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2024/04/17 リモコンを適当に押しておりましたら、時代劇にあたりました。賭場のシーン。丁半博打でございます。中盆が「丁方ないか、丁方ないか」といって最後の張子が「半」。で中盆が「丁半そろいました」って閉めたのですが、これって丁半そろってないのでは? 中盆、盆暗(ボンクラ)なのでは? たしか胴元が損しないように丁半の掛け金を同額にするのですよねぇ。うーん、結局目は丁が出て、最後に賭けた方が「イカサマだ」とおっしゃっていらしたので、丁半の金額が同等にならなくても張子が全員賭ければいいというルールもあるのかも。
[1] [2]
『大いなる助走』では長い助走の末に歪んだ同人文芸の姿を描いておりましたが、
違う形もございます。
 
 図書館で借りた「本の雑誌」でたまたまそれを見つけました。
 こういうたまたま関連するものを見つけてしまうということは、
意外とあるものでございますよね。
 
「本の雑誌 2023/10 アジフライ着陸号」p.100-102
文芸記者列伝(20)──久野啓介(熊本日日新聞)
「郷土で生きると決めた人」
 
『大いなる助走』は、企業の内実を描いた
『大企業の群狼』が中央の文芸氏に注目され、
作者の市谷京二さんがそれにしがみつく話でございましたが、
ここに出てくるのはその逆。
 
文学賞を辞退した人にございます。
 
 その作家とは石牟礼道子先生。
作品はももちろん『苦海浄土─我が水俣病──」ですな。
 
 この作品が地方紙「熊本日日新聞」の文学賞に選ばれたとき、石牟礼先生は
患者があれほどひどい目に遭っているのに、
私だけ賞を受ける気にはなれない
と辞意を表したのだそうでございます。
 
 その時「熊日」の社員の久野啓介さんは、
優先すべき社の意向を置いて、石牟礼先生辞退に尽力したのだとか。
 
 そこには、入社当時、地方同人誌「熊本風土記」の座談会に呼ばれたときの
経験があったのだそうでございます。

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大いなる助走『大いなる助走』
筒井康隆:著
(文春文庫/

2005/10)
 
 
『ゼッタイ! 芥川賞宣言~』コメント欄に、
この作品は『大いなる助走』と関係あるのではないか
ということを書いておきました。
 
 とは申せ、『大いなる助走』、
ちゃんと読んだことはございませんでした。
昔、最初の数ページと
牛膝(いのこずち)発言のあたりだけ読んだぐらいでございます。
 
 筒井康隆先生のご本、敬遠していたのでございますよね。
なんか人の心をえぐるようなブラックな作風
というイメージを当時持っていたものでございますから。
 
 それにこのタイトル。いつまでも作家志望で、
そこから上に行けない人たちを描いているに決まっているじゃないですか。
 
 ただ、ですから、勘違いしていた部分もございました。
タイトルから、大学サークルかそれに近い若い世代が、
ブンガクに煩悶し、逡巡し、道を踏み誤る姿を描いた
ような作品だと思っていたのでございます。
 
 そうではございませんでした。
 
 前半の舞台となるのは小都市の地方同人。
そこに集う人々でございますし、
後半は直廾(なおく)賞選考委員を中心とした文学者の方々、
その狂騒を描いた物語なのでございますな。
 
 物語を紹介してまいりましょう。
 
 主人公は市谷京二さん。
 大企業に勤めるこのお方が、
大企業の群狼』という作品を
地方の同人誌「焼畑文芸」に寄せたことから物語は動きはじめます。
 
 この作品、文芸誌「文学海」の目に留まり。紹介される運びとなるのですな。
 
 そうして世に知られることとなった『大企業の群狼』ではございますが、
社内の内幕を暴いた作品でございますから、当然会社の目にも留まります。
 
 市谷さんは、社の相談役だった父親に勘当され、
さらには上手いこと言いくるめられてだまされて辞表も出してしまいます。
 
 狭い地方都市、他に勤めようにも社の暗部を世間に知らしめた人間など、
雇ってくださる奇特なところなどございません。
 
 途方に暮れる彼。そこに蜘蛛の糸のような一筋の光明が飛びこんでまいります。
 なんと、『大企業の群狼』が直廾(なおく)賞候補と挙げられたというのでございます。
 
 編集者によりますれば、この賞を獲らなければ次はない。
ここで市谷さんの作家生活は途絶えてしまうとか。
 
 直廾(なおく)賞選考委員は9人
そのうち半数を抱き込んでしまえば受賞確実と、
市谷さんは編集者さんのサジェストを受け、裏工作にいそしみます。
 
 ところが落選。
行き違いがあったり選考委員がいいかげんだったりしたのでございますな。
 現実なら直木賞を獲れなくても
それ以上に売れた本はザラにあるとは思いますが、
市谷さんの発想にそれはございません。
 
 すべてを失った彼は、すべてを見失って兄宅から散弾銃を持ち出し、
選考委員連続殺人という狂行に及ぶ……、
 そんな感じでございます。

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『成功者K』羽田圭介 (河出文庫/2022/4)成功者K
 『ゼッタイ! 芥川賞宣言~』のオビに
羽田圭介先生の名前が挙がっていたので、
芥川賞獲得後のご自身をモデルにして書いたと思われる
『成功者K』という作品を読んでみました。
  
 どこまで実際に近いことが書かれているかは
不明でございますが、
かなり事実に近いと思われます。
 
 だって、
テレビに出演している部分は変えられませんし、
その周辺だって違うことを書けば不自然になりましょう。
 プライベートについてももちろんアレンジはございましょうが、
全くなかったことからこんな煙は立てられないと思われます。
 まぁ、
 芥川賞受賞者と申しましてもいろいろなかたがいらっしゃるものでございます。
 その中でもKは行動的な部類と申してよろしゅうございましょう。
 
 テレビに出演し、そのギャラを地震で交渉し、投資にも手を出し……と、
いろいろやってそれを足がかりに金と名声をつかんでいったのでございますからな。
 
 最初は本を売るためは知名度を上げていかなければ、
そういう心づもりだったようでございますが、
その手段が次第に目的に変わってまいります。
富と名を得、複数の女性とつき合っていくうちに
自分が「成功者」であることを意識し
そのために行動するようになるのでございます。
 
 「成功」を手にすることで、
金も女性との付き合いもなくただただ小説を書き続けた
安い暮らしの頃とは意識が変わってきたのでございますな。
 
 この作品の特徴は、
なんと申し上げましてもタイトルにもございます
成功者K」という言葉にございます。

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 佐々木小次郎さんと申しますれば宮本武蔵さんのライバルとして有名でございます。
後世の作品でも、2人を思わせる人物や名前のキャラクターが
セットでよく登場いたしますよね。
 実在する人物ではございますが、
宮本さんともどもフィクション部分も多いそうでございますな。
 
 十八歳説あり、十は七の誤写だろうと七十八歳説あり、それでは歳すぎるから……
という説があり、よく分かりません。
 
 ただ、決闘のとき宮本さんは二十九歳。
 宮本武蔵さんを描いたお話の中で
佐々木さんがクライマックスになっているということは、
やはり佐々木さんの方が格上、歳も上だったと想像できます。
 巌流島の巌流も、ホントは舟島という名前だったのを
佐々木さんの流派「岩流」にちなんでつけられた通称みたい、
となるとこっちが上……。まぁこれはあまりアテにならないかな。
 
 
 佐々木さんの必殺剣としてつとに有名な「燕返し」も
ホントは「虎切り」と称するのだそう。
 
 燕返しと虎切りではずいぶんとイメージが変わってきますよねぇ。
 
 で、思ったことが、佐々木さんの印象でございます。
 
 宮本さんが剣豪、豪傑タイプのいかつい感じで描かれるのに対し、
佐々木さんは長身痩躯、クールで美男子に描かれることが多いようにございます。
 
 しかし、これが違うのではないか。
 
「岩流」「虎切り」というネーミングから想像できるのは、
力であり、強いイメージですよね。
 
 佐々木さんはそういうイメージだったのではないか。
少なくとも自身では、そういう方向性を目指していたのではございませんでしょうか。
 方向性は自分がそういう人間だとの認識から生まれることが多いと存じますし、
目指しているのなら、人間としてもその方向に出来上がってくるものかと存じます。
 凡庸ならばともかくとして、名声を得るほどの人物ならばそうでございましょう。
 
 つまり、佐々木小次郎さんがクールというのは物語上のことであって、
実は佐々木さんも宮本さん同様、豪傑タイプだったのではないかと思うのでございます。
 戦国の世に生まれ剣の道を目指すのであれば、その方が自然でございましょう。

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(上に収まりきらないのでこちらへ)

