしたものがブラックサンドと相成りましょう。
 
 
 街の様子については、p.40に描写がございます。
 
 沿岸沿いは低地で、河口には天然の深水港がございます。
 
 街はいくつかの丘から成っていて、当然のごとく高低差がございます。
 そのため小道は、階段の所があることがあったりして、
そのような場所は馬車や荷車は通ることが出来ません。
 
 路地や小道は石畳や舗装路ですが、
主要道路は土や馬糞で押し固められているそうでございます。
 きちゃないですなぁ。
 
 * 書かれておりませんが想像してみますに、
  道にはゴミや、吐瀉物、血、死体などが、無造作にあったりもいたしましょう。
  この街の花(あだ花でございますが)は酒場と犯罪でございますからな。
  死体なんぞは、身の回りを剥がれ、服を脱がされ、
  薬屋や魔術師や肉屋に売る用に肉や骨や臓器を抜き取られ、
  食人に噛まれ、猛禽についばまれ、なぐさみに蹴られたり、
  河へ放られたりして消えていく運命でございましょうな、
  考えたくもないことでございますが。
 
 街は破壊された古カーセポリスの廃墟の上に成り立っております。
そのためでございましょう。建物の土台や下層階は石造りでございます。
 それに対して、上層階は
木造。増築に増築を積み重ねた建物は、エキゾチックにデタラメ。
路地にはみ出し、互いの家に酔っ払ったように寄りかかり、
ねじれくねり、煙突や塔が突き出ております。
 
 すべてはけばけばしく塗装され、看板や立体看板が派手さを競い、
屋台が道をふさぎ、垂れ幕がたなびいる。
──このあたりは、繁華街の描写でございましょうか。
  この街は歓楽街がかなりの位置を占めていそうでございますから、
  そういう景色が目立つのでございましょう。
 
 港町でございますから、立体看板の中には、カニやエビ、フグなどの
巨大な模型もあるかもしれませんな(フグいるのかなぁ?)。
 
 
* ブラックサンドはカーセポリスの廃墟の上に築かれた街──ということは、
  第二次大戦後の闇市のような感じから始まったのでございましょうか。
  無法に建てられた建築は、それを想像させます。
  ブラックサンドの歴史って、思っていたのよりも短いのですよね。
  年表の最後から人が住みつき始めた年を引けば、
  279AC-121AC で158年かな?
  その間に色々なことがあって、今のような街になったのでございましょう。
  そのあたり、年表を見ながらいろいろと想像してみるのも楽しいかと存じます。

 
 家の中と申しますれば、
多年にわたる無計画で身勝手な増改築の結果、迷宮状態。
無駄な階段。意味のない行き止まり。常軌を逸した間取りなど、
とにかく無秩序状態でございます。
掘っ立て小屋だからといって、不注意に跳び込んだら、
どこぞで踏み間違えて、戻ってこれなくなることだってございます。
油断大敵ご用心ということでございますな。
──ディレクターにとっては、どんなテキトーな間取りでも文句言われない、
ご都合設計と申せますが。
 
 そして、大抵どこの家でもあるのが地下室。貯蔵庫とは表向き。
秘密のぬけ道がそういう場所には用意されている可能性が大いにございます。
盗賊都市でございますからな。やましいことがなくても、
なんの因縁で逃げなければがならない日が来ないとも限りません。
そういうときのためにございましょう。
乱築を繰り返した迷宮間取りで、
そこまでたどり着けるか、ちょいと心配にはなります。
 
 それと、どの家にもしつらえられているということは、
街に住んでいるものなら誰もが真っ先にそれを探すのでは? とは思います。
 とは申せ、抜け穴の先も迷宮になっているのでございましょう。
その家の主でさえ迷ったりして。
 
 勝手知ったるでそのようなことはないかとは思いますが、
そんな冗談がこの街では起こりうるのですよね。
何しろ街の土台は旧カーセポリスの街なみ。
それがどのような構造になっているのかを知るものは、
いるとしてもわずかでございましょう。
 
 
       ☆      ☆      ☆
 
 
p.55からの地区の紹介に行く前に、まずそのような全体像を想像してみてください。
 
 アズール卿の宮殿が、
高い塔が立ち並ぶようなものでない(p.91)のが残念でございますが、
そのまわりにごみごみと広がる街なみというのは、
まぁ『ブレードランナー』、あれを中世化したようなものでございますな。
 
 治安の悪さは、そういうことが発生する外国の観光都市でも想像なさって──。
あと、意外と『今昔物語』に描かれた京の町なんかも近いところがあるかな、
とわたくしとしては感じました。
 
 そんなわけで、
 そんな感じをイメージして、読み進めていくのがよろしいかと存じます。
 
 
(分けるつもりはございませんでしたが、今回はこの辺で)

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都市作成ルール


第2章は、「都市作成ルール」。
 
村や町から大都市にいたるまで、短時間に集落を作るためのルール
と申しますか方法でございますな、を紹介しております。
 
 基本を示しているので、ほとんどランダムで作るようになっておりますが、
すべてをそのとおりにやる必要はございませんでしょう。

(サイコロを箱の中に落として、というのはユニークでございますが、
 かえって面倒なときもあるような?)
 
