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2024/05/09 静岡ホビーショー、今年も登録、気づいたら終わっていたなぁ。とりあえず地方ニュースと新製品速報をチェック。カタログ的なことは重要ではなくて、ただブラブラと見て回るのが実際に言ったときには楽しいのでございますけれどね。行ったとしても、そんなのあったんだって後で知るの、多いですもの。/ニュースによりますれば、このところの日本ブームと円安もあって海外人気が高まっているとか。今後欧米だけではなく、中東・アフリカあたりへも市場を拡大していく予定だとか。逆に輸入業者は円安で大変みたいですな。
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石川賢マンガ大全石川賢
石川賢:原著作 ダイナミックプロダクション:監修
(FUTABASHA/2021/7)
 
  

  ちょっと気になったので買ってまいりました。
 それにしても、
石川賢先生のマンガってあまり読んでいないなぁ。 
 
 わたくしは下ネタ苦手ですし、
ギャグ系はまず読んでいない。
 
 全体を見渡しても、ちゃんと読んだのは、
ゲッターロボ號」と「聖魔伝」だけでございました。
 
 その「聖魔伝」も「マンガ少年」で読んだので、
始めの方は多分読んでおりません。
終わりもどうだったか……。
 
 そのため一番驚いたのは、石川賢先生は石川県出身ではない
ということでございました。
 
出身は栃木県。本名が石川賢一で、
それでなし崩し的にペンネームが石川賢になったようでございます。
 
 それほどご存じあげておりませんでした。
 

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シンウルトラマン」上映にあわせて、特報ポスターなど
シン仮面ライダー」情報が少しずつ公開されてまいりましたな。
妄想がはかどると同時に、予測がつきづらくなります。
 
何よりも大きな情報は、ショッカーという組織についてでございますな。
 
Sustainable Happiness Organization
  with Computational Knowledge Embedded Remodeling
 
この頭文字をとってSHOCKER=ショッカー
 
ぐーぐるさんに訳させると
計算知識が埋め込まれたリモデリングを備えた持続可能な幸福組織
となりますが、
仮面ライダーに沿った訳をすれば、
脳改造による永遠の幸福組織」ぐらいの意味合いでございましょう。
 
それにしたがって、
テレビシリーズ冒頭で繰り返されていたナレーションの言葉も変わっております。
  
もとはご存じのとおり、こんな感じ。
 
仮面ライダー・本郷猛は改造人間である。
 彼を改造したショッカーは世界制覇を企む悪の秘密結社である。
 仮面ライダーは人間の自由の為にショッカーと戦うのだ!
 
 それがポスターに英語で書かれたものですと次のようになっております。
  
Kamen Rider Takeshi Hongo is an augmented human being.
 He was upgraded by SHOCKER,
 an all-loving secret society that pursues happiness for humanity.
 Kamen Rider has pledged to fight against SHOCKER
 to ensure human beings stay human.
 
こちらはぐーぐるさんの訳そのままだとこんな感じ。
 
仮面ライダー1号は増強された人間です。
 彼は人類の幸福を追求するすべてを愛する秘密結社である
 SHOCKERによってアップグレードされました。
 仮面ライダーは人間が人間であり続けることを確実にするために
 SHOCKERと戦うことを約束しました。
 
 にしても、ぐーぐるさんは
Kamen Rider Takeshi Hongo」をなぜに「仮面ライダー1号」と訳すのか?
 
まぁ、そこら辺の推敲はコンピュータにはむずかしいかもしれません。
 
 
 それはさておき、ショッカーの目的でございます。
 
 自ら悪の秘密結社を名乗るような組織は大したことがない
ということは別にいたしましても、
人類幸福追求のための博愛秘密結社でございますからねぇ。
 
 でもこれは、原作にあるものなのでごさいます。
 最終章ともいうべき「仮面の世界(マスカーズワールド)」の序盤、
一文字が助けた、ショーカーから逃れてきたというXのセリフでございます。

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2022/04/13 (Wed)「藤子先生と劇画」に対する漫画少年
尋常ならざるポール・ブリッツ様のコメント
返信を書く際、寺田ヒロオ先生の編著した
『漫画少年』史」をあらためて見てみました。
 

『漫画少年』史
寺田ヒロオ:編著
湘南出版社/昭和56年4月
 
   
 で、思ったのは「ゆうやけこやけ」って、
こういう世界で遊びたいTRPGなんだろうな、
ということでございます。
 
 懐かしさを感じるくらいのむかしの話で、
動物やおばけが人間といっしょに暮らす世界、
となるとこの時代の漫画や児童文学でございましょう。
 
 絵柄もこの時代のかわいらしくやわらかな絵が合っているように思います。
 
おばけちゃん おばけちゃん 
                         寺田ヒロオ「オバケちゃん
  
 
 「ゆうやけこやけ」って、共通認識取るのが簡単そうで、
実はだからこそそこに齟齬が起こる可能性がある世界だと思うのでございますよねぇ。
 
 
 ですから初対面同士ならまず、
こういう世界をやりたいというもの(どんなものかはわかりませんが)を、
提示しておいた方がよいのではないかと思う次第でございます。
 
 ……個人の感想です。
   間違っていたらごめんなさい。

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(タイトル下に書こうと思ったのですが、長くなったのでこちらへ)


 藤子不二雄(A)先生が4月7日ご逝去されたそうでございますな。
今ごろは、怪物ランドで自適を送っていらっしゃるのでございましょう。
あの地は嶮峻な地形も多そうでございますから、
旗包みやモズ落としなども楽しめるのではないかと存じます。
 
 合作としてのヒット作は『オバケのQ太郎』が最後。なのでございましょうが、
アルファベットが入るまでは二人で描いていたものだとばかり思っておりましたよ。
 
作風が違うのは、作者としての巾を拡げるためで、
どちらがメインになりながらも、同じ場所で描いていたのだとばかり。
 
 でも、リアルに想像してみると、アシスタントを擁している状態では
その方がかえってやりにくいのかもしれませんなぁ。
 
 それにしても
F先生がインドアで子供中心、空想科学指向、洗練に向かっていったのに対し、
A先生が現実向きで、ホラーや時代劇に関心が向き、大人向けのものに移行し、
絵も竹ペンや写真などを使ったざらっとした感じ、
という風に違っていくのが面白いですな。
 
 意外なのは、『シルバークロス』や『スリーZメン』が
A先生作品だということでございます。
 
 ただ、言われてみればで納得すれば、
先生の場合はドラえもんの大長編であっても、
最後までキッチリと話を考えて描くタイプでございますよね。
に対してこれらの冒険活劇は、
敵を決めてしまえばわりとその場その場で話を
つなげていけるものなのかもしれません。
 そういうのはF先生の作風ではないのかも。
 
 
 このような違いが化学反応して合作時にはよく働いたのでございましょう。
 
 二人の作風が、と申しますか、先生の作風が変わっていったのは、
週刊誌の出現や大人向けの雑誌の登場、
それに劇画の存在が大きかったと思います。
 
まんが道』に、劇河 大介という男が出てまいりますよね。
 特定の人物をモデルにしたわけではなさそうでございますから、
あのお方は作者のA先生が劇画という存在に出会った衝撃を
キャラクターとして登場させたものだと思います。
 
 時代劇やホラー、現実的な物語には子供向けのきれいな線よりも、
劇画のざらっとした感じがあっていたのでございましょう。
 
 A先生が受けた影響というのは少なからぬのものだったと存じます。
 
 手塚先生は、劇画の登場により自分の作風に苦しんだと申します。

 旧来の漫画やディズニーアニメのようなかあいらしい絵に
小説や映画のドラマ構造──特に悲劇──を入れたことに新しさもあり、
またひずみもあったのでございましょうな。
 
 手塚先生は悩みながらもそれを統合し、
『ブラックジャック』などの作品を作りあげていくわけでございますが、
藤子不二雄先生の場合は、
適性に合わせてそれぞれの道を行ったというわけでございます。
 
 新しい道を模索するにせよ、
読者年齢が上がって子供まんがが縮小する中それにとどまるにせよ、
そこには葛藤があったのでは、と勝手に想像してしまう次第でございます。
 
 
 ところで、かあいらしい絵柄で残酷なドラマというのは現在では
『まどか☆マギカ』などある一定受け容れられておりますよね。
 
 マンガが螺旋を描いて進化したと申しますか、
そのようなものを受け容れられる環境にマンガがなったと申しますか。
 
 このような作品の登場は、まぁ、なんと申しますか、
アダルトな暗部を経過しているような気もしないではございませんが。

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『石ノ森章太郎コレクション SF傑作選』石ノ森章太郎先生SF
(ちくま文庫/2021/8)
 
 
『ことばの記憶』に書いてあったと思いましたが、
石ノ森先生の活劇もののルーツは立川文庫だそうでございます。
 
 忍者ものや剣豪小説ですな。
 
 また、SFはファンタジーの一種だと思っている
──こちらはどこに書かれていたか忘れましたが、
 多分1980年代に書かれたものじゃないかな、
そんなこともお書きになっていたと思います。
 
こちらには、同話や民話、それにディズニーなどが含まれるのでございましょう。
 
 そういうもの身体に染みついたものを物語展開の核にして、
そこに映画や小説、科学雑誌、
その他様々なものを取り込んで作品に仕立てていく。
 
 活劇ものに関しては、そんな封に物語を作っているのだと存じます。
 
 
 さて、この作品集には、
  
「敵THE ENEMY」「狂犬」「おわりからはじまる物語」
「四帖半襖の下張りの下」「おとし穴」「赤い砂漠」「天敵」「UFO」
 
 という作品が収録されております。
 
 すべて単独の短編で揃えられているというのはすごい。
 
 解説で菅谷先生も書いていらっしゃいますように、
シリーズ物も多いけど、短編もまた多いということでございましょう。
 
 ただ、すべてが単体の短編というのは、一長一短でございますな。
  
 例えば『7P』などに収められているものの方が質が高いのでは、
と思うところもございます。
 
 でも、まぁ、それはそれ。
 単独の作品が集まるということは貴重でございます。 
 
 シリーズ作品については、それぞれの短編集が出るのを期待いたしましょう
(と思ったけれど、わたくしが読んでいないだけで、電子では出ているんですよね)。
 
 
 収録作品にUFOものが多いのも、ちょっと疑問。
たしかに石ノ森先生はUFOに興味を持っておられたのでございますが、
 
 まぁでも、こうしてUFOテーマを
いくつか重ねることに意味があることもわかるので、
疑問に感じるのがちょっとなのでございますが。
  
というわけで、各品について見ていくことにいたしましょう。 
 
 
 「敵 THE ENEMY石ノ森章太郎 敵
 
 サイボーグ009の少し前に描かれた
 サイボーグものでございます。
 
 設定的には、
『アンドロイドV』に似ているのかな? 
(参照にしていないので、思いつき)。
 
 主人公が自分がどういう存在か認識していない状況で
襲撃を受けるというのは、
『おれはだれた』という短編にもございました。
 
『サイボーグ009』で丈が他のメンバーと出会う前も、
こんなテストシーンでございましたな。
 
 まぁ、こういうオチは短編だから許せるし、
作者も納得してやっているのだと思います。
 
 長編でこのオチだと、夢オチと同じぐらい残念でございますな。
今までやって来たことは何だったんだってことになっちゃう。
 
 石ノ森先生の作品にもございます。
『イナズマン』と同名組織の──言わないことにいたしましょう。
 
 まとめ方が分からなくなったか、
飽きたか、何らかの理由で打ち切りになった化したのでございましょうなぁ。
 
 ちなみに関係はございませんが、
桐原書店のあるゲームブックでも、こうしたオチが使われておりました。
 
 

