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2024/05/09 静岡ホビーショー、今年も登録、気づいたら終わっていたなぁ。とりあえず地方ニュースと新製品速報をチェック。カタログ的なことは重要ではなくて、ただブラブラと見て回るのが実際に言ったときには楽しいのでございますけれどね。行ったとしても、そんなのあったんだって後で知るの、多いですもの。/ニュースによりますれば、このところの日本ブームと円安もあって海外人気が高まっているとか。今後欧米だけではなく、中東・アフリカあたりへも市場を拡大していく予定だとか。逆に輸入業者は円安で大変みたいですな。
[1] [2] [3] [4]
(タイトル下には書ききれなくなったのでこちらへ)
 
庵野監督なら作品内容を理解してきちんと仕上げてくれる……でしょうけど、
エンターテイメントを目指すとおっしゃっておられますからなぁ。
尖った作品にはならないかも
 
シン・ゴジラ』もエンターテイメントとしてまとめておられましたからなぁ。
 
インターネットや
当時の国民総背番号制度に当たるマイナンバー、
新疆ウイグル自治区をはじめとする中国の監視支配体制など、
現実に起こっている出来事から、
原作「仮面の世界(マスカーズワールド)」を映画化するとしたら
などとという妄想はすぐに思い浮かびますが、
万人に受け容れられるものを作るとなりますと、
マイルドになりましょうなぁ。
 
 一方、ホラー性やアクション性には大いに期待、
期待させて欲しいところでございます。
 
YouTubeで見た記者会見では、どの程度の信憑性かは不明でございますが、
蜘蛛男・蝙蝠男の登場をほのめかしておりました。

スパイダーマンとバットマンですよ。
 
というヨタはともかくとして、

今やるのでございましたら、
アメコミヒーローレベル動きは当然期待されますよね。
それに応えることが出来るのか。
興味あるところでございます。

それにヨタとは書きましたけれど、
バットマンはともかくとして、
スパイダーマンとの差別化は出来るのかなぁ。

いやできましょうけれど。
 
ビルの谷間ではロープアクションではなくて、
ビルの壁をかさこそ這い回る動きが中心になるとか、
ロープを使うにしてもターザン的な持ち方にしないとか、ね。
 
ともあれ、スパイダーマンに似せようと思わなければ、
原作でも違っていたので問題はございますまい。
 
でも、ビルの谷間での縦横無尽の空中戦は見たいなぁ
 
サイクロン号はどう使うのかなぁ?
  
敵に体当たりとか、ビルの壁を走ったりとか?

でも、そんなアクションは無くてもいいかな。
 
あまり何でもありというのも、
ヒーローが強くなり過ぎちゃってつまらない気がいたしますし──。
仮面ライダーの場合は特に。

 
ライダーキックはそう叫んで蹴るのだろうか?
叫ぶ意味はないですし、リアリティという意味からも必要ないですから、
叫ばないんだろうなあ、
でも、キックでトドメは変わらないのかなぁ。
原作ではそれほどキックでもないですよね。


 映像表現にも期待。
 万人受けする作品を目指すそうでございますから
それほど極端なものは入れてこないかもしれませんが、
それでも期待せずにはいられません。
 
 

 エンターテイメントを目指すということは、
主人公が死んでエンドということはないでしょう。
 
続編やシリーズ化への含みを残すのかなぁ?
 
『仮面ライダー』という作品ということで考えますと、
2、3作は作って欲しいところでございます。
 
アメコミヒーローと肩を並べるぐらいに注目されるためにも
それはやって欲しいですな。
 
 一方、映画として考えますと、「仮面の世界(マスカーズワールド)」中心で考えますと、
1作の映画としてきれいにまとまるんですよね。
 
テレビシリーズなどの関係もあるのでございましょう、
原作でもキッチリと終わらせてはいなくて、
続いていく体で話を終わらせてはいるけれど。
話としてはテーマを書き切ってあそこで終わりという感がございます。
 
 一作ごとに完結する三部作で、
そのラストに「仮面の世界(マスカーズワールド)」を持ってくるぐらいが、
贅沢だが満足のできる作りになるという気はいたしますが。
それはやはり、贅沢ともうすものでございますなぁ。

 公開は、2023年3月だそう(ホント?)。
 いろいろと気になる作品ではございます。
 
 
* 出だしを『スカルマン』みたいな感じにして、
  連続して起こる怪事件を刑事か記者が捜査しているうちに、
  仮面ライダーに出会う、みたいな形にしても良さそうなぁ。
  その方が仮面ライダー誕生のエピソードを短くできそう。
 
  一方、「仮面の世界(マスカーズワールド)」をラストに持ってくるとすれば、
  誕生編を描いた方がそれが生きる気もするので、一長一短ではあるけれど。
  
  うーん、もうホント、
  「仮面の世界(マスカーズワールド)」をやってくれるものと思って書いているなぁ。
 
  臆断は禁物禁物。

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死語の世界はある」の副産物ともうしますが、補遺でございます。
 あそこに書くのには余談すぎる。
けどちょっと書いておきたいというあたりを書いておきますね。
 
 というわけで、
ラジオドラマ版の『ブラックジャック』にございます。
 ウィキペディアによりますと、
ブラックジャックのラジオドラマは2つあるらしいのですが、そのうちの最初、
 
 1977年にTBSラジオ
「ラジオ劇画傑作シリーズ」の第2弾として放送された方でございます。
 

 おそらく、『ブラック・ジャック』の別メディア化作品としては
最初になるんじゃないのかな。
 
 これ、けっこう好きなのでございますよ。
 
 主人公のブラックジャック役が岸田森さん。
これだけでも聴いてみたい気になるでしょ? 
これが渋くてかっこいいんですよ。
 
 ピノコ役は松島みのりさん。
『キン肉マン』のミート君などの声をあてた方でございますな。
こちらもピノコらしい。
でも、それを知るまで、てっきり小山茉美さんだとばっかり……。
『Dr.スランプ アラレちゃん』の則巻アラレさんに
感じが似ていたものでございますからてっきり。
失礼なことに……。
 
 配役として特徴的なのは、
ブラックジャックギャング団」というのがおりまして、その子役たちが、
ナレーションやモブ、効果音なんかを、
一言ずつ、代わる代わる担当していくのでございますよ。
 
 リアルにやるとなると、
役者がたくさん必要だったり、話が長くなったりするところを、
適度に省略して10分という尺の中に収める役に立っているわけでございます。
 同時に、マンガ的なテンポやコミカルさも、それによってうまく表現しておりました。
 
 ラジオドラマならではの手法でございますな。
 
 主題歌は、ブラックジャックに宛てたラブソング。
ちょっと甘すぎな感じもいたしますが、いいお歌でございます。
 
 今回、YouTubeで聴いたのでございますが、
ラジオドラマでございますから、音質や雑音の点で、
どうしても他の動画とくらべて見劣りしてしまいますな。
AMラジオですからモノラルですし。
 
 いや、でも残っているだけで貴重でございますな。
 こういうものが残っていること自体、本当に驚きでございます。

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ワイルドセブン』と申しますれば、
いわずとした望月三起也先生の傑作アクションマンガ。
 
 やはり初期メンバーが一番でございますな。
 個人的には八百のトンデモバイクの機構を完全再現して、
プラモデルか何かで出てほしいものだと思う次第でございます。
 
 それはそれといたしまして、
最初の最初のほうでは、
ヘボピーと八百のニックネームが違うものだったことはご存じでございましょうか?

