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2024/04/20 細胞の表面にはブドウ糖などの糖で出来た鎖状の化合物が生えている。これを糖鎖といい、いくつかの違う結合がある。この結合の違いが血液型の違いになるらしい。細胞はこの糖鎖によって他の細胞と関わりを持つのだが、病原体、ウィルスなどもこの糖鎖をとおして感染するようだ。 で、血液型が違うと抗体が攻撃するというのは、ウィルスの蔓延を抑止するためという説が21世紀になって発表されたそうだ。ウィルスは細胞から外に出るとき、細胞の表面構造を真似るのだが、これが血液型の違う人の体に入った場合、抗体反応が起こって攻撃するので、感染しにくいのだそうだ。つまり、血液型が違うと感染しにくいってことか。ホント?
[1] [2] [3] [4]
 真夜中をさまようゲームブック
「真夜中をさまようゲームブック」 

『サキの忘れ物』津村記久子
新潮社(2020/6)  所収 
p.162-191 (パラグラフ数:62) 
 

(すぐ書くつもりだったのですが、
 お絵かきを途中にはさんだら、
 そのあと怠けてしまいました。
 すみません)
 
 
 初出である「美術手帳」版のこの作品の存在をネットで知り
古本で手に入れたのは、ブログにも書いてある。
2017年12月のことだ。
 
 だがそのときは、数パラグラフ読んだだけで放置してしまった。
 
 どのように読んでいいか、戸惑ってしまったのだ。
 
 まず、津村記久子先生のことを存じ上げなかったし、
「美術手帖」に載っていたことも唐突だ。
 
 特集である春画とも関係なさそうだし、なんとも唐突だった。

 しかも1を読んだところ、鍵をなくした「君」が、
朝まで町をうろつくという内容らしい。
 
 とりとめも無く、把握しづらい。
 
 一応目標としては、鍵を見つけることかな、とも思うが、明白ではない。
 
 というか、この手の小説では、
鍵は結局見つからずじまいということも十分にあり得る。
 
 レイアウトも、惑わせるものだった。
 
 パラグラフは四角で囲まれ、
ランダムな横線がその背後に流れるものなのだが、
そのデザインが、筒井康隆先生のパラレル小説、
デマ」を思い起こさせる。
横線がパラグラフをつないでいるように見えるが、
するとこの線は、特殊な関係を示す何らかの意味があるのだろうか?
 
 気にせずどんどんやっていけば良かったのだが、
どうもそこで止まってしまった。
 
 今回の書籍版ではその凝ったレイアウトはなくなっている。
とすると、やはりあのブロックと横線は、単にデザイン上のものだったようだ。
 
 デザイン上の不安がなくなったので、普通にゲームブックとして取り組める。
 
 主人公は「」。
 あとで「異性」が出てくるように、性別はどちらでもいい
とりあえずは自分と同じ性別でいいだろう。
 
 家に着くと、玄関の鍵を紛失していることに気づく。
だが、それを探すのがこの作品の目的ではない。
 
パラグラフによってはそれを聞くことが出来る箇所もあるが、
少ないし、手がかりを聞けるとかそういうこともない。
 
 目的は、明日の晩までの時間をつぶすこと。
 
 あってないようなものだ。
 
 ゲームには達成すべき目標(勝利条件)があるものなので、
これはゲームではないと言ってもいい。
(ただし、それが作品自体の評価を低めるものではない)
 
 プレイした際は構造が複雑と感じたが、実際はそうでもない。

 行けるところがいくつかあり、それが何度も登場するので、
ループしているのかなと思ったのだが、
何段階も丁寧に分けて書かれており、一方向移動型になっている。
 
 フローチャートが描きやすい構造だ。
 
 ただし、
公園(38)と自宅(57)のところでループが起ってしまっている。
特に条件もなく、
両方でそれぞれの場所に行く選択ができるので、
両方を何度でも行き来出来るのだ。
 
 行き来しても何か特になるということはないし、
常識で判断してループを回避すればいいところではある。
だが、条件をつけるなどしてこのループを興させないことは可能だったはずだ。
 
 ただ……。
 だがしかし、ここで問題になるのが、その後のパラグラフで現れる、
君はこれまでに2度家に帰ったことがあるだろうか?」という条件分岐だ。
この問いかけのためにループがあるかもしれない。
 が、パラグラフ57を2回通過することがここでいう
「2度家に帰ったこと」となると、「ある」と答える難易度はかなり高くなる。
ループするためには、公園で異性に遭う必要があり、
さらにその後の選択で家に帰ることを選択しなければならないからだ。
 
 一方、1で1度家に帰っているから、1度57へ行っただけで2度目
という考え方もできる。
 
 この2つの解釈、どちらが正しいのだろう。
 
 ということで、考えてみる。
  
 この選択があるのは、18、34だ。

 両方とも、隣の家を覗く不審人物に関するもので、それ以上のことはない。
つまり異性に遭う必要はない。
 
 だからよりシンプルな、
1で家に帰ったのを1度と考え、57が2度目以降と考える、
が正しいように思える。
 
 では、難易度という点からはどうだろう?
 
 18と34のうち、18の片方はバッドエンドになる道なので、さして重要ではない。
 
 問題は34だ。
 ここで変わるのは、マルチエンディングの終わり方で、
特にどちらがバッドエンドというわけでもない。
 
 が、家の鍵を手に入れられるエンドに行き着く可能性がある分、
2度家に帰った場合のほうがよりいいエンドという気はする。
 
 その難易度を上げるため、
57を2度通過するのだという考えも成り立つが、
そのエンディングの前に1つ、
あるアイテムを持っているかで分岐が分かれるので、
そこまでの難しさを作者は求めていないのでは、という気もする。
 
 読んでいたときは、57を2度通ることが2度目だと思っていたが、
文の意味から考えても、1が1度目で57を通れば2度目ということなのだろう。
 
 とはいえ(読解力がないといわれそうだが)、
ちょっとわかりにくい気がする。
 
 分岐の際の質問文を
「最初家に帰ったあと、また家に行ってみたことがあるだろうか」
ぐらいにしておいた方がいいのではないかと思う。
57を2度とおる必要があるのなら
「最初家に帰った分を除き、2度家に戻ったことがあるだろうか」だろうか。
 
 条件分岐の部分なので、ここはボーッと読んでいてもわかるぐらい、
はっきり書いておいた方がいいように思う。
 
(さらにいえば、57を2度とおる必要がないのならば
 公園から57へ行くパラグラフで
 「家に帰ったあとすでに1度戻っているのであれば行く必要はない」
 とでもすればループは防げるのだが……。
 
 ただし、作者はこのループを了解しているものと思われる。
 というのは、パラグラフ30のコンビニのシーンに
 「今夜初めてなのか、それとも何度か訪れたことがあるかわからないが」
 という文があるからだ。
 これは、何度かコンビニを訪れる可能性があることをふまえての文言だろう)
 
 

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『Role&Roll』vol.189の特集は、
スチームパンカーズ』……ですが、
内容はともかくといたしまして、イラストがパンクしていない。
 
 これでしたら蒸気SFとかそんな名称で呼んだ方がいいと思うのですが、
広い意味でのと申しますか、一般的な認識は
こういう感じがスチームパンクなのでございましょうな。
 
 わたくしといたしましては、
蒸気と歯車と計器で、もっとダークなイメージなのですが。
 
 そういえば、国産スティームパンクTRPGの先輩、
ギア・アンティーク』ってどんな感じだっけ、とケイブンシャの大百科
 
『TRPGリプレイブック
 ギア・アンティーク&トーキョーNOVA』 
(ケイブンシャの大百科別冊/平成五年三月)
 
 を見てみました
(TRPGのほうは持っていない……)。
 
  
 で、思ったのでございますが、
 ここに出てまいりますブラスマンドリンⅣ号機って、
ラストエグザイル 銀翼のファム』に登場する、
ヴァンシップに似ていると思いません? 
 
 
ブラスマンドリンⅣブラスマンドリンⅣ

 
 横から見たときだけですけど。
 
 ヴァンシップのほうも、ハセガワの模型でしか知らないのですが、
この模型を見たときに、何か似ているとは思ったのでございますよね。
 
 偶然か、はたまた何か共通のルーツがあるのか? 
 
 クラッシックカーとか『紅の豚』に登場する飛行艇みたいなの……とか?
 そのあたり、詳しくないのでよくは分かりませんが……。
 
 ……。

 ヴェルン卿の発明品が進化して、ヴァンシップになった……とか?