狂犬石ノ森章太郎 狂犬
は、「きりとばらとほしと」のところで一瞬触れましたな。
主人公が孤立無援になってしまう話でございます。
石ノ森版「転校生」(ウソ)。
解説のすがや先生もお書きになっておられますが、
ボディ・スナッチャー」や
」などのイメージが使われております。
絵的に分かりやすく、
インパクトも強いせいでございましょう。
 
この2つの映画は、
先生の他の作品でもよく使われております。
 
 

おわりからはじまる物語」。
石ノ森章太郎 おわりからはじまる物語
『リュウの道』の前駆的作品ですな。
「週刊少年マガジン」(講談社)で、
『リュウの道』の連載が始まったのが
1969年だそうでございますから、
1967年作のこの作品は、
たたき台となったと申して
よろしゅうございましょう。
  そしてこの2つの作品の間には、
 映画『2001年宇宙の旅』や
『猿の惑星』(ともに1968)が
ございます。
 
 それらの作品を見て、『おわりから~』に関して、
ああすればよかったという思いが募ったのでございましょうな。
 オールディスの『地球の長い午後』あたりの影響を受けているのかな、
とも思ったのでございますが、『地球の~』日本語訳は、
この年だったみたいなので難しそう。
 
 でも、情報ぐらいは流れていそうな気もいたします。
 
 それにしてもこのマンガ、
赤旗新聞の日曜版に連載されたということでございますが、
何ページごとの掲載なのか気になります。
 なにか、切れ目がどこにあるかよく分からないんですよねぇ。
 
 クライマックスシーンで【続く】というクリフハンガー形式は、
この手の連載の常道でございますから、きちんと終わらないで
危機が迫ったところに区切りがあるのかな、とも思いましたが、
それにしたところで、そういう見せ場がバラバラな気がいたします。
 
 そういうこと気にしないで描いたのかなぁ。
それとも単行本化するとき修正した?
 
 ところで、『009ノ1』では主人公のメイン武器になっておりましたが、
オッパイマシンガンって、この作品が最初なのかなぁ。
女性型ロボットでもないというのに──。
 石ノ森章太郎 四次元半
四畳半 襖の下張の下
『四次元半 襖の下張り』は読んでおりましたが、
こちらは未読でざいました、多分。
 
『四次元半~』のほうは、
ブラッドベリの『刺青の男』みたいな趣向で、
襖の下張からさまざまな世界を旅する
オムニバスでございます。
 
 それと同じで、
この作品もシリアスな話かと思っておりましたら、
ショートショートのようなオチのある話でございました。
 
『7P』など、こうしたSF的なショートショートも、石ノ森先生は
たくさんお描きになっておられますな。
 
 
 
 

おとし穴
 
石ノ森章太郎 落とし穴
 
p.215の「ほんとうの心」がキーワードでございますな。
 
 マンガに対する石ノ森先生の当時の心中を、
そのまま描いてしまったような作品にございます。
 
 先生の昔のマンガが好きだったというアシスタント。
 今の風祭のマンガを批判する「空気男」
 そして反論する風祭先生。
 
 前2者は、ファンや批評家の言葉でございましょうし、
最後のは作者からの反論でございますが、
作者だって今の自分が描いているマンガに対する批判は十分承知しているというもの。
 
 この3者の声は、風祭先生の、
すなわち石ノ森先生の心中の葛藤というものでございましょう
 
 最後はマンガを忘れて、
ずっと自分についてきてくれた幼なじみと自然を相手にした田舎での生活。
 
 それが、都市と田舎との対比で描かれております。
 トキ? サギ? 渡り鳥が主人公の心を表現しておりますな。
 
 田舎の湖から飛び立ち、薄汚れた都会へ。
 
 p.212で刀折れ矢尽きた姿を墜落によって表現し、
次のページでその鳥がヒロインに開放される様を描くことによって、
主人公の心がふるさとで癒やされることを暗示する。
 
 最後のページでは、
雲間から差す光に向かって鳥が鮮やかに飛び立つ姿を描き、
主人公の心の再生と開放を表現する。
 
 このような表現を直喩的だと指摘する意見は、
「龍神沼」のところで見てきましたが、
マンガの場合、この程度直喩的でないと、
わかってもらえない、読み飛ばされてしまう、ということがあると思います。
 
 実際、この作品でも、この渡り鳥が何を意味するか気に留めなかった
というかたは多いのではございませんでしょうか?
 
 
 それはさておくといたしまして、このような作品を書いたということはやはり、
 マンガに対してお疲れだったのかも?
 
 でも、本心でございましょう。
 
 
赤い砂漠石ノ森章太郎 赤い砂漠
みたいにラストに来て実は今のお話は、っていうのは、
石ノ森先生いくつか描いてございますな。
このパターン、夢オチの変形ではございますが、
それよりもラストが皮肉な結果となりますな。
 
 登場する兵士や戦車は、
『サイボーグ009』のベトナム編に
登場するのと似ておりますな。
 
と申しますか、いつもこんな感じ?
 
 こことは関係ございませんが、
それにしても石ノ森先生って、現用兵器描きませんよね。
 
 描いても、資料的だったり、必要に迫られて、といった感じ。
 
『にいちゃん戦車』という作品もございましたが、
あれも、父親がくず鉄から作ったという、
まぁロボットもののロボットを
戦車の形で出してきたようなものでございますし──。
 
 SFマンガをメインとしているので、メカは得意そうですが、
戦争反対という立場で徹底して入るのでございましょう。
 
 わたくしは石ノ森先生の作品しか読まなかったクチなので、
それあたりまえのことと思っていたのでございますが、
 
宮崎駿先生のように、戦争反対だけど戦車好きみたいな方もおられますし、
もしかすると特殊なのかも? しれません。

 
 
「天敵」・「UFO」
はUFOに関する作品。両者とも似た傾向にございますな。
 
天敵石ノ森章太郎 天敵
のほうは、そんなにひねらずに
自分の考えをそのまま書いた作品。
 石ノ森先生、UFOにとりつかれてらっしゃる、
と申し上げても過言ではございませんでしょう。
 
 第一にUFOと超能力が、
何のステップもなく1セットとして考えておられますが、
そう考える理由はそれほどございません。
それにUFOが上位存在と考えておられるようでございますが、
それも確たる根拠があるとは思えません。
 
 クラークの『幼年期の終わり』などに衝撃を受けたのかな、とは思いますが。
  
 
 「UFO石ノ森章太郎 UFO
 はストレートな作品。孤独な少年が、予知能力か妄想で
UFO襲撃の未来を幻視するという話にございます。
 
 素人が描くと、本当に一直線、
ストレートになってしまうと思いますが、
途中に会話を挟むことにより、話を広げております。
 こういうのがお話作りには重要なのですよね。
お話とは、エピソードの連続だといっていいぐらい。
 
 ただ、そうは言っても、単純な話でございます。
 少年の妄想、あるいは予知が実現するかだけでございますからねぇ。
 
 そんな単純な話だからこそ、
ラストはリドルストーリーの形式にしたのでございましょう。
ラストはどちらか、読者に予想させているのですな。
 
 これ、もし作者が結末をつけておりましたら、話は
本当に単純なものになってしまうと思われます。

 
 ところで、この工事現場の人は、石ノ森先生なのでございましょうなぁ。
それが少年だった頃の自分に語りかけている。あるいは今の少年に語りかける。
 
 そのための登場という気がいたします。
 

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☆ 藤子先生がウルトラマンを描いていたのはご存じでしょうか
それが、これ。
オバケのQ太郎 ウルトラマン
 

この一コマだけでございますが、ウルトラマンでございましょ!?
 
『藤子・F・不二雄 大全集 オバケのQ太郎 2』「正義の味方モシモ仮面」。
1965年の週刊少年サンデー7号に掲載された作品だそうです。
 
ウルトラQ」が始まったのが1966年1月2日でございますから、
それよりも1年早い計算になります。
 なぜ、この時期にウルトラマンなのか。
 その答は年号にございます。
  

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MYフレンド」の記事で、
ミュータントモグラのことを書きましたが
ミュータントモグラ
なんと『オバケのQ太郎』にも
このキャラクターは登場しております。
『藤子・F・不二雄大全集 オバケのQ太郎3』
  「Qちゃん鉄道」)。
 
 単なるモグラとしてでございますが、
その姿は確かにミュータントモグラ
 
 しかもこの作品では、
なんとその全身が描かれております。
 
 ミュータントモグラの土から下の部分なんて、
石ノ森先生の作品でも見たことない。
 
 と申しますか、考えたことすらございませんでした。
 
 どんな形か想像できますか?
 
 わたくしには意外。
 そして、がっくりきました。
 見ないほうがしあわせかも?
 
 というわけで、続きを読むことなく、ここで引き返しください。

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 同じく「石森章太郎落書きノート』から、『三つの珠』のキャラクターたち。
(ちなみに、前回の記事はこちらですが、読む必要は特にございません)
 
三つの珠
 
三つの珠
 
 なんと、最初の段階ではギリシャ神話風の世界観だったのでございますな。
  
 当時でございますから、手塚先生の
リボンの騎士』や『火の鳥 エジプト・ギリシャ・ローマ編
あたりの影響があったのでございましょう。
 
 それがなぜ時代劇、
しかも平安末期(ゆるい意味で)になったのか?
 