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オバケのQ太郎藤子・F・不二雄大全集
『オバケのQ太郎』
1・4 
藤子・F・不二雄 
藤子不二雄(A)
(小学館/2009/7・2010/1)


石ノ森章太郎先生のファンとしては
外していけないのが、
少年サンデー版の『オバケのQ太郎
でございますよね。
 
 サブゲストキャラクターのいくつかを
先生が手がけていたことはご存じでしょうが、
特に注目すべきは、
いったん終了する前の初期9話でございます。
 
 このあたりは、
スタジオゼロ作品としてみんなで作っていこうという思いがあったのでございましょう。
 絵もストーリーも、藤子先生が取り仕切ったそれ以降とは違っておりまして、
その違いが面白い。
 
 
 
 たとえば話「まとめてめんどうみてよ!!」などは、
石ノ森先生のアイデアと思われるスラップスティックコメディでございます。
 
 オバケのQ太郎二話
 

 藤子先生のギャグは、四コマの起承転結をつなげていくようなものが多いので、
はっきり違います。
 
 あるいは、スタジオゼロ全員でやっていくということで、
こういう方向性もあるよと幅を広げるために描いたの、かなぁ?
 
 
 
話「Qチャンと正ちゃんの裸一貫」のこんな表情も、
明らかに藤子作品とは異質でございますな。
 
 オバケのQ太郎三話
 

 
 
 第話「正ちゃんのペットはオバケQ」は、
なんかキャラクターが混乱しているような……。
  

 オバケのQ太郎四話 
 
 いろいろな意味で見どころがございます。
 
 
 
 石林正太郎『ぼくはエスパー』
 
 
 もうひとつ、石ノ森章太郎先生の ファンとして
見逃せないのが、「超能力入門」。
藤子・F・不二雄大全集の
『オバケのQ太郎』では
巻に所収されております(p.260-)。
 
 この作品には、超能力を説明するために
石林正太郎先生の『ぼくはエスパー』というマンガが
登場するのですが、キャラクターがミュータントサブ
なのでございますな。
 
 幼いころ、友達の家で
虫コミック版のこのシーンを見た時、
びっくりしたものでございますよ。
 藤子不二雄先生ってどんな絵でも描けるんだ、
すごいなぁ、って。
 

 でも、まぁ、
これは石ノ森先生が描いたものでございましょう。
 
 
 
 
☆ 追記
 
  しまった~!
 2009/7/29にも『オバケのQ太郎(1)』の記事を書いておりました。
 
 しかも、書いていることが同じところがかなり。
 こっちには書いていないことも少し。
 
 ……。
 
 まぁ、仕方ないですな。
 
 
 

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前回(2019/11/27)居村真二先生の名前が出たことにかこつけて、これ。
 
「拳銃無宿」居村真二
(「COM 1970/11」(虫プロ)
ぐら・こん=コミックスクール ストーリーマンガ教室 p.250-256)
 

 居村先生は、COM誌(虫プロ)の新人発掘コーナー
「ぐら・こん」に何度か掲載されているようなのでございますが、
これはたまたま持っていたものに掲載されていた作品。
 21才の時のもののようでございますな。
 この号は入選はなく、第2席が筆頭。
その第2席となっているのがこの作品でございます。
 
 居村真二
 
 選と評は石ノ森章太郎先生。
 絵と構成はうまいが、ストーリーは古くさいと評されていますな。
 
 逆に申しますれば、
ストーリーはオーソドックスながらそれをきちんと見せる実力を持っている、
とも申せましょう。
 
 のちの居村先生の作風がすでにこの時現れておりますな。
 
「COM」という雑誌に合っているかは疑問でございますが、
この雑誌に挑んでみたかった、とか、
石ノ森先生の評価をもらいたかった、などの思いがあったのかも? 
などと、想像する次第でございます。

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前回(2019/11/24)挙げたような、
自作を例に取った描き方の本ですとか、落書帳、エッセイみたいなものって、
出た時には書かれたとおりの意味しか持ちませんが、
後になって読み返すと意外な発見とかがあるものでございますよね。
 
 たとえば、『石森マンガ教室』のコママンガの投稿作品には、
静岡県・菅谷充くんや、千葉県・河あきらくんや、
大阪府・居村真二くんの作品などが載っております。
まぁ、コママンガの一作品ではございますが。
 
 第三部、本のおわりに「きのう・きょう・あした」と題した自伝
書かれているのも興味深いですな。
 生い立ちについては他の本でも読むことが出来るのかもしれませんが、
わたくしがそういうの読んだことあまりないので、書いておきます。
 
 
 
 それはさておきまして。
 この『石森マンガ教室』では、
ストーリーマンガの発案から最初のページにいたるまでの過程を、
サイボーグ009』を例にとって紹介しているのでございますな。
 ページの短いものでございますから、
さらっと眺めていたのでございますが、あらためて見るとこれが興味深い。
 
 たとえばノート6
ここには、サイボーグ戦士のメンバー候補が書かれております。
 
サイボーグ009  
 
 面白いでしょ?
 ロシア人は赤ん坊ではなくて大男ですし、オーストラリア先住民がいる。
 
 この前のコマで世界視点の話だから、とおっしゃっているので、
まず場所から考えていったのでございましょうな。
 
 で、オーストラリアなどは、
資料が少ないかイメージが湧きにくいなどの理由で、アメリカ先住民に。
 
 それでしたら西部劇などのイメージがございますし作者も読者もわかりやすい。
「2番ピッチャー」のアメリカ人との対立も描きやすいだろう、
という思惑もあったように存じます。
 
 その他、実際の作品に反映されているところは多いものの、
そうでない部分が興味深いところではございますな。
 
 
 各キャラクターの前には、ポジションが書かれてございます。
 この何ページか前に『サイボーグ009』が
野球からヒントを得たように書かれておりますが、それはまゆつばといたしましても、
キャラクターを練る過程で、野球の役割分担を考えてみたということはうかがえますな。
 
