インターネットエクスプローラーが、なんか8になりましたよ。
まっ、それとは全然関係はございませぬが、
このあたりで路線変更とまいりたいと存じます。
今まで、
ブログをホームページのように扱っていきたいと思っていたのでございますよ。
で、
基本的なところから段階を追って……ということで、
まずは、ゲームブックがどんなものか分からないと話にならないから、
現在購入可能なゲームブックからはじめて、
ゲームブックのプレイの仕方など、
基本的な話につなげていき、
つっこんだ話はその後、
というように考えていたのでございますが、
……
難しいものでございますなあ。
そういうのはやはり、
冷静で淡々とできる方がやるべきなのでございましょう。
あるいは、ちゃんとホームページを作ってやるべきなのでしょうな。
ブログでやるのでしたら、HTMLとかCSSでしたっけ、
ちゃんとしたそうした知識がなくば、触れてはいけないものなのでございましょう。
もっとも、
そうした方針を実行するのが難しいのは、単に形式の問題だけではございませんな。
ネット上やそれ以外で話題を拾うと、それについてもお話したくなる。
そうすると、どうしても全体のバランスが崩れてしまう。
段階を経てと、いう形は取りにくくなりますな。
それにそれに、
ゲームブック以外の話題についても扱いたいと思っておりますのですが、
ど~も今の状態ではやりにくい。
というわけで、基本的なところから粛々と、
という路線を変更し、
わりと自由な感じでいきたいと存じます。
とはもうせ、やはり基本的な部分は必要でございましょう。
ですから、そういう部分はこれからも続けていく所存でございます。
あと、ゲームブックファンの方には申し上げにくいことではございますが、
ゲームブック以外の話題も増やしていきたいと思っております。
だって、いろいろと書きたいことはございますもの。
ん?
今までと全然変わらないのでは、ですって?
まっ、気の持ちようでございますよ、その辺は。
わたくしの、でございますが。
まあ、
いろいろと変えてゆきたいところなのでございますが、
ご主人様がなかなかコンピュータを起ちあげてくださらないものでございますから、
すぐに、というわけにはまいりません。
そのうち追々と変えていく、ということでございますな。
とりあえず、
ふつうのブログのように、日付の新しい順に変更します。
あと、ここ何回かはゲームブックと関係ない話にしようかな、
などとも考えております。
ブロッコリー社のサイトの、このあたりからの情報でございます。
http://www.broccoli.co.jp/game/gamebook/
『ソードワールド』のゲームブック化といえば、
確か2.0しないころからの、長年の夢だったのではございませんでしたっけ?
システムをコンピュータまかせにすることで、システム上の煩雑さをなくせたこと。
DSの縦持ち(横持ちなのか?)が、文庫の手軽さと縦書きを可能にしたこと。
そして昨今の、ゲームブックの小ブーム(大とはいえないところが悲しいですが)
が、この企画にGOを出させることになったのでございましょう。
期待したいところでございます。
ただ……。
個人的には、
ひとつだけ問題が……。
単純な話、ご主人さまはDSを持っていないのでございます。
ゲームはゲームボーイアドバンスで充分。
DSの次のゲームハードが出たら買うかも、とか申しておりましてね。
一応、PSPは持っているのでございますが、
これは主に携帯音楽プレイヤーとしての用途ですな。
この作品のためにハードごと買うかというと、微妙なのでございます。
ご主人様が貧乏だからというのもございますが、
ハードが増えるとソフトが増える→積みゲーも増える→置く場所が必要になる、
という悪循環を減らしたい、という意向もあるのでございます。
そのためにも、積みになっているソフトも消化していかないと--。
と思うのでございますが、やりこみ要素、とかまで気にしていると、
電池が切れることを考えなければ、
一生ものになってしまうのでございますよね。
貧乏性ゆえと申しますか、困ったことにございます。
FFシリーズ全体の中ではどのようなとらえ方をしたらよろしいのでございましょうか?