 ですが、必要なところだけ使って集落を作ろうとしていらっしゃる方でも、
まずはルールどおりにやってみた方がよろしゅうございましょう。
 
 ザッと読んだだけでは、読み落としもあるかと存じます。
やはり、一度この通りにやってみて、
このルールの考え方について理解してから、
自分なりのアレンジを加えていった方がよろしいかと思うのでございます。
 
 それにしても、商売のリストは面白いですな。
貧しい・中流・裕福と分かれておりますが、
項の冒頭にも書いてございますとおり、
貧しいに分類されている商売が裕福なこともございましょう。
 
まぁ、それはそれとして。
 
☆ 「貧しい」の 5-16-4肉屋では、何か違いがあるのかなぁ。
  それとも、タイタン世界では肉屋が普通の商売の2倍ある
  ということを意味しているのかな?
 
☆ パン屋とか醸造家とか肉屋は、自分のところでも販売するけど、
  酒場や宿屋、中流のリストにある食料品店に卸しているのが主なのかな? 
  あとは、上流階級のお屋敷に配達するとか? 
  品質が悪いとおとがめを受けそう。
 
☆ 陶芸家だと芸術として認められているみたいなので、
  貧しいに分類するのなら陶器職人ぐらいのニュアンスの方がいいのかも?
 
 とまぁ、そんなことを感じました。

 

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『ポート・ブラックサンド 
   アドバンスト・ファイティング・ファンタジー TRPG』
スティーブ・ジャクソン イアン・リビングストン 
編著:グレアム・ポトリー
監修:安田均 
訳:こあらだまり/春駒篤/飛竜賢 
オリジナル版製作:AEON GAMES 
日本語版製作:グループSNE (令和2年11月)
 
 

(全部書くのには、怠けて遅くなりそうなので、記事を分けますね)
 
1回目は、前フリ。
それに火薬海の掟(ルール)についてでございます。
 
 
 
     ☆     ☆      ☆
 
 というわけで『ポート・ブラックサンド
盗賊都市』の舞台であるポートブラックサンド
シティガイドブックでございます。
 
 『盗賊都市』は、ファイティングファンタジー5作目
 イアン・リビングストン先生の単独作品としては
運命の森』に続く作目でございますな。
 
 早い時期に書かれたということは、
それだけ書きたかった作品なのでございましょう。
 
 全体マップは非常におおざっぱに申しまして、"Thieves' World" を
川の流れる方向に向かって引き延ばしたような造りをしておりますな。
 
 この世界が好きだったのではないかと思われ、
影響もかなり受けているのでは、という気がいたします
(地図を見ただけではございますが)。
 
 
 それはさておき、
もはやネタになるほど知られたことではございますがこの作品、『盗賊都市』、
この街を牛耳っているアズール卿をどうにかするという話ではございません。
 
 ザンバー・ボーンを倒すための情報を街に住む魔術師ニコデマスが知っており、
それを聞くために街に潜入するのでございます。

 しかも、ザンバー・ボーンはこの街に住んでいるのではございません
 
 そのあたり、同じくシティアドベンチャーである
スティーブ・ジャクソン先生の『サイボーグを倒せ
とは趣を異にしておりますよね。
 
 かの作品はまさに
街のビッグ・ボスであるチタニウムサイボーグを倒す話でございますから。
 このあたり、舞台を作ってその中で遊ぶというリビングストン先生と、
舞台は物語のために存在するというジャクソン先生の違いを感じさせますな。
リビングストン先生がTRPG的なアプローチなのに対し、
ジャクソン先生は小説家としてのアプローチという気がいたします。
世界にとらわれず、次々と新しい舞台を作品にしているあたりも小説家的ですな。
 
 
 
     ☆   ☆   ☆
 
 
 
 とまぁ、それはそれといたしまして、
今作、『ポート・ブラックサンド』を見てまいりましょう。
 
 本題である黒砂港の解説の前に、2つの章が入っております。
 
 第一章は「新たなルール」

 「海の妖術」、「帆走と航海」、「海戦」は、
ポート・ブラックサンドに関連して、洋上でのあれこれを扱っております。
 港があれば船に乗りたくなるのは世の倣いございますからな。
 
 この船のルールでは、クルー体力点という概念が出てまいります。
乗組員同士の戦闘を簡略化するためのものみたい。
船の規模によって修正が加わるのでございますが、
わたくしには理解できたよーな分からないよーな……。
 
 船自体は、プレイヤーにも理解しやすいように、
現実世界に類いするものになっておりますな。
 
 これに魔法の力を付与して、幽霊船など作ってみるのも面白いかも?
 