 四番サードが主人公で、ファーストが三・四番というあたり、
長島・王時代の巨人軍でございましょう。
 
 ただ、ポジションとキャラクターの性格にあまり関係はない……。
 試しにやってみた程度だったのでございましょう。
 
 まぁ、あまり関係させましても、
キャラクターがつまらないものになってしまいますからな。
下手をするとパロディになってしまう……。
わたくしはついついそれをやってしまうので、困ったことでございます。
 
 
 ところで、
この段階では人種などによる対立を描くつもりがあったようでございますが、
実際の作品ではそれがほとんど出てこない。
 
 メンバーのうち8人は最初から団結していますし、
後から加わる島村ジョーさんも自然に受け入れられておりますし――。
 少しあとで、ピュンマさんのウロコ問題なども出でまいりますが、
メンバーの対立ではございませんし、
そういう要素も入れないとと、とってつけた感じもございます。
 
 もともと住んでいる違いすぎるせいで対立要素にならなかったとか、
ストーリーがメインになるうちに書く必要がなくなったとか、
作者の性格とか、
サイボーグとしての悲しみのほうに重心が移って民族的な対立要素は薄くなった、
など、理由はまぁ、いろいろと考えられはいたします。
 
 
 あと、特殊能力については、まだこの段階では考えていないようでございますな。
 001なんかは特殊能力を考えている段階で生み出され、
オーストラリア人とロシア人が統合されて005になったという感じでしょうか。
 それとも逆かな? 
 オーストラリア人とロシア人が統合され、
ロシアがあまったから特殊能力から生まれた001が加わったのかも?
 
 
 
 
 以前、『サイボーグ009』の能力は、
『キャプテンフューチャー』なんかがもとになっているのでは、
と妄想を書いたことがございますが(*)
キャラクターの能力と性格はそれぞれ別に考え、
あとで結びつけたような気もいたします。
 
 イギリス人(007)ですとかドイツ人(004)などは能力と結びつきやすいですが、
中国人(006)の地中やアフリカ人(008)の水中などは、
性格とは結びつきにくいですからな。
 
 2つを1つにすることで、元ネタに引きずられることがない、
新しいキャラクターを作り出しているのではと、
わたくしなどは考えているのでございます。

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 『テレビ小僧
朝日ソノラマ・サンコミックス版・巻(昭和42年)の冒頭には、
 
「点と線」――「テレビ小僧」に寄せて――立川談志師匠 
 
というタイトルで、
立川談志師匠が稿を寄せております(p.6-8)。

 物語の筋をとおして語る従来の笑いをとすれば、
瞬間瞬間で笑わせるスラップスティックギャグは
いわばの笑いだ。 
 
「石森章太郎のマンガには、
 自分の『線』をもちながら
 『点』にわが身を投げようとする
 意欲と挑戦があるわけだ。」
 
とお書きになっておられます。
 
 とは申せ、それに同調するつもりはないようでございます。
 最初に手塚治虫のマンガや古典落語が好きだ、
と宣言していらっしゃっており、
宗旨替えをするつもりはないようでございます。
 
 ただ、線の笑いがのうのうとしていれば、
「点族」に席巻されてしまうのではないか
という危惧は抱いているようでございますな
(リップサービスが入っているやもしれませんが)。
 
「守るのもいい。私の趣味からも、まもってほしい。
 しかし、その反面、攻撃に出ないと、えらいことになる。
 石森章太郎の「テレビ小僧」を読んで、
 おとなマンガのふがいなさに義憤を感じるとともに、
 「点族」のすさまじい台頭を見た。」

 と、結んでおられます。
 
 これは、談志師匠がみずからの落語に対する姿勢を表明した
ものと考えても差し支えございませんでしょう。
 
 これって今電子書籍になっているバージョンには収録されているのかなぁ、
談志師匠のファンの方は知っているのかなぁ、
などと、ちょっと気になるところではございます。
 
 
テレビ小僧』や『がんばれロボコン』といった
石ノ森章太郎先生のスラップステック(ドタバタ)マンガでございますが、
それほどわたくしの趣味ではございません。
 
 アイデアは豊富であるものの、勢いで突っ走る感じが……。
 石ノ森先生の執筆スピードとバイタリティ、
それに『テレビ小僧』の場合は「モーレツ」が時代の言葉となった
高度成長期を感じさせますが。
 
 
 さて、こうしたギャグマンガのアイデアでございますが、
意外と『ジュン』のイメージの連想と似たところがあるように思うのでございますよね。
 特に、テレスケが妄想するところあたり……。
 
 意外と思いましょうか?
 それとも、同じ頭から出たものだから、とお思いでしょうか?
石森マンガ教室』では、
発想の練習法として次のような方法を紹介しているのでございますよね。
 
 まず、簡単な図形を描きます。
 そこから、○なら太陽ですとか、まり突きをしている女の子ですとか
、地球ですとか、どんどん連想をつなげていくのですな。
それを何十回か繰り返し、元の○に戻ってくるという。
 
(講談社の「石ノ森章太郎デジタル大全」では、
 『石森マンガ学園』というタイトルで出ております。
 試し読みでギリギリそのあたりまで見ることができるので、
 興味のある方は探してみてください)
 
 この方法はまさに、『ジュン』のイメージの膨らませ方だと思うのでございますよね。
 
  そしてイライラの巻テレビ小僧』もまた、このように
  1つのテーマからイメージを膨らませるという
  手法をとっているのでございます。
   (参考:『続・マンガ家入門』
      石森章太郎(秋田書店/1966/8))
 


 

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あるいはその呪縛。
 
 前回紹介いたしました宮崎駿の手塚先生批判
宮崎駿先生の記事の載っておりました
「COMIC BOX」誌は、
手塚治虫先生の追悼特集号なのでございますな。
 

 宮崎駿先生の手塚先生に関するインタビューも、
そこに掲載されております(p.108-109)。
 
 もちろん、と申してよろしゅうございましょう。
お上品な亡き人を悼む追慕ではございません。
 
 手塚先生の作品の何がきらいかということを、
歯に衣着せぬ口調でハッキリとおっしゃっておられます。
 
宮崎駿先生の手塚治虫先生批判
 
 よく言われますアニメの制作費の安さの元凶を作ったことに対する批判は、
ここでは簡単に触れられているのみでございます。
それについては、もう語り尽くしたということでございましょう。
 
 それよりも、手塚作品の安っぽい悲劇性や安易な作劇に対して否を唱えておりますな。
 
 と、その方向性でこの記事をまとめようと思ったのでございますが、
そのうしろには、手塚先生の '89年の長いインタビューが……。
 
 
 
 とりあえずついでに読んでみました。
 
 「手塚さんは10年前何を語ったか 再録「珈琲と紅茶で深夜まで」
●interview 手塚治虫 ●企画・構成・制作/香月千成子(初出「ぱふ」'89 10月号)
 