『ハウス・オブ・ヘル』の時も書きましたが、
『ソーサリー』シリーズは、
FF4『さまよえる宇宙船』から
FF10『地獄の館(ハウス・オブ・ヘル)』
の間に書かれました。
その間にリビングストンは、
FF5『盗賊都市』(1983)
FF6『死のワナの地下迷宮(デストラップ・ダンジョン)』 (1984)
FF7『トカゲ王の島』 (1984)
FF9『雪の魔女の洞窟』 (1984)
と、やはり4つの作品を発表しております。
1984年に、『ファイティング・ファンタジー』
というTRPGシステムを発表しておりますから、
その背景世界の構築というのが、
おそらく、「ソーサリー」シリーズとこれらのゲームブックに
課せられた大きな課題だったのだと想像できます。
『火吹山の魔法使い』や『バルサスの要塞』では、
背景世界がいまひとつ明確ではございませんでしたからな。
リビングストンがアランシアを、
ジャクソンが旧世界を手がけたのは、
それぞれに独自性と統一感を持たせたかったのでございましょうな。
雰囲気におきましても表記におきましても。
矛盾があっても困りますし。
あとは、ジャクソンのチャレンジ精神が、
旧世界という新しい世界を求めていたのでございましょう。
リビングストンの作品が、いつもの単発作品であるのに対し、
ジャクソンの『ソーサリー』が、四部作なのも、
ソロシナリオと
キャンペーンゲームという
RPGの二つの楽しみ方を示したということなのでございましょう。
ただ、構想の上ではそうだとしても、実際にできたものは
紛れもなくジャクソンらしい緊密さに充ちたゲームブックであり、
これをそのままRPGに、というわけにはいかないでしょうな。
まあ、形式を示したということは確かでごさいますし、
TRPGの舞台をゲームブックという物語形式で提示したという点では、
意義深きことではございますが。
スティーブ・ジャクソンが、
TRPGの足がかりとしてゲームブックを意図していたことは、
『ファイティングファンタジー』の
「はじめに」と「1.アドベンチャー・ゲーム・ブックからロールプレイング・ゲームへ」から、
読み取れることでございます。
実際に、ゲームブックを足がかりにしてTRPGを始めたという人も多いようですし、
この意図は成功したと申してよろしいでしょうな。
「ウォーロック」誌もそうした流れで編集されておりました。
そのあたり、ゲームブックファンとしては微妙なところではございますが。
ただ、ではゲームブックはRPGの代価物か、というと、もちろんそうではございません。
そのことは、ゲームブックファンのかたがたなら
よ~くご存じのことでございましょう!
前回抜けた部分を、
安田均先生の
『ファイティング・ファンタジー ゲームブックの楽しみ方』
(1990/社会思想社)から、
引用補足しておきましょう。
おお、そうそう。
その前に。
この当時は、創土社版はございませんから、当然、東京創元社版を元にに書かれております。
ですから、タイトルに関しては、
以下のように、脳内変換してお読みいただけると光栄にございます。
『魔法使いの丘』 ⇒ 『シャムシャンティの丘を越えて』
『城塞都市カーレ』⇒ 『魔の罠の都』
『七匹の大蛇』 ⇒ 『七匹の大蛇』
『王たちの冠』 ⇒ 『諸王の冠』
このあたりを理解したところで、さっそく参りましょう。
まず、全体の構成。
○第一部『魔法使いの丘』は、
オーソドックスなオープンフィールド。
散発的なイベントを順次解決する、ある意味プロローグ的な冒険。
○第二部『城塞都市カーレ』は、
シティーアドベンチャー。
『バルサスの要塞』でジャクソンが見せた、パズル性と複雑なプロットの組み替えが冴えわたる。
○第三部『七匹の大蛇』。
森・湖・沼といった特殊なオープンフィールド。
モンスターと主人公の競争がサスペンスを盛り上げる。
○第四部『王たちの冠』、
要塞内部。
構成は『バルサスの要塞』を思わせるものの、プロットは遙かに複雑になっている。
つまり、
アイデアと新しい試みがこれでもかとばかりに盛り込まれていて、驚きの連続であると。
以降、量とシリーズ性で『ソーサリー』を凌駕しようとする類似品がでてきたが、
それだけではこのクレバーな作品にはとうていかなうことはできない、と。
そう、安田先生は申しております。
もう一つ、魔法システムについてでございますが、
同書によりますれば、これが経験・成長のシステムになっているのだそうでございます。
選択肢にある呪文の結果を、
A:魔法の成功
B:魔法の失敗(不適切な使用)
C:魔法の失敗(アイテムの欠如)
D:ニセの魔法
と分けた場合、魔法の失敗例は、
『魔法使いの丘』では 、Dが多くBがない。
『城塞都市カーレ』は、どれも均等。
『七匹の大蛇』C、Dがなく、Bが増え、
『王たちの冠』になると、やはりC、Dがなく、Bがさらに増える
ということでございます。
要するに、駆け出しのころは、
魔法を間違えたかどうかが、成功失敗の分かれ目になる けれど、
一人前の魔法使いとなり、魔法をすべて覚えたあとは、
それを正しく使えるかどうかが正否を分ける ということですな。
そういう成長を、魔法ルールによって表現していると
安田先生はおっしゃっております。
う~む、仕事が早い!!