 石ノ森先生は1957年には、火の鳥風太郎
火の鳥風太郎』という
書き下ろし単行本をものなさっておられます。
 
 これが、ロシア民話火の鳥と黄金のリンゴ
ウィキペディアによりますと
イワン王子と火の鳥と灰色狼」となっておりました)の翻案。
 そうした先例があるので、別に不思議ではございませんが──。
 
 手塚先生の作品と、
かぶってしまうのを避けた のでございましょうか。
 
 でもなぜ平安末期? 
 その答は、これなのだと思います。
 
 石森章太郎落書きノート
 
 
 手塚治虫先生の『武蔵坊弁慶』。
 この作品、残念ながらわたくしは読んでおりません。
 
 ですが、ネットで見ると、
 要所は押さえながら、かなりノリが入った作品みたいですな。
 
 これを読んで、自分でも描いてみたい、自分ならどうするか、
と構想を膨らませていたのではございませんでしょうか。
 
 それを縦軸に据えて、
最初のギリシャ神話風の物語を重ねていったのではないかと思うのでございます。
 
 元にとらわれることなく、ちゃんと自分の作品にしているところは、
さすがでございますな。

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龍神沼」の記事を書き終えた後、龍神沼の乙女
いくつか新たに見つかったので書きとめておきます。
 
 前回の記事を読んでいなくても関係ございません。
 単独で読める紹介でございます。
 
 一つ目がこれ。今回いろいろ引き合いに出している
石森章太郎落書きノート』から──。
 
「龍神沼」の初期案(↓)と
「龍神沼の乙女」(→)のイラストでございます。
 
長塚章という中学2年生が主人公のようですな。
 
龍神沼
 
 石ノ森先生がエッセイで、
どういう話を書こうとしていたのかは今となっては分からない、などと
お書きになっているのがこれのことだと思いますが、
確かに、これだけでは分かりかねますな。
 
 
 次にこれ。
おかしなおかしなおかしなあの子(さるとびエッちゃん)には、
よっぱらい竜の巻」と題しまして、
セルフパロディと申しますか、
バリエーション的なことをやっております。
 
さるとびエッちゃん
 

さるとびエッちゃん  
 
(ちょっと期待したのでございますが、
 ももちゃんはメガネを取ると目が3キャラクターじゃないんですよねぇ。
 そのかわり、目がくっついたまま、メガネが跳ぶという芸当をやっております。
 こ;れは、石ノ森先生の他のギャグマンガでも見られる現象にございます) 
 
 
 三つ目は『千の目先生』の後半ですな。
 

 千の目先生  
 
 竜ではなく人魚の話で、内容もかなり違ったものになっておりますが、
 口寄せの老婆と網元が組んで(と思ったのですが、再読したら網元はけっこう脇役。
おばばは、東京から来た観光会社の社長と直接渡り合っておりました)
金がらみの悪巧みを行うあたり、
「龍神沼」の変奏、新たに語り直したものと申してよろしゅうございましょう。
 
 
 最後は、『時ヲすべる』の1話。
 これが『龍神沼』を描いていた当時の話でございました。
 画像は用意いたしませんが、
 1話は電子書籍の試し読みで読める部分ですので、
 気になった方はそちらでご覧いただけばよろしいかと存じます。
 
 
 というわけで、以上
 今回見つかったのは、こんなあたりにございます。

 。

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 メガネを取ると目が3になっているという
古典的なマンガ表現がございますよね。
 
 あれは、いつ頃からあるものなのでございましょうか。
 ネットで調べると、のび太君というご意見がございましたが、
 いや、さすがにもっと古いのがございましょう。
  
 藤子不二雄作品だけで考えても、もっと前から存在したはず。
 なのですが、今回は見つけることができませんでした。
  
 メガネキャラがメガネ外すこと自体珍しかったりするので、
 ちょっと難しい。
  
 メガネを取らなくても目が3は見つけました
(藤子・F・不二雄大全集『オバケのQ太郎4』)
 これが、1966年の作品らしいです。
 
 目が3
 
 
 これより以前に、
メガネを取って初めて目が3だと判るキャラがいたかどうかは不明ですが。
 
 (いつ頃からかは知りませんが、藤子不二雄まるえー先生が
  マンガに登場するときもメガネに3だったりいたしますな)
 
 でもまぁ、メガネを取る→目が3と判るという過程が、
突然変異的に生まれたというのは考えにくい。
 
 おそらく、目が3のキャラがいて、メガネキャラがいて、
メガネを取ると目が3のキャラが成立したのでございましょう。
 
 そう考えるのが順当だと思います。
 
 では、目が3のキャラクターの元祖的存在は誰か
 
 わたくしが誰を考えているかを当ててみてください。
 そんなに難しくはございません。

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(タイトル下に書ききれなかったのでこちらで)
 
 
 トランプなどカードを武器に戦うのってございましょう? 
ああいうのって、何がルーツなんでしょうねぇ。
トランプによる攻撃というのなら、
おそらく『不思議の国のアリス』が最初ではないかと思われますが、
それとは話が違います。
 
 自分が知っているかぎりでは、テレビアニメでは『スカイヤーズ5』。
 マンガでは『秘密探偵JA』の朝日五郎さんあたりぐらいかな。
 朝日五郎さんはちょっと……かなりテクニカルなことをしておりますが。
 
 調べてみますと、
竹内つなよし先生の『コンドルキング』(1961-62)が上がってまいりました。
気になったのは、忍者ものの手裏剣投げとの関連でございます。
 
 トランプを配るごとく手裏剣を手のひらに載せて連続的に投げるのと、
どちらが先なのか。
いずれにせよ両者とも、そのトランプを配る動作から派生したのでございましょうが。
 
 海外に例はあるのかなぁ。
 
 あるとすれば、カジノのディーラーや手品師などに化けていそうで、
しかも武器を使って攻撃しそうな役どころということで、
怪盗とかスパイとか思い浮かびますが、
トリックなどを使いそうという点で共通点はあるものの、昔のフィクションでは、
スパイや怪盗が、トランプを扱う職業に扮していて、
しかもそれを飛ばして攻撃するっていうのは、ないような気がいたします。
 
 だいたいカジノ用のトランプで、
人にケガを負わせられそうにもございませんし。
フィクションでもそれが許容されるのは、
ある程度派手な世界観でございましょう。あるいはコメディであるとか。
 
 そんなわけで答は見えませんが、
マンガや映画でスパイや忍者が流行ったのが1960年代かもう少し前からですから、
その辺りがルーツなのでございましょうねぇ。
 
コンドルキング』も最初期の例なのかもしれません。
 
カードが無限に飛び交う様は、
堀江卓先生の『矢車剣之助』の
無限に弾丸が飛び出る二丁拳銃に影響を受けたものかと思われます。
 
 
 
《追記》
 
2021/08/19 都筑道夫先生の『なめくじに聞いてみろ』にも、
トランプを武器とする殺し屋が出てまいりました。
 
ただのカードでは、殺傷能力はございませんから、
2枚のカードの間にカミソリを挟みこんで貼り合わせ、
それを武器とするのでございます。
 
もちろん、小説なので、一度に何枚も跳ばすような派手なことはいたしません。
 
もしかして、こちらの方が『コンドルキング』よりも早いのかも、
と思って調べてみました。
 
すると……。
 
なめくじに聞いてみろ』は、元のタイトルを『飢えた遺産』といい、
東都書房から出版されたのが 1962年。
さらに調べてみると1月とか。
うーん、微妙だなぁ。

拍手[2回]

 収録作は以下のとおり。石ノ森章太郎コレクション
 
 「かげろう」
 「ごいっしょに白鳥のみずうみをききません?」
 「雪おんな」
 「そして…だれもいなくなった」
 「永遠の女王ヒミコ」
 「びいどろの時」
 「うしろの正面だあれ」
 「ヒュプノス」
 
 
 

 「初期少女マンガ」のほうはすべて読んでいたが、こちらは半分ぐらい……。
雪おんな」と「そして…だれもいなくなった」は読んでいる。
かげろう」は作品リストかなにかでタイトル部分だけ見たことがある。
と思ったのですが、サンコミックス版『青い月の夜』に収録されておりました)

ごいっしょに白鳥のみずうみをききません?」は未読
 
 で、新しい四作のほうが、かえって分からない
びいどろの時」は「マンガ少年」なので読んでいると思うが。
うしろの正面だあれ」は、
p.252の「かごめかごめ」を調べているシーンだけ良く覚えている。
永遠の女王ヒミコ」は、
何か作品といっしょに収録されていたのなら読んだと思うが……。
ヒュプノス」も同様。
 
 この四作、2回目に読んだら何か読んだことがある気がしてきたけれど、
そういうのってアテにしちゃいけないよね。
 
 ……でも読んだことある気がするなぁ。
 
 この四作品、四者四様なのだが、
スタイルとタッチが完成されてからの作品は、どこか同じに見える
 
 ファンタジーというよりも奇譚だろう。
現実的なところから始まって、謎にたいする解釈があって、少々ホラーテイストで。
 
 完成されているがゆえに記憶に残らなかったのだと思う。
 
 別に石ノ森先生が描かなくても、という気がしてしまうのだ。
他の、連載作品などとあわせてみても、
確かに石ノ森先生のその時代のテイストなのだが。
 
「龍神沼」のところで問題となった、風景についても同様。
 洗練され、流れが自然なので、印象に残らない。
 自分としては、やはり、テクニックを使っている
と分かるようなものの方が好きだ。
そもそも、そういう部分に魅せられたのだから。
 
 
 
 こういう短編集の場合、
連載ものの一篇が何作か取り上げられることがしばしばあるが、
それがないのは素晴らしいと思う。
 
 ただ、新しい四作のほうについては、
連載の一作のほうがレベル高い作品あるのでは? とも思ってしまう。
 やはり、この時期は連載ものがメインだった気がするのだ。
 
 とはいえ、だからこそ、その時期の短編を取り上げてくれるのはありがたいが。
 
 
 それでは各作品について。
 
かげろう」は、この時期の作品らしく、
色々な効果を取り入れようとしているのが楽しい。
 ただ、急いで描いたのか、絵が雑で、その効果が薄れていると感じる。
 例えば、p.29-31の風景描写などは、もっとちゃんとした形で見たかったところだ。
 面白いのは8ページと10ページの一コマ目。
 同じような絵を配することで、短い時間に起きた白日夢のような出来事を表現している。
p.41あたりからの逃避行は、『イナズマン』を思わせるね。
 