 すると、手塚治虫先生は頭のいい方でございますからな。
 自分の作風については、ちゃんと理解しておられる。
 
 見えてくるのは、次の3つ。
 
(1)キャラクターは、パターンであり、記号である。
(2)自分は作家ではなく、職人。
(3)キャラクターよりもお話に重要性がある。
  
このあたりが、宮崎駿先生とは一線を画す部分でございますな。
 
 
(1)
は、おわかりでしょう。
   ジブリの仕事は、まさにパターンではない自然な動きや、
   自然な感情を表現した演技を目指しておりますからな。
  
 手塚先生は、みずからのマンガを
 センチメンタリズムはあるが感性はないと評しております。
 生身の感覚はなく、キャラクターは怒りとか悲しみとかを表す
 記号・文字のようなものおっしゃっておられます。
 
 

(2)は、常に雑誌に発表しウケ続けなければならない、
   そういう思いが、手塚先生には強かったようでございますな。
   そうしなければすぐに忘れ去られてしまう。

   だから、時代やジャンルにあわせて売らんがための職人的な細工をするのだと
   おっしゃっておられます。
    (その細工に隠された、本当に描きたいものを見て欲しいともおっしゃっておりますが)。
   キャラクターも話にあわせて変えられるように、
   パターンとしての性格はあるが、内面は割と空っぽだと自己分析しておられます。
 
 
 
(3)は、お話が重要で、
   ロックやケン一といった主人公クラスでも本当に愛してはいない、
   だから、話の都合で簡単につらい目にあわせてしまう、のだそうでございます。
 
   宮崎先生が問題にされていた、
   感動するからという理由でキャラクターを簡単に殺してしまうことができる
   というのも、そうした姿勢からでございましょう。


 
 

 キャラクターの動きや表情をパターンや記号とし、。
 ウケやテーマやストーリー上の都合のために、キャラクターをコマのように扱う

 そうした
 キャラクターの人間性を軽視した作り方に、宮崎駿先生は反発したのだと思います。
 ですから、これとは逆の方向を目指したのでございますな。
 
 1つ進化したスタイルと申せるかもしれません。
 
 
 ただ、この方法って、時間がかかるやり方でもあるのですよね。
 
 キャラクターの表情や動きをパターン化し、
 ストーリーが詰まったり盛り上がりに欠けるときは定番の手法で切り抜ける。
  
 そうすれば、時間をかけずにストーリーを展開していくことができます。
 連載を何本もかかえていた手塚先生にとっては必要な手段だったと申せましょう。

 (こういうのって、ノッているときはそれほど必要ないものですよね。
  鉄腕アトムの初期と初期の映画を比較したところで、
  宮崎先生が引き出しにあった残骸とおっしゃっているのが、こうした定番の手法でございますな)


 
 宮崎先生の作品が、制作期間が長くかかってしまったというのは、
こういう割り切りかたができなかったためでございましょう。
 
 そのことは、「いまひとたび『少女ネム』」のところにさし入れた、
『魔女の宅急便』のインタビューでもうかがえますな。
 
 後期の宮崎アニメが、起承転結がないなどと批判されるのも、おそらく
お話のために、登場人物をコマのように動かすことに対する反発があるためと存じます。
 
 
 
 
 ところで、手塚先生のインタビューで面白いのは、新人のマンガ家に対して、
先生がすなおに絶賛をするところでございます。
自分の描けない新しい感性をものすごく評価している
(新しいマンガに対抗・挑戦していったのが手塚先生でもあるのですが)。
 
 一方で、そうしたマイナーな、一部の熱烈なファンしか持てない作家ではなく、
マンガ界全体をひっくり返すほどの大きな潮流を生み出すマンガ家の出現を期待している。
 
 おそらくこれは、
マンガ界をひとりで変革・牽引してきた手塚先生の思いなのでございましょう。
 
自分に匹敵するような人物が現れて、マンガの新しい道を示してくれるのではないか。
でなければ、マンガというのはそのうち他のメディアに圧倒されてしまうのではないか。
 
 そんな期待と少しの恐れがあったのだと思います。
 
 
 結局、手塚先生亡き後はそうした大きな存在が現れることはなく、
いくつかの潮流はあるものの、個性的なそれぞれが乱立している時代となっておりますな。
 
 マーケティングのウケを狙った作品が一方であり、
エッジの効いた作品があり、
何でもない日常をつづった作品あり、

 中心はなくとも、マンガの多様性は広がっているようでございます。

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(前記事:少女ネム 2018/04/22 (Sun)

 
 
 
 
『漫画原作者・狩撫麻礼 1979-2018狩撫麻礼先生 
 《そうだ、起ち上がれ!!
  GET UP.STAND UP!!》』

 狩撫麻礼を偲ぶ会・編
 (双葉社/2019/7)
を、
  
 どうしようか迷ったあげく買いました。
  
 木崎ひろすけ先生の
 『少女ネム』については、
 鈴木健也先生が、
 「少女ネムの想い出」という
 タイトルで、4ページのマンガを
 描いていらっしゃいます
         (p.164-167)。
  
 1ページ目が、その出会い。
 2ページ目が、作者の死による別れ。
 3ページ目が、「ネム」の内容。
 そして、4ページ目が、
 鈴木先生のの予想する、
 描かれなかったハッピーエンド
  
 という構成でございます。
 
 なぜ鈴木先生が『少女ネム』についてお描きになっているのか、
この4ページだけでは伝わり方が今ひとつという感じがいたしますが、
この
 
 http://w01.tp1.jp/~a303594771/
 
あたりを読みますと、その思いが伝わってまいります。
 
 そんなわけで、このマンガ。
4ページの中で、『少女ネム』という作品を
うまく紹介しているとは思うのでございますが、やっぱりなぁ。
これだけではもの足りない……。
 
 みかんですし、一巻の分量しかございませんし、
狩撫先生にはたくさんの知名度の高い作品がございますし……、
というのはわかるのですが、何か残っていなかったのかなぁ……。
 
 
 
 さて、前回『少女ネム』の内容には触れませんでしたが……。
 
 あの記事を書いて少ししてから、
 
「COMIC BOX vol.61 
 1989年5月号 特集 ぼくらの手塚治虫先生」
(才谷遼(株)ふゅーじょんぷろだくと)を読んでいたのですね。
 
 すると、p.176
にこんな記事が。
 

魔女の宅急便 
 
 ねっ。
 これ読みますと、『少女ネム』って上京後は、
こういう話をやろうとしていたんじゃないのかなぁ、
って思うわけでございますよ。
 
 木崎先生や狩撫先生が、この記事を読んでいるかどうかはわかりません。
 でも読んでいるんじゃないかな?
 読んでなくても、
他でもこのような発言をきっと宮崎先生はなさっていらっしゃるでしょう。
 狩撫先生はわかりませんが、
木崎先生の好きな作品には、宮崎作品が入っていそうでございますし――。
 