次回の「ゲームブックなチャット」で何か動きが報告されるのかと思っておりましたが。
どなたの仕業かは存じませんが、
エラい!!
感謝感謝!!
としか申しあげられませぬな。
というわけで、「ゲームブック倉庫番@ウィキ」は、
■←ここらへんにございます。
(リンク貼っちゃってもいいですよね?)
コメントの書き込みや、ブログ自体も、なかなか手を出さなかったご主人さまのこと。
こういうのは苦手なのでございますが、
使い方と利用条件がわかって、かつ参加する気になったら、
書き込んでみることにいたしましょう。
旧、「ゲームブックなチャット」は、15日に終了するそうでございます。
3月29日の記事にリンクを貼っておきましたが、それを消しておかなくてはなりませぬな。
そこで、今回のチャットは、新しい場所に舞台を移しての開催とあいなりました。
■←ここらへん。
主催のはしもとさま、感謝感謝でございます。
新しいチャットは、
使い方もほぼ同様ですし、全体が日本語なのでわかりやすいのですが、
やはり違うところはございます。
たとえば、入退室がわかりにくかったりするあたりは、ちと使いにくいですな。
まあ、会員登録とかが要らないところはよろしゅうございますな。
あ、そうそう。
ヘルプを見ますと、
単に「Enter」キーを押すと、投稿。
「Shift+Enter」で、改行となるみたいです。
わたくしのように、
テキストエディタで書いておいて、コピー&ペーストですと
そこらへんあまり関係ございませぬが、
直接書き込む際には、お気をつけを。
さて、
昨日5月2日のチャットは、
松友健先生を交えて、いや、先生が中心となってお話しが進んでまいりました。
当然ながら話題の中心は『夢幻の双刃』。
わたくしはエンドまでいっていなかったので、見ているだけのつもりでしたが、
だいぶたったあたり、
それとはあまり関係のない話題のところで、ついつい発言してしまいました。
あとから参加した方もあって、おしゃべりが終わったのは、午前4時近く。
平日なら、普通誰もが起きて、朝食を食べている時間ですよね?
1時ごろあたりでございましたか、最初の退室者が出たあたりから、
おいとまをもくろんでいたのでございますが、
結局ほぼ最後までおつきあいさせていただくことに相成りました。
ピンポイント爆撃で、あとは傍観を極めこむつもりでございましたのに--。
ということで、
チャットから、話の流れで書ききれなかった点、
あとで読んで思いついたことや感想、
そのほかちょっとしたことなどを書いておきましょう。
敬称は、まことに不躾ながら省略させていただきます。
とととと、その前にまず、心得ていただきたいのですが、
やはり作品を成立させた方が一番偉いのでございます。
すなはち、本を上梓した方ですな。
それにチャチャを入れるのは、書いていないもののたわごと。
遠吠えでございます。
その点は、理解しておいていただきたく存じます。
さて、それでは参りましょう。
松友健2009.05.02(Sat) 22:40:02
「ベストが最深部にあるのは、ベストじゃないお話を見せるため。」
※ どこかで読んだのでございますが、
自分が一番読んでもらいたいルートがあったら、一番わかりやすいところに持ってくるのが当然。
それを隠しで入れておいたら、読んでくれる人なんてほとんどいない、
という意見もございますな。
それを踏まえて、あえて逆の道を行ったのでごさいましょう。
ネットの口コミが普及した世界では、それもアリかもしれません。
ブログで、真のエンディングに関する情報が広まれば、
どんなものかプレイしてみようという気になるというものでございます。
※ この考えはつまり、
ゲームブックは作品全体をプレイしてみて、はじめてその作品が理解できるものだ、
ということだと思いますが、
それに関しましては、わたくしも賛成でございます。
もっとも、最後までプレイしないとわからない、をやると、
それ以前にゲームからおりてしまって、半可通の意見で作品を語る人もおられそうですが。
コンピュータゲームでも、最初の五分ぐらいをプレイして、
「クソゲー」と断罪するかたもいらっしゃいますよな。
ま、そういう方は、相手になさっていないのでございましょう。
※ 作品の後書きかどこかで、
エンディングはいくつかあり、
自分がベストと思えるエンディングには、まず初見で到達することができないだろう、
ぐらいは書いてもよかったのかも、などとも考えます。
70.モツナベタキオン2009.05.02(Sat) 22:49:02
発売後の酒井さんの意見とは?