 
海の妖術」や「海の魔法の品」は、数こそ少ないものの
海に関する全方位に目が向けられていて、バラエティに富んでおりますな。
おおっと!表」も同様、の悪ふざけ。
 
 楽しんで作っていらっしゃる様が目に浮かぶようでございます。
 

 
火薬」のルールは、海戦につきものの、砲撃を支えるものでございましょう。
 
 ファイティング・ファンタジーに火薬のイメージはあまりございませんが、
この書によりますとOT(旧暦)1995年氷の月19日の月曜日
ファングセインドワーフたちによって発明されたのだとか。
 
 日までの記録がしっかり残っているあたり、さすがドワーフ、マメでございますな。
 
 ちなみに、このOT
西暦のBCとは違って、1から始まり、1999年に終わるようでございます。
1999年ぴったりに終わるなんて、さすが魔法のある世界は違います。
 
 1995年と申しますと、
その1999年、魔法大戦終結の4年前ということでございますな。
 
ポートブラックサンドの年表の最後が 279ACでございますから、
280年超が経過しているわけでございます。
 
 280年と申しますれば、現在・2020年から数えますれば 1740年。
 開発されたのはドワーフの本拠地であるファングセインでございますから、
火器類もさぞかしといえるほどの進化を遂げていても
おかしくはございませんですが、そこは中世ベースの世界でございますな。
 
 フリントロックに、ラッパ銃
大砲、それに手榴弾ぐらいが使える武器でございます。
 
発明年が書かれておりませんところを見ますと、早いうちに発明されたものの、
そこで進化が頭打ちになってしまったのでございましょう。
 
 言い換えますれば、AC(新暦)以降は、
普通に使えるものと考えてよろしいかと。でないと面倒でございますし。
(記述がどこかにあったらごめんなさい)
 
 そんな火薬の中でも、
とりわけ変わった性質をもつものがひとつ紹介されております。
 イグネオライトとおっしゃるこの物質、生物にはダメージを与えず、
石を数秒溶かすという働きがあるということでございます。
 
 石の壁や天井は溶けて洞窟をふさぎ、
ガーゴイルなど石のモンスターはダメージを受けるのだそうで。
 
 実にファンタジー。実にTRPG的。
実にディレクターの使い勝手が良さそうな……。
 
 つらつらと考えまするに、問題となりますのは、石の床でございますな。
 天井や壁についての記述はございますが、床についての記述はございません。
 天井や壁に効果をおよぼすのでしたら、床にだって……、と考えるのが人の常。
 ですが、草原や森ではほとんど効果がないそうでございますから、
地面には効果がないと考えることも出来るのでは、と思うのですよねぇ。
 それとも、石には効果があるけれど、土には効果がないとか、
そういうことでございましょうか。
 
 後で考えたのでございますが、その可能性はございましょう。
 と申しますのは、石が普通に認識する石の範囲を超えて、
鉱物すべてにおよぶとなると、
金属や宝石類もすべて溶かしてしまえるということになりますよね。
 
 つまり、武器も魔法の道具もお宝も溶かしてしまうということになりますから、あまりにも強力、バランスブレイカーとなる可能性大ですよね。
 そのようなことは、この呪文に求めてはいないのでは、と思うのでございます。
 
 

  まぁ、床に効果がおよぶかどうかが重要なのは、申すまでもございませんな。
 
 石はいったん溶けたあと、数秒で固まると申しますから、
そこにいるお方は足止めされてしまうことになります。
 となると、かなり不利でございますよねぇ。
 
 接着剤の倣いで考えてみますれば、激しく足を動かしていれば、
接着力は弱くなって抜け出せるかもしれませんが、
スネあたりまでの地面が一気に溶けてしまえば、
そうそう足を動かすことも難しございましょう。

 数秒で溶けて固まると申しますから、階層のあるダンジョンでも、
床が抜けて下の階まで落下するという事態にはなりませんでしょうが。
 
 いずれにいたしましても、魔法でございますから、
現実の理屈がどの程度当てはまるかは疑問ではございますけど、ね。
 
 とりあえず、床には影響を与えないと考えていいのではございませんでしょうか。
 この物質、記述にございますとおり
出口をふさぎ、石で出来た怪物にダメージを与えるだけのものと
考えておいた方がよろしゅうございましょう。
 