 川端康成先生の『雪国』
 読んだことはなくても、その書き出しは知っているという方は多ございましょう。
 
 その冒頭一文、最初の「国境」を「くにざかい」と読む説がございます。

 理由は日本国内に「こっきょう」などあるはずがないから、
上野国越後国といった「くに」で読むのが正しいということでございます。
 
 一方、くにざかいでも「こっきょう」と読んでもいいので
ここでも「こっきょう」と読むという説もございます。
上越国境も「じょうえつこっきょう」と読むのが一般的とか。
 
 作者本人の言は不明。説によって異なるみたいです。
 
 まぁ、一般的には「こっきょう」でございましょう。
朗読でも普通そうだと思います。
  
 それゆえわたくしは、この説を知って以来
「くにざかい」読んだりもしておりますが、
初めのうちは違和感あっても、
慣れてくるとそれもまたアリと感ずるものでございます。
 
入り方が違いますから、一文の雰囲気が少し変わってまいりますな。

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その5語、巨匠たちは、『その午後、巨匠たちは、』
藤原夢雨
(河出書房新社/2022/2)
 
 
 注釈によってつながっていく小説
ということで買ってみました。
 
 フーゴ・ハル先生が『R・P・G』に
連載していた「虚しい口」みたいに
分岐したりループしたりがあるかも? 
と期待したのでございますが、
予想どおりそういうものはございません。
 
 節の中にアスタリスクは一つ。
 その*部分の註がその文章に続きます
 
 例えば「北斎」だったら、北斎の説明がひとしきり入り、
「北斎は」というふうに、自然にお話に戻っていくわけですな。
その間に段落を挟むこともございません。
ごく自然に続いていくのでございます。
 
 初登場の人物や物事を説明してから物語を続けていくということは、
別段珍しいことではございません。
 ですからひどく変わったことをしているというわけでもございませんが、
これが作品にある種のテンポを与えていて面白いのでございます。
 
 それと、最後の方、画家たちが退場する場面。
そこでの注釈は句点の意味を果たしている気がいたします。
そのために注釈小説という形を採ったようなような気もするのでございます。
 
 
 
 
 
 ジャンル的にはマジックリアリズムでいいのかな。
 本の紹介をそのままもって来ちゃうと、
 
町にふらりと現れて、空き家に棲み着いた、歳を取らない女・サイトウ。
彼女が山の中に建てた神社が祀るのは、6人の巨匠画家ーー
北斎、レンブラント、モネ、ダリ、ターナー、フリードリヒ。
やがて町は、
神様として現代に蘇った画家たちの描く絵画世界に染まっていくのだったが…。
 
 有名な画家たちを集めてご神体にしたのは、
彼らが巨匠としてあがめたてられている、
つまり信仰されている、
信仰されているのならであろうという理屈なのでございますな。
 
 その結果はみごとに現われ、
北斎の絵を神社に置くとテレビの中のタレントが役者絵風に、
モネの絵だとあたり一面が
印象派風のふわふわとした光に包まれるといった具合にございます。
 
 そうして山に住むことになった画家の方々と、
幻想にふわっとくるまれた漁村の日常が
サイトウを中心に描かれていくことになります。

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ホテル・アルカディア
『ホテル・アルカディア』
石川宗生:著(集英社/2020/3)

「SFマガジン」2020/6、
以前紹介した、
 
「ようこそ、惑星間中継ステーションの診療所へ
 ――患者が死亡したのは0時間前」
   キャロリン・M・ヨークム
 
という短編ゲームブックが載っていた号でございますな。
 
 その号に書評(横道仁志:評)が載っていた本でございます。
  
最終的に7つの分岐エンド」ですとか
各掌編に埋め込まれたリンクをたどるたび、
 読者は新しい道、新しい地図を発見する
」などという言葉が
気になったので、図書館で借りて読んでみることにいたしました。
 

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ナイトランド21 「失物之城 ピレネーの魔城・異聞」
フーゴ・ハル:著 尾谷道草:訳
(NIGHT LAND vol.21 2020/06/アトリエ・サード)
 
 この作品、『魔城の迷宮』の続編である
ピレネーの魔城』の外伝だそうでございます。
 
ピレネーの魔城』が完成しているのかどうかは存じません。
 
note」(p.64)によりますと、
 
『ピレネーの魔城』本編の書籍化も諦めたわけではない。
  物語同様の空間をさ迷うことになる超難解な立体迷路を、
  世に出さんとする勇気ある出版社の登場を待つ。(著者)」
 
とあるので、すでに作品はできているのかも???
 出来上がっているとすれば、出版のあてもなくそれだけのものを作りあげるのは、
すごいバイタリティだと存じます。
 何らかの方法でぜひとも世に出してほしいものでございますな。
(ただ「作る機会を逸したまま似た趣向のゲームや映画も登場」
 とも書いておられるのですよねぇ。
 この表現だと、完成までにはいたってないような……) 
  
とまぁ、閑話休題。
 
 失物の城  まず、ピレネーがどこかはご存じでしょうか?
  フランスとスペインを分ける山脈ですな。
  ユーラシア大陸とイベリア半島がくっついたときに
  造山運動によってできたのだとか。
 
  このピレネーの名を題に入れた
  『ピレネーの城』という絵がございます。
   マグリットの代表作ですな。
 
  『ピレネーの魔城』は、
   この城についての物語でございます。
 
  
 と、作中にもそのように書いてあるのでございますが、
関連はあまりございません
 
 何しろ、マグリットの絵は、
空中に浮かぶ卵形の巨大な岩塊の上に、ちょこなんとお城が乗っているというもの。
 
 に対して、今作の魔城はゴツゴツした立方体
 上には何も乗っておりません。
 中に人が住んでいることから、それ自体が城でございましょう。
 
 その立方体も、対角線方向に地面に垂直というわけではなく、
各辺が地面に対して並行と垂直
──要するに地面に置いてあったサイコロをそのまま持ち上げたような向き
浮かんでいるのでございます。
 
 マグリットのそれとは似ても似つきません。
ボーグキューブのほうが近いというものでございます。
 
 しかもこの城、北に向かって移動しております。
 おそらく北極まで行ったら南を目指すのでございましょう。
 
 つまり、たまたま舞台がピレネーであるだけで、
ピレネーに居着いているわけではないのでございますな。
 
 その他にも、神々のサイコロであるとか、バベルの塔との関連とか、
眉唾がいろいろと書かれてございます。
 
そのまことしやかを楽しみたいのなら、関連する書物をひもといたり、
ネットで調べてみたりするのも面白うございましょう。
 
 そのまま鵜呑みにするというのもまた、物語におぼれる1つのやり方ではございますが。
 
 さてさて、この空飛ぶサイコロには、アーレアという名がついてございます。
 
魔城の迷宮』のルドゥスと同様、
カイヨワの『遊びと人間』に出て来た言葉でございますな。
 
 なので最初読んだとき、ついつい、
対になる言葉なのかな、と思ってしまいました。
 
 アジアにあるルドゥスが地(上・下)の混沌、
ヨーロッパのアーレアが空中の秩序なのかな、と。
 
 でも、ルドゥスは「競技」。
規則的で参加者の意思力がより反映される遊びで、
対義となるのはパイディアにございます。
 
 対してアレアは、遊びを4つに分けた分類のうちのひとつ
クジやルーレットなど、に左右されることを楽しむ遊び。
 
 アーレアがサイコロの形をしているのも、そのためにございましょう。
 
 要するに、対立するどころか、まったく別の分類だったわけでございます。
 
 
    ☆   ☆   ☆
 
 この物語は9章から構成されております。
 
 1章は空中城塞アーレアについて
 今書きましたようなことが書かれておるのですな。
 ちなみにこの作品、『魔城の迷宮』の第2弾の外伝にもかかわらず、
主人公はハーマン・オクトーネさんではございません
 
 彼は、城を見た人物として1章にちょこっと出てくるのみにございます。
 
 主人公の登場は2章から。
 ここからオッカムワーダの一人称(私)となります
 
 調べてみますと、オッカムはイギリスの南部、
サリー州の村のようでございます。
 
 オッカムと申しますと、
オッカムの剃刀という言葉で有名な
スコラ派の哲学・神学者が思い浮かぶ方もございましょう。
 
 でも、その方との関係もあまりないみたい。
 
 ちなみに、オッカムの剃刀(Ockham's razor)は、
ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでないとする指針、
だそうでございます。
  
  
 それはさておき、
 このワーダの設定がいいのでございます。
  
 検閲官である彼は、各地の僧院や大学をまわり、
禁書目録に記載された書物、それにその原典となった古書を、
焚書とするために回収するのがそのお務めでございます。
 
 ですが、職務に忠実というわけでもございません。
 
 彼がローマに送るのは、
すぐにそれと分かるような見かけ倒しの代物のみ。
異端であっても後世に価値ありとみれば、
仲間に保管を依頼しているのでございます。
 
 また、ギターンをつま弾き、神の御技に疑念を挟む唄を心すさびに唄うことを
ひそかな楽しみとしていたり──。
 
 要するに、ガチガチのキリスト者ではないのでございますか。
 
 そんなお方ですからこそ、アーレアからの招待を受けることになるのでございますが。
 
 
 なんか、アーレアとか関係なく、
この設定だけで面白いゲームブックが作れると思いません?
  