ごいっしょに白鳥のみずうみをききません?白鳥の湖
 タイトルだけ見たときは、知ってるかなと思ったのだが、
石森章太郎作品集① 少女版ミュータント★サブ
(サンリオ/1978)所収の「白鳥の湖」だった。

 
 この「ごいっしょに~」、
レコードをかけるところから始まり、
それを取り出すところで終わっているが、
同じ事は『ジュン』の「音楽を聴く」でもやっているね。
 
ジュン』という作品は、
まったく新しいことをやっているように見えるけれど、
「初期少女マンガ」やこの作品などで分かるとおり、
それまで色々なところで試してきた手法を、            (白鳥の湖)
その時点での先生の最新の技術で描いてみたという
意味合いも強い。
それによって、自身のスタイルを
さらに一歩進めていったのだろう。
 
 

雪おんな
『鶴女房」と「雪おんな」の伝説を合わせたような作品。
それに笠地蔵も入っているのかな?
「龍神沼」では発揮されなかった超常の力が、
今作では発揮された形になっている。
 最後の新幹線は、今は昔の物語ということなのだろう。
 
 
 
そして…だれもいなくなったそして…だれもいなくなった
5つの物語が交互に現われる作品。
ザッピングというか、
カットバックの魅力をふんだんに
活かした造りだ。
 
 絵物語風のメインとなる物語を中心に、
スパイ物、学園もの、
ハンターの話、それに四コマと、
舞台やジャンルの異なる作品が展開する。 
 様々な作品を様々なタッチで描いてきた
石ノ森先生の面目躍如と言っていい。
 
 とは言ってもアクション要素が強い作品が多い。
 カットバックの相乗効果が、           (そして…だれもいなくなった)
その方がより強く表れるという計算からだろう。
 
 このような結末ならば、どんな終わり方をしてもよさそうだが、
四コマの「しあわせクン」を別にすれば、
すべてちゃんと結末まで描いて終わりにしている。そこら辺は見るべき点だろう。
 
 そして、p.154-156。走馬燈のようなシーンには、
劇中に出演した登場人物に加え、
石ノ森キャラの有名どころがゲスト出演している。
こんなところにゲスト出演していいのか、という気もするが、
細かく見る楽しさがある。
 
 
 
 あとの作品については、自分には語ることを持たない。
なので落ち穂拾い的な雑談を。
 
 

永遠の女王ヒミコ
永遠に生き続ける女王という設定は、
怪奇ハンター100万年の女王でもやっていた。
ハガードかなにかに元ネタがあるのかな……と思ったのだけど、よく分からない。
 
 

びいどろの時
 今みたいにループものがあたりまえだと、こんな不幸はないんだけどね。
このころは、そういうのないから、ねぇ。
 
 

ヒュプノス
p.281 5コマ目。石ノ森先生のキャラクターがこんな表情をするのは珍しい気がする。
 なんかほかの人の絵みたい。
 
 
 
 最後に、竹宮恵子先生の解説で、 
石ノ森先生は「………」を多用すると書いてあるのを見て、ハッとなった。
 あれ、多いのか。
 石ノ森先生の作品、たくさん読んでいるから、あれが普通だと思っていた。
 だから自分でも「……」や「──」は普通に使うけれど……、
多いのかなぁ……?
 

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 この作品だけ、テイストが違っておりますな。MYフレンド
 コミカルで軽い感じなのはもちろん、
さらっと描いているあたりがプロっぽい。
 作中作は、 よくある少女マンガ
に対する批評でございますな。
 
 意味のないスタイル画っていうのは、
かつてそれを入れるように編集者から強要されて、
イヤだったんじゃないかなぁ。
 
 たとえば、『龍神沼』p.106の二コマ目なんか、
ポーズをつけていて
ちょっとスタイル画っぽいですよね。
それを小さいコマで描いているのは、
石ノ森先生の抵抗だったりして。
 
 
 
 
 
 さて、この作品にはミュータントモグラが出でまいります。
 手塚治虫先生のスパイダーやヒョウタンツギのようなキャラクターを
ということで作られたのでございましょう。
それとも自然発生したのかな?
 
 本作では色々介入して来ておりますが、
手塚先生のキャラクターとは違い、
いつもはいるだけのキャラクターでございますよね。
 
 この辺に、作者の性格が出ているのかもしれません。
 
 
 このキャラクター、いつ頃からいるのでございましょうか。
 作中では十年程前と書かれておりますが、果たして?
 
 ミュータントモグラなんだからミュータントという言葉を知ってから、
ということは『ミュータントサブ』のあたりからじゃないかな、
とも思ったのでございますが──。
 
『ミュータントサブ』は作品リストによりますと、
1961年に「ミュータントX」という作品があり、
そこから始まっているようでございます。
 
「MYフレンド」が1967年ですから、それですと6年ほど前……。
 さらに調べると、案外簡単にわかりました。
 
 これ。
「石森章太郎落書きノート』(小学館/昭和55年)。
 
ミュータントモグラ

 
 これ自体には、日付が入っておりませんが、
前後の絵を見ると、1957年に描かれたものらしいのですよね。
 
それだとちょうど「MYフレンド」の10年前。
 
 つまり、ミュータントモグラは、
デビュー時かそれ以前には存在していたキャラクターだったのでございます。
 
 そのときに、
すでにミュータントという名前がついていたかどうかは分かりませんが、
メタルーナミュータントが登場する『宇宙水爆戦』が1955年なんですよね。
 
 その時点で映画を見ていなかったとしても、
ミュータントという言葉と、その概念は知っていたはずだと思います。
 
 ですから、ミュータントのモグラということでこの形が生まれたのか、
それとも落書きでこんなモグラができあがって
後からミュータントのモグラということにしたのかは分かりませんが、
まあ、その当時からいたのでございますな。
 
 にしても、このころからミュータントモグラって毛が3本生えておりますよねぇ。
 となると、オバケのQ太郎が毛が3本なのも、
ミュータントモグラの影響ということになるのかも?
 
 あるいは逆にオバQが最初、
毛が3本じゃ無かったのはミュータントモグラの真似をしたくなかったとか?
 
 いずれにせよ、影響はございましょう。
 
《追記》
その『オバケのQ太郎』にも、ミュータントモグラほ発見いたしました。
(単なるモグラとしての登場ですが)

 しかも全身像が描かれている!

 見るんじゃなかった……、
 とおっしゃられる方もいるかも知れませんので、
 覚悟のあるかたのみでお願いいたします。

(→ミュータントモグラの全身像

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 この作品なども、本当に当時の映画にありそうですよね。「あかんべぇ天使」(石ノ森章太郎コレクション 初期少女マンガ傑作選」)
 
 この時代をよく、古き良き時代と書いてるものをみかけますが、
現実としてはそれほどいい時代とも思えません。
 
 ノスタルジックに語られるのは、
このようなドラマから受ける印象でございましょう。
あるいは、こうした物語が受け容れられた、
そのこと自体がいい時代だったと言えるかもしれません。
 
 
 ボロアパートを舞台とした市井の生活。
どの程度トキワ荘をモデルにしたかは存じませんが、
その日常のドラマがいいですよねぇ。
 
 石ノ森先生と申しますと、
ヒーローものをはじめとする派手な作品が目を引きますし、
このような作品は少ないので見過ごされがちですが、
日常をしっかりと描けるということがお分かりいただけましょう。
 
 日常を描けるからこそ、
派手な作品を描いても土台がしっかりとしているのでございましょうし、
後年の市井のを描いた時代劇につながっているのでございましょう。
 
 
 そしてこの作品、
なんと言っても、子犬を拾った女の子、ヤッコちゃんがかわいい。
 石ノ森先生の作品で、
このような幼い子供が主要人物として登場するのはめずらしいですが
(001とかは別ですよ、もちろん)、それは作品の内容によるのだと思います。
 
「昨日はもう来ない~」で書かれていたように、
先生自身は動物や子供の出てくるマンガも数多く手がけたかったようでございます。
 
 が、この時代以降、マンガの読者年齢はどんどん上がっていきましたし、
石ノ森先生に求められるものも違っていた。
 それでこうした、動物や子供を主人公にした作品が少ないのでしょう。
 後年は、このようなキャラクターを描けなくなった節もございますが。
 
 このヤッコちゃんと同じような幼い女の子を主人公にした作品に
いやんポコ」がございます(りぼん/1960他)。
 
いやんポコ
 
いやんポコ
 
 
 主人公のポコは一切喋らず、
まわりの人のセリフや簡単なキャプションを挟むだけの
ハーフサイレントといった作品で、
子供の動作や意味の分からない行動がかわいらしいコメディでございます。
 
 サイレントマンガを高く評価する方もおられますが、
映画と違って動きも(音楽も)なく、難しいものでございますよね。
 
 そのため空回りしたり無理矢理だったり……。
 第一、サイレント映画だって状況を説明するキャプションは出てまいります。
 それも無くしてしまうと、やはり厳しすぎる。
 そのような制約のために面白さを犠牲にするのは、
コメディにとって本末転倒と申すものでございます。
 
 この作品の場合、
ポコは喋らないというルールを守ることで、サイレントとしての雰囲気を維持し、
他のキャラクターのセリフを入れることで
マンガをサイレントにした場合の難しさを回避するとに成功していると存じます。
 
 ちょっと本題からずれましたな。
 
 さて。
 
 この作品、タイトルを「あかんべぇ天使」と申しますよね。
「天使」といえば、
石ノ森先生の実質的デビュー作が『二級天使』という作品なのは、
ファンならご存じのことと存じます。
 
 二級天使

 
「あかんべぇ天使」には、足の不自由な子犬が出てまいりますが、
それがこの作品のピントだと思うのですよね。
 
 つまりこれは、もう一つのピントの善行なのでございます。
 
 天使の神通力で解決するわけではないのですが、それがこの作品のいいところ。
 神通力は作品全体にほんわりとかかっているのでございます。
 
 ちなみに、もう一つの二級天使である「2級天使」(新・二級天使/1965)は、
コメディタッチの強い3品でございますが、この作品の主人公もヤッコちゃんで、
同じような髪型をしているのでございますな。
 ただし、年齢はもう少し上のようでございます。
 