魔女の宅急便』が、'89年。『少女ネム』が'96年なので、
ちょっと離れているのがこの説の弱いところではございますが。
話の中で出てくるということはございましょうし……。
 
 まぁ、影響はなくとも、
そのような話だったのではございませんでしょうか。
 2人の物語は、大団円に到るといたしましても、
それまでには大きなうねりが用意されていたと思われます。
 
 どなたか、作品を引きついで、
完結まで描いてくださる方っていないのかなぁ……。

 ここまでの物語は魅力的なのだから、

それを大事にすれば、きっと素晴らしい作品になると思うのですが……。
 
(* 個人的な希望は、作は木村航先生でしょうか、やっぱり。左のリンクにある
「野望の王国」ミラーサイト入り口

   書かれた引用からして、多少なりとも木崎ひろすけ先生のことはご存じだったのでございましょうから)

 
 

 
 
 

* でも、それにしても、
  宮崎駿先生のこのインタビューを読んで、
  京都アニメーションの火災事件を思い出すと、
  ホントにやる瀬のない気持ちになりますな。
 

拍手[2回]

「ウォーロック・マガジン」vol.4で、
「パグマイアRPG」というD20系のTRPGが紹介されておりました。
 犬が主人公。
 アフターホロコーストで、剣と魔法の中世風の世界だそうで。
 
 となると、
 石ノ森章太郎先生のファンとしては、
 『ドッグワールド』を思い出さずにはいられません。
 
ドッグワールド
 
  『THE DOG WORLD ドッグワールド』1~3
                 石森章太郎 (大都社/昭和52年)

 
 
 基本三銃士的な中世ですが、ロボット工場なども存在する世界。
 にはが住むという神殿があり、その定めを伝える法王を長とした
僧侶たちの「聖府」を中心に、
貴族・軍族・平民といった階級的な社会が形成されているのでございますが、……。
 
ドッグワールドの世界
 
 
 物語は、
 騎士を目指して田舎から出て来たシバ謎の少年・ヒトを主人公に展開いたします。
 今で言ったら『けものフレンズ』?(1~2話ぐらいしか見たことございませんが……)。
  
 
 貴族と軍属の対立、陰謀、ゲリラ組織との出会い……。
 世間知らずだったシバは、
さまざまなことを目にして、悩み、行動し、核心に近づいてまいります。
 
 そんな中、ひそかにうごめく不穏の影。
 外敵、ネコの襲来。
 
 神殿は崩壊し、その深奥でシバとヒトは、
この世界を造ったカミと呼ばれる存在とまみえます……。
 
 その存在によって、この世界の「歴史」が語られるのでございますが……。
 
 バベルの塔の神殿に、大仏やスフィンクスが収まっているなど、
ビジュアル的にも面白いですな。
 
 先生の作品って、
「次々と新しい作品を描きたくなり、今までの作品の力を抜く」
「竜頭蛇尾」(*)なことがございますが、この作品は違います。
 
(*) 『三つの珠』虫プロ版のあとがきでございます。
    『三つの珠』に関して「終わりまでちゃんと描きたかった」

    という文脈の上での言葉でございますから、誤解なきよう、念のため。
 
 
 もうひとつの『リュウの道』という感じで、
 
 プロローグの『魔法小学校』から
 エピローグの『魔法惑星』まで、しっかりまとまっている。
 
 
 超能力による理想世界が当時的。
 その根本思想がアニミズムなのが、石ノ森先生らしさでございますな。
 
ドッグワールド
 
 お亡くなりになられたあと小野寺丈さんがお書きになられた「009」の終章を
 わたくしは読んでおりませんが、
 テーマ的なものは、むしろこの頃の作品のほうが
「神々の戦い」で言い表したかったことを表現できている気がするのでございます。
 
  
 まぁ、超能力うんぬんは、20世紀の最後あたりでいろいろございましたから……。
今は割り切って読むのがよろしいかも。
 
 
 いずれにせよ
堂々とした作品でございます。
 

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と申しますれば、

石ノ森章太郎先生のファンとしては、『ジュン』の「春の宵」でございますよね~。
 
 『ジュン』という作品は、マンガでこんな表現ができるんだ、
と、当時非常に衝撃を受けたものでございます。
 
 大人になって冷静に読んでみますと、ちゃんと筋があって、
それを追うだけならばそれほどでもなかったりするのでございますが。

 感性で読むんだ。そこから広がるイメージをとらえるんだ。

 というわけでございますな。
 

 内容的には、全編にわたって桜の花びらが舞い散る中、
桜の精が舞い、屍が現在と過去を結びつけ、そしてすべては桜吹雪となって……。
 散る花の美しさと死のイメージ。
 桜吹雪の見せる夢幻でございますな。
 こういう作品を説明するというのは、難しいものでございますが。
 
 黒澤明監督の『羅生門』や、
梶井基次郎先生のの『櫻の樹の下には』ですとか、
坂口安吾先生の『桜の森の満開の下』など、
イメージの基にあったのかとも思われます。
  
 ちなみに、古本屋さんで買った『COM』誌1968年4月号
たまたまこの「春の宵」が載っていたのでございますが
 
(この号には、永井豪先生の『豪ちゃんのふあんたじーわらうど バン』や、
石ノ森先生の「『墨汁一滴』の周辺」という一ページエッセイも載っておりました)、
 
 雑誌掲載時朝日ソノラマ版(昭和50年)では、
15ページ目のコマの並びが違っていることはご存じだったでしょうか。
 
 わたくしは、この記事を書くにあたり、両者を見比べてみてはじめて気がつきました。
 
春の宵 雑誌掲載時
 
                        (「COM」 1968/4)
               ⇩
 
春の宵 朝日ソノラマ

                        (朝日ソノラマ)
 
 
とまぁ、こんな感じ。
実は、朝日ソノラマ版の15ページは、2ページ目とまったく同じなのですな。

 16ページ目は、桜の花びらが舞い散る中、ジュンの全身像の1枚絵。
 両側に余白を残し、少し縦長の画面となっております。
 これは1ページ目と同じ絵。
 (雑誌のほうは、「RENSAI ⑯/章太郎のファンタジイワールド ジュン/
       (春の宵) 石森章太郎 と入ります)
 
 ですから、循環するイメージを狙ったものでございましょう。
 いや、はじまり、そして終わる、と言ったたほうが正しいですか……。
 
 とすると、雑誌連載時と本になったものではどちらがいいか……。
 流れから、雑誌時のほうが自然かなとも思えますが、
 実際に比較してみますと、朝日ソノラマ版のほうが効果的なのでございますな。
 目のアップから、ポンと全体を見せるのがリズムになっている。
 
 変えただけのことはある、と思うのでございます。

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受験シーズンですねぇ……。
 
 というわけで、四コマ。
 
 このサイトを見ている方で、受験生がいるかは存じませんが、
もしいるのでしたら、がんばってくださいませ。
 
ダンジョンダイバーズ

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というわけで、四コマ。

一月のうちはお正月ですよね!!