 僧院に入って隠し扉見つけたり、禁書の封印を解いたり、
それと戦ったり、唄が重要な役を果たしたり……。
 
 様々な冒険の想像ができるところでございます。
 
 外伝ではない『ピレネーの魔城』では、
そんな彼の能力が発揮できる場面が用意されているのかもしれませんな。
 
  
 物語の眼目、アーレアに入ってからの見聞は、3章から8章までに描かれます。
 
 この魔城には、
アラン・カワックエ・シャーリキュ3つの王国がございまして、
それぞれが異なる〈地場〉の上に存在しているのですな。
そしてそのことが、この小説の外見にも分かりやすい影響を与えております。
 
 最初読んだときは、これら3つの〈地場〉を
三次元の基本である縦・横・高さに従っているのかな、
と思ったのでございますが、そうではございませんでした。
 
 それも道理。
 
 アラン・カワック王国が〈大地の民〉と〈地場〉を同じくしているのですから、
それでは浮揚することがまかりません。
 
 リキュ王国の〈地場〉が天を向き、その釣り合いによって、
アーレアは空中城塞と化しているのでございます。
 
 もう一つの王国、エ・シャーの〈地場〉は北。
 そのため、先ほど書きましたとおり、
このキューブは北へ向かって進み続けるのでございます。
住民が左右どちらに多いかの傾きによって、
多少方向を変えることが出来るみたいでございますが、
それもわずかなことでごさいましょう。
 
 
 ところで、ピレネー山脈のあたりの経度はほぼ0。
 つまり、北へ北へと進み、北極点を経過してさらに南下していくと、
日付変更線ぐらいを通るわけでございますな。
 
 ちょうど、ガリヴァーが遭遇したラピュータと同じあたりでございます。
 
 両者がもしも同じならば、
ガリヴァーがこの地にたどり着いた頃には、
おそらく立方体のどの面にもまんべんなく人が住んでいたため、
北や南に移動するということはなく、
太平洋上にとどまっていたのでございましょう。
 
 南北に移動するようになったのは、
その後の覇権争いでいくつかの面から王国が消えたためではございませんでしょうか。
 
 よく考えられております。
 
 と、思ったのでございますが、
 
ワーダって、ガリヴァーよりも前の時代の人なんですよね。
 
ガリヴァーがラピュータを訪れたのが170*年なのに対し、この作品の舞台は147*年。
 
 147*年に浮遊する城が存在していたとすれば、
 ピレネーから北、ロンドン上空あたりを移動するそれを
ガリヴァーが知らないと考えるのは、ちょっと難しい。
 
 いやいや逆に、この作品の結末から考えると、
ガリヴァーの時代には城は存在していなかったかもしれませんな。
 
 
 となるとやはり、この考えをくつがえすのは惜しいですが、
アーレアとラピュータは、世界線を異にすると考えた方が妥当でございましょう。
 
 
 まぁ、それはそれとして。
〈地場〉を異にする三国の住民はそれぞれに個性的
その個性も作品の魅力でございます。
 
 
 また、先ほども書きました三国の〈地場〉と連動する形式的な試みが、
この作品のもっともエポックな点でございますが、
それが単にそれだけのものでしたら、面白い試み、単なる変な思いつき、
で終わってしまいますよね。
 
 が、それだけにとどまってはおりません。
 
 最終9章には「落ち」を持ってきて、
それがこの形式をちゃんと意味あるものにしております。
 
 さすがでございますな。
 
 
 作品タイトル、『失物の城』については、ピンときませんでした。
 
『失楽園』を文字って、
失落の城」とでもしたほうが、作品的にも合っていいんじゃないかな?
などと思っておりました。
 
 
 
 ですが、「note」に許哲珮さんの同名作品から採ったとあったので、
ぐーぐるで「すべての言語」で検索し、YouTubeを見てみると、
しっかりとは分かりませんが、歌詞が漢字で表示されておりましたので、
なんとなーくの意味は分かったような気になりました。
 
 曲調も含めて、たしかにこの作品の最初か最後に流すにふさわしい気がいたします。
 
 でもね。
  
 やっぱり「失物の城」という言葉をポンと出されただけだと、
 意味不明だよー。
 
 
    ☆    ☆    ☆
 

 ところで、「note」にある似たような作品やゲームって、何のことだろう?
 気になる……。

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『サキの忘れ物』津村記久子サキの忘れ物
新潮社(2020/6)  
 
 
ちょっと間が開いてしまいましたが、
『サキの忘れ物』に収録された他の作品についても、
少し触れておきましょう。
 
 
「喫茶店の周波数」
閉店間際の喫茶店。
そこに注文も決まらないのにいちいち店員を呼び出す客がやってくる。
隣の席に座ったその客を不快に思いながら、
その店で見たさまざまな客のことを思い出す。
 
 
「サキの忘れ物」
アルバイト先の喫茶店に常連の客としてくる女性が忘れていったサキの短編集。
それが気になって千春は同じ文庫を買ってみる。
それが彼女の初めて読み通せた本となった。
 十年後、近くの書店で正社員として働いていた彼女は、
本を読むきっかけを与えてくれた女性と再会する。
 
 
「Sさんの再訪」
大学時代の友人、佐川さんから葉書が届いた。
離婚して帰郷するので会いませんかという内容だ。
どんな人だったっけと、当時の日記を見直す田口。
だが、人名がすべてイニシャルで書かれていて、
その上Sから始まる人が多くてわからない。
 それをなんとか読み解いていくうちに、
やがて自分の夫の昔から変わらない性格に気づき……。
 
 
「隣のビル」
会社の隣にあるビルが気になる。
休憩時間にロッカールームから見える三階の窓が気になる。
どうしても気になって、私は隣のビルの屋上へとジャンプする。
 たまたまその部屋の住人と出会い、話すうちに、
私は肩の荷が下りるのを感じ……。
 
 
「王国」
光を見つめていると現われるラッパムシのデリラ。
傷口に浮かび上がる女王が治める王国。
幼稚園児ソノミの現実と空想をめぐる話。
 光の中、デリラは漂う。
 
  
「河川敷のガゼル」
P市Q町C川の河川敷に現われたガゼルに関する顛末。
主人公はアルバイトで警備員となった私。
そのガゼルをどうするかという市の動向と、
SNSにその写真を上げ続ける女性、
三週間に一度ぐらいやって来て一日中じっとガゼルを見つめている少年を軸に、
物語は展開する。
 南国の動物園に引き取ってもらおうとする市に対して、
ここのほうが広いのだからこのままで、寒さ対策をすればいいと主張する女性。
彼女はSNSなどを通して、一万の署名を集める。
 とある日、上流にガゼルは走り出し……やがて見えなくなった。
「行け! 行きたければ行ってくれ!」少年は叫んだ。
 
 
「行列」
「あれが無料で見られるなんてすごい」
というものをめぐって延々と連なる行列。
役所でたらい回しにされるコメディやカフカの「城」のように、
目的地には延々到達できず、時間とストレス、出費がどんどん嵩んでいく。
風刺的な作品。
 
 

「ペチュニアフォールを知る二十の名所」
ペンシルベニア州の観光名所・ペチュニアフォールを
旅行社のガイドが紹介する。
魅力あふれる観光地として楽しく紹介していくのだが、
その言葉の端々に、陰惨な歴史が垣間見えてくる。
野坂昭如先生の「骨餓身峠死人葛」を思い起こさせた。
サタイア(風刺的)な作品で、この短編集の中では異色。
 
 
 
     ☆      ☆       ☆ 


☆ 本の収録順とは異なり、
  現実から非現実という感じで並べてみました。
 
「隣のビル」
までが、まぁ現実。
「王国」はその中間。
「河川敷のガゼル」からが非現実といったところでございましょうか。
順番は異なる意見もございましょう。
 全体として、振れ幅はあるものの、スコシフシギな話という印象を
わたくしは持ちました。
 
現実の一コマを描いたような喫茶店の周波数」にいたしましても、
その構築からでございましょうか、はたまた文体のせいか、
それを感じまする。
 短篇としてキッチリとまとまっているところが、
スコシフシギを感じさせるのかもしれません。
 
 登場人物は個性的で、奥深くございます。
すべてに対して背景が考えられているのでございましょうな。
 描写は具体的で、それが作品に奥深さを与えております。
 
 あと、現在状況からの脱出
Sさんの再訪」「隣のビル」「河川敷のガゼル
それに「行列」といったあたりにそれを感じましたな。
 
 まだ書くことがあるような気もいたしますし、
まとまりもございませんが、わたくしの感想といたしましては、
こんなところでございましょうか。

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とりこまれる怪談 あなたの本
『あなたの本』
緑川聖司:作 竹岡美穂:絵
(ポプラポケット文庫/2018/12)
 
 本屋さんの平台で見つけたので、
最新刊だと思って買ったのすが、
奥付を見ると初版が2018年、
再版が2019年の5月に出ておりました。

 たぶん、見たことがあったと思いますし、
手に取ったこともあったのではないかな?
 