 案出した方といたしますれば、
そんな限定的な物質があれば、冒険がより楽しくなるのでは、
と思って出したものなのでございましょうから。
 
 なんと申しましても、魔法の物質でございますから、
そのようなご都合な働きをしてもよろしいかと存じます。

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というわけで、「一人炎に立ち向かう」のフローチャートはこんな感じでございます。
 下のタイトルより開くか保存してくださいませ。
 テキストエディターで見る場合、
場合によっては「右端で折り返す」チェックを外した方がよろしいかもしれません。
 大抵は大丈夫かと存じますが。


「一人炎に立ち向かう」

 
 これまでテキストファイルをアップロードしても、
文字化けしちゃっていたのでございますが、
保存する際のエンコードを UTF-8(BOMなし) から ((BOM付き) というのに変えたら
いいらしいということが分かったので、
ようやくこの形でお届けできることになりました。
 

 今回のソロシナリオは、
横への広がりも大きかったため、どうしようかと思ったのでございますよね。
 文字を最小にしてもブログの巾からはみ出ちゃいますし。
 巾を抑えるために無駄なあがきとかもしたものでございます。
 
 最終的には、文字巾からはみ出したところでぶった切って、
その2として別に載せ、コピペでくっつけて下さい、
ということにしようかとも考えた──と申しますか、
そうするつもりだったのでございますが、そうならなくてよかったよかった。
 
 まぁ、
イベントをサブルーチンとして分け、骨格のフローからサブへ跳ぶ造りにすれば
問題は解決いたしますし、その方が構造も分かりやすいですし、
描くのも速くはございますでしょう。ホントは奏すべきなのでございますが……。
全部つなげるのが楽しいんですよねぇ。
 
 理屈を申せばフローの太り方も分かりますし
(ただしこれは描き方による違いもございますので、
 大まかなことしかつかめないのでございますが)。
 
 一応、点呼
 (すべてのパラグラフがそろっているかどうかのチェック)はいたしました。
 けっこう行方不明が多ございましてねぇ。
 その段階でも、大きく修正が入っております。
「20進んだパラグラフに進め」など、秘密の番号のところもそうでございますが、
このゲームブック、通常は太字で跳び先のパラグラフが書かれておりますのに、
なぜかいくつかそうなっていないものがあるのですよねぇ。
 それを見逃していて修正したり。
 
 あとは、四角をコピペするときのミス。
めんどくさがって数字を入れたままやるものでございますから、
それでミスをしてしまったところも……。
よくあることでございますから、
みなさまもこの形式でフローチャートを描こうとするならば気をつけて下さいませ。
 
 構成も素直でございますし、
サッサと描き終えてしまおうと思ったのでございますが、
結局約一ヶ月半かかってしまいました。
 
 9月のブログ記事が少ないのはこのせい……。いやいや。
 
 でも、フローチャートを描くのは本当に楽しいので、
みなさまもチャレンジしてみて下さい。
 
 一から作るのは難しいですけれどね。
 取りあえず、
このフローチャートからパーツをコピペして組み合わせていけば、
積み木感覚で出来ると思います。パズルみたいで面白いですよ~。
 
 そうそう。コピペの際は、矩形選択ができるテキストエディターないし、
ワープロソフトが必要でございます。
 
 
 
 
 ちなみにわたくしは、
 Kuro さまの Mery を使わせていただいております(ver 3.0.1)。
 縦書きと矩形選択、それにグーグル検索がわたくしにはとっても便利。
 
 最新版はα版で、そっちでも大丈夫だとは思いますが、
心配なら1つ前の(ver 3.0.4)がよろしいかと。
 
 フリーソフトで、Windowsの認証を受けていないため、
導入の際ウィンドウズディフェンダーさんあたりが警告を発してきますが、
多くの方が使っているソフトでもございますし、許可して構いませんでしょう。
さもなければ、別のソフトのご検討を、でございます。
 
※ 矩形選択については、上書きの矩形移動なんかも出来るのでございますが、
  あらかじめ移動先の範囲を指定してやらなければならないのがちょっと面倒。
  挿入でもあとで修正してやればいい話なので、
  問題はないことではございますが……
  (ワープロ専用機ではそのあたりが強力だったので、残念)。
  良く存じ上げはしませんが、ウィンドウズの仕様みたいなものでございましょう。