72.松友健2009.05.02(Sat) 22:50:09
「夢幻はベストエンディングを目指すためにこうしなければならないというルートがあり、つきつめたゲームとして一本道になるんです。こうなると小説としての面白さが途端に減る。」
74.松友健2009.05.02(Sat) 22:51:05
「魔人竜は横並びにどれも立派なエンディングになっているから「あそこでこうした方がベスト」というのがない。人殺しも主神によっては良かったり悪かったりでしたよね。ああいった点が非常に優れていたんです。」
※ ベストエンディングがあると、攻略するものになりますな。
攻略ですと、作者の考える正解ストーリーがあり、
プレイヤーの役割は結局それを再構築するだけ、
みたいな感じがあって好きではないのでございますが、
『夢幻の双刃』はそれぞれのエンディングがちゃんと用意されておりますから、
そんなこともございませぬな。
……。
いやいや、まだそこまで達していないので、推測として書かなければ--。
そんなこともないのでしょうな、でございます。
572.松友健2009.05.03(Sun) 03:09:11
しかし読み易さとか没入度は、自分が読むならこれでOK!という所には行ってるんですわ。むしろ自分なら心地良い所になってる。
※ むぅ。わたくしといたしましては、もっといけると思うのでございますけどねぇ。
そこらへんは、好みの問題でございましょうか……。
※ 難易度その他については、個人的にはこのまま突き進んでいただきたいと思っている所存でございます。
もう少し易しいほうがいいというのはホンネですが、“本格的”なゲームブックファン向け、というゲームブックも必要だと思うのでございます。
ジャンル全体がピラミッド構造を保つために。
易しいゲームブックは、他のかたが手がければいいのではないかと。
そのためにも、書き手の裾野を広げるべきだな、と。
いっぽうで、マンガ家(とくに昔の)や小説家も、児童向けを手がけていらっしゃる方が多くいらっしゃいますよね。
その伝から申せば、松友先生の子供向けゲームブックというのもアリかもしれませぬ。本人が書く気があればの話でございますが。
いずれにせよ、書き手も読み手、両者で、ゲームブック人口が広がって欲しいところでございますな。
641.kazsat2009.05.03(Sun) 03:48:13
夢幻やる前に、展覧会の絵、をプレイして気づいたんです、そのこと。
642.kazsat2009.05.03(Sun) 03:48:37
あれ、一発でクリアできないですもの。
※ あれ、そうでしたっけ?
ずいぶん昔にやったので覚えていないけど、
『展覧会の絵』は、やさしい部類のゲームブックという印象がございますが。
創土社の広告の難易度マークも“★★”でしたし。
まあ、難易度なんて、偶然をはじめとする状況に左右されるものですからな。
とりあえず、こんなところでございますか。
次は、新しいところで、月末の土曜開催になるのかな?
まあ、月末の予定はわかりませんが、何もなければ参加しておりましょう。
(何が話題になるんだろ?)
というわけで、
みなさまの参加をたのしみにしております。
このブログでは、ゲームブックに関することを書きつづっていく所存にございます。 まぁ、他にも書きたいことが出てまいりましょうから、特化、とはいきませぬが。 まずは、基本的なことから進めてまいりたいと存じます。 まだ始めたばかりですので充実しておりませぬし、いたらぬところもございましょうが、ひらにひらご容赦を。
4/1 天は人の上に人を作らずといぇ~~イ!
4/2 『サムライ・ソード』買いましたよ。「悪死」は亡霊武士の旗印だったのに~!!
(→社会思想社版、パラグラフ82)
4/4 そうか!! 社会思想社版の亡霊武士は、四根今直さんの変わり果てた姿だったのか!!
4/6 主人公はブキミだ!!
4/7 イキルが、死ぬ……うう、書かなきゃよかった。
(「ウォーロック」誌vol.26 p.53より、わきあかつぐみ先生のお言葉)
4/8 ええ~~っ!! まさか!! 「ゲームブック倉庫番」さんが消えちゃってる~!! これからも参考にしていこうと思っていたのに~~!! ホント!?
4/11 ブログを読むときは、部屋を明るくして、五メートル以上離れてから読んでね~!