 ただ、ホラーなのでスルーしたのでございましょう。
 
 
 作品は二部構成になっておりまして、
一部は中学生の美緒さんが主人公でございます。
 
 近くの神社で行われていたフリーマーケットで、
彼女が「ひとかけ屋」なる看板を出す店を見つけるところから物語は始まります。
 
ひとかけ屋」。
 どこかしらが欠けているものを売っているお店。
 そのかけた部分の代わりに物語がついてくるという……。
 
 この設定いいいですよねぇ。
 これを発展させたほうが、面白くなったんじゃないかぁ。
 
 フリーマーケットではなく、ちゃんとうさんくさい雰囲気の古道具屋さんにして。
 そこの店主が、雰囲気たっぷりに、欠けている物語を語り始める……。
 短編集として、面白いものになると思います。
 
 それはさておき、
 
 そんな「ひとかけ屋」にならぶ品物の中から、
美緒さんが選んだのが『あなたの本』という題名の本。
 
 主人公が欠けている、読んだ人が主人公となる小説でございます。
 
 このあたり、なんともわくわくぞくぞくする感じの設定であり、導入でございましょう?
 
 100円だったこともあって、美穂さんはそれを購入するのでございますな。

 で、うちに帰って読んでみますと、
本には、知っていた・知らなかったに関わらず、
彼女が過去にあった出来事が書かれているのでございます。
 
 というわけで、二人称の怪談実話風のショートショートと、
それを読む美緒さんの話が、
交互に繰り返されるという形で物語は進んでいくのでございますが……。
 
『あなたの本』というタイトルからもウリのはずの、
二人称小説の部分が、期待外れなのでございますな。
 
「まるで、本に自分の心の中を見られているみたいだ」(p.26)と、
作中にも書かれておりますとおり、
二人称小説と申しますのは、没入感が強いところが特徴でございますな。
 そして、そこがまたむずかしいところでもございます。
「あなた」と語りかけてくるその物語が、
納得できるものでないと、どうにもしらけてしまう――。
 
 そんな二人称小説の特徴を、この作品では回避してしまっているのでございます。
 
『あなたの本』を読んでいるのは、主人公の美緒さん。
 つまり、読者にとっては第三者。
なので、その彼女が読んでいるのが二人称の小説でも、
読者の視点的には三人称なのでございます。
 
 しかも、話は過去のこと。
 二人称小説の当事者性がそこでもございません。
 緊迫感がないのでございます。
 加えて、『あなたの本』に収められている話は、
美緒さんが生まれる前のものまでございます。
 
「あなたがまだお母さんのおなかの中にいたときの話です」という部分が二人称で、
あとは母親の話になっているのが、二人称小説といえるかどうか。
 
 まぁ、あなた=美緒さんの話ではございますが。
 他にも視点一人称になっていないために、
二人称小説とは言いがたい部分がいくつか見受けられます。
 
 まぁ、それを逆手に取った「ドライブ」(p.53~)みたいな作品もあるので、
作者としては、新しい試みとしてやっているのかもしれません。
 
 ただ、いわゆる二人称小説を狙っていなかったとしても、
もう少し緊迫感のある書き方は出来るような気がいたしますが……。
 子供向けにマイルドにしたのかなぁ?
 
 
 さて、 
 
 先ほども書きましたとおり、この本は二部構成になっております
 
 二部目は、p.128から。
 まみさんという大学生作家が主人公でございます。
 実はこの作品、シリーズ物の一作なのでございますよね。
 
 これの前に『わたしの本』という作品がございまして、
その主人公がこのまみさんなのだとか。
 この本が完全な二人称小説の本として書かれていないのも、
シリーズの一作であるためなのかもしれません。
 
 でも、場面は変わりますものの、
なんの説明もなく主人公が変わるので、ちょっとわかりにくい。
「わたし」が第一部と同じ人物かと思って読み進めたので、
ちょっととまどいました。
 前作を読んでいれば問題ないのでしょうけどね。
 
 第二部は、
そのまみさんが、美緒さんから借り受けた
『あなたの本』を読んでいくという形になっております。
 今度は、まみさんの過去が作中作で語られるわけでございますな。
 
 それを読み進んでいく一方で、友人の清人さんとともに、
「ひとかけ屋」と、『あなたの本』に関する事を調べていくと……。
 核心に迫るにつれ、なぞの和服姿の男につけられていることを感じるようになります。
 その男が、この本の作者なのでございますな。
『あなたの本』に欠けているのは、主人公。
 
 ここからネタバレ。
 
 というわけで、
まみさんを主人公として本の中に取り込もうとするのでございますが……。
 
 そこに、山岸さんという人がいきなり現れて、
一ページ足らずで物語を解決してしまうのでございます。
 デウス・エクス・マキナでございますな。
 
 この山岸さんという方、このシリーズの主要人物らしくて、
前作でも「とつぜんあらわれて、とつぜん消えた」(p.218)のだそうでございます。
 ですから、そういう役回りのキャラクターなのでございましょうけれど、
これ単体で読んでおりますと、面食らいますし、安易と感じてしまいますな。
 そこにいたる危機が、もっと迫真のものでございましたら、
また感じ方は違っていたのかもしれませんが……。
子供向けということで、これぐらいでいいのかなぁ?
 
あなたに欠けているものは、作家の才能でも、主人公でもなく……
と断じて、呆然とする「ひとかけ屋」から、彼は
清人さんとまみさんを救出いたします。
 そのあとの言葉は書きませんが、 
 
 つまりはこれ、物語を書くことについての物語なのでございますな。
 
 
      ☆     ☆     ☆
 
 
 ところで、『あなたの本』というタイトルからも連想されるとおり、
この作品にはゲームブックについて言及している部分がございます。
 と申しますか、それがあると思ったからこの本を手に取ってみたのでございますが……。
 
 それは、第二部の最初のほう
 まみさんが『あなたの本』と出会う前、怪談研究をしている清人さんに、
そんな怪談がないかという聞いている場面でございます。
 
「そういえば、ゲームブックの怪談に『あなたの本』というのがでてきた」
と、清人さんがその怪談について語るという形で、作中作が登場いたします。
 
『あなたの本』と題されたそのゲームブックは、
その本を手に取った圭介さんの未来が書かれている本でございまして、
途中に選択肢があり、
それを選ぶとその結果に書かれたとおりのことが起こるのでございます。
 で、そのゲームブックで選択したとおりに現実でも行動していくことで、
圭介さんの生活はどんどんいい方向に進んでいくのでございますが……。

 この手の物語に破滅はつきものでございます。
 
 高校受験の選択で、彼女と同じ高校を受けるか否かの選択に迷った彼は、
ゲームブックの冒頭に書かれていた禁止事項を破って、
両方の選択結果を見てしまいます。
 禁忌を破って見た結果は両方とも悲惨なもの。
 どこで間違ってしまったのかと、必死に選択肢をたどり直すのでございますが……。
 どうなったかはここでは書きませんが、まぁ怪談でございますから……、
ということになるわけでございます。
 
 未来と過去が違うとはいえ、
このゲームブックの『あなたの本』と
主人公が手にする『あなたの本』は似ているような気も……。
 まぁ、両方とも『あなたの本』。
作中人物の人生と関わるものなので、仕方がないのかも知れませんな、
 

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リヴィジョンズ3』
木村航 原作:S・F・S
(2019/3/ハヤカワ文庫JA)
 

リヴィジョンズ 

 

 多元世界的な時間ものなのでしかたがないのでございますが、
最後の方話が大きくなり過ぎちゃって苦手~。
 
 ウビークェ……、えっと汎在者でしたっけ? 氾在者?