 あと、作中にボクシングが出てくるマンガといたしましては、
ガタコン教室』というのがございます。
コメディで、あまり関係ない内容ですが、
連想で思いついたということはあるかもしれません。
学園とタイトルにはついているものの、
あまり学園ものっぽくない作品でございました。
と申しますか、石ノ森先生の学園ものらしい学園ものって、
ないような気が……。
 枠に収まりたくない……のかなぁ。


 また脱線してしまいましたな。
 
 「あかんべぇ天使」に戻りましょう。
 
 ラスト、夜空を飛行機が飛ぶ音で幕を閉じます。
幽霊少女』のラストでも、
木の葉の間を飛行機が飛ぶ音で物語を終わらせておりますが、
大切ななにかが遠い世界へ行く象徴が、この飛行機なのでございましょう。
 
 一抹の寂しさを感じさせる終わりでございます。
  

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 過去・現在・未来の三部構成

きりとばらとほしと
 吸血鬼となったリリという女性が主人公
(吸血鬼なので、時代を超えて生きられるのですな)
という共通点はあるものの、
 
各部は、オーストリア・日本・米国と場所もバラバラ
 
ジャンルも
古典的なホラー、ミステリー風サスペンス、そしてSFと、
 
それぞれ異なるという。実験的な作品ですな。
 
 ジャンルの違う5つの作品が同時進行で展開する
「そして……だれもいなくなった」
と双璧をなすと申してもよろしゅうございましょう。
 
 

 それぞれの部の冒頭には、
」「薔薇」「」に関連する詩が引用されております。
 この作品集に掲載されているものを見ると、
詩や音楽を起点としているものが多いですよね。
 
「青い月の夜」のイメージの1つは「くるみ割り人形」でしょうし、
「夜は千の目を持っている」は言わずもがな、
「龍神沼」でも「黒く声なく沼は眠れり」という詩が紹介されておりました。
(「龍神沼」の記事にも書いておきますがこの詩、ベェルレェヌの詩ではなくて、ピエエル・ゴオチェの「沼」という詩だそうでございます「茂りし林の奧深く 黒く声なく沼は眠れり」と「茂りし村」ではなく「茂りし林」が正しいのだとか。確かに、「茂りし村」では意味が通じませんものな。これ、石ノ森先生の字が汚かったため、読み間違えられたのかなぁ。今回の「コレクション」で直っていないことからすると、思いっきり村としか読めない字が書かれていたのかも知れませんが。でも、ポール・ヴェルレーヌの作だと勘違いしていたというのは分かる気がいたします。そして勘違いしたということは、記憶で書いているってことですよね。お気に入りの詩だったのでございましょう)
 
 少女マンガには叙情性を、叙情性には詩を、という事なのでございましょうか。
 
いずれにせよ、意識と教養の高さが感じられます。
 
 一部の「霧」は、作画的には点描の凄さを見せたかったのだと思います。
p.187の下のコマがそれでございますな。
他のコマは……時間が無かったのでございましょう。
最初のほうの馬車のシルエットなどはカケアミがデタラメですが、
最後の方では方向が統一されているあたり、
描いているうちに修正していったのでございましょう。
逆に申せば、すべて点描にしていないことや、
馬車のところを描き直していないことから、
締め切りがかなり迫っていたのでは、とも勘ぐれます。
 
 ストーリー的にはオーソドックス。
 最初の詩は、「きりとばらとほしと」という作品全体の
結末を暗示しておりますな。
 
 二部は、あなたの血を全部いただくという吸血鬼からの予告状を軸にした
ミステリ仕立ての物語にございます。
ネタバレをしてしまうと、
その予告状の主は当然リリさんではないのでございまして……。
 
 最後の薔薇が印象的。
 
「霧」と「薔薇」の章は、
「吸血鬼カーミラ」および、
その映画である『血と薔薇』に拠っているようでございますな。
 
 第二部で花火が出てくるのも、映画準拠でございます(出方は違いますが)
 吸血鬼が触れると薔薇が萎れるというのも、この作品からのようでございます。
 
 
 その目で見ると、表紙の女性も『血と薔薇』のミラルカに似ている気がいたします。
 
 薔薇のしおれ方は、この作品のほうが印象的でございますな。
 
 
 そして三部、「星」は未来の話。
 一応話はつながっているものの、
まったく別物と言えるほどテイストはがらりと変わります。
 
 SFで破滅テーマ。
 石ノ森先生の少年マンガによくある、強大な敵に挑んでいく物語でございます。
 
 そしてラスト、主人公がただ1人取りのこされる。
 
 人類滅亡とは限りませんが、
主人公が孤立無援となる話は、石ノ森先生の短編ではいくつかございます。
 
 例えば「護(まもる)」や
ラストがそれに似た『ジュン』の「想い出のジュン」、
それに「おれはだれだ!?」、
「狂犬」などもそれに含めてよろしゅうございましょう。
 
護
       「護」
 
想い出のジュン
          「想い出のジュン」
 

「ファンタジー編」「SF編」などでまとめるよりも、
そのテーマ、もしくは人類滅亡で一冊作った方が面白いんじゃないかと言うぐらいに。
 まぁ、タイトルが買う人の目を引きそうにないのが欠点ではございますが。
 でも、石ノ森先生の主人公が、終末に向けてどう挑んできたかを考えるのは、
『サイボーグ009』のラストを考えるにあたって、
興味深いことだと思うのでございますよね。

 
 細かいところを見ていきますと、
 
 登場する未来ガジェットがレトロフューチャーで面白い。
 登場する怪物が009ギリシャ神話編みたいでございますな。
 それに薬。
『仮面ライダー』の蝙蝠男でも、
吸血鬼に噛まれた人に対して血清が有効でございましたが、
ここでも薬によって、吸血鬼は人間に戻せる設定になっておりますな。
 まぁ、病気のようなものと考えれば、常識的な考えではございますが。
 
 
 各部のラストシーンは、
それぞれリリと「霧」「薔薇」「星」でまとめられており、統一感がございます。
本来、霧のところも大ゴマでやる予定だったんじゃないでしようか。
作者コメントを挟んだのは、吸血鬼ものをやる照れくささなのか、
ちょっと言い訳したかったのでございましょうな。
 
 
 さて、吸血鬼をテーマにした作品として石ノ森先生は
吸血」という短編も描いておられます。
 
 新聞記事から始まる時事をもとにした風の作品で、
最後に事件に関わった石ノ森氏の推理として、
吸血鬼に支配された超未来の地球が出てくるのでございますな。

 
 吸血  
 

 吸血
 
それが事件を説明する1つの仮説となっているのでございますが……。
 
 ラストは、ある作品と同じアイデアを使っております。
 
 なお、この作品の吸血鬼は、伝染能力はございません。
 

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 この作品などは、本当にそのまま映画になりそうです。夜は千の目を持っている
 元になった作品があったんじゃないか
と思うぐらいに映画的です。
 私もあまり映画見ていませんが、
当時の東宝や日活映画にありそうですよね。
 
 クライマックスの、街に歌声が響き渡る中、
ビルの一室では銃撃が行われ、
その室内に歌声が聞こえてきて……、
という展開は元がどこかにありそうで、
小骨が喉に引っかかった思いがします。
 
 というか、このパターンっていくつかありますよね、
ラジオから歌声が流れてきて改心するとか。
ゴジラ』の芹沢博士もその例でした。
 
 と言っても、、石ノ森先生のオリジナルであることは間違いありません。
続・マンガ家入門』に、構想メモが載っているので明らかです。
 
 夜は千の目を持っている 夜は千の目を持っている  

 この作品で重要な役割を果たす「夜は千の目を持っている」の詩も、
原詩で書いていますから、この詩から発想したのでしょうし、
作中の歌も石ノ森先生自身が訳されたものでしょう。
 
 この詩、とにかくイメージが広がりますよね。
 千の目と表現された星々。
 それに対して1つしかない心。
 でもその1つはすべてでもあり、それが失われればすべてが失われてしまう。
 
 冷静に考えると、昼の日が失われてすべてがなくなるんじゃ、
夜の立場はどうなるということになりますが、それはヤボというもの。
イメージの広がりを楽しむのです。
 
 
 千の目を持つというファンタスティックな比喩から、
予言や千里眼をイメージさせる詩でもありますね。
ウィリアム・アイリッシュの『夜は千の目を持つ』や
石ノ森先生の『千の目先生』などは、
そうした能力が設定の核になったお話です。
 
 
 ですが、この話は違います。
「夜は千の目を持っている」という詞(ことば)の空間的な広がりと、
「愛が終わりをつげたとき 命のすべての明かりも死んでしまう」という
ドラマチックなフレーズにインスピレーションを受け、
クライマックスのシーンが思い浮かんだのでしょう。
 
 最初はだから、クライマックスは星空だったのではないでしょうか。
この詩を元にしたということは、
星がすべてを見つめているというイメージがあったと思われます。
 
 メモでは「雪の日」とつけ足されていますから、
構想を考える段階でそうしたのでしょう。
(雪の日ということで、クリスマスの物語かなと思ったのですが、
 物語は1月9日の出来事なんですよね。掲載が正月増加号だからでしょう) 
 
 雪がクライマックスをドラマチックに盛り上げ、
ラストの一コマの星空が、すべてを見守っている。
 
 見事な構成だと思います。
 
 
 さて、「夜は千の目を持っている」の訳についてです。
 先ほど書いたとおり、石ノ森先生自身が訳されたものだと思いますが、
歌詞としてうまいと私は思います。
  
 ネット上にもこの詩の訳はいくつかありますが、
それらと比較しても優れているのではないでしようか。
 
 それほど難しい詩ではないので誰でもそれなりに訳せるでしょう。
それに、私が素晴らしいと思ったのは、
2連の冒頭、それを忠実には訳さないで1連と同じ
「夜は千の目を持っている」にしたことなのですね。
 