4/12 「Role&Roll」vol.55 が売っていなかった。
一部発売が遅れる地域の本屋さんなので仕方がないのだけど、まだ売ってないのか売り切れたのかがわからなくて、いつも困る。本屋さん自体も近くはないし、7時には閉まってしまうので、休みの日でないと買えないし……。
せめて、読者欄のイラストテーマだけでもわかればいいのだけど……。
(↑ 結局水曜日に買えました)
4/15 「14」は死の数ではない、復活の数字だ!! と14日に書こうと思ったのだけど……、寝てしまった。
4/19 ポメラのいいところは、ふとんの中でも書けるところ。
悪い点は、いつの間にかそのまま眠ってしまうところ……。
5分で自動的に電源が落ちるのはそのため?
4/19 あっ、あれっ!! あわてて申しておきますけど、100番とか踏んでも、まな板とか桐の板とか出て参りませぬのでご容赦を。そのかわり、地雷とかも用意しておりませんので、その点はご安心めされ……。っとっと、こういうことを申しあげますと、却(かえ)って不安にさせてしまいますな。
4/21 Yahoo!オークションの「ゲームブック 150冊セット」ってナニコレ? 『タイガー暗殺拳』や『ドラゴンスレイヤー』は持ってないから欲しいですけど……。『悪魔族の叛乱』が5冊あったり、『ブラッド・ソード』が5冊あるから期待したら、1,2,4だったり……。いずれにせよ、わたくしは、オークションとか、通販苦手なので参加いたしません。参加の仕方も存じません。参加する人がんばって~!! と無責任に言ってみたり……。
4/23 おおっと!! 「ゲームブックなチャット」は今週の土曜日でございますな。危うく忘れるところでございました。月末に近くないと、すぐ忘れる。いまだ参加していらっしゃらない方は、3/29の記事を参考に、参加していただけるとうれしく存じます。単にあいづちを打っているだけでもよろしゅうございますよ~。それも、ちょっと……という方は、見ているだけでも問題ございません。まっ、その辺はご随意に。
4/25 ゲームブックなチャット参加中
4/26 新しい『ヤッターマン』。放送時間が変わったことで、見ることができました。オープニング、高見沢俊彦先生の歌とアニメの映像が、何かシンクロしていない。本編に関しましては、違和感ございましたが、古い視聴者にこびていないのはよろしいことだと存じ上げます。
4/26 Yahoo!オークションの「ゲームブック 150冊セット」、見てしまいました。オークションて、見るのはじめてでございますが、時間がどんどん延長されて、ヤキモキしますな。参加しているかたがた、もっとヤキモキするのでございましょうが……。……。だめ。ご主人様がお休みすると申しておりますので、時間切れ。残念ではございますが、あとで結果を見ることにいたします……。
4/27 春眠さんが赤ずきんちゃんを覚えてくれなくて困る……。
4/29 この果てしない世界のどこかに、「ごーるでんうぃーく」というものが存在するらしい……………………………………………………。いいな……。(ご主人様のお言葉)
4/30 「ソーサリー」について書くために、『タイタン』を開いていて気がついた。八幡国(蜂漫国)は、クール大陸の中にあったのか!! てっきり島国だとばかり思っていた。
FFシリーズには、社会思想社から出版されたナンバーつきのものだけを指すのではございません。
狭義ではそうなのかもしれませんが、
FFシリーズの共有世界であるタイタンを舞台にしたものは、
すべてファイティング・ファンタジーのシリーズと考えて良いでしょう。
もちろん今回紹介する「ソーサリー」も、その中に含まれることに異論などないと存じます。
この「ソーサリー」シリーズは、
現在、創土社という出版社から発売されております。
学術系の難しい専門書が本分の出版社なのでございますが、
2002年ごろからアドベンチャーゲームノベルという呼称でゲームブックを出版し始め、
ゲームブックファンには、ゲームブックの出版社、
と認識されている感さえある会社でございます。
まあ、ゲームブックに関して話題にする際には、それで問題ないとは存じますが、念のため。
さて、
「ソーサリー」のシリーズでございます。
このシリーズは、4部からなる大作にございます。
その概要は、以下のとおり。
どなたかが、「第二ゲームブック倉庫番」を作ってくださるその日のために、「ゲームブック倉庫番」に準じた形式で書いておきましょう。
紹介は『夢幻の双刃』の広告から、そのほかは他の本の広告や、「創土社」のサイトなどからの引用でございます。
(でも結局最後は、ご主人様がご自身で調べないとならないことに。