 悟らないまま解脱しちゃったような感じで、どういうわけか
むかしのすごろくゲーム「たんば」が浮かんでまいりました。
 
 やったことはございませんがあのゲーム、
あがりまでいったプレイヤーが、ほかのプレイヤーにほどこしができますでしょ? 
 あれは、悟って解脱でございますし、こっちは施しではなくトラブルのタネ。
まったくの逆ではございますが、それが思い浮かんできてしまって……。
 
 ロボットものといたしましては、
敵陣営の内部分裂はある種のお約束ではございますが。
 ニコラス・慶作さんがシャア・アズナブルさんに思えてきたりしたのは、
わたくしだけでございましょうか?
生まれながらの運命によって踏みにじられるしかなかった一生を
 自分の手の中に奪い返すための戦い」(p.352)と……
 目の上のこぶとなったものに対する心情……。
 完全に同じとはまいりませんが、まぁ、似ておりますな。
 ニュータイプ能力を手に入れていたらシャアさんも、
あんな感じで戦っていたんじゃないかなぁ。
(アニメのほうではぜんぜんそんな感じはいたしませんでしたが)
 
 p.192の「外見が異なる(醜さ)」のあたりでは、
マンガ『エヴァンゲリオン』のラストを思い出しました。
あれも、シンジ君が理性的に選び取ったというよりも、
外見で決めたような気がいたしますものねぇ。
もっとも、あれはシンジ君の選択を心情的にわかりやすいように描いた
マンガ的な手法とも言えなくはございませんが。
 
 クライマックスは人称がややこしい……
 ただしこれは、小説だからこそ。
アニメイションでは、違った表現になるでしょう。
小説でなければできない表現でございます。
 
SFマガジン」2019/4 vol.60 no.732の書評には『リヴィジョンズ1』について、
「本編のストーリーに沿ったのヴェライズの第一弾。
 先に読んでもあとに読んでも楽しめる」と書かれておりました(p.150)。
 
 一巻の時点では。まぁそう書く以外にはございませんでしょう。
 
 ですが、これは小説なのでございますから、むしろそれとは逆、
アニメでは描くことのできない部分を味わうべきでございましょうな。
 
 におい でございますとか、空気感でございますとか、
描写の妙、表現の美しさ、画面には現れない登場人物の細かな心理……、
まぁ、そんな部分でございましょうか。
 
 アニメの脚本を担当なさっている茗荷屋甚六先生が、
そのあたりをどう扱っているかは、わたくしのあづかり知らぬところではございますが。
 
 
 それを含めまして、この作品、
ノベライズではありながら、木村航先生の集大成という感がございます。
 
  と申し上げたら、先生は気分を悪くするのかなぁ……。
 
 わたくしの読ませていただいたかぎりは、
『しおかぜ荘の震災』(2013/双葉社)、
『パラプラ学園』(2015/スニーカー文庫)あたりまででございますが、
今回の『リヴィジョンズ』は、外枠を他の人が? あるいは共同で
作ったことによって、
その中で思いっきりの実力を発揮できたという感じがするのでございますよね。
 
 前掲2作は、後期宮崎アニメ的と申しますのかな、
構築を薄くして登場人物にゆだね、
それでいて作者のまなざしが感じられるものだったと思うのでございますが
(航先生が見ていないと思って勝手なこと言っているなー)、
今回は、かなり構築的。
 
 それが、つまり次々と起きる内的外的な事件が、
登場人物の性格や行動をくっきりと際立たせ、
先生の筆力、これまでにつちかった持つべき力を
存分に発揮していると思うのでございます。
 
 ラスト

 実は、最後のページは、後書きでも書いてあるんじゃないかなぁ、
と、最初に見てしまったのでございます。
 
 で、なるほど、最後はこう締めるのか……。
 と、独り合点をしたのでございますが……、
読了したら、その意味は、全然違っておりました。
 
 でも、これはどういうこと?
 破滅がやってくるということなのでございましょうが、
 小説内で起こった出来事によって、また違った未来の可能性ができたということ?

 どうなるのでございましょう?
 

 ジャンル分けは、あまり意味がないかもしれませんが、
 系統といたしましては、
 ライトノベルではなく、ジュヴナイルでございましょうな。
 「お前ならどうする」と、テーマを突きつけてくる感じが、そう。

 それを緻密にし、進化させた形、と思う次第でございます。
 


 長々と書いてしまいましたが、本当に言いたいのは一つだけ。
 あらすじをなぞっただけのような、
 単なるアニメのノベライズではないということでございます。
 それたけは心に留めておいてくださいませ。
 
 
 
 
追記:アニメ11話はこれを書いたあとで見ました。
   読み落としていた部分などございましたので、
   その後本文修正を加えた箇所もございます。
 
   アニメはわかりやすいように
   セリフや表現を変えてあるような気がいたしますな。
   で、見落としていたところに気づかされたり……。
   両方で違いを比べてみるのもよろしいかと……。

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周五郎少年文庫
『少年間諜(スパイ)X13号』
冒険小説集 
山本周五郎 末國善己編 
(新潮文庫/新元号元年元日)
 
 
 山本周五郎先生の戦前の少年少女向けの作品を集めた文庫が
昨今何冊か発売されております。
探偵小説怪奇小説も気になるところではございますが、
冒険小説集である本作を買ってみました。
周五郎先生の冒険小説ってどんなのだろう?
 
 読後思ったのは、これ、執筆年代順にしたほうがよかったのでは?
 ということでございました。
あとの時代の作品のほうが面白いんですもの……。
 
 連載、つまり多少長めの作品は、
 
『少年間諜X13号』1932/4~12月号
『決死ケルレン城』1934/1~12月号
『獅子王旗の下に』1935/12~1936/4月号
 
 なのですが、
 最初の『少年間諜X13号』は、
もっとも国策小説の色合いが濃く
しかも日米対戦をテーマにしているだけございまして、
なんともうすら寒い感じがしてくるのでございます。
 
 太平洋戦争という言葉も出てまいりますし、
主人公は決死隊として飛行船に特攻をかけるし
(特攻という言葉自体は出てまいりませんが)、
なによりも主人公の大和八郎
日本のためなら死をいとわない忠国の精神にあふれておりまして、
それが彼の果敢な行動のもととなっているのでございます。
 
 これは太平洋戦争を予言していたのては、と思ってしまいがちですが、
おそらく逆なのでございましょうな。
 
 こういった傾向の小説を十代のはじめころに読んで影響を受けた少年が、
成人するにおよんで、御國の為と進んで命を差し出していったのでございましょう。
 
 みなさんの中にも、
ロウティーンと呼ばれるころに読んだ本に影響を受けて道を踏み外し……いやいや、
た方もいらっしゃるのではないでしょうか? 
そういうことが、この時代にもあったのではないかと思うのでございます。
 
 特攻も、この作品に出てくるように、
水素ガスを充填している飛行船なら有効でしょうが、ねぇ。
 というか、
飛行船ならパラシュートで脱出してもよかったのではないかと思いますし、
ほかの方法もあり得たような……。
 御国の為に身を挺することが美学としてもてはやされたのでございましょうな。
 
 こうした主人公の性格からか、
ご都合主義が目立つところも、この小説の欠点でございますな。
いや、もしかするとそれは、現代の目で見ての、なのかもしれません。
 父親や八幡菩薩の加護で助かるというのは、
当時としては意味のあることだったのかもしれません。
 
 でもなぁ……。
 特攻よりも危険なことをやろうとして、大和八郎助かっちゃうんですよ。
 パラシュートで脱出ですよ。
 こういうのを読んで特攻に命を捧げた方のことを思うと、なんとも……。
 
 とはいえ、オビ
ジェームズ・ボンドより、イーサン・ハントより、すごいスパイがいた!
と書かれているのはちょっと言い過ぎな気はするものの
(そこら辺は人それぞれでございましょうが)、
スパイものとしては、それらの作品を先駆けております。
 
 主人公は快活豪胆でフェアプレイ精神もあり心地よいですし、
三つの秘密兵器を携え、小型潜航艇、戦闘機をあやつり、敵艦隊をやっつけたり、
秘密要塞に潜入したり、敵の飛行船に乗り込んだり、
活躍だけ取り出してみると縦横無尽でございます。
 
 ただ、軍事色が強いのと、国策にあった主人公の性格が、
今の目で娯楽小説としてみると、困ってしまうのでございますな。
 
 
 もっとも、こういうのは作者としてもあまりやりたくなかったのでは、と思います。
 
 と申しますのも、『決死ケルレン城』、『獅子王旗の下に』では、
そうした印象が少なくなっているからでございます。
 
 この2つの作品は、日本が当事国とはなってはおりません
 
 前者は内モンゴルがモデルと思われる架空のケルレン王国でございますし、
後者はエチオピア

国策的な意味はあったのかもしれませんが、
日本人が義勇にかられて他国を助けるという形をとっており、
忠国的なセリフはあまり出てまいりません。
 
 かつて大英帝国の植民地であった国におもむいて、
ジェームズ・ボンドが活躍するようなものでございますな。
      (敵や現地の女性に助けられたりもいたしますし)
 
 そのため、御国の為という感じは少なく軍事色も薄まって、
純粋に冒険小説として楽しめるのでございます。
 
 多少のご都合主義はございますが、少なくなっておりますし、
誰それ、何それの加護、ということがなくなったのがよござんすな。
 
 ピンチを切り抜ける機転も利いている。
 ということは、作者が頭がいい証左なのでございますが
 
 キャラクターもいい。
 特に、『決死ケルレン城』の
ふだんは頼りない少年だけど実は、の少年と、
浮浪児栗鼠公のコンビはいいなぁ。
 
 こういうのって、
後世の少年冒険マンガなんかに影響を与えているんじゃないのかなぁ……。
 門外漢なのでそう思うだけでございますが。
 
 純粋に娯楽小説として面白い物語に仕上がっていると思います。

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『ヨギ・ガンジーの妖術』
泡坂妻夫
昭和62年1月

『しあわせの書 迷探偵ヨギ・ガンジーの心霊術』
昭和62年7月

『生者と死者 酩探偵ヨギ・ガンジーの探偵術』
平成6年11月

     以上、新潮文庫

文藝別冊 総特集
『泡坂妻夫 からくりを愛した男』
KAWADE夢ムック(2015/2)
 