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ただ者ならぬポール・ブリッツ様の、
2020/10/01 (Thu)2018/10/10 (Wed)
コメントに対する回答
でございます。
 
 ので、そちらをお読みになってから以下御覧(ごろう)じてくださいませ。
 
 
 タイトル下でも、コメントでも、長いものは記事に書いちゃう。
 その方が読みやすいと思いますので。
                          (実は穴埋め)

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.このあたりで書いておく必要があるかな、とか思いましたので、
自分の好きなゲームブックを挙げておきますね。
 
 と申しましても、再録
 
 nacht_musikさんの
アリオッチ!アリオッチ!アリオッチ!」で、
『ゲームブック・オールタイムベストテン』(2008-01-01)
参加したときのものでございます。
 
 けっこう古い。
 2008年でございますからなぁ。
 ぐぐっても見つからなかったので、
 アドレス貼っておきますね。
 
https://nacht-musik.hatenadiary.org/entry/20080101/p1
 
 そのページをずっと下までスクロールさせて、
コメント欄の「もっと読む」ボタンをクリックしてくださると出てくると思います。
 
 コメント欄が消えてしまった場合は、
タイトルの『ゲームブック・オールタイムベストテン』を
クリックすると出てまいりましょう。
 
 ちょっと手間てはございますが。
まぁ、書いてあることは、ここと同じなので、とくに行く必要はございません
 

 ですが、他の方のベストや、
関連記事から跳べる結果発表などは、
興味ある方もいらっしゃると思いますので、参考までに。 

 
 これを書いたあとも、
ゲームブックはもちろん色々出ましし、見るべき作品もございますが、
これはこれでまとまっておりますので、このままにしておきます。
(太字を足し、ちょっとだけ文を変えましたが)
 ホントはじっくりひとつひとつの作品をやりたいところですし、
逆にすでにこのブログで取り上げたものもございますが、とりあえず。

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(定義や分類は、感情を排して行わなければならないものでございますので、
  これは余談でございますが──)
 
    ☆     ☆     ☆

 「受容」については「眩暈」という言葉に対する反発があった。
 
 カイヨワは、
仮面をかぶり舞踏などを行うことによって、酩酊失神にいたるその行為を、
さまざまに資料を引いて、「原始的社会」の典型とした。
 
 
「仮面」→「失神」という下向きの流れこそ「原始的社会」だと位置づけたのだ。
 
 
 そうした混沌混迷の「眩暈」の社会が秩序だった「競争」の世界へと進化する──
それが、カイヨワの「遊びを出発点とする社会学の試み」の大要である。
「文明的社会」人らしい論法だと思う。
 が、「原始的社会」が好きな自分としては、これが気に入らない。
 あまりにも馬鹿にしすぎだと思う。
 確かに、「原始的社会」は弱い。
 が、それは「競争」の社会に属していないと言うだけの話である。
 そのルール、その尺度では勝てないのは当然である。
 だが彼ら「原始的社会」の人々は、自分たちの棲む自然に対する知識は、当然「競争」社会の人たちよりも深い。
 要するに、土俵の違いなのだ。
 
 カイヨワは、シャーマニズムの「仮面と失神」に着目した。
 しかし、「原始的社会」の人々は、別に失神をしたくてそれをしたのではない。
「仮面と失神」は、神の声を聞くための手段なのだ。
 そして、「原始的社会」の人々には、カミと出会い、神の声を聞く方法は他にいくつもある。
「仮面と失神」がすべてではないのだ。
 
 遊びの分類でいけば、「眩暈」は例えば、「競争」におけるサッカー──よりは上位の範疇か──「球技」というような範疇なのだ。
「球技」は「競争」を代表する遊びではあるが、そのすべてではない。
 それでレースやそのほかのスポーツを語ることは出来ないし、ましてやチェスやボードゲームをや、だ。
 社会での分類で考えてみるならば、例えば「株式」。これは「競争」社会の典型だが、これで「競争」社会すべてを語ろうとしたら、おかしなことになってしまうだろう。
 
「原始的社会」の人々が、カミに接し、その真意を聞こうとする方法は、「仮面と失神」だけではない。
 
 例えば聖地や禁忌の地。
 これらは、カミと出会う、もしくはカミに敬意を払い(恐れて)近づかないために存在する。
 例えばことわざ。迷信にせよ科学的に立証できるものにせよ、それらはカミの考えを知ろうとした結果作られたものだ。そうしたことわざになっていなくても、「原始的社会」の人々は、自分たちの領域に対して、深い知識とカンを持つ。
 あるいは来訪神、啓示。
 カミが人の姿、または声をもって、人と接触してくる場合だ。
 これは自らがカミを真似る「模擬」と似ているが、まったく逆だ。
 ここで人がすることは、それを受け入れること。それは自らがカミを真似ることとかなり違うと言っていい。
 