お正月ですから

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きのう、2018/09/11 の記事
「『キャプテン・フューチャー』の日本への影響(1)」の続きでございます。

というわけで次に、
アニメマンガの世界に目を移すことにいたしましょう。

 まず、1966年4月~1967年3月に渡って放映された、
レインボー戦隊ロビン』でございます。

 復刻版『レインボー戦隊ロビン』
スタジオ=ゼロ原作 風田朗(大都社/昭和54年7月)

――ちなみに、風田朗(かぜたろう)は鈴木伸一先生のペンネームですが、
ここではスタジオ・ゼロ(藤子不二雄・石森章太郎・鈴木伸一・長谷邦夫
の先生の合作ペンネームとして使われております――

によりますと、

安孫子素雄先生は、『七人の侍』、藤本弘先生は『八犬伝』などと
申しておりますが、石森先生ははっきりと、

あれにはネタ本があるんだよ。
『キャプテン・フューチャー』というね……」(p.201)と、
おっしゃっております。

で、その石森先生が原型を作っておられるのですから、
影響は間違いのないところでございますな。


 キャラクターの配置といたしましては、

ヒカル…… キャプテン・フューチャー
教授……  サイモン・ライト
ベンケイ……グラッグ
ウルフ…… オットー
      
(マンガ版では見せませんでしたが、アニメではウルフは
       一般人になって行動する
       変身能力があるようです(←ウィキペディア))
ペガサス……コメット号

 メンバーはあと、
索敵担当のレーダー(アニメではネコ型のロボット・ベル)と
看護ロボットリリがおります。

情報収集を女性キャラクターにしなかったのは、
『サイボーグ009』の003とカブってしまうからかも知れませんな。


 というわけで、次は『サイボーグ009』。
 
『レインボー戦隊ロビン』で
『キャプテン・フューチャー』に言及しているのなら、
その数年前に連載開始された『サイボーグ009』1964年~
にも、当然のごとくその影響はございます。

 前回書きましたたとおり、『キャプテン・フューチャー』が
初めて取り上げられたのが、
「SFマガジン」誌196311月の
「SF英雄群像」第三回目(野田昌宏)でございますから、

1964年の中ほどに『少年キング』で連載が開始されたということは、
「SF英雄群像」を読んですぐぐらいということになりましょうか。

もっとも、サイボーグという言葉は、「LIFE」の記事から取った
と本人がお書きになっておりますから、洋書に目を通していて
キャプテン・フューチャー』のことは当然知っていたでしょうし、
決断は早い方でしょうから、
時期的に早すぎる、ということはございませんでしょう。


というわけで、『サイボーグ009』のキャラクターの配置でございますが、
『レインボー戦隊』とくらべて、むしろこちらの方がわかりやすい。


001……サイモン・ライト
005……グラッグ
007……オットー
009……キャプテン・フューチャー

という形でございますな。
残りのメンバーについては、

002……空中
006……地中
008……水中

と、どんな状況にも対応できるようにして、
(水中や地中からの単独の潜入や脱出を考えていたのかな?)

003……索敵・情報収集
004……攻撃

この2人は、もしかすると宇宙船コメットの能力を、
二人に振り分けたということかも知れません。

いずれにいたしましても、巨大な敵と直面するためには、
両方とも必要な能力でございますな。

 このように、あらゆる局面に対応できるようにと考えられたのが
サイボーグ戦士の能力だと思いますが、
その結果、006や特に008あたりがあまり活躍できない結果になっておりますな。


 まぁ、人間が一度に覚えていられるのは七つぐらいで、
主要登場人物も、それ以上になると影が薄くなるのだとか。


p.52 池谷 
 (……)私たち専門家は「マジカルナンバー7」と呼んでいます。映画やドラマ、物語に出てくる登場人物もたいてい七人以内に押さえられているでしょう。それ以上になると人間の頭が混乱してしまう。瞬時に把握できるのが七個までなんですね。そこには個人差はない。

『経験を盗め』糸井重里(2002/7 中央公論新社)
 「記憶のお話」 糸井重里×池谷裕二×樋口清美


ところで、この『サイボーグ009』ですが、
名前からして明らかに「007」シリーズの影響を受けていると思われますのに、
石ノ森先生は、野球から思いついた、とお書きになっておられますな。
これは、後づけで無難なことを書いておられると思われるのでございますが、

ただ、役割分担という点は、野球からヒントを得たのかもーー。
「007」シリーズはチームで行動とか、
00ナンバー間の役割分担は、あまりございませんからなぁ。
……。
スパイ大作戦』(1966年~)にはございましたが、時期的にはあとですし……。

まぁ、作品のヒントやそれを描いた動機などは、
わかりやすくひとつに決まるということは、まずないものでございます。
というわけで、アイデアを形にするまでには、
いくつかの発想の源があったのでございましょう。



さて、もうひとつ
やはり『キャプテン・フューチャー』の影響を受けた
と思われる日本のマンガがございます。
 それは、横山光輝先生の『バビル二世1971年~


キャラクターの相関は、
バビル二世……キャプテン・フューチャー
コンピューター……サイモン・ライト
ロデム……オットー
ポセイドン……グラッグ
ロプロス……コメット号

 ロデム何にでも変形できることを起点にできるからいいのですが、
『鉄人28号』の作者らしく巨大化したロボット・ポセイドンや、
正体はロボットらしいのですが、翼竜となったロプロスなど、

元が『キャプテン・フューチャー』だとは、
ちょっとわかりにくいですな(この仮説があっていたとしてでございますが)。



 それに、どの作品もそうでございますが、変身能力、ロボットの怪力など、
機能だけを引用してそれ以上の要素は取り込まない
性格やその他の設定は自分で用意することによって、自分のものにしてしまう。


 ヘタにやると、元の作品が透けて見えてしまったり、
パロディやマネになってしまうのですが、
一流の作家の方々は、そういうことなしに、
完全に自分のキャラクター、自分のストーリーにしてしまうところが、
さすがなのでございますな。


「『仮面ライダー』はなぜバッタ男か」のところでも書きましたが、
ほとんどの人が気づかない形で自分のものにしてしまう……。
一流の方は、この能力が本当に高いと思うのでございます。

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「ドラゴンマガジン」の創刊号(1988/3 富士見書房)を読んでいたら、

当時週刊少年マガジンで『バリバリ伝説』を連載中だったしげの秀一先生が、
「メカこそ男のファンタジー」というタイトルで、エッセーを書いておりました(p.39)。

「近頃は愛車トレノのチューニングに夢中で、
エンジンや足回りを改造して夜中のワインディングロードを走りに出かけます。
腕のほうはイマイチだけど気分だけはWRCで、
ドリフト状態でガードレールすれすれに立ち上がれた時なんかは、
我ながらヤルなーなんて、一人で悦に入っていたりもします。
とにかく一度でもチューニングカーを運転する楽しさを知ってしまったら、
もう二度と普通のクルマに乗れないカラダに……なってしまいました。」