 訳というのは、原典に忠実なのが基本ですから、
そうではないものがそれよりもいいというのは、ずるいと思うかもしれません。
でもこの場合は、その判断がいいのです。
 
 この詩の訳で悩むのは、2連の最初の Mind です。
 単純に訳す場合には心でいいのですが、
そのあとに heart が来ているので、そうは訳せません。
 
 そこで辞書を調べてみると、理性とか知性とかいう言葉が出てくるんですよね。
 
 ならば、それを当てはめればいいかというと、そうではない気がします。
 
 意味はそれで通ずるもののこの場合、
千の知性や理性に対して1つの心というのは、
対比として合っていない気がします。
 
 heart は中心にあるものであり、1連で太陽にたとえられていますから、
魂であり、相手を思う本当の気持ちでしょう。
 
 だとすると、千のココロとは、瞬間瞬間で現われるさまざまな想い、
感情の揺れみたいなものではないかと思われます。
 
 想いは千々に乱れ、などという言葉がありますよね。
 
 そんなものが、この mind なのではないかと思うのです。
 
 mind という言葉を使ったのは、単に1連の night と韻を踏むためでしょう。
 
 だとすれば、知性とか理性とかとは訳さなくてもよくなります。
 
 では、どう訳せばいいか。
 想いでもいいと思うのですよね。
 でも心との対比として弱い。
 と言うか、心という単語が
日本では、中心にあるもの、魂としてのイメージが弱いため、
mind にどんな単語を持ってきても
対比としての意味があまり出ないのだと思います。
 
かといって解説してしまえば台無しですし、
heart を魂と訳すのも違う気がする。
第一、語呂が悪い。
 
 それに劇中出てくるのは、歌われるものとしての詞です。
それも考えると、やはり、1番の繰り返しである
「夜は千の目を持っている」にした判断は正しいな、と思うのです。
 
 
 
 最後に重箱の隅を。
 サンコミックス版では、名字に間違いがありました。
 平井加代子さんが土井加代子さんに、
 ひらいまことさんがうめみやまことさんに
 それぞれなっていたのですね。
 
 平井のほうは、おそらく石ノ森先生の書いた字が雑だったので
写植打つときに間違われたのでしょう。
 
 梅宮のほうは、主人公の女性が梅宮紀子なので、石ノ森先生が混乱したのでしょう。
 締め切りが迫っていて、チェックしなかったのかも?
 
 でも、単行本収録時にそのままっていうのは……。
 まぁ自分も、異同を見るまで気づきませんでしたけど。
 
 ちなみに『続・マンガ家入門』では、手直しされています。
初版はサンコミックス版のほうが後ですので
どの時点で直したのかは分かりませんが、
自分の持っているサンコミックス版は、
その手直しされたものよりも後の版なのですよね。
 
 うーむ。

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  さて、『龍神沼』。龍神沼
 
 サンコミックス(朝日ソノラマ)版では、
タイトルの「」が「」になっていた
(そのため「竜」のタイトルでこの作品を語る方もいる)。
 
「龍」の字が難しいと判断されたのだろうが、
その割に本文中では「龍」表記になっているから、
ぱっと見た場合や目録などに載せる場合、
字がつぶれて見えなくならないようにという
配慮なのかもしれない。
 
 この作品、先生も『自画自賛」(『言葉の記』p.98)
するほど気に入っている作品のようだ。
初期の代表作として衆目の一致するところだろう。
 
少年のためのマンガ家入門』(秋田書店/1965/8)では、
この作品が丁寧に解説されているのを知っている人も多いかと思う。
 
 その解説の冒頭で、先生はお書きになっている。
「このマンガは、雑誌に発表されたのは、かなりあとになってからですが、
 僕がマンガ家になる前に考えておいたものです。
 ほんとうは、もっと長い物語で、社会風刺や活劇場面もはいっていました。
 しかし、ここては発表した雑誌(少女クラブ)の関係もあって、
 ファンタジックな詩情だけを前面におしだし、
 活劇やその他のものは一切はぶきました。」(p.76)
 
 藤子不二雄先生の『まんが道』にあった、
手塚治虫先生の『来たるべき世界』のエピソードを思い起こさせる話だ。
 方向性を一にして濃縮したからこそ良い作品となったのだろう。
加えて、取捨選択の才もあったということだ。
 
 社会風刺や活劇など、省いたものは他の作品に回されたと考えていい。
 作中に登場する神主と村長のようなキャラクターは、
姿を変えて他の作品でも登場する。
 
 
『石ノ森章太郎コレクション』の解説では、
時間がない中この作品が描かれたことが強調されていたが、
作画的にはともかく、設定やストーリーはさほど時間がかからなかったと思われる。
 
 前々から考えていた作品でもあることだし、
 1957年には「龍神沼の少女」という10ページほどの作品を描いている。
ページ数が少なくて失敗だったということだが、
思い入れのある作品が失敗したことで、捲土重来を考えていたのではないか。
 
 加えて、この作品は臨時増刊号に載った作品だ。
 サンコミックス版の前書きによると、
夏冬2回の臨時増刊号では好きな作品を描かせてもらえることになっていた
そうだ。「龍神沼」もそれに当たる。
 おさらく重点的に前々から準備をしていただろう。
 
 これらの理由から、作画のための時間はなかったかも知れないが、
物語は十分に練られていたはずだと考えられる。
 時間の無さを奇跡のように扱うこともないだろう。
 
 
 
 主人公は東京から龍神祭を見に村にやって来た研一という少年。
 物語は、彼が村にやって来たところで始まり、去って行くことで終わる。
 
 外部のものが共同体内に入ることで、その共同体が抱える問題が解決し、
解決したことでその来訪者は去って行く、
というのは、神話の時代からある物語の一つの典型だが、
『二級天使』やヒーローものをはじめとして、石ノ森先生の作品にはそれが多い。
 
 それが主人公に傍観者的な側面と、孤独を付け加えている。
 
 石ノ森先生がジャーナリストを志していたということもあるだろうが、
それ以前に性格的なものがあるのだろう。
 
 

『石ノ森章太郎コレクション』全体を紹介したとき、
そのまんま映画にしてもおかしくないと書いたが、
この作品については、映画のほうが原作より劣るものになるかもしれない。
 
 クライマックスの顕現する龍。
これが映画では難しいと思うのだ。
実写で幻想的に描くこと自体が難しいし、
これを動かすとなるとシーンが格段に難しくなる。
 やはりここは、一枚絵の魅力というところだろう。
 
 
 
 
 この作品、先ほども書いたとおり
マンガ家入門』において、詳しい説明がなされている。
 石ノ森先生がいかに映画を研究し、
それをまんがに活かしたかがよく分かる解説だ。
 
 それらの解説、特にシンボライズなどの技法について、
石ノ森章太郎論』山田夏樹著(青弓社/2016/11)では、次のように書かれていた。
 
 まずは、泉政文氏の文章からの引用。
「『残念ながらおそらく石森が意図したとおりに辿り着いた読者は、
 ごく一部にしか過ぎないだろう』
(……)。
石ノ森自身は、そうした「風景」によって登場人物の「内面」を表現した解説するが、
泉は単純に森の風景、祭の風景としても”通じる」
ためにその意図した効果に疑問を呈している。
 さらに伊藤比呂美氏の評価。
 『龍神沼』、『ジュン』に対して。
 『マンガ家入門』を読んだ時はすごいと思ったけれど、
「季節はわりとあたりまえにその季節感を表わす風物をマンガにうつしとり」
「心理は、連想したものを季節や背景に組み入れたもの」
「まるでナニナニのような、
 という直喩を使いまくって文章を作るもたつきを感じた」と否定したあと、
 『佐武と市捕物控』が
「あたりまえな連想や映像の方法に寄りかかる方法は(略)見られなくなってきた」
 と結ぶ。 
 
 これらの批評を紹介したあと、山田夏樹氏は、
『マンガ家入門』では「風景が内面を作り出す」と書かれているが、 
この『マンガ家入門』を書き、表現を言語化し体系化することで
「内面が風景を作り出す」ことを発見した。
 とまとめている。
 
 自分には、これらは評論につきもののうがった見方に感じられる。
 
 
 まず、比喩的表見についての伊藤比呂美氏の批判は、
この手法を使った映画にも当てはまるものだ。
 
『映像のリテラシー』Ⅰ( p.177)には次のように書かれている。

 こうした比喩的な対照は独創的なものといえるが、
 この種の編集の大きな問題点は、見え透いていすぎること、
 もしくは理解できないほど不明瞭なものになりやすいことである。
          (中略)
 映画ではこの種の(文学に見られるような)比喩的な工夫はもっと難しい。
 編集することで多くの比喩的対照を生み出すことは出来るが、
 それらが文学においてとまったく同じように機能するわけではない。
 エイゼンシュタインの衝突モンタージュ理論は、
 主としてアヴァンギャルド映画やミュージックビデオ、
 テレビコマーシャルにおいて探求されている。
 フィクション映画の監督の多くは、
 彼の理論は押しつけがましく高圧的すぎると考えているのである。
 
     
 映像による比喩表現は、当時は新しい手法でもあり、
作家性も高いため、当時の石ノ森先生が感銘を受け、
自作にも素直に貪欲に取り入れたのだろう。
 
 それも「竜神沼」が叙情性を前面に打ち出した作品だからこそ
ふさわしいと思って使ったのだろうし、
『ジュン』についてもアヴァンギャルドな作品だからこそ、
これらの手法が使われたのだ。
 
 それ以外の作品では、それが前面に出されることはない
 だが『佐武と市』などの作品にしても、風景の中に巧みに取り込まれていると思う。
 
 さらに言えば、『石ノ森章太郎論』では、
シンボライズだけがことさらに取り上げられているが、
『マンガ家入門』ではそれだけを強調しているのではない。
風景、効果線、カケアミ、白黒の比率など、
背景によって心理を表現するものの一つとして、この手法が取り上げられているのだ。
 
「龍神沼」
 

 「龍神沼」
 
 
「龍神沼」
 
 
「龍神沼」
 
 
 シンボライズについては
  
 p.108上の段の3コマを
 蜘蛛の巣にかかったチョウ=少女に対する疑問と魅惑の虜になった少年の心理
 ひとりぼっちのカブトムシ=少年の孤独、静寂。
 花=少女のイメージ
 としたり、
 
 p.116の神楽舞を少女の嫉妬
 としているのは、
 確かに読み取れない。
 
 ただ、作者の意図がどこにあるのかにかかわらず、
p.108では、前のコマの少年の呼びかけに対して
何も応えることのない森の静寂を感じることは出来るし、
p.116では、激しい感情を感じ取ることが出来る。
 
 作者の意図が伝わらなくてもそれが伝わればいい
──むしろ、解説どおりに伝わるよりも、
そんななんとなくの雰囲気だけが伝わった方がいい部分だと私には思える。
 
 解説として言語化したためにあのように書いてはいるものの、
石ノ森先生も描くときは雰囲気で書いていたのではないだろうか?
 