 失神により神の啓示を得る「眩暈」も含め、これらはすべて、カミからのメッセージを受け容れることを目的としている。
 それらをまとめて私は、「受容」という言葉を使った。
 遊びの分類もこれと同じだ。
 
(9/29の記事とするために、急ぎました。
  大意は変わりませんが、少し書き直すと思います) 

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 ただ者ならぬポール・ブリッツ様から、
ゲーム論に関するコメントをいただいたので、2019/05/28 (Tue)
ここでゲーム論を2つほど紹介いたしましょう
 どちらも基本だと存じます。

 わたくしは、多分この2つぐらいしかゲゲーム論って読んでいないかも、です。
 まず1つは、
昔、賢者の石井文弘さまに教えていただいたのが「コスティキャンのゲーム論」。
こちらは今でもネットで読めるみたいなので、検索してみてください
(相変わらずリンクは貼らないなー)。
 
 当時パソコン持っていなかったものでございますから、
賢者様、これをプリントアウトして、郵送してくださいました。
 
パズルとゲーム~ゲームの定義に関して~」に書きましたことは、
この論のパズルは静的である、というところから考えたものでございます。
 もう一つは、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間」。 
講談社学術文庫で出ておりますな。
 遊びと人間
『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ:著
多田道太郎・塚崎幹夫:訳
講談社学術文庫(1990/4)
 

 なにかの折に、ゲームについて考える場合必読
とか書いた文を目にして、読んでみた次第にございます。
 こちらの方について少し書いてみましょう。
(ホントは、ちゃんと書くつもりだったのですが)
 
 
     ☆       ☆      ☆
 

 まずカイヨワは、遊びに関して次のように定義しております。
 
(1) 自由な活動
(2) 隔離された活動
(3) 未確定の活動
(4) 非生産的活動
(5) 規則のある活動
(6) 虚構の活動
 
 このあたりに異論のある方はあまりございますまい。
 
 古い定義なので、新しいゲームにはそぐわないと
おっしゃる方があるいはおられるかもしれませんが、それはそれ。
ニュートン力学と相対性理論、
ユークリッド力学と非ユークリッド力学のような関係で、
たとえばネット上では変わってくるというようなことはあるかもしれません。
 
 でも、基本的には問題ないと存じます。
  
むしろネット依存とか課金の問題とかを見ると、
これを崩すと弊害が出るように存じますな。
 
 こうして定義した遊びを、彼は4つ分類するのでございますな。
 
(1) 眩暈(イリンクス)……「ぐるぐる遊び」など知覚を陶酔させる遊び
(2) 模擬(ミミクリ)……演劇など
(3) 運(アレア)……賭博などなど
(4) 競争(アゴン)……スポーツなど
さらに、遊戯(パイディア) ばか笑いなど
ルドゥス(競技) パズルなど 
という分類もしておりますな。
 
 これは主に一人遊びに対するもので、秩序のあるなしを示しております。
原初的な遊びから、規則のある遊びへ、ということでございますな。またこの分類は、意思レベルの度合いも結果的に表わすことになります。原初的な楽しみは人が意識しなくても楽しいことがあれば自然に湧き出てまいりますが、規則のある遊びに対しては意思を持って挑むものでございますから。
 
 遊びと人間、表  
 
この意思レベルの差に拠る2つの分類は、前の4つのそれぞれの分類にも適応されます。
 いわく、
パイディアは、眩暈(イリンクス)・運(アレア)と結びつきやすく
ルドゥスは、模擬(ミミクリ)・競争(アゴン)と結びつきやすい
 
 陶酔を楽しむことや、運だのみの遊びが意思力とは関係なく、
演劇やスポーツが意思の力を必要とするのはいうまでもないことでございましょう。
 
 これをまとめて、解説では次のような図を示しております。
 
 遊びと人間、表
 
  縦軸にパイディアとルドゥスを置き、
  横軸は判定要素があるかどうか。
  カイヨワの論を端的に示しておりますな。
 
  













    ☆     ☆     ☆
 
 とまぁ、カイヨワの論の基本はこんなところでございましょう。
 ホントなら細かく書かなければならないところをいろいろすっ飛ばしてきたので、
実際に本にあたってください。
 
 でないと、いつまでたっても書き終わりませんので。

拍手[1回]