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前回の続きでございます。
 書くのを忘れていたので、追記にしようと思ったのですが、
 間が開いてしまったのと、少々長くなったので、新しく項を立てました)
 
 「コンセプト」「設定」「ルール
 
 これら3つのどこに力点を置くかによっても、物語の性質は大きく変わってゆきます。
 
☆「コンセプト」に力点を置く場合、
 登場人物をはじめ、世界に存在をするさまざまなものは、
 それに従となるでしょう。
 
 作者があるテーマについて語りたいときには有効ですが、
 あまりにもそれを前面に出しすぎると、
 物語が貧しくなり、面白くなくなってしまいます。
  
 物語にはテーマが一番大事、
 という教えを鵜呑みに信じてしまうとおかしがちな、
 よくある失敗です。
 
 ここでつまづくと、
「読者のことを考えず、ひとりよがり」と批評されがちですよね。
そうすると、読者に分からせようとますますテーマ性を前面に出して、
物語的に面白くなくしてしまうという蟻地獄におちいる場合も……。
 
 コンセプトやテーマは、一言で言える方がよい場合が多いため、
物語を書き慣れていない場合、ついついこのミスを犯してしまいがちなものです。
 
 
☆「設定」だけに着目していくと、今度は脈絡のないものになりがちです。
 アイデア出しのときはそれでいいのですが、
 それが過ぎるとその世界がどういう世界なのかが
 あいまいになってしまいます。
 生きるのに厳しい世界なのか、
 それとも滅多なことで死なない世界なのか、
 何を信じ何を忌まわしく思うのか、
 そうした価値観、もしくはその対立が描けないと、
 その世界がどういう世界なのか、
 作者がなんのためにその世界を作りあげたのかが伝わらなくなってしまいます。
  
 ただしこれは、「コンセプト」がまったくない場合です。
 ゆるやかにでもコンセプトが決まっているのなら、
 設定が幅広く豊かであることは、世界を豊かにしていきます。
  
 自然や人物の描写を密にし、会話の幅を広げることで、
 コンセプトに対する直進性は薄れるかもしれませんが、
 世界に表情や情感を与えることができるのです。
 
☆ 「ルール」に関しては、小説の場合、必要ないとさえいえるかもしれません。
 前回も書いたとおり、大抵のことは常識で解決できてしまうからです。
 異世界ファンタジーにしろ、
 多くの場合、わざわざいろいろと決めることなく、
 常識で間に合わせることが多いと思います。
 
 あとは、作者の裁量ですね。
 物語の都合や感覚で、
 力関係や可能不可能は決められてしまうことが多いように思います。
 
 小説の場合は、データどおりに強いものが強く、
 弱いものが弱いでは面白くないことも多いですから。
 
 とはいっても、力関係や可能・不可能を判断する基準は、
普通の物語の場合でも、あったほうが便利です。
たとえば、物の値段・価値やダメージを受けた場合のケガの度合い。
 
 それらの大まかを把握しておくことは、物語を別の面で豊かにしていきます。
 
 ゲームの場合は、それが重要な要素となることは言うまでもないでしよう。
 
 それらを決定することで、ゲーム世界を確たるものにしていきます。

  ただし、物語ゲームでは、ルールやデータは絶対とは限りません。
物語の都合により、「特例」が設けられる場合がしばしばあります。
 
 それが是か非かは、その作品と作家によるでしょう。
 
 
 これら3つは、
 それぞれが独立しながら、結局同じ1つのものを表現しているわけです。
 そのため、それぞれがまったく違うものでありながら、
 互いに影響を与えつづけます。
 
 たとえば、戦士がもっとも強い世界と魔法が幅を利かせる世界があったとして、
それを逆転させれば、
ルールも世界設定も、それに応じてずいぶん変わったものになるはずです。
 
 それほど大ごとを例に出さなくても、1つのデータが変わることで、
コンセプトも設定も変わってくるということは、よくあることでしょう。
 
 とくにシリーズが長期化した場合など、
コンセプトを作者が変えるつもりがなくても、
キャラクター同士の関係や、物語内の歴史の流れで違ったものになることは、
往々にあります
(もちろん作者の心境の変化の場合もよくあることですが)。
 
 「コンセプト」「設定」「ルール
 これらいずれかを充実させ変化させることは、他の要素も変化させることになります。

 
 その変化が均整のとれたものになるか、
それともバランスを欠いたものになるかによって、
作品の評価は違ったものになるでしょう。
 

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「SFマガジン 2020/6 vol.61No.739」を読んでおりましたら、
コラム「アニメもんのSF散歩」にて、
藤津亮太先生が、
世界観に関して書かれておられました(p.114-117)。
 
 
 それに便乗して、前々から考えていたことを書いてみましょう!!
 
 世界観について先生がお書きになっていることは次のようなことです。
 
「世界観」とは
「その世界がどういうルールで成り立っているか」ということの取り決めだ。
それは
「主人公がいない空間、時間にカメラを向けてもちゃんと世界が存在している」
ということを可能にする。
(p.115)
 
(中略)
 
 設定をひとまとめにしたものを「世界観」と理解しがちだが、
これらはあくまでも設定に過ぎず、
本来「世界観」とはこうした設定の根拠となる文化や思想のことである。(p.116)
 
 
 統一した世界観のもとに、設定が作られる――。
 
 これは正しい解釈だと思います。
 
 ただ設定は、「設定に過ぎず」というほど小さいものでもない――
そう言ったら難癖でしょうか。
 
 加えて、
ロールプレイングゲームにも関心があるものとしては、
データ的な意味のルールも重要だと思います。
 
 世界観と世界設定という二分類にした場合、
ルール(データ)は両方に振り分けられることでしょう。

 戦闘や各種判定など、その世界すべてに共通するルール世界観の側に、
それぞれの能力や価格など、個別のデータ設定にという具合です。
 

 ですが、ルールという視点は、
世界に関するもうひとつの貌を浮かび上がらせるものでもあります。
 
 というわけで、世界は
角度を変えてみることによって浮かび上がる3つの貌を持っていると考えます。
 今書いたとおり、それは次の3つです。
 
 コンセプト
 設定
 ルール
 
 狭義の意味では、世界観はやはり「コンセプト」のみでしょう。
 ですが、他の2つも世界の成り立ちにとって重要です。
ですから、広義にはそれらも「世界観」として扱っていいとわたくしは思います。
 
 実際、テーマなりコンセプトなりだけでは作品は成立しません。
それだけでいいというのなら、物語を作る必要もないでしょう。
 
 それに、同じコンセプトでも、
設定が違えばずいぶんその様相は変わってきます。
その変化がなければ、
これほど多くの物語は必要ないですし、生まれもしないはずです。
 
 ルールについても同様のことがいえます。
 ルールやデータの変更は、世界のありようを変えてゆきます。
 
 ただし、ルールやデータに関しては、
作り手受け手ともに意識していない場合も多いことでしょう。
特殊な設定でも無い限り、多くの法則は現実と同じになるからです。
 
 したがって先ほど書いたとおり、
普通の小説ではコンセプトや設定の中に組み込まれてしまいますし、
数値的に表記されないこともよくあります。
作者が意識していないことさえしばしばでしょう。
 
 ですが、
誰が、あるいは何が強いですとか、どのぐらいの価値があるということは、
必要に応じて考えていなければならない部分ですし、
無意識や暗黙のうちに了解されていたりもします。
 
 それらはふだん意識されていないためにあいまいだったりしますが、
その視点から見ることで見えてくるものもあるでしょうし、
その関係性が変わってくることが、設定やコンセプトに影響を与えることもあります。
 
 世界の全体的なコンセプト
 そこに存在するものの設定
 それぞれを数値面から見たデータとルール
    (数値ではなく、比較として把握されている場合もしばしばですが)・
 
 これらは、一つの世界をそれぞれ別の観点から見た三位一体世界観です。
 
 1つの観点からでは十分とは言えませんし、
3つは互いにおぎないあい、
互いに影響され会いながら、本来の世界を成長させていきます。
 
 しっかりと構築されたように見える世界でも、
その試行錯誤の過程では、
設定やルールを変更することで変わっていくこともあったでしょう。
 
 シリーズが長く続いた作品の場合、
最初と最後ではコンセプトに成長やブレが生じる場合もあります。

 そこには、
設定やデータの変化によって変わって行く場合もしばしば見られます
(作者の成長や心境の変化という場合もありますが)。
 
 コンセプト・設定・データ。
 
 それぞれを追加・変化・成長させることは、別の2つに影響をあたえ、
それらを変化・成長させていくことになります。

 とはいえ、
 1つの成長が、他に対して必ずしもよい結果となるとは限りません。
 1つの要素を変化させたことが、他の要素のバランスを崩してしまうことは
往々にしてあることです。

 その場合には、やはり、コンセプトにしたがって考える必要があるでしょう。
 それだけでは、世界のすべてを言い表せないとはいえ、
 世界にとって最も重要なのは、それなのですから。

 
 
☆ とまぁ、これについては、反発する方もございましょうし、
  逆に何を当り前のことを、とおっしゃる方もおられましょう。
  
  考えてみますれば、TRPGのルールブックなど、たいていこの3つ、
  コンセプト・設定・ルールからできあがっておりますな。
 
  ああ、そういえば、とそれに思いいたったときは、
  ちょっとガッカリしたものでございます。
 以前に、けっこう考えて導きだしたことでごさいますものですから……。

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「ゲームブックDS」について考えていて思いました。
 
 スイッチ版の『火吹山の魔法使い』は、
フィギュアが移動していく描写をはさむことによって、
ゲームブックでページをめくる際の、期待感や焦燥感を表現しているのだなぁ、と。
 ひるがえって電子書籍のゲームブックなどは、クリック一発で跳べるため、
簡単すぎて重みがないのかもしれません。
 ーーそれほど多くを試してみたわけではないので、そのかぎりにおいてでございますが。
 
 『魔城の迷宮』などは電子書籍にするとつまらなくなってしまうのでは、
などと言われたりいたしますが、
足音と間を入れれば、文庫での感覚に寄せることができるかもしれませんな。
  
 逆に通常の電子書籍では、ポンポン跳べるところを活かして、次々に読み進めていく
リーダビリティの高いアクションものなどか合っているようにも思います。

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「Role&Roll」vol.176 p.146、
黒田尚吾先生「こじらせオタクのゲーム論」では、
パズルはゲームではない、競技性とルールがないからだ、とございます。
 
 が、
競技性がないというのはわかりますが、
「ルールがない」というのはどういうことなんでしょ? 
 