 
 
 
 

泡坂妻夫先生の作品は、
亜愛一郎」シリーズを図書館で借りて読んだことがあるはずなのでございますが、
それほど印象に残ってはおりません。
 それなのに、3月1日の記事に書いたとおり、
岡和田先生は、「ヨギ・ガンジー」を挙げていらっしゃる。

 なぜなのだろう、と思ったので買ってまいりました、
ヨギ・ガンジー」のシリーズ。ついでに、文藝別冊の「泡坂妻夫」も。
 
 で、『ヨギ・ガンジーの妖術』を読んで、なぜ印象に残らなかったかが分かりました。

 手品を見ているよう、とどこかの解説で書いてございましたが、
確かにそうなのでございますな。その意味で独特なのでございますが、それ以上ではない。
 
 
しあわせの書』もそうでございました。
この本を使って手品ができる」という仕掛けはすごい。
書いているときのことを考えれば、さらにその大変さが感じられるのでございますが、
それが直接推理に絡んでくるわけではないので、
推理小説として一頭地を抜けてすごいとは感じられなかったのでございます。
 
 
 一方、『生者と死者』は、素直にすごいと感じられる作品でございました。
この本は、本屋さんで手に取った段階で、普通の本との違いが分かります。
 この本はアンカット装となっておりまして、
1~16、17~32と、16ページごとの袋とじになっております。
 
 で、そのまま読むと短編小説
アンカットの部分を切り開いて読むと、長編小説として楽しめるというのでございますな。
 

 短編のほうは、なんとなくふわふわとした物語。
 中村千秋さんという記憶喪失の青年が、予知というか透視というか、
そんなものを使って殺人事件をあてるのでございますが、まぁ、それだけ。
謎解きもなく、最後、千秋さんは、記憶の一部を取り戻したらしく、
どこかへ行ってしまうのです。
 
 余韻もあり、普通小説として完結しているとは言え、
推理小説を期待していると落ち着かない感じなのでございます。
 ヨギ・ガンジー先生も出てまいりません。
 
 
 それが、アンカットの部分を開いていくと……。
 
 とにかくね。変わり方がすごいのでございますよ。
 最初の袋とじの部分については避けますが、
その次、短編の場合の最初の見開きの、すぐ次のページでございますな。
 
 短編では、
中村千秋は美/青年であった」(/のところでページが変わっております)
となっていたところが、
中村千秋は美/しい女性には違いなかった」と性別が変わってしまっている!
 
 この人中心人物ですよ。それがこれですもの。
 
 その後も、場所や意味合いがぜんぜん変わっちゃうところがあり、
短編のためのタイトル、「消える短編小説」のとおり、
もとの話がどんなのだったか分からなくなってしまう。
 
 もちろん、短編部分の文章は、
15ページごとに見開きで入ってくるわけでございますから、
固有名詞をはじめ、変えられない部分はありますが、だからこそすごいアクロバット
 特に、先ほど上げましたように、ページの変わり目の部分がすごいですな。
そこを注意して読むと、けっこう楽しめます。
 
 ですからアンカットを切る用とそのままにしておく用、
なるべくなら2冊買っておくことをおすすめ。いや必須と申していいかもしれません。
 
 とにかく、この作品も労作でございます。
しかも、『しあわせの書』とは違い、
その労苦が、物語に活かされているのがよろしゅうございますな。
 
 先日、うろ覚えながらも『石蹴り遊び』を取り上げたのも、
この作品について書きたかったからでございます。
 
 やはり、こうした凝ったことをやる以上、
そこに凝った意味合いが欲しいとわたくしは思ってしまうのでございます。
  
 
 コピー誌などを作る場合、袋とじにしちゃったほうが楽だったりしますから、
こういうことを考えたかたはいると思います。
 
 パズルの解答やフローチャートを袋とじ部分に置いておこうとか、
肝心のパラグラフは、ページを開かないと見ることができないようにしておこうとか。
 
 ですが、開くとまったく違った物語になるなんて……。
 思いつくまでは行くかもしれませんが、実際に作るとなると……。
 本当に労作だと思います。

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リヴィジョンズ』。
(2018/12/20 (Thu) の続き、というか余談)

「You Tube」で公開されているアニメのPVを見ると、
小説とはかなりイメージが違う……。
 
 作っているアニメ会社の特徴なのか、
 今風というか、
 きれいなんだけれど、力強さがない。
 
 主人公の大介ももっと熱血に振って欲しかったし、
敵キャラクターも(PVでは一人しか出てこなかったみたいだけれど)
小説からイメージされる、変なというかまんまな感じの方がよかったのに。
 
 ストリング・パペットや敵モンスター・シビリアンも、きれいで細かすぎる。
 もっと単純なデザインのほうが、合っているような気がするのだけれど……。
 
 おそらく、アニメから入れば気にならない部分なのだろう。
 が、どうも違和感を感じてしまう。
 
 小説とアニメは別もの、
 なのだろう。
 
 アニメは見ないで、小説のほうだけ追っていく。
 そのほうがいいかもしれない……。
 

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『リヴィジョンズ1』木村航  原作:S・F・S
2018/12/20『リヴィジョンズ1』
 ハヤカワ文庫JA(2018/12)
 
 木村航先生の新作。

 先生は、リンクの『野望の王国』入り口に
引用された献辞にもあるとおり、
賢者の石井文弘さんや薄羽かげろうさんとも関係あるので、
このブログにも多分関係があるのだ……
会ったことないけど。
 
 原作のS・F・Sさんはよく知らないけれど、
オビによると、2019年1月からのテレビアニメとして
放映されるのだそうだ。
  
 ジャンルは、時間SFの要素を持ったロボットもの。
  
時空振動によって2388年にとばされた渋谷で、
5人の少年少女がロボットに乗り込み、敵と戦うというストーリーだ。
  
 日常。
 
 地震。

 怪物の出現。
 
 7年前の回想を交えながら、視点をさまざまに移動し、物語は展開する。
 
 情報の出し方がうまい。
 コントロールされ、小出しにされるそれが、謎をはらんで読者を先へとうながす。
 
 このあたりは、ネットゲーム
 (大規模メールゲームの遊演体での名称。
  この「ネットゲーム」については説明したいこともあるが、長くなりそうなので省く)
で鍛えられたものだろう。
 
 日常の描写は、『ぺとぺとさん』や『愛とカルシウム』など、
現実にすこしふしぎを加えた作品を多くものにする中で、作者が培ってきたものだ。
 
 その丁寧な日常が揺るぎない土台となって、
時空振動という大きなSFやロボットものの派手さを支えている。
 
 最初から登場する主人公の一人、堂島大介は、
 兜甲児を現実世界に落とし込んだようなキャラクター。
 いそうで意外と他にないタイプだ。
 直情径行で物語を先に押し進める。
 
 7年前の事件が特にそうだが、全体的に、大長編のドラえもんの雰囲気を自分は感じた。
 
 災害に対応する政治の部分は、アフター『シン・ゴジラ』を感じる。
 それともアフター震災か。
  
 そういうリアルな世界だから、主人公たちも能天気に暴れ回ればいい
というわけにはいかない。
大介たちも警察に捕まってしまう。
 
 
 だが、
 そんなリアルな世界に水を差すように読者の前に姿を現すのが、22章。
「敵」リヴィジョンズサイドの面々だ。
 
 ケモミミ女とマンガ的に擬人化された犬、それにゴスロリ幼女。
 これまでのリアルは何? と問いただしたくなるようなキャラクターたちだ。
 
 スーパーロボットものでは、確かに敵陣営といえば
変なキャラクターは珍しくもないが、これでは今まで構築してきた世界が台無しなのでは?
 そう思いつつ、読み続けることしばし……。
 
 ふと気がついた。
 
 これは、『鋼鉄の虹』だ、と。
 
 『鋼鉄の虹』は、
1995年に遊演体が開いたネットゲーム(重ねていうが大規模メールゲーム)。
 
 
2018/12/20 『鋼鉄の虹』

 ↑ 『鋼鉄の虹』スターティングマニュアル裏表紙と、総集編表紙 
 
 
 
 ヒトラーの影迫る架空の小国ケルンテンを舞台に、
イェーガーと呼ばれる基本5~6メートルほどの乗り込み型ロボット同士が戦う世界だ。
 当時の技術では当然作り得ない兵器だが、
その上位機種である「ウービルト」という優美な機体も存在する。
 