* この記事は、ただ者ならぬポール・ブリッツ様のコメント
「悲憤慷慨しちゃう宿命なのです(汗)
2020/06/09 (Tue)『スーパーマリオブラザーズ vol.2 大魔王ネオクッパの挑戦』)
を中心に、
「老兵ですがまだしがみつきます(笑)」
「世をすねたゲームブックファンでございます(汗)」
2020/09/13 (Sun)ゲームブックの遊びの要素に関して。)、
あたりに書かれたことも引用しつつの返信でございます。
 
 まずはそちらをお読みになってください。
 
 ホントはコメント欄に書こうとしたのですが、
またまた長くなってしまいましたのでこちらに――。。
 
 そのあとのものは、とっ散らかりそうなのでまだ読んではおりません。
 
 
       ☆      ☆      ☆

 というわけで
 
「悲憤慷慨しちゃう宿命なのです(汗)」についてでございますが。
うーん、コメント欄で自論を展開しているなぁ。
それに硬直化しているような。
 でも考えさせてくれる。
 
 ありがとうございました。
 これ書くのにいろいろ脱線してしまい、ちょっと怠けてしまいました。
 時間かかってごめんなさい。
 話の流れが右往左往しているのも、ごめんなさいでございます。


 
 
 
 さて、
 
 どんな世界でもハイレベルな存在は必要でございます
製品においてもスポーツや芸術においても、ですね。
 ですから、ゲームブックにおいてもそれは必要だと思われます。
 一定数の需要がある以上は、なおさらのことでございます。
 
 製品や芸術の場合、それらを扱いやすく、大衆化することで、
一般製品として売り出されます。
 
 F1でつちかった技術が大衆車に応用されたり、
抽象画がデザインの分野で活用されたり……。ありますよね。
 
 ですから、ゲームブックの場合、
頂点があるのは問題ではなく、
裾野が広がっていかないことが問題なのででございます。
 
 さらにたとえば、作らない方にはわからないかもしれませんが、
プラモデルなども昔にくらべてずいぶん楽になりました。
 接着剤不要だったり、塗装不要だったり。
それで昔のものよりも正確な、あるいは格好のいいものができる。
 むかしは工作だったのが、今はパズルでございますな。

 あるいは翻訳なんかも、昔にくらべてずいぶん読みやすくなっております。
 
 そういう努力が重なることによって、文化は発展していくものと存じます。
 
 
完成度の高さと結果の多様さは、
 ゲームブックとして必要不可欠なものかどうか
 とお書きになっておりましたが、
わたくしは、両者ともそれらはあれば好ましいものと考えております。
 
 前者は必要と言ってもよろしゅうございましょう。
 
 筆が走りすぎたのだと思いますが、完成度=難易度ではございませんよ?
 
 難易度の低い、誰にでもプレイできるゲームでも
完成度の高い作品は存在いたします。
 児童文学に完成度の高さが要求されるように、
本来入門作にこそ完成度の高さは必要でございます。
 
 
 後者、結果の多様性、と申しますか、展開の多様性わたくしとしては必要ですな。
 
 何しろ物語が分岐することにこそ魅せられ、
小説ではない新しさを感じたのですもの。
 
 もちろん一本道も面白いものは面白うございます。
 何しろ、究極の一本道は小説でございますからな。
面白くないわけがございません。
 
 ただ、ではゲームブックに小説に匹敵する作品があるかと申しますれば、
少しはあるといたしましても、それほどではございませんな。
むしろ、一本道の作品の場合、ゲームブックだからこの程度でいい、
と楽している作品が多いような気がいたします。
 
 
 
 
投稿しまくるぞ、と覚悟を決めた矢先にウォーロック誌がつぶれ」た
とお書きになっておられましたが、
すると、その頃ゲームブックファンだったのですな。
 
 以前にも書きましたが、わたくしといたしましては、
そのあたり、と申しますか、双葉社後期(末期)のゲームブック
傑作が多いと思っているのですよねぇ。
 
『スーパー・ブラック・オニキス』のシステムを簡略化したような
ウィザードリィ 女王の受難』。
 
さまざまなゲームブックに対するオマージュが見られる
ウルティマ 失われたルーン』。
 
バグだらけなので他人には勧められませんが、
ゼルダの伝説 神々のトライフォース』。
 
そして、井上尚美先生の作品。
とりあえず『悪魔城伝説』を挙げておきます。
 
 このあたりの作品は、ストーリーも面白く、
システムも社会思想社や東京創元社のゲームブックを研究して
わかりやすいものにした感がございまして、
わたくしといたしましては、高く評価をしております。
 
 ただ、
わかりやすくてライトに誰でも20分くらいでエンディングに行けて、
 それでもなお楽しめるのがいいゲームブックとおっしゃるのでしたら、
その後のファミ通文庫のゲームブックのほうがよろしいかもしれません。
 