数独やイラストロジックにしても、目標とそこに到るための決まり事がございますが、
それはルールではない? 
知恵の輪やペントミノ、ルービックキューブなどは、
その形自体がルールだと思うのですが、ちがうのかなぁ。
 
 でもたとえば、将棋と詰め将棋では?
ーーいや、チェスのほうが純粋性が高いからたとえとしてはいいのかな?ーー
チェスと詰めチェスはいかがでしょう? 
チェスはゲームで、詰めチェスはパズルだと思うのですよね。
で、その違いは人が相手かどうかぐらいだと思うのですが……。
 
 定義が違うんでしょうねぇ。
 
 ストーリーゲームを含めて考えるとややこしいことになるので、
ここでは省いて考えてまいりますが、
わたくしといたしましては、次のように考えております。
 
 ゲームに必要なものとして、
 
 まずは競技性。これは必須でございますな。
 
 ただ、競技性と申しますと対戦を考えがちでございますが、
ここではソロプレイも含めて広く考えることにいたします。
 
 そうしますと、得点、順位、対戦での勝敗などがこの要素として考えられます。
優劣の評価要素をつけることによって、ゲームらしくなるのでございますな。
 
 純粋なパズルはたいてい、解けたか解けなかったかのみの評価でございますから、
そこが違うところでございます。
 
 加えてパズルなら、
そこに純粋思考だけではままならない要素を加えることによって、
さらにゲームになるだと思っております。
 
 たとえば、
制限時間や精神的な圧迫、反射神経(アクション性)などでございますな。
もちろんコンピュータや他の人間という要素も、この中に入ります。
 単純なランダム性は、評価の分かれるところだと存じますが、
そうですね。初期配置のランダムはパズル(それで詰むこともございますが)、
途中にランダム要素があるものは、ゲームと申していいのではないでしょうか。
 
 素早く申し添えておきますが、
これらはゲームとして面白いかどうかは別として、でございます。
 
 スポーツやクイズについても同様。
 得点など評価要素を加え、
さらに単純な身体能力や知識力以外の要素が加わることにより、
それらはゲームになるのだと思うのでございます。
  
 クイズなら、
制限時間以外にも、なにか他のアクションをしながら答えるなどというのが、
テレビのバラエティ番組にございますな。
 
 スポーツについては、
ただ単純に走ったり、ボールを投げたり、サンドバッグをたたいたりするだけでも、
まぁ体操と申せますが、ゲームとはいえない。
そこに時間を計ったり、得点を数えたり、対戦相手と対決したりすることで、
はじめてゲームたり得るのでございますな。
 
 わたくしのゲームに関する認識は、こんなところでございます。
 
ソロプレイやプリミディブなゲームまでも含めて考えておりますので、
おそらく黒田先生の定義よりも広いということなのでございましょう。

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しまった~!、カウンターが10000を超えてしまった~!!

記念に何かやらなければ、と思ったのでございますが、
記念になるようなことでございますから、
思いつくのは時間がかかったり、手間がかかったりすることばっかり。
とてもできるものではございません。
 
 まぁ、10000なんて数字の一つ。単なる通過点! と申しておきましょう。
 
 今後の抱負と申しましては、
もう少し記事を減らそうかな、などとも考えております。
一月は、ちょっと多かったかな?
  
 もっとも、記事数を減らせば、内容が充実するとはかぎらないのはございますけれどね。
 


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 上に書くつもりでしたが、
自分用のメモを加えたら長くなってしまったので、こっちで。
 
ということで、
 
 
 「バラエティ」誌で、つい見てしまったのは、
 大友克洋先生の「饅頭こわい」
 
いろいろなマンガを、図解あり考察ありで
パロディ的に紹介していたコーナーでございます。
 

 下の「自分用のメモ」に、自分が持っている「バラエティ」誌に載っていた分の
リストを置いておきますが、これを見ると
大友先生がホントにいろいろなマンガを読んでいることがわかりますな。
 
 他の人のマンガを紹介したところではない部分は、単行本に載ったことが
あったと存じますが(立ち読みなので記憶のみ)、
なぜか全体が刊行されたことはないのですな。
 
 非常に残念。
 
 刊行が待たれる作品のひとつでございます。

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2018/12/02 (Sun)の記事
移動型について[移動型のTPO]
の続き。

 
 
今回は一方向移動型下位分類について。
 

 一方向移動型は、次の種類に分けて考えます。
 
 
1) 直線
 
2) 可・不可
 
3) 単純
 
4) 基本
 
5) 平行
 
6) 拡散収縮
 
7) 拡散

 
 
 名前から分かる物は多いと思いますが、簡単に説明していきますと、
 
 
 
1.直線
 
 パラグラフジャンプがあるなしにかかわらず、まったく分岐しないものを指します。
 まぁ、小説ですね。
 それはゲームブックではないだろうという声もあるでしょう。
 ですが、これに近いものがあるのは事実です。
 
 それに、この分類を入れることで、
小説も視野に入れてゲームブックを考えられるという利点もあります。
 
 さらに、移動型の分類は、部分について使う場合もあります。
 
 たとえば、パラグラフ34までは直線型だが、
その後基本的な型になるといった具合ですね。
 
 そのようなときのために、この分類項は必要なのです。
 
  
 

2.可・不可
 
 選択肢が複数あっても、
常にその一つ(複数正解の場合はいくつか)が正しいルートであり、
他の分岐はすぐにデッドエンドになるものを指します。
  
 代表的なのはクイズパズルですね。他には、戦闘
単なる当て物(5本の道があるけれど、1つのみが正解というようなもの)
なども、この分類に入ります。
 

 パズルや戦闘の場合、選択肢が明示されていなくて、解けなければ先に進めない、
勝たなければゲームオーバーという場合もありますが、それらもこの項目に入ります。
 
 逆に、分岐のあと、すぐデットエンドにならないものに関しては、
この分類に含まれない場合もあります。
 
 例えば、分岐のあと、さらに分岐があり、その両方がデッドエンドという場合、
最初の分岐でデッドエンドが確定してはいますが、これは含みません。
(たぶんそれは4.基本型です)。
 
 分岐のあと、パラグラフジャンプがあるなしにかかわらず長い文章が続き、
その後デッドエンドという場合は微妙ですが、
その長い文章が直接選択に関わるもの(クイズやパズルの解説など)だったら
可・不可型
物語が展開して行くのならそれ以外、ということになるでしょう
(たぶんそれは、5.平行型です)。
 
 
 
 
3.単純
 
 選択肢が複数あって、そのすべてがすぐにもとのルートに戻るものを指します。
 
 どちらを選択しても同じことが多いのですが、場合によっては
一方にアイテムや記号のチェックが入り、
のちの展開に関係してくるということもあります。
 
 この型についても、2.可・不可型と同じことがいえます。

 分岐のあと、すぐにもとのルートに戻ってくるのならこれですが、
別の話が展開するのなら、それは他のタイプです。
 
 
 
 
 
4.基本
 
 フローチャートを描いて、
ごく一般的な形になるものを基本型とここでは呼びます。
 
 部分部分を見ていけば、他のいろいろなタイプから構成されることが多いので、
複合型と迷ったのですが、「複合」という言葉は他で使いたかったので、
基本という名称にしておきました。
 
 基本の名のとおり、一方向移動型の多くの作品がこのタイプに入ると思います。
 
 
 
 

 
5.平行
 
 最初選択肢が複数あり、合流しないまま物語が展開するものを指します。
 
 つまり、プロローグなど、スタートのみ一緒で
あとはぜんぜん別の物語が展開するという形です。
 
 最初の設定が同じ場合、敵の動きや災害の進行状況など、
主人公が関わらない描写の部分のみ合流するものもありますが、
そういう部分を含んでいても物語的に別ならば、
この型に分類してもいいでしょう
(狭義に判断して、分けて考える場合もあると思います)。
 
 また、物語がまったく別の展開をたどっても、
目的が同じだと、最後には同じパラグラフに合流するという場合もあります。
 
 そのようなゲームブックについては、「平行収縮」型と呼ぶことにします。
 
 平行は、並行の方がいいかとも思ったのですが、
フローチャートを描いた場合の形で分類しているため、「平行」を採用しました。
 
 
 
 


6.拡散収縮
 
」で書く「拡散型」で展開していくものの、
最終的に1つか2つの結末に到るものです。
 
 例えば、目的が1つであるものの、そこに到るルートが複数あり、
そのルートがさらにいくつかに分かれるといった場合、この型になります。
 
 
 