 さらに言えば、
ここは小ゴマで違う絵をポンポンと差しはさんでいること自体に意味がある。
 それによって目新しさとテンポが生まれるからだ。
 
 この場面、こういう挿入がなくて話は通じる。
 だが、他と同じようなコマが続いたら単調なものになってしまったことだろう。
 それほどの静寂も、ドラマチックな緊張感も伝わらなかったはずだ。
 
 そう言う意味でもこのコマたちには意味があるのだ。
 
 そもそも、こうした批判は『マンガ家入門』の解説ありきのものと言っていい。
 この本で、一つ一つのコマを取り上げ、それについて解説するから、
それは伝わらない、あからさますぎるという論が発生する。
 
 だが、解説なしで読めば、それらはそんなに気にならない箇所ではないだろうか。
 
 マンガを読む場合、登場人物の言動は印象に残るが、
物語に直接関わりのない背景だけが描かれたコマなど、
サッサと通り過ぎてしまうものだ。
 
 映画なら監督が時間を決めることが出来るが、
それすらも読者に委ねられているマンガの場合、
そのようなコマに費やす時間はほんの一瞬だろう。
 
 
 では必要ないものではないかというと、それも違う。
効果線や白黒の比率も含め、背景に対する手法を工夫することで、
他とは一線を画す画面となるし、
作品が持つ雰囲気もより読者に伝わるはず。
 
 つまり、より一層深い作品となる。
 そのためにこそこれらは、作品において不要ではないのだ。
 
「風景が内面を作り出す」が、
『マンガ家入門』で書表現を言語化し体系化したことで
「内面が風景を作り出す」ことを発見した、
という山田夏樹氏の説は、言葉のあやのような気がする。
 背景が心理を表現するためには、心理がそのような状態でなければならない。
 背景によって内面を語ることと内面が背景を作り出すことは、
作家の中では同時に行われていることだ。
 
(山田氏は泉氏の言葉を引いて「風景」という言葉を使っているが、
 石ノ森先生の書いたのは効果線や白黒の比率なども含めた
 背景についてである。そこに見解の相違が生じたのかもしれない)
 
 風景→心理から心理→風景の変化という、山田氏の説は、
次の章で主人公たちの心理について書くためのブリッジとしての説なのではないか。
 
 言葉として書くことによって認識を新たにした部分はあるかもしれないが、
石ノ森先生の姿勢はそれほど変わっていないように思える。
 
 以降の作品で比喩的な手法が影を潜めたのはそのためではない。
 
 映画の場合で見たように、この手法がジャンルを選ぶものであること、
当時は目新しかったがその後あまり見られなくなったものであること、
それに石ノ森先生が自信のマンガのスタイルを確立したこともあるのだろう。
 
 あまり見られなくなったのはそのためだと思われるし、
シンボライズの手法は背景による心理描写の一部に過ぎない。
先ほど書いたとおり、
その後の作品ではこれらは背景の中に巧みに溶け込ませているものと思われる。
 
 
 後の作品ほど洗練・進化をするのは当然だろう。
 だが、だからこそ、この時代の石ノ森作品が私は好きだ。
 
 プロとして手法が確立した後の作品は、その辺割り切っている部分もあるし、
流れで書いているところも見受けられる。
 
 それに対して初期の作品は、まだその方法論が確立されていない。
 そのため、映画の手法をもってマンガに新しい風を吹き込もうという
情熱が感じられるし、内容も濃い。
 
 それがこれらの作品に、生き生きとした力を与えているように思うのだ。
 
 
 
☆ さてさて。 
  ところでこの作品、
イメージのヒントとなったと思われる詩が作中に出てまいります。
主人公の研一さんが口ずさむ
茂りし村の奧深く 黒く声なく沼は眠れり」という一節でございますな。
 これ、ベェルレェヌの詩と言っておりますが、
実際には、ピエエル・ゴオチェの「沼」という詩なのだとか。
茂りし村」も間違いで、「茂りし林」が正しいのだそうでございます。
 確かに村が茂るという表現は変ですよねぇ。
「村」と「林」でございますから、
石ノ森先生の字が雑で読み間違えられちゃった可能性がございますな。
 
 それはそれとして、
ポール・ヴェルレーヌ作と勘違いしていたというのは分かる気がいたします。
なんか、そんな雰囲気の詩ですものな。
 
 そして勘違いしたということは、記憶で書いているということ。
作者を間違えて覚えていたというものの、お気に入りの詩だったのでございましょう。
 
 
 
《追記》
 
 その後、「龍神沼」関連でいくつか見つかりました。
 この記事の中心と関係はございませんから、
 読んでくださいというものではございません。
 単独で読める記事でございます。
 もしよろしければ、ごらんくださいませ。
 
 (→)『龍神沼」補遺
 

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石森章太郎 昨日はもう来ない 「きのうはもうこない だがあすもまた」
は、映画もしくはロバート・ネイサンの小説
『ジェニーの肖像』を基にした作品にございます。
 
 この作品と『ジェニーの肖像』については、
以下のPDFが参考になりましたので、
興味のある方はお読みになるとよろしゅうございましょう。
 
『ジェニーの肖像』のアダプテーション
─小説から映画、そして日本の少女マンガへ
ローベル 柊子 
 
 https://www.toyo.ac.jp/-/media/Images/Toyo/research/labo-center/ihs/bulletin/kiyou22/22_p47-65.ashx?la=ja-JP&hash=738C0F39DEBFA34691F7C30C58B7447A4397F196
 
 
  
 この作品、
ファンの女の子が遊びに来て、というがあるのが変わっておりますな。
 
 でも、枠のないバージョンもございます。
 サンコミックスの『竜神沼』(ママ)に収録されているものは
枠のないバージョンでございますな。
 (右上と右はその表紙と一ページ目でございます)
 
 石森章太郎 昨日はもう来ない  枠のあるものとないものでは、まず扉絵が違っております。
 それに枠の話のためにいくつかのコマがなくなっておりますし、
第七章に枠の話が1ページ挿入されたため、
その後のページがズレてしまっております。
 
 この2つはどのようにして成立したのでございましょう。
 
 
 「石森章太郎の世界」の作品年表を見ますと
昨日はもう来ない、そして明日も
という作品が1959年にあるのですよね。
 
ですからそれが、外枠のない話かもしれない……
のでございますが、コミックスをあらためて見ますと、
「そして」ではなくて「だが」なんですよね。
 
 それに、この作品リストの他の部分には間違いがあるみたいなので、
ここも間違っているのかも。
 
 ネットで探しても見つかりませんし。
 
 国立国会図書館デジタルコレクションのデータを見ても
よく分かりませんでした。
調べ方が悪かったのか足りなかったか。
 
他の作品でも、リストにあって載っていないものも、
逆にリストに無くて載ってないものもございました。

 
 加えて、1959年に描かれたとすると、そもそも疑問な点が1つ。
 
p.70に主人公の健二さんが現実に負けて描いたマンガがございますが、
その「まだら」何とかが、快傑ハリマオっぽいのでごさいますよね。
 
 ハリマオの連載は、1960年4月から。
1959年の作品で出てくるのはちょっと難しい
 
テレビドラマ(マンガと同時に放映) のマンガ化ですから
企画がそれ以前から動いていて、
キャラクターデザインはすでに出来ていたなども考えられますが──。
(ちなみに、連載開始からしばらくは、
 手塚治虫先生が下描きまでの構成をしていたのだそうでございます)
 
 月刊誌から週刊誌への移行期で、しかも連載。
仕事量はグンと増える。アシスタントも雇わなければならない、
と困難は認識している一方で、やってみたい作品とも
思っていたらしいのでございますよね(『言葉の記憶』p.97)。
そんな作品を開始前からこのような形で採りあげるかどうか──。
 
 一方で、1959年と申しますと、
先生のお姉さまがお亡くなりになられたのが1958年でございますから、
その一年後
 
 その時期にこの作品を描いたというほうが、
もっとあとよりも納得できる気がいたします。

(一方で、この時期にそれを描いたとすれば、
 そのときの気持ちはいかに、と気にもなりますが。
 精神的な強さなのか、それとも作品にすることが
 気持ちの整理や解消に少しはつながったのか、つなげようとしてなのか……)
 
 また、赤塚不二夫先生が、そのころ石ノ森先生にそんな提案をした
という話もあるそうでございますし。
 映画『ジェニーの肖像』の日本公開は、1951年だそうでございますから、
名画座か何かで観たのでしたら時間的に問題ございません。
 小説も訳されたものが出ております。
 
 
 さらに加えますれば、枠の話で石森先生は「だが」にするか「そして」に
するかを迷っております
 
 これは、「そして」という作品があったことを示すものではないか。
そう思うのでございます。
 
 
 それらを総合して考えまするに、個人的な見解ではございますが、
 
 1959年あたりでお描きになったのですが、
そのときはボツになったのではございませんでしょうか。
 
 ボツにされるマンガ家を描いた作品がボツになるとは皮肉でございますが、
SFであり、時間ものであり、
主人公がマンガ家の青年。読者とはかけ離れているなど、
ボツになる理由はあると存じます。
 
 新しすぎる、難解すぎるなどの理由でボツになったという話は、
先生のお書きになった文章に出てまいりますから、可能性はあると存じます。
  
 
 それを締め切りが迫っていたのか、受け容れられる素地が出来てきたのか、
石ノ森先生がどうしても発表したいと思ったのか、
描き直しをし、ページ数の都合からか枠の物語をつけて発表したのでございましょう。
 
 それでバージョンが2つになったのでございましょうな。
 
 枠なしのものは、枠つきに描き直したものから、枠を取っ払ったものなのかも。
 
 どちらかを選ばないとならないとなれば、
ページ数の多い枠付のものを採用するのが当然ですが、
枠のない方が作品としてのまとまりはございます。
 
 両バージョンをと言いたいところでございますが、
似たものを2つも載せると、無駄と思われてしまうでしょうしねぇ。
 
 難しいところでございます。
 
 ただ枠の話を省くだけですので、
枠のない物語は掲載された作品から想像してくださいませ。
 
 
 
 
 さて、解説でも描かれておりますとおり、石ノ森章太郎『ジュン』
この作品、
ジュン』の底流を流れる主題となっております。
 
 この作品では解説でお書きになっているとおり、
イノセンスや姉の記憶でよいかと思われますが、
『ジュン』では異性を含めた未知未知なるものとか、
理想、神秘なるものとか、
広い意味が付加されているように存じます。
 