 ゲームブックが下火になったおかげで、
その頃のゲームブックは一見さんにも楽しめる難易度となっております。
 
 ストーリーもほぼ一本道、クイズありゲームありの楽しい内容でございます。
 20分では無理ですが、
そのぐらいで一息つける流れにはなっていると思いましたので、
問題ございませんでしょう。
 
 まぁ、多彩な展開が好みなわたくしといたしましては、評価いたしませんが。
 
 
 
 
 さて、難易度の話に戻りましょう。
 
「『双方向移動迷路』と、
『複雑なパラメータ管理』と、
『アイテムと情報の読者管理』」
 
 これらがゲームブックを難しくしているのは、ご指摘のとおりでしょう。
 他にもあるとは思われます。
 (たとえば一方向移動型でも、
 フラグ立てに失敗すれば詰むわけでございますから、
 その配置を意地の悪いものにすれば、難しくすることは簡単ですよね)
 
 ただ、これらは難しい=本格的=面白いとされた時代の産物ですな。
 難しくしようと思って作られたから、難しいのでございます。
 
 ですが、先ほど書きましたとおり、完成度=難易度ではございません。
 
 ですから、これらを丁寧に検証吟味し、
わかりやすく遊びやすいゲームブックにすることこそが、
ゲームブックの完成度を上げるということだと思います。
(そして、そうした試みは、すでになされているとわたくしは思います)
 
 難易度と完成度は別物ですから、そうした研鑽は、
難易度の高いもの、低いものどちらにも必要なことでございますな。
 
 
 
 
 ただ、ただ者ならぬポール・ブリッツ様のお書きになったような
「わかりやすくてライトに誰でも20分くらいでエンディングに行けて、
 それでもなお楽しめる」ゲームブックとなると、
システムよりも、物語の完成度を上げていく必要がございましょう
 
 この条件でシステム重視ならば、ゲームブックよりも
ボードゲームやカードゲームの方がよい気がするのですよね。
近ごろはゲームブック的なそれらのゲームも増えてきていると聞きますし。
 それに、サイコロをふるにしろシフトカードにしろ、
本から手を離さなければならないという弱点がある。
それが物語を途切れさせる可能性というのは、ございますな。
 
『ブラマタリの供物』などは、
本からなるべく手を離さない工夫をされておりますが、
そのようなものもヒントになるかもしれません。
 
 ちょっと脱線かな?
 まっ、それはともかくといたしましても、
やはり楽しめるゲームブックには、面白いストーリーが必要だと存じます。
 
 

 書きおとしたことがあるかもしれませんが、こんなところで。

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(「『ウォー・ゲーム』(ただし西東社の)」2018/10/07 (Sun)に対する、
ポール・ブリッツ 様からのコメントに対する返信) 
 
 
 
2018/10/07 (Sun)の記事
『ウォー・ゲーム』(ただし西東社の)」に、
ポール・ブリッツ 様から、コメントをいただきました~!!
 
 うれしいですな。ゲームブックについて、
特にTRPG系以外のそれについて、
まともに考えてくれるかたがいらっしゃるだけでもホントにうれしい。
 
 さてさて。
 
 この記事では、西東社のゲームブックシフトカードについて紹介しております。
 
 それを単なる当てものと書いたのに対し、
 
サイコロを振る代わりに、ランダム性を保持しつつも繰り返しプレーするプレイヤーのその成功確率を上昇させていくシフトカードというシステムは、シミュレーションゲームを擬似体験させるという目的でのゲーム作成としては大発明
 
とお書きになっております。
 
 正確なところは、当該コメントをお読みください。
 
 で、わたくしの返答といたしましてですがねぇ。
 
 シフトカード、確かにユニークですよね。
 そうでなければ、ブログで取り上げることはいたしません・
  
 でも、これをシミュレーションゲームでございと紹介したら、
えっ? と思う方のほうが多いのではございませんでしょうか。
 シミュレートは模擬でございますから、
ランダム性だけではそうは呼べないのではないかと存じます。
 
 現実に照らして考える要素がないと、
当てものの域を出ないと思うのでございますよね。
 
 シミュレーションゲームでも、データや計算が変で、
単なる当てものとなっているようなものはあると存じますが、
それはそれでシミュレーションゲームとは申せませんよね。
 
 
 ただ、
シミュレーションゲームでないから劣っているとはわたくしは考えません
 
 ゲームブックは、遊びでも本でもあるものでございますから、
その遊びの部分で工夫をしたということにおいて、
このシフトカードをはじめとする西東社の試みは評価できると存じます。
 

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