7.拡散
 
 分岐が分岐したまままとまることが少なく、次々と枝を増やしていく型です。
フローチャートはおおむね末広がりになります。
 
 ゲームブックに関して、
 
物語が分岐していき、いくつもの物語を紡ぎ出す、
 
と説明された場合、真っ先に思いつくのがこの形でしょう。
 
 拡散なので、結末がいくつもできるのが、このタイプの特徴です。
 
 
 
 まとめますと、一方向移動型には、直線型から拡散型までの幅があるわけです。
 
 一直線ならば、一度に長い話をすべて読んでもらえますが、
 ゲームブックの醍醐味である多彩な展開には乏しい。
  
 逆に、拡散型は、多彩な展開は望めるものの、
 それぞれの物語の展開は弱くなる……。
  
 それぞれの作品を見れば違ってくることもありますが、
 全体の傾向としては、そのようになるのが理屈です。
  
 結局、普通のスタイルである基本型が、やはりいいのかもしれませんが、
 それで作る場合にも、こうした一方向移動型の幅を意識していれば、
 新しいアイデアも浮かぶと思います。
 
 
  
 
 
☆ なおこれらの分類は、直線型でも書いたとおり、
  部分を見るときに使う場合もありますが、
  基本的には全体の傾向について考えるためのものです。
  
  ですから、戦闘が一回あるたびに、そこが可・不可型であるかどうか、
  という使い方は、まずしません。
 
  失敗すればすぐにデッドエンドになる戦闘やクイズが続き、
  それが全体のスタイルとなっている場合、
  「このゲームブックは、可・不可型だ」
  というふうに使うのが、基本的な使い方です。 

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ここまで読んで来て、無方向移動型は、無限ループするし難しいし、
考慮に値しないのでは、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それは違います。
 
 難易度の高さや無限ループは、
若桜木先生がパズルとしてゲームブックを作っておられるからです。
 
 袋小路に一カ所でも脱出路をつけておけば、
穴を開けた風船のようにみるみるうちに難易度は下がります
 
 それではやさしすぎると思ったら、フラグで調整すればいいのです。
 
 戦闘ならば、敵にダメージを与えるパラグラフで、ポイントを1ずつ増やし、
それが10になれば敵を倒したとして次に進めるとか、
迷路ならA・B・Cのポイントを、その順番で通れば扉が開くなど、
やり方はいろいろとあると思います。
  
 無方向移動型は、性質上最短手がありますし、
ゲームブックパズルと相性がいいのは確かですが、
だからといってパズルに特化する必要はありません
 
 
 無方向移動の最初に挙げた、
 
「ロストワールド(クイーンズブレイド)」は戦闘を
『ウィザーズ・クエスト』は魔法世界の不思議さを、
「フーゴ・ハルの虚しい口」(ゲームではありませんが)は
文章の中をさまようことを目的として書かれており、
 
 パズル性はあっても、それがメインというわけではないでしょう。
 
  
 
さてもうひとつ、無方向移動型の別のアプローチとして、
きみならどうする・食糧問題』を挙げておきましょう。

 
 きみならどうする・食糧問題『きみならどうする食糧問題』
 M・アラビー著 河合良・近藤和子訳 
社会思想社・現代教養文庫 1987/4 
  
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
まだちゃんとフローチャートを描けていないので断定はできませんが、
これも無方向移動型です。
 
 ただし、他の無方向移動型とは、フローの感じが違っています。
 
 無方向移動型は、
他の移動型の軸――時間・場所・目的物、以外の法則によって進行する
ということは、この型の説明の最初に書きましたが、この場合はシミュレーション
つまり、こういう選択をしたらこうなるだろうという、
理屈・理論によって成立しているのですね。
  
 そのため、ある政策をとったけれど効果がなかった場合などは、
すぐに元のパラグラフに戻ったり、もうひとつの選択肢にしたりもします。
また、政策転換や状況の変化で、
長く独自に続いていた流れが他の流れと合流する場合もあり、
若桜木先生の作品などと比して、フローは独特です。
  
 もちろん、無方向移動型なので、
時間の流れはパラグラフ間にはありますが全体としてはありません。
政策をいろいろと変えているうちに、
いつの間にか最初の政策に戻っていたということもあります。
  
 いつの間にか元に戻っても気にならないほど大きな流れを扱っていることが、
無方向移動型に合っているのですが、もしここに時の流れをつけるとしたら、
やはり、フラグなどでコントロールしてやる必要があるでしょう。
 というよりも、そうしたいのなら、一方向移動型にしてしまったほうがよさそうです。
  
 
 
  
 無方向移動型は、使いどころを選ぶスタイルですが、
それほど多くの人が手を出しているわけではないので、伸びしろはあると思います。
 
 これまで見ていると、
戦闘・迷宮・食糧問題と、テーマが一つのほうがよいように思えますが、
そうでないかも知れません。
 
 ただ、繰り返し書きますが、
パラグラフ間に流れはあるもののの、全体的な時間は止まっているので
使いどころを選びます。
 
 まぁ、それは双方向や多方向でも同じことなので、大して重要ではないでしょう。
 
 感じとしては、『きみならどうする食糧問題』で見てきたように、
元に戻っても気にならないほどの大きな時間の流れや、
逆に短い時間に起こったことの一挙一動を描くのには、合っている気はします。
 
 他には、
時系列にも場所にも目的物にも拠ることができない不安定さがあるので、やはり、
妖精の国や夢の時間といった
どこへ連れて行かれるか分からないように幻想的な場面を描くのにも
効果を発揮すると思います。
 
 あと、そのデタラメさがナンセンスに向いているかな、とも考えています。
ただ、ナンセンスだと、デタラメさとデタラメさがかけ合わされて、
なんだか分からないことになったり、かえってつまらなくなるかもしれません。
 
 いずれにせよ、未開拓のジャンルです。
 考慮に値しないということは、ないと思います。
 

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無方向移動型の例として、
 
『Xファイル ロールプレイング・ブック
           宿主~その後の展開』
クリエイター:クリス・カーター
著:霧島那智(若桜木虔・
       水上純・椿浩一・井上渉・速水萌香・瑞納美鳳)
(テレビ朝日/1996/11)
 
のフローチャートを載せておきます。
 

  下水処理施設に潜lり、渦虫に遭遇して絶体絶命……。



2018/12/09 Xファイル宿主フローチャート
 
 

 (107)とあるのは、フローチャート内の107番へ進むという意味。
交差する矢印はそれぞれをまたぎ越します。
 
 追ってみるとわかりますが、出口無しです。
[END]のあとの[285]は、パラグラフ1の次の番号ですから、
実質的なやり直しといっていいでしょう。
 
 でも、気づかないで延々ループするよりはまだマシ。
 
 この作品が出版されたのは1996年と後発ですから、
何もなしに延々ループすることに関して苦情があって、
それに対応したのかもしれません。
 
 にしても、なかなかに凶悪です。
 
 このループ、最初のほうで出て来るので、
副長官の呼び出しを無視したり独断専行で行動した自業自得……
かと思ったのですが、その後も使われます。
どうやら下水で追い詰められたときの、
バッドエンド処理として存在しているみたいなのです。
  
 ですからここには正解ルートはありませんが、ある場合も、
正解ルートを外れればこのようなループに入り込むわけです。
 
 とにかく、この移動型のフローチャートをきれいにまとめるのは非常にむずかしい。
 これを書いたときもえらく苦労したように記憶しています。
 
 複雑な構造のものは、このような描き方では不可能かもしれません。
 
 考えなしにやると、線が重なったりやたらと長くなったり……。
 もうね、うまく描こうとして失敗した残骸が、いくつもあるんですよ。
 
 今回も、正解ルートがあるものの方がいいだろうと、
そんな中から『Xファイル それからのイブ』のやりかけのものに
再挑戦したのですが……、無理でした。
 
 何十枚かの紙と、時間がばぁ……。
 やらなければよかった……。
 
 あっ、でもパズル好きな人はぜひとも挑戦してみてください。
 かなり楽しめると思います。
 なんか、ゲームとしてもあっていいと思うんだけれどなぁ。
 
 コツは見つけていないのですが、やっていることを書いておきますと、まず、
 手書きで描いたものを見て、矢印の一番多い数字を探しだし、それを真ん中に配置。
 同じぐらい矢印が行き来している数字を、少し離れた隣に配置。
 両方置かれた数字の間には、その双方に共通する数字を配置。
 (両方・双方と書きましたが、ここに置く数字は、2つ以上になることもあります)
 
 あとは試行錯誤です。
 絡まった縄をほどくように数字を入れ替えたり、
 長く伸びた矢印を短くしようと数字どうしを近づけたり、
 別の数字とのつじつまが合わなくなって、また元に戻したり、
 そうこうしているうちに、
いつの間にか矢印を何本か描き忘れて、最初からやり直したり……。
 
 と、ものすごく面白いので、重ねて書きますが、ぜひ挑戦してみてください。
 大抵完成しないので、完成したときの達成感は、筆舌に尽くしがたいものがあります。

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 若桜木先生といえば、
大陸書房秋本書房を中心に、
多くのゲームブックを発表されてきたことでご存じでしょう。
 霧島那智名義では『Xファイル』(KKベストセラーズ)のゲームブックも
ものにされています。
 
 そんな先生のお作りになるゲームブックは、
プレイしたかぎりにおいてですが、すべてが無方向移動型です。
 
 ときには、長い一方向移動型のところどころにそれが挟まれる場合もありますし、
逆に全編にわたって、無方向移動型という作品もあります。
 いずれにせよ、どこかしらにそれが含まれているのです。
 
 使われるのは、迷路と戦闘
 迷路は想像できるでしょう。
 洞窟をさまよう場面などですね。
 戦闘は、殴り合いのケンカなどがそれに当たります。
 ロストワールド(クイーンズブレイド)を活字で描写したような
と書けばわかるでしょうか?
 