とか。


 で、そんなしげの先生が、当時描きたかったのが、
ホンダのF1エンジンを開発したスタッフが
第二次大戦中にタイムスリップする話だそうでございます。
敗戦の色が見えてきた時代、零戦のエンジンを、
チタニウムやセラミックといった現代(当時の未来)の素材も使って
チューンナップし、そのスーパーゼロでムスタングを次々と撃墜していくという……。

 描かなかった理由はわかりませんが、
もしかすると、そんなマンガを描いていたかも知れないのですな。

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拍手がひとつ入ったことに調子に乗って、

ーーでも、これって、ランキング日別だったみたい。
また28922 位 / 28922 ブログ、とかに戻っちゃったよーー

 まぁ、それはともかくとして、
わたくし的石ノ森章太郎先生ベスト

『三つの球』
(虫プロ 石森章太郎選集 第14巻/昭和45年2月)。
初出 「少女クラブ」昭和33年4月号~昭和34年3月。

 知らない方は多いでしょうし、知っておられる方でも、
異論反論ございましょう。

 が、わたくし的なので、そういうのは関係ございません!

 まぁね。第一部のみで終了しておりますし、
その理由も著者によれば「人気が無かったから」
それに初期の少女マンガでございますから、
シャープでシリアスな画風が好きな方のなかには、
眼中の外とおっしゃる方もおられましょう。

 でもね、いいのですよ、これが。

 舞台は平安時代……、と申しましても、現実の、ではございません。
天狗や滝つぼの精は出てまいりますし、
酒呑童子やハカマダレ、牛若丸と、時代の特定も出来ません。

 まぁ、ファンタジーと申しますか、おとぎ話的な平安時代ですな。

 作風は、ディズニー……というより、
東映動画あたりの長編マンガ映画を思わせるもの。
歌あり笑いあり、ドラマあり、映画的な演出も凝っております。


 赤・青・黄金、三つの大切な宝珠を地上に落としてしまったイッチンは、
その罪の報いとして、コウモリに姿を変えられてしまいます。

 そんな弟を元の姿に戻すため、天女美雪は、
彼女に想いを寄せる天平とともに、三つの珠を探すために下界に降りるのですが――。

 天界でのいたずらの結果を解消するため、というのは、

『リボンの騎士』(少女クラブ版昭和28年~昭和31年)が
頭にあったのかもしれませんな。


 あとがき的なコラムで著者は

この『三つの珠』だけは、(……)終わりまでちゃんと描きたかった。
それだけの構想と情熱を持って始め、途中で終わらせられるまで、
それは続いていた。

とお書きになっております。

 じっさい、本当に描きたかった作品なのでございましょう。
民話的な世界観での少年少女の冒険というのは、
当時の石ノ森先生の資質に最も合っていたように存じます。

『構想と情熱』とお書きになっておられるように、構成にも凝っております。

主人公の美雪は、当初天界での記憶を持っておりません。
下界の暮らしに慣れるようにと、赤ん坊の姿で地上に降ろされ、
天平とは違う場所で過ごすのでございますな。
美雪はヨヒョウとツウの夫婦に育てられ、
天平は遮那王(牛若丸)とともに、天狗に育てられ……、
そのことがドラマを作っていくのでございます。

三つの珠


 そんなわけで、物語の軸は、
三つの珠の探索と牛若丸ーー源義経でございますなーーの物語を軸に、
さまざまな民話や物語を織り込みながら展開していく……
はずだったのでしょうが、

酒呑童子の手から弁慶(天平だが、記憶をなくしている)が取り戻したものの、
美雪はだれがそれを持っているのかを知らない……、

というあたりで「第一部完」となっております。

 予想でございますが、義経の物語に沿っていくといたしますれば、

「壇ノ浦」あたりで「青の珠」を取り戻して、「第二部終了」、
平泉で「黄金の珠」を取り戻し、弁慶の立ち往生とともに天界へ戻る、

というような話の流れだったのではないでしょうか。

 奥州あたりは石ノ森先生の故郷でございますから、
そこをクライマックスに持ってくるからには、
いろいろと描きたいことがあったのでは、と想像されます。


 とはいえ、第二部以降を描く気持ちがいくら強かったとしても、
おそらくそれは、叶わぬ夢だったことは、容易に想像できますな。

 絵のタッチや、物語の作風が変わってしまったという、
作者由来の理由もございましょう。

 加えて、少年・少女マンガというもの自体の変化ということもございます。

 この作品が描かれた当時、少年マンガと言えば、児童を対象としたものでございました
 ですが、月刊誌の時代が終わり、週刊誌が主流になるにつれて、
その対象年齢は、じょじょに、いや急速にかな? 上がっていったのでございますもの。

 このようなマンガの出る幕は、なくなっていたのでございます。
短編はともかくとして、長編は特にーー。

 このような豊かな世界が失われたことは、個人的に残念でございます。



☆ 「Role&Roll」で『鵺鏡』がアナウンスされたとき、
平安朝を舞台にしたTRPGとだけ聞いて、
ものすごーく期待してしまったのでございますが、
その後の特集でまったく違ったのを知り、ガッカリしたのを覚えております。
 
 民話や伝説を多数取り込んだ、
少年少女の冒険のための和風ファンタジーTRPG……。
誰か作ってくださいませんかねぇ。
時代は、やはり大まかな平安時代がよろしゅうございましょう。

江戸時代だと、手垢がついていると申しますか、自由度が低い気がいたしますので……。
 
 
《追記》
  
 その後、いくつか見つかりましたので、補遺として記事にいたしました。
 もしよろしければ、ごらんくださいませ。
 


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 『リュウの道』の最終巻(8巻)
  石森(当時)章太郎
講談社コミックス/昭和46年5月1刷/昭和51年2月3刷)

を買ったら、そのラスト部分が乱丁だったことを思い出しました。

物語世界の真相が語られるクライマックスでございます。

 お読みになった方ならご存じでしょう。

石ノ森先生が、『2001年宇宙の旅』のラストに触発され、
『ジュン』などで培った実験的なコマ割り駆使してお描きになった、
神との対話シーンでございます。

 観念の奔流のようなカットの連続で、
順序が違っていたとしても、実験的な意図があるのかな、と思うほど。

 でも、読んでみて、なんかおかしい……。

リュウの道8巻クライマックス
(↑ この辺。  飛び飛びですが流れは左から右でーー)



 画面いっぱいに描かれたコマでございますから、ページ数などはわかりません。

 結局さんざん首をひねった後、本屋さんに行って別のものと交換していただきました。

 でも、今にして……と申しますか、
交換してもらったあと思ったのでございますが、
その本はそのまま取っておいて、新しいのを一冊買えばよかった……。

 乱丁自体が珍しいですし、

この本のこの箇所がーーというのは、ネタとしても面白いですものな。

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 またまた、性懲りもなく、
 もっともらしくもいい加減な仮説を書いてみたいと思います。

 さて、
 仮面ライダーが、紆余曲折を経て、あのスタイルになったことはご存じですな。

 ですが、石ノ森章太郎先生は、『スカルマン』――ドクロの仮面ですな――
を推していたのに、それがなぜバッタの怪人になったのでございましょうか?