 「パンツァーメルヘン」のうたい文句どおり、妖精や吸血鬼なども闊歩し、
物語中盤からはそれらロボットと妖異の原郷であり、
人々の集合無意識世界であるフェルネラントが確認され、それが具現化する。
 
 プレイヤーの役割は、リプライ(遊演体宛の手紙)の形で、
この世界にいる自分のキャラクターに意思を送り込むことだ。
 それによってこの動乱の世を動かしていくのだがーー。
 
 
 総集編のあとがき「GMの遠吠え N95を振り返って」を読むと、
挑戦的な作品だが、それがあふれすぎて思うようにいかなかったことが垣間見える。
 
 GMの水無神智宏先生が、ネットゲームについていろいろと知っていたものの、
実際にプレイしていなかったというのも問題だったのかも知れない。
前にも書いたが、理論から入った人は、そのジャンルが好きで入った人にくらべて、
どうしても受け手とは温度差ができてしまうものなのだ。
 
『鋼鉄の虹』の場合は、1930年代後半という舞台の共有の難しさや、
1年とはいえ実質10回ぐらいという行動の少なさ、
そしてテーマである「ストーリー依存からプレイヤー主導へ」のはらむ難しさ
(おそらくは矛盾)が問題だったのだろう。
 
 インターネットの時代なら、これらのうちのある程度は解決できたと思う。
早すぎた意欲作でもあったのだろう。
  
 どんな作品でも、作者にとって心残りになる部分はなにがしか存在すると思うが、
魅力的な作品なだけに『鋼鉄の虹』は、それがひとしおのものだったのだろう。
「遠吠え」には、それが感じられる。
 
 と同時に、その思いは他の人にもあったのではないだろうか。
 
 そうした思いが『リヴィジョンズ』を作り上げたのだと考えると面白い。
 
『鋼鉄の虹』の問題点を洗い出し、検討し、練り込み……。
よく考えた上で現代に落とし込んでいる。
 
 そこには関わった人の経験も込められているのだろう。
 
 異形の怪物やアニメキャラクターそのもののリビジョンズと、
ストリング・パペットというロボット(パワードスーツ)を提供するアーヴ。
この対立構造は、『鋼鉄の虹』のエルダとオーディンをそのまま現代に置きかえたものだ(☆)。
 
 
 舞台をどこか昔の国から現代日本に変え、
 
 どことなく曖昧だったエルダやオーディンの脅威を、
どちらのサイドにしたがっても半数がおそらく助からないと、
はっきりと人類の未来に関わるものとして、提示しているのもいい。
 
 アニメーション作品だから当然だが、
主人公たちをプレイヤーの手にゆだねないことも正解だろう。
 プレイヤーにはプレイヤーの思いがあり、
制作者側の思い通りにはいかないものだから
(というよりも、思惑どおりに動いたとしたら、むしろそれも変だと思う)――。
 
 主人公たちの行動に思いを重ねることで、自立的な行動をうながす――。
『鋼鉄の虹』の意図とは逆だが、物語の役割としては非常に正しいものだ。
 
 
 
 ミロの所属するアーヴの真意は、一巻の段階では明らかにされていない。
ただ、そのプランでもやはり半数の人々の命が助からないことがほのめかされているだけだ。
 
 次巻以降、それが明らかになり、現代人は苦しい選択を迫られるのだろう。
 そして、アーヴと彼らの間に立つミロもまた……。
 
 7年前の優しかったミロというのは、
その苦しい選択を乗り越えた未来からやって来た……のだろうか。
 
 次巻以降が気になるところだ。
 
 
 
 
 
 
(☆) 集合無意識の世界であるフェルネラントとオーディン・エルダは、
『鋼鉄の虹』では、GMが感じた「ネットゲームの現状」の比喩だった。
 そのことを踏まえて考えると、アーヴ・リヴィジョンズはもしかすると、
市場原理に左右され、表面的なかっこよさやかわいらしさ、
ウケが先行するアニメなどの現状を重ね合わせているのかも知れない。
 あるいは昨今蔓延する安易な異世界願望充足小説も視野に入っているのかも……。
 
『鋼鉄の虹』のテーマは「ネットゲームの現状に対する警鐘」だった。
もし『リヴィジョンズ』がそれに倣うのだとすれば、そうした
「アニメなどの現状に対する警鐘」の意味合いが込められていることもあり得るだろう。
 
 それが生硬な形で現れてくることはないだろうが。

 
 
☆ おまけ

2018/12/25 イェーガー

イェーガー。
(アーベル・アインシュタイン氏の紳士録『Wer ist Wer』(同人誌)
  4月15日発行号の表紙に描かせていただいたもの)

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ゲームブック以前


『日本SF傑作選1 筒井康隆』筒井康隆 デマ
日下三蔵編(ハヤカワ文庫JA/2017/8)。
「デマ」(P.581-617)
(初出:「SFマガジン」1973年2月号)


 この作品は、ご存じの方もおられるかもしれませんな。

『ゲームブック入門大百科』でも紹介されていた(p.24)
ことでございますし。
いや、実はわたくしもその本で知ったクチでございまして……。

 正直申しまして、赤塚不二夫先生や筒井康隆先生の作品は、
あまり読んでいないのでございますよ。
グロや下ネタを含んだ作品にあたる可能性もあり、
わたくしはそういうの苦手なので……。

 作品は、言語統制下にある未来が舞台。
検査に失格して徴兵をまぬかれた男がおりまして、
その男のした世間話が噂となり、どんどん広がって……、
と、そういう流れでございます。 

 噂が広がるにつれ、話が違ったものになっていくのは、当然。
二人の人に話せば、その二人がそれぞれ別のことを伝えるということは、
よくあることでございますよね。

筒井康隆 デマ 本文


 それがこの作品の分岐になっているのでございます。
 フローチャート小説でございますな。

 最後のページ(p.617)に書かれておりますとおり、
「情報が歪曲されて伝達される形態や条件のほとんどすべて」が含まれておりまして、
それがすごい。

 編者の解説によれば、この作品は、1973年に「CBSソニーから発売された
同題のLPレコードのために書かれたもの」(p.757)だそうで。

 と、すれば、レコードのトラックを活用できないか
という発想から生まれたものなのでございましょうな。

 ただ、ネットで調べてみると、レコードは、朗読とかではなく、
そこからインスピレーションを受けたジャズが入っているのだとか
(小説は、そのライナーノートにも入っていたみたい……なのかな。
今ひとつ自信が……)。



 で、まぁ、その噂が立ち消えになったり、新しい情報を含んで変質したり……、
となっていくわけでございます。

 構成は意外と単純。
ですが、それは新しい試みだからでございましょう。
もし、同じ手法で、第二第三ができておりますれば、
さらに複雑に絡み合わせることも可能だったかと存じます。

「女か虎か」の時も書きましたが、
この作品も、「主人公は君」ではございません。

噂によって変化する状況が主となっているわけでございますから、
これは当然ですな。

 ですからこの作品は、どのルートが正しいとかではなく
(まぁ、情報消滅が一番遅いルートを選択する
 というのも楽しみ方としてあるでしょうが)、
  個々の過程と全体の俯瞰を楽しむものだと思います。



 こうした並行的に変化する状況というのは、
「主人公が君」であるゲームブックと組み合わさって、『428』などのような、
主人公や場所を切り替えながらゲーム内の問題を解決していく
アドベンチャーゲームにつながっていくと思うのでございますよ。

 でもってですねぇ、

この「デマ」の手法は、別のアプローチでも、何か使えるのではないか、
それによって、ゲームブックに新しい進化を加えられるのではないか、
そのようなことを考えているのでございます。

 もしかすると、
それは「主人公は君」というスタイルは取れないかもしれませんし、

ゲームでもないかも知れません。

 他のかたがどう思うかは存じませんが、
わたくしといたしましては、それでいいのだ、でございます。

 何か新しいもの。

 何か面白いもの、


 それであれば、ゲームブックの枠は必要ございませんでしょう。

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『人外魔境』小栗虫太郎
(河出文庫/2018/1)
(1939-1941 「新青年」)
小栗虫太郎先生の作品をお薦めするのは、
読みやすさからでも、面白さからでもございません。
 読みやすいかと言えばその逆とも申せますし、
面白い本を探すのでしたら、ライトノベルから探した方がよろしいかも……。

 そのあたりは、読者の嗜好があるのでなんとも申せませんが、一般的にはそうでしょう。

 そうではなくて、やはりこの作者の魅力は、言葉の持つ喚起力

 外国語を訳した造語、あるいは造語にふられた外国語のルビ、
が、なんとも衒学的にして蠱惑的なのでございます。

 一時期、ネーミング事典なるものが流行りましたな。
ああいうものは、急場の用には役立つかもしれませんが、
喚起力という点ではいかがでございましょうか?
 それらしい単語を考え、それを外国語に当てはめていくだけでは、
イメージはさして飛躍していかないものではございませんでしょうか。

 それに対して、小栗先生の言葉には、特に喚起力がございます。
 

 
ムラムブウエジ
 
悪魔の尿溜

リオ・フォルス・デイ・デイオス

 神 々 の 狂 人

セミルク・シュアー
 邪霊の棲家 

プシパマーダ
 花酔境 

  ガ 
 腐朽霧気

 テラ・インコグニタ
 未 踏 地 帯

  セブルクルム・ルクジ
 知られざる森の墓場

 
 最初の数ページですが、ねっ、わくわくするような言葉が並ぶでしょう?