 無方向移動型なのでループ構造ですし、体力やフラグなどないため、
戦闘にしても迷路にしてもヘタをすれば延々とそれが続くわけです。
 
 初めてプレイしたときは、どうなっているんだと不安になりました。
 何十分もパラグラフを追っているのに、ぜんぜん迷路から脱出できない。
似たような描写が続いてはいるものの、少しずつ違っていて、
元の場所に戻ってきたのかそうでないかすら分からない……。
 
 フローチャートは描かなかったものの、指しおりを何本も使って、解法を探ります。
そうやって、あっちこっちとたどっていくうちに、
ようやくループになっていることを理解したのです。
 
 そのスタイルが分かったときは、なるほどと感心しました。
  
 迷路というと一般的なのは双方向移動型ですが、
これは迷っている感覚が薄いことが残念です。
 
 歩いているうちに、どこに何かあるかが分かってしまい、
最後のほうは作業的になってしまうのです。
 
 四角四面に作られたダンジョンや開けた場所ならそれもいいでしょう。
 
 ですが、人の感覚を狂わせる迷いの森や、
曲がりくねっているうえに枝道も多い洞窟など、
幻想的な空間や、マップを作ろうにも作れないような場所は、
この無方向移動型のほうが、むしろふさわしい
 
 たとえば、『ネバーランドのリンゴ』は双方向移動型ですが、
そのため幻想的な感じがしません
無方向移動ならばより妖精の国の不思議さを表現できたのではないかと思うのです。
 
 
 戦闘については、延々と続くことが非現実的と感じる人もいるかもしれません。
 ですが、アクション映画でも長時間続く格闘シーンってけっこうありますよね。
それを表現したと考えれば、むしろこれは正しい。
主人公が死なないのも、映画なら普通です。
 
 主人公が死なないなんてヌルすぎる、と思うかもしれませんが、それも違います。
 キャラクターが死んで一からやり直す、というペナルティはないものの、
このスタイルはループに入ってしまえば戦闘がいつまでも続きます。
長引けばプレイヤーの時間を奪うことになるわけで、それがペナルティとして機能します。
 
 しかもあきらめる以外に終了させる方法はないわけです。
死によって終われるものよりも、罰としてはさらに酷い場合さえあるのです。
 
 
 この戦闘方法の長所は、没入感にあります、
 ルールで処理される戦闘は、
サイコロを振るために本を置いたりしなければならないため、
ストーリーとゲームは別のものになりがち。
描写も無味乾燥です。
 
 対してこのスタイルでは、そのようなことはありません。
 戦闘がパラグラフに組み込まれているので、
ストーリーとゲームが別のものになることなどないのです。
 加えて自分の次の行動が具体的に選択肢に示され、
跳び先ではそれに対する敵の具体的なリアクションが描かれるという点も
没入感を高めます(これは迷宮についてもいえます)。
 
 
 
 こうした長所を持つスタイルなのですが、いいことばかりではありません。
 若桜木虔先生のゲームブックの、
プレイヤーから見た問題点としては、次の3つが挙げられます。
 
(1) すべての作品がこのスタイルなので、ストーリー以外はどれも同じ
    量産のためには正しいのかもしれないが、一作読めば十分だと感じてしまう。
 
(2) 移動型の性格上、パラグラフをものすごく消費する
    システム的な戦闘なら数パラグラフですむところを、
    無方向移動型では、何十パラグラフも費やしてしまうことがザラにある。
    そのため物語は薄く、戦闘や迷宮が延々と繰り返される展開になりがち。
 
(3) 一つの戦闘や迷宮は、運良く正解ルートを通ることができれば、
    ほんの数パラグラフで終えることができるが、
    一歩選択を誤れば、永遠にループから抜け出せない蟻地獄におちいる。
 
 
(1)は量産が利く、
(2)はページ数を増やせる、
(3)は、読者に繰り返し文章を読んでもらえると、
 
 どれも、作者にとっては都合のいい仕様ではありますが、プレイヤーにはつらい。
 
 初見者には、(3)がとくに厳しいのはいうまでもありません。
コンピュータのプログラムなら、バグにあたるものですし、
プレイヤーとしてはどこかにゴールがあると信じるものですから、
それこそ何十分も同じ迷路でぐるぐるしてしまいます。
 
(2)で書いたとおり、数十に渡るパラグラフで、
しかも戦闘にしろ迷宮にしろ同じような描写が続くものですから、
「ここ、さっき来たような気が……」と思いながらも、
ずぶずぶとはまってしまうわけです
(迷宮の表現としては、優れている部分なのですが)。
  
 若桜木先生は、それをとしているわけですね。
 ゲームブックを、そうした
ループ構造を含むフローチャートの迷宮を正しいルートで通り抜けるパズルゲームと
規定しているのです。
 
 そのため、あとがきには最小手順は何手と書かれており、
難しいゲームであることを誇っていたりもします。
(時代がそうだったわけでもあるのですが)。
 
 そんな若桜木先生が、
「現在(昭和61年)世界で最も難しいゲームブック」(p.240)と豪語するのが
貴族仮面を倒せ!』(サンケイ出版/昭和61年8月)です。
 
 ジャングル内で開催されるプロレスで、
最強王者の貴族仮面(ミル・マスカラスあたりがモデル)と戦い
勝利することを目指す……、とストーリーはこれだけ。
 
 ジャングル内でライバルや猛獣と戦い、
貴族仮面の待つリングに向かうという展開になるのですが、
それがすべて無方向移動型で構成されているのです。
 
 詳しく書けば、
 
 まず、ジャングル大まかなブロックに分かれていて、
そのブロック同士のつながりが無方向移動型
 
 ブロック内の森や川で出会う猛獣やヘビ・クモ・ヒルとの戦いが無方向移動型
 ライバルのレスラーたちとの戦いが無方向移動型
  
 入れ子構造の無方向移動型なので、ライオンと戦い、
さらに2,3の敵を倒したら目の前にまたライオンが現れた、ということが
しばしば起こります。
 
 そのようなジャングルを踏破し、
ようやく貴族仮面の待つリングにたどり着くわけですが、
そこでの戦いももちろん無方向移動型……。
 
 
 総パラグラフ420で、
ゴールまでの最短手順は、スタートの1を含め、ちょうど百手」だそうですが、
ズルしてやってもスタートからゴールまで行くのは、まず無理というものです。
 
 先ほどの例でも、二度ライオンに出会っている時点で最小手ではないのですから、
詰んでいる状態なのですね。
 
 私もけっこうやりましたが、結局ゴールを見つけたことでよしとしました。
 ただ、クリアを目指さず、
パッと開いたページからの展開を楽しむだけと割り切れば、
それはそれでそこそこ楽しめると思います。
 
 そうそう、(2)物語が薄いと書きましたが、
だからといってつまらない訳ではありません
ストーリーは、無方向移動以外の部分に入れればいいのですし、
アクションが連続する映画やゲームが面白いように、
描写さえ良ければ物語性などなくても十分楽しめるものです。
 
 
 
 さて、プレイヤーから見た問題点を挙げたあと、
それが作者にとっては都合のいい仕様だと書きました。
 ならば作るのは簡単かと訊かれれば、そうだともそうでないともいえます。
 
 システム的には、フローチャートのランダマイズさえ行うことができれば、
難しいことはありません。
 実際若桜木先生は、コンピュータを使ってパラグラフをシャッフルしている
とお書きになっていますし、速いペースで出版されているのも事実です。
 
 ですが、描写に関しては力量が必要です。
 
 とにかく
数十パラグラフにわたって迷路や戦闘を具体的に描写しなければならないのです。
迷路に関しては細かな背景描写を多彩に描ける実力が必要ですし、
戦闘にしても技の名称やそのかけ方、弱点などを事細かに知っていて、
さらにそれをしっかり描ける能力、面白い展開に持ち込める演出力が必要となってきます。
 
 逆に言えば、そこがこの移動型の腕の見せ所でもあります。
 
 戦闘については、没入感のところで書いたとおり。

 迷路については、
双方向移動型の場合、
行きと帰りでつじつまを合わせなければならないため、
描写はその場限りの平板になるきらいがありますが、
 
無方向移動型
では
部分的にはパラグラフ間に流れがあるので演出をさしはさめます。
しだいに森が深くなってきたなどの描写をすることができ、
そこに工夫をすることができるのです。
 
 
 ちなみに、作者若桜木の先生は、文章講座(タイトルは忘れましたが)で、
小説は戦闘を描くのが苦手だということを書いておられます。
たしかに、単純に戦闘だけを書くのは苦手そう。
 となると先生は、小説が苦手な戦闘を書きたいために、
ゲームブックを書いたのかもしれませんね。