 そしてそれらは、少女の死に暗示されているとおり、
手に入れることが出来ないものなのかも──しれません。
 
 さらに 「昨日は~」の外枠のセリフ、
時間はどんどん過ぎ去ってしまうというのは、
ジュン』の
やがて秋が来て冬が来る」に連なっております。
 
 作中作で語られる自分の描きたいマンガが石ノ森章太郎『ジュン』
編集部の要請など外部的な理由によって
描けないことについては、
たとえば『続マンガ家入門』のあとがきでも、
マンガ家を目指す読者に対して
だいたい次のような感じでお書きになっておられますな。
 
 
 あなたの世界を10として、
それをすべて理解してくれる人はいない。
理解力0の人、5の人……ごく少数は9まで理解してくれる
人はいるかもしれないけれど、10を理解してくれる人はいない。
 
 そこであなたは
あなたの世界を変えていかざるを得ない。石ノ森章太郎『ジュン』
やがてあなたの世界は、
以前1だけ理解してくれた人にも
理解できるような世界になる。
 
 つまりあなたの世界は
だれもが理解できる世界に変わったというになる。
 
 だれもが楽しく遊べる世界を作ったあなたは、
人気者であり英雄でありその世界の”王さまとなった。
 
 けれども、もはやあなたはその世界では遊べない。
 すでにそれは
アカの他人たちの世界になってしまったから──。
 
 
 
プロの意識が芽生えるというのは、
そういうものを吹っ切ることなのでございましょう。
 
 ただ、その一方で、吹っ切ったあとも、
こうした思いはいつまでも持っていたものではないかと思います。
 

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 解説では扉絵の俯瞰前衛的と評しておりますが、青い月の夜
ヒッチコックの映画あたりにあるのではないでしょうか。
その一コマだけで特筆する必要は感じられません。
 
前衛的というよりも、少女のいる部屋を描写しつつ、
彼女の不安や孤独を表現したコマとして
評されるべきでございましょう。
 
 それに語るのてしたら、この一ページだけではなく、
それを起点とした5ページ、p.9までの流れを語るべきですな。
 
 少女がドアを小さく開けて
こっそり外の様子を聞いている一コマ目(p.5)。
 
二コマ目では彼女の顔がアップとなり、 
不安な表情に迫ります(p.6)。
 
そこからp.7・三コマ目まで彼女がのぞき見る部屋の外が描かれ、
少女の不安の理由──両親の諍いですな──が明らかにされます。
 
p.7・四コマ目はp.6・一コマ目と同じポーズで扉を閉め、
ここまでを1つのシーンとしております。
 
 そこから、p.9の月光が部屋の中に差し込むまでが一連。
少女がぼくちゃん人形に話しかけるまでをスムーズなカメラワークで描いております。
 
 月の光とともに起は終わり、物語はオモチャたちの話に移ってまいります。
 
 で、ミッドポイントは、え~と、5ページから35ページの中間だから、
一本足の兵隊が登場するあたりでございましょうか。
 
 解説ではアンデルセンの「鉛の兵隊」(スズの兵隊)と書いてありますが、
ホフマン、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」も下敷きとなっておりますよね。
 
 「おもちゃのチャチャチャ」はどうなのかなぁ。
ウィキペディアに拠りますと、野坂昭如先生の詞のバージョンは1959年。
1回きり使われ、その後1960年にダークダックスが再度採りあげた、
となっておりますから、ギリギリと申しますか、
リアルタイムということになりますが、
何しろ一度や二度の放送だけみたいでございますからな。よくわかりません。
 
 まぁ、「おもちゃのチャチャチャ」は、
キッカケにはなったとしても、影響は最小限のはずでございます。
 
 何しろ、石ノ森先生はデビュー作『二級天使』の中で
一本足の兵隊」という作品を描いており、
それがこの作品の直接の元となっているからでございます。
 
 この作品、『二級天使』の中でも唯一の3回連載。
石ノ森先生としても思い入りのあるテーマだったのだと思うのですよね。
 
「青い月の夜」のp.32に一本足の兵隊が窓を割って放り出される場面がございましょ? 
コマの関係とこの作品では脇道なので目立たない扱いでございますが。
 
 ここで『二級天使』の「一本足の兵隊」の話をいたしますと、
 
 かの作品では、オモチャたちの持ち主の病弱な女の子が、
『毎日毎日、こんな生活もう嫌」と思わず人形2人をはたき、
ガラス戸を破って窓の外へ。
 
そこまでが1話で、2話目から放り出された一本足の兵隊人形モンティと、
ジプシー人形ナナパットの冒険の話となっているのでごさいます。
  

二級天使 一本足の兵隊
 
 
 アンデルセンのスズの兵隊の話はご存じでございましょうか?
 あの物語では、スズの兵隊は魚に飲み込まれますが
「一本足の兵隊」でもやはり飲み込まれます。
 でも、自力で抜け出すのですな。
 
 ラストも、アンデルセンのそれは、涙を誘う終わり方をいたしますが、
「一本足の兵隊」は、二級天使・ピントの力を借りてハッピーエンドで終わります。
 
 きっと、アンデルセンの話の結末を不服に思って、
そのような結末に仕立てたのでございましょう。
 
 一方、病弱な女の子は天に召され、人形たちの王国は後日取り壊されるという、
かわいそうな結末に。
 
 そんな少女の結末をなんとかしてやりたいと思って描いたのがこの作品なのだと存じます。
 
 
  女の子が両親に泣きついて家族が再生するという結末は、お話として、少しありきたりな気もいたしますな。
 
 ただ、家族を見守るような満月で終わるエンドは、それを補って印象的でございます。
 

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.「石ノ森章太郎コレクション  石ノ森章太郎コレクション
  初期少女マンガ傑作選」(ちくま文庫/2021/1)
 
 副題のとおり、
石ノ森先生の初期少女マンガから選択した作品集でございます。
 
 収録されている作品は、以下のとおり。
 
  
 ちなみに、
『石森章太郎の世界 イラストアルバム』(徳間書店/昭和53年2月)や
『ぼくの漫画ぜんぶ』(廣済堂/昭和52年6月)では、
『あかんべぇ天使』は、昭和40年となっております。
 しかし、サンコミックス版でも昭和37年となっており、
この年号で正しいのでございましょう。
 
 
『二級天使』でデビューした昭和30(1954)年16
 (解説だと、1955年デビューで17歳となっておりますが、
  一月号はその前年に発売されるのが普通ですし、
  執筆していたのはそれ以前ですからまぁ同じことでございます)
とすると、
「MYフレンド」をのぞけば、22~25ぐらいで書かれた作品となりますな。
 
 ちなみに、先生のお姉さまがお亡くなりになられたのが、
 1958年(昭和33年)4月、
 
『世界まんがる記』の世界旅行に行ったのが1961年だそうでございます。
 
 スタジオ・ゼロ設立が1963年。
 
 「MYフレンド」をのぞけば、だいたいその間に描かれたということにあいなります。
 
 
 これら少女マンガについて、
石ノ森先生は『石森章太郎の世界』で次のようにおっしゃっておられます 。
 
石森 『龍神沼』だけではなく『そして誰もいなくなった』
   『あかんべぇ天使』など、初期の少女もの短編が好きなんだ。
   というのは、このころ、まだ
   自分の進む道は絶対マンガ家じゃなければならないとは考えていなかった。
   それで、読者にうけることは考えずに、
   本当に好きなことを書いた作品ということでね。
 
──結果的には<それがうけましたね?
 
石森 そうなんだ。同じ感覚で呼んでくれる人がいるとわかって、うれしかったね。
「絶対マンガ家じゃなければならないとは考えていなかった」
とおっしゃってはおりますが、
小説家とか映画監督とかアニメ作家とかジャーナリストとか、
他の職業と申しましても、
ものを書(描)いたり作ったりする仕事という点は確かぶれていなかったと存じまする
 
 それにそうはおっしゃられましても、
マンガのことをおろそかにしていたというわけではございません。
 
 むしろ、マンガを映画と同じような総合芸術と考え、
マンガを映画と同等、
いや、それ以上のものとするために、日夜考えておられたのでございます。
 
 さらにインタビューを読みすすめていきますと、
サイボーグ009(1964)でプロ意識が完全に芽生えたともおっしゃっております。
  
 このプロとそうでない時代の違いは何か、
 作者が作中キャラクターとして登場している
きのうはもうこない だが あすもまた」(1961)
の特に作中作の主人公と、
MYフレンド」(1967)を比べて見ると、一目瞭然でございますな。
 
 自分の描きたいものがあって、
それを描いて断られているのがプロ以前の段階。
貧しくて、でもマンガに対して純粋で。
 
 
 一方、「MYフレンド」の石森先生は、先生と呼ばれております
おうちも立派なものを持っておりますし、自分を二枚目に描いていない。
 プロのマンガ家として自信も自覚もあり、まわりからも認められている。
自分のスタイルもすでに確立している。
 作中で女の子の作品を評価しておりますが、
つまりは編集者の目で作品を見ることができるということでございますな。
 
 評価される側の作品も、
石ノ森先生らしく手なれているのはご愛敬というところでございましょうか。
ちょっとアマチュアっぽくないですな。
 

 
 
 というわけで、
マンガの理想と描きたい作品に情熱的に取り組んでいたのが、
この少女マンガの時代でございますな。
 週刊誌ではなく月刊誌の時代でございます。
しかも読み切りなので、派手なコマはない代わりにストーリーが濃密でございます。
 
 締め切りに追われていたとはいえ、
大人気作家となる以前でございますから、
作品に工夫を凝らす時間もあったのでございましょう。
 
描きたいものも頭の中にあふれ、また映画などから物語や技法などを吸収して、
それをマンガに取り込んでやろうという意欲にあふれていた時だったとも存じます。
 
 作品を見ても、映画的な作りでございますな。
 
 「龍神沼」「夜は千の目を持っている」「あかんべぇ天使」あたりは、
そのまんま映画にしてもおかしくない作りだと思います。
 
 また、ここで試した技法が『ジュン』など後の作品で、
より先鋭化して使われているということもございます。
 
逆に、日常のていねいな描写などは、作風が派手になってからは
あまり描かれなくなったような気も?
 そのあたりは、時代がスピーディな方向に流れたせいもございましょうな。
 
 というわけで次回は、各作品について見ていくことにいたします。

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