 実際には、秘境冒険ものと申しましても、
完全なファンタジーではなく、現実を少し飛躍させた程度でございますから、
本文を読むとガッカリしてしまうこともございます。

(たとえば、「畸獣楽園(デーザ・バリモー)」なんて、
 どんなすごいモンスターが登場するかと思いきや……)


 ですから、作品を読むのではなくむしろ、こうした単語を抜き出して、
それがどんなところなのか、
自分が書くとしたら、どんな冒険をさせるだろうかなどと
想像を膨らませる方が楽しいかもしれませんな。

 特に、ファイティング・ファンタジーのような、
ゴシックファンタジーなゲームブックをお書きになろうとしている方には、
作品アイデアの一助となるのではございませんでしょうか?
 

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「俺たちの俺」 京極夏彦 (「奇想天外21世紀版」P.193209所収)


 


「奇想天外」の話は、前回で終わるつもりでしたが、京極先生が、形式において変わった短編を書いているので、ちょっと触れておきましょう。


この「俺たちの俺」という作品は、「目が醒めると俺がいた」という書き出しがすべてを表しておりますが。まぁ、そういう話なのでございます。


形式における工夫と申すのは、見開きの片方のページに「俺」、もう一方にもう一人の「俺」の一人称で描かれているということでございます。


つまり、右と左とで視点が違うのですな。


それを貫いていれば、すごいのでございますが、3章ぐらいで話が動き出しますと、形式は維持しているものの、視点の区別はない一続きの話となり、それがちょっと残念。


最初の形を維持するのは難しかったのでしょうなぁ。


にしても、ラストだけは再びもとの形式に戻って、それぞれの視点で話を展開してほしかったところでございます。で、それぞれの「俺」が生き残る、別の結末が用意されていても良かったような。


 形式には手を加えないとしても、ラストの一章はどちらがどちらか分からない描写にして、結末を読者にゆだねるリドルストーリーの形にした方が、この作品には合っているのではございませんでしょうか。


 そう思うのでございます。


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篠田節子
(2008/12 新潮社)
"The Seisen-shinpo-Kai Case"

p.117まで



 インドネシアの工場の暴動のくだりは、
現地の信仰を無視して、聖泉真法会のやり方を押し付けたことによる不満が原因だった。
 このあたり、第二次大戦下の日本の植民地経営を思わせる。

 もちろんこれは、鈴木の指示によるものではない。
 鈴木は、他の宗教と軋轢(あつれき)から起こるトラブルを見越して、
そうしたことを一切避けてきた。

 だが、工場をまかされた森田の部下が、そうしたことをまったく理解しないで、
良かれと思って独断で行なったことだった。

 それがきっかけとなったように、
これまでうまく避けてきたと思っていた地雷が、連鎖的に爆破し始める。

 宗教関係の物品販売業者、ヴィハーラとのやり取りに関する税務署の査察。
 大宗教団体「恵法三倫会」の教祖、回向法儒との黒い噂。
(単に、一度会って脅しを受けただけなのだが)

 マスコミによってそれらは大きく取り上げられ、
あることないこと書かれることとなる。

 一部の信者がそれに反応し、出版社に押しかけたことが、火に油を注いだ。
 マスコミはさらに鈴木を追い込み、
そうした中、彼はひとつのトリックに引っかかって、芸能レポーターのインタビューに答えてしまう。
 そのコメントは切り貼りされ、無責任な発言に編集されてしまう。

 マスコミの攻勢はさらに激しくなり、
 それに応ずるように、信者は激減する。

  一部の信者が起こしたことでも、自分のあずかり知らぬところで起ったことであっても、
すべては教団の、教祖のせいとされてしまう。
 まぁ、団体というものはどのようなものでもそうだが、
宗教団体のようなうさんくさい存在ともなると、その風当たりが強くなるのも当然のことだ。

 そして、世間から外れているがゆえに、そうした風聞に弱いのもこうした団体だ。
 宗教は、信仰に支えられているがゆえに、
その信頼がいつわりだと思われてしまえば、すぐさま信者に去られてしまう。

 追い討ちをかけるようにを、森田の会社が去っていった。
 社長の交替劇があり、増谷も無償で貸与されていた会館も失うことになる。
 さらに、別の信者から贈与された土地も、彼女の願いを聞いて返してしまう。

 聖泉真法会に残されたものは、中野新橋の集会所と、少数の残った信者……。

 元の木阿弥というやつだ。

 もう少し、順調に、もっと大きい教団に成長していくのかと思ったのだが、瓦解は意外に早かった。
 そんなものかもしれないが、ここまでで下巻の百ページと少し。
 あと、三百数十ページある。

 大きくなった教団がつぶれて終わり、という話かと思っていたが、そうではないようだ。

 少数残った信者は動きをはじめているし、活動は続くのだろう。
 いったい、どのように展開していくのだろうか?
 
 

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篠田節子
(2008/12 新潮社)
"The Seisen-shinpo-Kai Case"

(p.284~上巻読了まで)



 話の中で、二年という言葉が出てくる。
 聖泉真法会をはじめてから、二年の歳月が経っているのだ。

 そのあいだ運営を続けてこれたのならば、
それほど大きなトラブルも出なくなってくるだろうし、
その対処の仕方も要領が見えてくる頃だろう。
信者たちだって、互いに不満をもちながらも何とかやっているはずだ。
 集会所のほうのエピソードが少なくなっていくのは、そうした事情もあるのだろう。

 とはいえ、それらがなくなったわけではない。
 大きな動きの中に、さまざまなエピソードが盛り込まれる。

 宗教に超能力をもとめる竹内由宇太という最初からいた少年は、
未明に集会所で呪詛を試みてボヤ騒ぎを起こし、
そこを飛び出し修験者系教団に入り、そこをも出て、高野山中で遭難死する。

 集会所を飛び出すとき、
鈴木は、本音を語ってまで彼にまともな生き方をするように説いたのだが、
それが結局聞き入れられず、このような形になってしまった……。
 そのことに悔恨し、自分の作った偽の宗教に真摯な想いで祈りを捧げる。


 集会所にたむろしていた若者は、
一時的に、ヴェハーラという宗教関係の物品販売業者に借り出される。
 税金対策に、頭数(あたまかず)をそろえるために集められたのだが、
意外にも彼らは、一人前並の働きをする。
 そして仕事をすることによって、彼らの様子もどことなく生気が現れるようになった。
 まあ、そうだよね。
 そういうものだ。

 こういうエピソードを挿入するあたりも、作者が宗教団体をつうじて、
さまざまな世相の問題を取り上げていくという意欲を感じる。


 かつて、芥川賞をとったという井坂は、破滅型の典型だ。
 正業に就かず、寸借詐欺のようなことを繰り返し、
金を手にしたら派手に使い、妻や幼い病気の子供をつれたまま野宿をする。
 しかし、文章は確かに一流で、話もうまく、
会報に載った彼の文章や講演は信者の間で高い評価を呼ぶ。

 何となく「一杯のかけそば」を思い出した。
 そんなによくは知らないが……。

 そんな男に、鈴木は神戸の支部をまかせることにする。
 支部の土地、建物の持ち主の願いでもあるが、
井坂の行状には目をつぶり、その人気を利用しようと、
鈴木はその依頼を了承し、彼を神戸へと向かわせる。
 それは、井坂が、教団の実務担当である増谷(森田の会社から出向してきた人物)
と折り合いが悪かったためでもあるのだが、
結果は大失敗に終わる。

 このエピソード、フィクションだから誇張しているのだろうが、作者の
文学に対する信頼が強すぎるような気もする。
 きわめて文学性が高い文章というものは確かに存在するが、
それが本もろくに読んだことがないような人にまで読む気にさせ、感動させることが出来るのか……。

 ん……。

 正直どうなのだろう。
 よくわからない。

   ※   ※   ※


 と、上巻の感想はここで終わり、

 上巻のラストは、森田の会社のインドネシアの工場が
暴動で焼かれたというニュースが入って終わる。

 で、
 ここで図書館へ本を返さないとならないので、いったん終了。
下巻の感想は、それを借りてきてからということになるでしょう。

 いつになるかは、さっぱりわかりません。

 すぐかもしれないし、ずっと先のことになるかも。
 いずれにせよ、そちらの感想も書く予定です。

 

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