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(4) 無方向移動型
 
 無方向とは、行く先がないのではなく、
どこに向かうのか分からないことを意味します。
 
 前回書いた3つの移動型――時間・場所・対象物――とは別の法則
よって進行するのが、このスタイルです。
 
 法則というのは、例えばシミュレーションですが、一番多いのはランダム
法則性がないのが法則、というのが、無方向移動型のスタイルです。
 
 例としては、『ウィザーズ・クエスト』のイラスト(場面移動)部分や、
「R・P・G」に掲載されたエッセイ「Hugo-Hallの虚しい口」が挙げられるでしよう。
 
 シミュレーションとしては、検証していないので違うかもしれませんが
「Lost World」(クイーンズ・ブレード)シリーズなどが
それにあたると思います。
 
 特徴としてはループ
いくつかのパラグラフを経たのち、元のパラグラフに戻ってしまうことが多いのが、
無方向移動型です。
 
 流れに法則性がなく、しかもループするため、フローチャートにはとても描きにくい。
 
 線が何本も重なってしまうため、
立体的に書くか、別の表を使って表した方がいいかもしれません。
 
 また、一方向移動型だと思ってフローを描いていて、
やけに前のパラグラフに戻ることが多いなと感じたら、
この無方向移動型を疑った方がいいでしょう。
 
 このスタイルは、前後のパラグラフのつながりだけを考えれば、
そこに因果はあるのですが、
ループがあるので、全体としては1つの時間、つまり止まった状態です。
 
 
 無方向移動型のゲームブックをもっとも多く発表しているといえば
若桜木虔先生です。
 
 先生の、おそらくすべての作品に、このスタイルが使われています。
 
 というわけで、次回は、先生の作品について触れてみたいと思います。

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 「ゲームブックの移動型(序)」2018/12/01 (Sat) からの続きです。
 
 
 

(1) 一方向移動型
 
 小説などと同じように、時系列(物語の流れ)に沿って展開していくスタイルです。
 ゲームブックとしてはもっとも基本的な形といっていいでしょう。
 基本的ですからさらにいろいろと分類できますが、
それをやると終わらなくなるので、いずれまた。
 
  
 
(2) 双方向移動型

 コンピュータのアドベンチャーゲームから発展したといわれる、
場所を中心に据えたスタイルです。
 
 ブロックごとの移動が基本ですが、離れた場所に移動するものであっても、
基本的に往復――一対一の対応で行って戻ってくること――ができれば
この移動型に当たります。
(基本的に、というのは
 イベントやトラップなどで戻ってこれなくなる例外があるからです)。
 
 この移動型には、往復ができるものならばマップを使うものや3D迷路も含みます。
 
 場所を中心とした移動型なので、何もなければ時間が止まっているのと同じ状態です。
 そのため、取りそこねたアイテムを元に戻って入手するという、
一方向移動型には苦手なことができる(*)反面、
時系列や物語の流れは、
時間やアイテム、記号などをチェックして管理することが必要になってきます。
 
(*) プレイヤーの利便のように思えますが、実は一長一短です。
    アイテムが自由に配置できるということなので、
    同じ場所を何度も往復しなければならないような、
    面倒くさいゲームブックも制作可能だからです。
 
 
 
 このタイプの特殊な例としては、

『悪夢の妖怪村』鳥井加南子(祥伝社/85/12)が挙げられます。

このゲームブックは、双方向型なのですが、
戻ってくるときに、
途中をすっ飛ばして、元の位置まで戻るということをやっています。
そのことで、
双方向型にありがちな、ダラダラと代わりばえしないところを歩くつまらなさや、
行きと帰りで同じイベントに遭うことも解消しています。
 
それと、これは副産物でしょうが、
行きと帰りが違うことで、プレイヤーを錯誤させる効果もあります。
 
 わたくしも、フローチャートを書くまで、このゲームブックを一方向移動型だとばかり思っていました。
 
追記:フローチャートはこんな感じです。
 
悪夢の妖怪村
 
 一見、普通の双方向移動型のマップに見えますが、
矢印をたどっていけば、途中をまたぎ越しているのが分かるでしょう。

わかりにくいところとしては、

まず、左端113の駅から下の16まではほぼ一方向移動型です。
選択を誤ると駅に戻される場合もあるので、跳び越して元に戻るうちに入りますが、
それ自体がデッドエンドなので一方向移動と変わりません。

 もうひとつ、真ん中あたりにある穴は、
3回目以降はデッドエンドですが、それ以前はロープを使って這い出ることができます。
出たあとは、北ならのコンビニ。
東なら、38の舗装道路。
南なら、176のドラキュラの洋館か、207の分岐点。
と、ここでもまたぎ越しが発生します。
 
 こうしてみると、
素直に行って帰るというところは少なく、
四方向ではなく二方向の移動であること、
それに正解ルートが一方向的であることが、
 
このゲームブックを特別なものにしているのでしょう。
 
一方向移動型と双方向移動型の中間的な形態といった方がいいかもしれません。


 
 
 
 
 
(3) 多方向移動型

 『夢幻島の怪物』藤浪智之(講談社KCDXラノベ/2018/10)や
『ブラマタリの供物』フーゴ・ハル(新紀元社Role&Roll Books/2018/11)
にあったような、
 
マップを見て直接その場所に行くような移動型のスタイルを指します。
 
調査型」などとも言われますが、
一方向双方向にあわせて、ここでは多方向という言い方をすることにします。
 
 双方向移動型から派生したかと思われるこのスタイル、
 例に出したゲームブックのように、
マップを見てというものが多いですが、それだけではありません
 
 机のうえにあるものを調べるとか、ある人物を調査するなど、
目的物さえあれば使うことができます。
 
 時間・場所に対して、目的物ですね。
 
 英語は得意ではないのですが、
 Time,Place,Objectで、TPOとしておきましょう。
 
 この移動型は、1つのパラグラフから複数のパラグラフに分岐し、
ふたたび最初のパラグラフに戻るという流れを基本とします。
 
 このスタイルも双方向移動型と同様、
時間や因果関係には、フラグなどのチェックが必要となってきます。
 
 1つのパラグラフから分岐したそれぞれは、
プレイヤーの体験としては順番があるにせよ実質的には等価であり、
別の分岐で生じたフラグを参照にすることではじめて、
その分岐と今いる分岐の間に時間や因果が発生します。
 
(3番目の部屋で取ったカギを使うことで、
 1番目の扉を開けることが出来、先に進めるというような場合ですね。
 
 一方向移動型では、
3番目の部屋でカギを取ってもとらなくても時系列は存在するため、
そこで終わりということは多いですし、
カギを取りに行くという選択があるとすれば、
それはさらに時間(=因果)が流れることになります。
そこに別の物語を盛り込むことができるのです。
 
 対して、双方向移動や多方向移動では、
フラグが立たないかぎり時間が生じないため、
3番目の部屋にカギを取りに戻っても、基本的に物語が動くことがありません。
 
 多方向移動型は
必要なところに直接当たることができるため、面倒がなくていいのですが、
その分、作業的な感じになるのではないかというのが、わたくしの印象です。
 
 
 
 このタイプのゲームブックは、
分岐後の話は比較的短いことが多いのですが、それが長い話になる場合もあります
 
 例えば、3つのダンジョンがあり、どこから攻略してもいいという場合ですね。
この場合も、1つのダンジョンをクリアしたら元の場所に戻り、
他の2つのダンジョンのどちらかを選ぶのですから、形式的には多方向移動型です。
 
 ただし、目標に直接当たれるわけではないので、
雰囲気は普通の多方向移動型とはずいぶん違った印象となります。
 こうした多方向移動型のなかに長い一方向移動型を含む形式を分けて考える場合、
わたくしは「束ねたロープ」型という少々不格好な名前で呼ぶことにしています。
  
  
  
 この項目の最後に、
 ゲームブックとしてはあまりない、ループ型についても書いておきましょう。
 
 1つの状況から派生した分岐があり、
 長い物語を経てもとの位置に戻るという形式だけを見れば、
ループ型も「束ねたロープ」型の多方向移動であるといえます。
 
 しかしループ型は、はじめからすべての分岐を選べる、ということはありません
 1つの物語が終わり、フラグが立つことによって
はじめて次の分岐の物語がよめるという形をとっています。
 
 つまり、形式的には多方向移動型でも、実際は一方向移動型なのですね。
 分岐それぞれは、時系列的には等価ですが、物語の流れとしては順番があり、
それがループものの独特な展開となっているのです。
 
 そのため、ループ型は多方向移動型とは分けて考える必要があります。
 単に多方向移動型といった場合、ループ型は含めないで考えていくので、
そのつもりでいてください。
 
  
 とはいえ、ループ型ではない普通の多方向移動型でも、
ループ型と似たような動きをするものがあります
 
 たとえば先ほど挙げたダンジョンの例ですと、
CのダンジョンをクリアするためにはBのダンジョンのアイテムが必要であり、
BのダンジョンではAのアイテムが必要という場合、攻略するためには、
A→B→Cの順でダンジョンを制覇していかなければなりませんよね。
 
 アイテムだとちょっと特殊かと思えるかもしれませんが、
Aのダンジョンが1レベル、Bが2レベル、Cが3レベル無ければクリアできず、
ダンジョン以外にレベルアップの方法がない場合もやはり、
A→B→Cの順でダンジョンをクリアしていくことになります。
 