 スポンサー受けが悪いなどの理由で、ドクロが否定されたのは分かっております。

 でも、なぜバッタ

 だいたい、あのマスクを見て、バッタと思う方は少ないですよね。

 あの目の大きさを見たら、トンボあたりと思うのが普通なのではないでしょうか。

 では、それでもなぜバッタなのか。

 それには、こんな理由があったのだと思うのでございます。

 骸骨モチーフを否定された石ノ森先生は、その代価案を考えました。
 一流かつ多作の先生のことでございますから、
 いくつものアイデアが出てきたと思いますが、
 その中に次のようなものがあったのではございませんでしょうか。

 その時以前の、日本の有名なドクロのヒーローと言えば、紙芝居から誕生した、

『黄金バット』がございますな。

 当然石ノ森先生もご存じのはずでございます。
 
 (ご存じでした。
テレビ小僧』の中に、先生のお描きになる黄金バットを発見いたしました)
 
テレビ小僧黄金バット
 


 で、

 黄金バット、バット、バット……。

 バットマン……。じゃ、まずいなぁ……。

 バット、バット、バット。

 バッタ

 バッタ男。
 
 てなわけで、ドクロ男がバッタ男になったのではございませんでしょうか?


 実際、石ノ森先生は、

「超能力」→「チョウ能力」と、サナギから蝶に変身する『イナズマン』を、

「機械」→「奇怪」で、左右非対称『キカイダー』

(このあたりは、原作マンガの中でほのめかされておりますな)、

地口から発想することも多い方でございます。

ですから、「バットマン」から「バッタ男」が出てきても何の不思議はないかと……。


 実際、と申しますか、
原作の『仮面ライダー』には、『バットマン』由来と思われる設定がございます。

 大邸宅に住み、忠実な老執事がいるですとか、地下に研究所を持っているですとか。

 TVシリーズの本郷猛さんにはそんな環境にいないことからも分かるとおり、
 これらは『仮面ライダー』と分かちがたい設定というわけではございますまい。
 ゴシックな感じがホラーテイストに合うとか、
 研究所の存在意図も作中で述べられておるとは申せ、でございます。


 さらに申せば、

 もしかするとテレビシリーズの1話と2話が、『蜘蛛男』『蝙蝠男』なのも、

『スパイダーマン』や『バットマン』への対抗意識なのかもしれません。

(『蜘蛛男』が江戸川乱歩先生の著作にあるとしても、
 それを掛け合わせて、ということは考えられることでございます)

 この2つのデザイン画は、石ノ森先生がお描きになったそうですが、
「サソリ男」はそうではないようでございますから、
そのあたりから考えてみましても……。
仮面ライダー

 むろん石ノ森先生は、アメコミを
読んでいらっしゃったでしょう。
 ですから、そうした対抗意識や引用は
「バットマン」→「バッタ男」説は
抜きにしても、あるかもしれません。



☆ こういうことを書くと、パクリとか
  いう方もおられるかもしれませんが、
  ほとんどの人が気づかない
  こういうものは、パクリではなくて
  アレンジ力
というものでございます。

  またいつか話題にすることもござい
  ましょうが、一流のプロ方は、
  こういうのが本当にうまい。

  自家薬籠中のものと
  してしまうわけですな。

  わたくしのようなものがやると、
  単なるパロディにしかならないので
  ございますが。



☆ 2018/08/30 追記

「宇宙船」vol.26 p.78「特撮研究 仮面ライダー」を読んでいたら、
「第一話の蜘蛛男のデザインも『十字仮面』の時点でまとまっている」
という記述が――。
そうなると、蜘蛛男がスパイダーマンという説は、弱くなるかも……。
やっぱり異説は難しい。






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『少女・ネム①』

少女ネム(表紙) 

作:カリブ・マーレィ 画:木崎ひろすけ
(ASCII COMIX/1997/1)

a-Tooでたまたま見つけたので買いましたよ~。

まさか、あるとは思わなかったので、探していませんが、偶然見つけちゃったよ。

 天才的なマンガの才能を持ちながら、それを発表できないでいる
繊細で引っ込み思案な少女の話。

 緻密で丁寧な絵柄が、相乗的に作品を深化させております。

 木崎先生と主人公の少女とは、
どれぐらい似た存在なのだろうとか思ってしまうぐらいに……。
 
 荒れた生活に嫌気がさして故郷に帰ってきた(元)マンガ家、木村ゴローと、
ネムの絵をすごいと感じて、アシスタントに欲しいと思っている人気マンガ家
(でも、ネムの居場所を知らない)、伊藤れい子、
という人物の配置もいい。



少女ネム木村さん  
                           (木村さん)


 ……。



 のですが、作品内容については、そのあたりでやめておきましょう。
 なんかね、あとがきマンガで、


少女ネムあと書き  

 な~んてこと書かれると、何にも言えなくなっちゃう。

☆ ちなみに、「みかん」でございます。
  2巻というのはございません。
 (「連載中」の広告があるので、このあとちょっと続いたみたいですが)
 

☆ 絵に関しては、「ゲームブックマガジン第二号」(社会思想社)に
このような投稿がございました。

 もっとも、わたくしは「ゲームブックマガジン」は持っていないので、
まご引き、いやまごまご引きかな、ではございますが。

「僕がアドベンチャーゲームブックを始めたのは
あの『火吹山の魔法使い』に出てくるミノタウロスのイラストに惹かれたからです。
 社会思想社のゲームブックシリーズのイラストはとてもいいと思います。
特に好きなのは『火吹山の魔法使い』、『盗賊都市』、
そして『死のワナの地下迷宮』です。すばらしいと思います。
 スクリーントーンや定規などいっさい使わない、
ウスズミなどはもってのほかのち密なペン画に魅力を感じます。」(……)
 (愛知県 PN 薄羽かげろう 20才)
                                        
火吹山の魔法使いミノタウルス 
  このミノさんが、
  どうやったらここ
  につながるの~? 

  と首をかしげたくなる
  ところで
ざいますが、

  養分の一つということで
  ございましょう。


















「スクリーントーン」以下の文は、まさに、御自身の作風を表しておりますな。


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