 これは、双葉社のゲームブックなどで普通に見られるケースです。
 
 ただこうしたものは、
とりあえずはじめからすべての分岐が選べるという形式的な面と、
分岐後のそれぞれの話にそれほど強い関連性がないという物語的な面で、
ループ型ではなく多方向移動型の範疇に含めることにします。
 

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ゲームブックの移動型」と
ゲームブックのブームとその衰退」については、

ブログを始めた当初――お休みする前――から
真っ先に書かなければと思っていたことなのですが、

書いているうちにどんどん長くなり、収拾がつかなくなってしまったため、
完成させることなく、現在に到ってしまいました。
  
 ここでは、今後の記事のために、
 基本的なことだけを簡単に書いておくことにします。
 
 
       ☆        ☆       ☆ 
 
 
 これまで、ゲームブックの移動型は、
 
 一方向移動型
 
 双方向移動型
 
の2つの移動型に分けられてきました。
 このブログでは、さらに2つの分類を加えることにします。
 
 
 前掲の移動型にあわせて、名称は
 
 多方向移動型
 
 無方向移動型。
 
 
 
 前述2つの移動型にくらべて、使われることは少ないかもしれませんが、
どちらも独特の性質を持っているため、分けて考える必要があると考えられます。
 
 それでは、次回は、一方向移動型から順に、
それらの移動型について簡単に説明していくことにいたします。
 

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(きのう2018/11/04の『フェアリーテイルゲームブック』の感想の
 後半に書いた「主人公はきみか」についてちょっと追加。
  追記なので、記事の続きに書いてもよかったんだけどね。
  この問題は、もう少し考えてまとめてみる必要があるかも)




※ 追記:『ブラマタリの供物』の主人公なら、
  (休暇中の)刑事であること。
  怪事件で心を病んでいたこと。
  
   あたりが性格で、
   
 アフリカで失踪したロックフェラー氏の息子ネルソンを救出することが目的となる。
 
 あとは、クトゥルフ神話が関係していて、狂気ポイントという数値が存在するということ。
 
 だいたいそのあたりが、プレイヤーが考慮すべきポイントとなる。
 
 
 だから、そう。
 
 主人公が無色透明の場合は、
 世界観や物語、目的が、
 選択を考慮するための条件となるが、
 
 主人公に性格がある場合には、
 その性格も、選択と結果に関わってくる、
 
 ということになるよね。

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 ゲームブックの何が面白いかについては、人それぞれだと思います。

 ある方はTRPGとしての楽しさを説きますし、
パズル的な面白さが好きな人もおられましょう。
 変な展開や雑に作られた部分を面白がる方もいらっしゃるかと存じます。

 わたくしといたしましては、以下の二つを挙げておくことにいたしましょう!

 まず一つ目は、すべてを見ることができるということ。

 電源のアドベンチャーゲームでは、プログラムが読めるなど特殊能力がないかぎり、
意外とこれができないのですよね。
 自分がプレイした範囲では、たとえばpsp版『かまいたちの夜』には、
自動でフローチャートが出来てゆく機能がございましたが、
条件がフラグによって整ったのか、それともランダムなのかわからないところがある。

『428』(psp版)なども、隠し要素に到達するためには
(『ドアドア』に到達するためにはなおさら)、攻略本を読まないとどうにもならない。

 そうではない作品もあるかもしれませんが、
とりあえずゲームブックならどう転んでも……。

 あっ。

 サイトにアクセスして何らかの手続きをしないと先に進めない、
というたぐいの作品を除いては、
どう転んでも、すべてを見ることが出来るわけでございますな。

 制作者、特にソロプレイやパズルとして作っていらっしゃる方々にとりましては、
それは欠点かもしれませんが、
わたくしといたしましては、それがゲームブックのいい点なのでございます。

 すべてを見ることが出来るということは、
全体を通して見ることが出来るということでございます。

 あるルートではこうだったけれど、別のルートではこういう展開を見せていたとか、
別のエンドやバッドエンドではこのような展開になっていてた。

 そういう、多彩な展開や全体としてみた場合の分岐の楽しさ
(意図的かそうでないかを問わず)が、一つの楽しさだと思っております。

 もう一つは……、
自分で作れる……かもしれないというところ。
でございますかねぇ……。

 もちろんこれは、そのままの意味で自作できるかもしれない、
というのもございますが……、

 作れていないですからねぇ……。

 まぁ、そのあたりは心に棚を作って(←伊吹三郎さん(『炎の転校生』)の格言)
おくといたしまして、

 いろいろな方が、それぞれの考えで作ることができるということでございます。

 コンピュータのゲームは、その知識がないと出来ませんし、
ツールは出来る人の幅を広げてはくれるでしょうが、やはり限界ございますものね。

 ゲームブックの場合、紙という制約がある落書き。ロッコちゃん
(アイデアさえあれば、それも取り払ってもいいので
ございますよ)ものの、その中でなら、何をやっても
いいのでございますものな。

 欄外を使ってもいいですし、付録や別の本との連動
もいい。
 
 コンピュータやイベントの連動というのもございま
すな。そこまでまいりますと、ゲームブックが主では
なくなる可能性もございますが……。

 まぁ要するに、ゲームブックにはさまざまなタイプ
のものがございますし、
さまざまな可能性がある
ということでございますよ。

 それが面白いし、また楽しみでもございますな。


                     (↑落書き~。ロッコちゃん)

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よく、SFのルーツ、『竹取物語』だとか『浦島太郎』だとか、
ミステリーのルーツ、『アラビアン・ナイト』にあるとか、
そうした古典や神話・伝説まで起源をたどる試みというのはありますよね。

 牽強付会な気味も無きにしも非ずですが、
一方でそれらは、人間の想像力、未知の物への探究心、
そしてそういうものを面白いと感じる気持ちというのは、
いつの時代も変わらないという証座でもあります。

 そのようにゲームブックの起源というものを考えてみると、
やはり、神話・伝説の時代にまでさかのぼることができるといえます。

 たとえば、 『旧約聖書』にしろ『古事記』にしろ、読んでいると、
ある書にいわくなどとして、
前の話から派生した別の話が取り上げられていることがあります。
 いわゆる、異話・異説というものですね。
 ギリシア神話などにも、そうした部分はありますね。
古典的な歴史書や博物誌にも、たしか“一説にいわく”は、あったはず……)

 さらに、昔話や伝説のたぐいとなると、
語り手や本が違うと、タイトルだけが同じで、
中身は全然違うというものまであります。

 そのようなものは、分岐型小説のルーツということができるでしょう。

 また、新約聖書などは、
複数の人物からの視点が入っていますから、
ザッピングや捜査ファイルミステリーのようなもののルーツともいえるかもしれません。

 そのような意味において、ゲームブック(パラレル小説)は
神話時代までさかのぼることができるといえるのです。

 もっとも、歴史に関してはTRPGのほうが、さらに昔までさかのぼることができるでしょう。
 ゲームブックは、本の形――少なくとも、書かれたものでなければならないわけですからね。
 口承文芸を起源とできるTRPGほど、過去には戻りえないのです。

※ 今回、資料をほとんど使って書いてないので、書き足りていない部分があると思います。
  悪しからず。

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ゲームブックのブームは、1990年代を待たずして衰退した。

「Wikiペディア」にはそのように書かれている。

 この「1990年代を待たずして」というのは、人によりブレがあるだろう。
 ある人は、1988年ぐらいを考えているかもしれないし、
別の人は'90年代に入ってもブームの余韻はあったと思っている人もいるかもしれない。

 私はそのどちらにも与しない。

 ゲームブックのブームは、もっと早い時期、
『火吹山の魔法使い』が刊行されてから、1~3年で終わった
と考えている。

 『火吹山の魔法使い』が日本で出版されたのが1984年末だから、1985年ということとして、
1986年から1987年末あたりまででブームは去ったということだ。

「ウォーロック」誌を持っている人限定で言うと、

第四号(1987年4月) 「(こんなゲームブックが出た! 1986ゲームブックリスト)」



vol.16(1988年4月) 「こんなゲームが出た! (1987ゲームブックリスト)」

 あたりまでがゲームブックのブームということだ。


 1~3年のなかで、3年(1987年あたりまで)というのは、わかりやすいと思う。

 何しろ、その次の年の総括である、

vol.29(1989年5月) 「こんなゲームブックが出た! (1988ゲームブック総リスト)」では、

ゲームブックの数が半減しているのだから。

  そのため、この特集では、
ゲームブックだけではなく、
TRPGやゲーム小説、それにゲーム攻略本などの関連書
まで扱っている。

 そこには、編集者のゲームブックからTRPGへという意図が読み取れるが、
それだけではなく、
実際にゲームブック自体が、もはやブームではなくなっていることを示している。

 では、2年(1986年あたりまで)というのは?

「ウォーロック」誌の発刊は1986年12月、
まさに『火吹山の魔法使い』から2年目ということになる。

 とすると、
「ウォーロック」は、ブームが去ったあとに出た
ということなのだろうか?

 そのとおりだ。

「ウォーロック」誌 vol.63(休刊号)p.59には

創刊時の状況について

「当時のゲーム界の状況は、ゲームブックのブームが一段落して、
その後の展開を模索しているとき」

だったと書かれている。

 つまり、創刊以前の時点で、ブームはひとまず終わったと見ているのだ。

 さらに、1年目にしてブームは去った という考えも出来る。

 というのは、 「EQ」誌 MAR'86.No.50に、
次のような文章があるからだ。

 「EQチェックリスト鼎談」p.159

 数藤(康雄)  現象面で挙げれば、『火吹山の魔法使い』が文字どおり“火付け役”となって、この一年爆発的なブームになった〈ゲームブック〉の流行があります。あまりの数の多さとワンパターン化に、さしもの「EQチェックリスト」でも、書評対象からはずしたという……。

 つまり、この頃には他ジャンルからの注目がなくなってきたということだ。


 1990年近く と、
 『火吹山~』登場から1年

 この差は、
ブームというものに対する考え方の違い
によるものだと思う。

「1990年代を待たずして」とお書きになった方は、
おそらく、当時小学生か中学生(決めつけはよくないが)で、
その頃もゲームブックファンだった人だろう。
 つまり、ブームの渦中にいた人間だ。

 だが、 ブームというのは、

その中心となる場所にいるもの以外からも注目されなければ、
本当のブームとはいえないと思うのだ。

 本来なら取り上げるはずもない雑誌などで紹介され、
その分野に対して興味のない人からも話題にされ、
便乗した商品が世に出回る……。

 そのように、世間の注目を集めてこそはじめてブームといえる。
 そして、その時期というのは、
『火吹山の魔法使い』から1年ぐらいだと思うのだ(*)。

(*)
『火吹山の魔法使い』がそうした作品であったことは、『バルサスの要塞』のオビを見てもわかる。
「朝日新聞、各地方紙、BRUTUS、BOX、ログイン、週刊文春、宝島ほか多数の紙誌で紹介されました。」とあり、そのあとに「POPEYE」誌の評が載っている。
 どういう紹介のされ方をしたのかはわからないが、そのようにマスコミに取り上げられることでゲームブックブームは大きくなったともいえる。


 その後の2年――1986年~1987年というのは、
内部での熱気がまだあったころ。
 そして次の1年は、その熱気が盛りをすぎたころといっていいだろう。

「ウォーロック」誌
vol.29(1989年5月) 

「こんなゲームブックが出た! (1988ゲームブック総リスト)」

p.12「ことしも春が来た! ~88年、ゲームブックシーンを総括する~」(近藤巧司)

では、

1985~1988年までを、次のような言葉でまとめている。

1985 「ゲームブック元年」
 何もかもが手探り状態の混乱の時代。

1986 「混乱と淘汰の年」
 粗製乱造されたピントはずれな本が姿を消し、実力ある舶来のゲームブックがもてはやされた。
 新しい様式を探る時代が終わりを告げた時代。

1987 「安定と文化の年」
 各社がスタイルを決定し、独自のセンスで安定したゲームブックをリリースしていった時代。

1988 「先鋭化の年」
 ゲームブックは、巨大化、システムの複雑化、難易度のアップをしていき、
専門化すると同時に、一握りのマニアのものになってしまった。

 これは、正しい分析だと思われる。
 この流れからいっても、やはりゲームブックのブームというのは、
1986~87年あたりまでという判断で、正しいと思うのだ。

 ブームというのは、たいていがそのようなものだと思う。
 

「ヨーヨー」でも「なめ猫」でも「ガングロ」でも「スウォッチ」、「たまごっち」でも、
「お笑い」でも「バンド」でも、

ブームとして話題になったものなら何でもいい。
 少し思い出してみてほしい。

 そのブームの中にいて、それに熱心に取り組んだ人にとってはともかくとして、
端(はた)から見た場合、ブームというのは案外短いものではないだろうか?

 もちろん、もっと命脈を保ったブームの例をあげる人もおられよう。

 アニメやガンプラなど、最初にブームになったときから、
ずっとブームが続いていると主張する人もいるかもしれない。

 だが、そのようなものは文化として定着したというのであって、
ずっとブームが続いているとは言わない。
 それに、最高潮に盛り上がったときから比べれば、
そのポテンシャルはいくらか落ちているはずだ。

 さらに、何も関係ない人まで話題にしたり、手にとったりとなると、
その期間は、ますます短いものとなるだろう。

 もちろん、ポテンシャルの高い文化の場合、その波が何度も来ることもある。

 だが、ブームというべきはその波の部分だけであり、
それ以外の部分も含めてブームがずっと続いているとは、
私は言わないと思うのだ。
 

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 ゲーム機を買ったのは、ずいぶん遅かった。
 初めて買ったのが、何しろゲームギアだ。

『ゼビウス』が出たとき、ファミコンを買おうかと思ったのだが、
パソコンなら完全な形で出るだろうなどと考えて、スルーした。

 結局、現在、
ゲームボーイアドバンスのファミコンミニ『ゼビウス』も買ったし、
プレイステーションポータブルの『ナムコミュージアムvol.2』も買っていたりする……。

 まあ、『ゼビウス』の話は、また後ほどにしよう。
 ホントはこれよりも前に書く予定だったのだが。

 で、そのゲームギアで、最初に買ったソフトが、
『エターナル・レジェンド 永遠の伝説』というRPGだった。

「メガドライブFAN」1993/7の付録
「MEGA FRIVE & GAME GEAR ALL CATALOG'93」
には、

「戦闘中にムチを使って敵が持っている武器を取り上げられる」
ことが特徴の、
「オーソドックスなRPG」

となっている。

 プレイしてみての私の感想は、

・意外に一本道。

・そんなに長くない話を、戦闘で水増しして長くしている。

 というものだった。

 だが別に、
この『エターナル・レジェンド』が出来の悪いゲームだからそう思ったのではない。

 そのあとも十数本はコンピュータRPGをやっていて、
その中には当然、名の知れたゲームもあるのだが、
このゲームはむしろ出来のいい部類の作品だと思う。

(まあ、ゲームボーイアドバンスどまりだし、リメイク中心にプレイしているので、最新作についてはさておくが。
でも、『ルナ』、『聖剣伝説』や『マザー』、『ドラゴンクエストⅢ』などはプレイした中に含まれる)


 そして、それらプレイした十数本のRPGについても、
「一本道」「戦闘で物語を水増ししている」という印象を受けた。

 ゲームの出来不出来に関係なく、そう感じたということだ。

 つまりは、コンピュータゲームに期待しすぎていたのだろう。

 ゲームブックであれだけできるのだから、
コンピュータで何メガとか謳(うた)っているものだったら、
物語は縦横無尽にいくつも分岐し、変幻自在のストーリーが楽しめるにちがいない。

 そのくらいのことを思っていたのだ。

 ところが、そうではなかった。

 そのため、

 これだったら、戦闘が少ない分、
物語をたどりやすいゲームブックのほうが優れているのでは? 

とさえ思う。

 アドベンチャーゲームにしても、そうだ。

『かまいたちの夜』

『逆転裁判』にしても、
フローチャートを描いた場合、
意外と一本道な展開だな、と感ずる。

 まあ、仕方ないのだ、推理ものの場合は。

 ブレイヤーに推理させるためには、すべてのデータを提供させねばならず、
全員にそれを行なうためには、共通のルートがどうしても必要だからだ。

 もちろん、『シャーロックホームズ10の怪事件』や、
ボード、カードゲームのように、

プレイヤーの力量や運によって情報が限定され、
その手に入れた情報だけで推理していく

という方法も成り立つが、
それだとよりゲーム的になってしまい、
推理小説的な物語としての楽しみが殺(そ)がれる結果になってしまうのだ。

 だから必然ではあるのだが、
それでもコンピュータの物語ゲームには期待してしまう。

 よりマルチに、より複雑に、網の目のように、あるいは神経のように、
分岐し、結びつき、多様に展開し、いくつもの姿を見せてくれる物語を――。

『かまいたちの夜2』は、ある程度それを見せてくれた(ホラーは嫌いだが)。
 だが、それでもフローチャートが直線的な部分が多い気がしてしまう
(まあ、ストーリーをつぐむ上で仕方がないのだろう) 。

 おそらく、新しい作品の中には、他にもそのような作品があることだろう。
 さらに未来の作品には……。

 と書くと、
なにかゲームブックを見限っているように聞こえるかもしれないが、
そんなことはない。


 容量に限界はあるとはいえ、
ゲームブックにも、まだまだ新しい要素は盛り込める
と私は思っている。

 


 以上、ご主人さまがお送りいたしました。

『エターナル・レジェンド』は、ホントいいゲームですよ~。

 それまで、王道のファンタジーRPGだったのに、
最後になってとどーのSF展開、というあたりが
セガらしいと申しますか何と申しますか。

 効果音では、矢の音がいいのでごさいます。
 ヘッドホンなどで聞きますと、頭の真ん中に突き刺さる感じがして。

 あと、闘技場などもございましたが、
いつ行っても試合に参加できなかったような。
 あれはどうしてなのかな? 容量の都合?
それとも、ある特定の時間とか、何かの隠し要素で
戦いに参加することが出来たのでございましょうか?

 ぐぐってみますと、
攻略サイト紹介サイトもいくつかある様子。

 愛されているのでございますな。


 

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