初出年は載っておりませぬものな。けっこう面倒……とか申しておりました)
紹介は「創土社」のサイトのそれと少し違う文言がございますが、原文のママでございます。
シャムシャンティの丘を越えて(ソーサリー! 1)
スティーブ・ジャクソン 著 浅羽莢子 訳 ジョン・ブランシュ画
四六版並製・198ページ 総項目数456 2003/8
本体1200円+税
○大魔法使いのいるマンパン砦に至るには、途中広大なジャバジ河を渡る必要がある。河上に建てられたカレーの街がその唯一の手段である為、貴方は目の前に広がるシャムタンティ丘陵、カントパーニからトレパニを抜けてまずはカレーに向かう。諸王の冠を取り戻す旅が始まった。
魔の罠の都(ソーサリー! 2)
スティーブ・ジャクソン 著 浅羽莢子 訳 ジョン・ブランシュ画
四六版並製・238ページ 総項目数511 2003/12
本体1200円+税
○靴紐一本を奪うのに平気で人を殺す悪意に充ちた輩が大勢住まう魔の都カレー。そのあまりの無法ぶりに、街路をうろつく犯罪者から身を護るため、住人達は手のこんださまざまな罠を考案した。〈魔の罠〉と呼ばれるようになったのはそのためだ。君はこの都を通り抜けなければならない。
七匹の大蛇(ソーサリー! 3)
スティーブ・ジャクソン 著 浅羽莢子 訳 ジョン・ブランシュ画
四六版並製・254ページ 総項目数498 2004/5
本体1200円+税
○危険の迫るを報せねばならぬ。任務が漏れた! マンパンの眼が我らの企てを盗み見、今も報せが闇の砦に向かいおる。任務の報せは、大魔法使いの最も信を置く配下なる七大蛇により、ザメン高地に運ばれつつある。七大蛇は、七手に分かれた。可能なれば七大蛇を探すべし。
諸王の冠(ソーサリー! 4)
スティーブ・ジャクソン 著 浅羽莢子 訳 ジョン・ブランシュ画
四六版並製・350ページ 総項目数800 2005/3
本体1200円+税
○ついにたどり着いたマンパン砦。“諸王の冠”を取り戻すための旅も最終章を迎えようとしている。砦の守りは堅く、近づくだけでも命をかけなければならない。最後の難関スローベンドアを開け、大魔法使いを倒すことができるのだろうか? そして失われた呪文ZEDの正体とは?
……。
文字数ピタリに納める苦労がうかがえる文章ですな。
擬古調にしたのが失敗している部分もある気がいたしますし--。
一巻が貴方で、二巻が君というのも統一されておりませんな。
ま、それはさておき。
ストーリーの核は、『指輪物語』を思わせると申しますか、その逆展開と申しますか--。
あちらは、すべてを支配する「力の指輪」を山に捨てにいく話ですが、
こちらはちょっと性質が違うとはいえ、似たような冠を大魔法使いから取り戻す話ですからな。
それにしても、
この冠がないと国を治められない王様たちって無能……。
いやいや、そうではございますまい。
旧世界(「ソーサリー」の舞台)の野蛮さは人の手に余る、
ということなのでございましょう。
この設定は、ゲームブック本編にも活かされております。
つまり、平和だった地が野蛮に侵されているという、
その混交が挑戦のしがいのある冒険の舞台を、形づくっているのでございます。
さて、
このゲームブックで最大の特徴と申さば、魔法ルールでごさいましょう。
もちろん、魔法を使わないルールも「初級ルール」として用意されております。
魔法使いではなく、「戦士」として冒険するルールでございますな。
そちらは、能力的にもルール的にも、通常のFFシリーズと変わりはございません。
魔法を使用するルールよりも能力値が高く
(と申すより、魔法使いは技術点が2低い、といったほうがわかりやすいですな)、
魔法を覚えるという過程がないので、
すぐに始められるのは初心者向けと申せるかもしれませんが、
だからといって、これが「初級ルール」かどうかと申しますと、疑問が残ります。
と申しますのも、難易度的に楽というわけではないからでございます。
魔法なら切り抜けられるところでも、
剣一本とあとはパラグラフの選択で切り抜けなければならず、
そうなると、けっこうキビシー部分があるからでございます。
最後まで冒険を続けることを考えますれば、
魔法使いのほうが無難なのではございませんでしょうか。
「ソーサリー」というシリーズ名がございますとおり、
このゲームブックは、魔法使いでプレイすることを前提として作られていると思いますし、
魔法ルールがウリのゲームブックでございます。
大抵の方が魔法使いでゲームを進めるのではございませんでしょうか。
魔法ルールと申さば、『バルサスの要塞』にもございました。
が、このゲームブックのそれは、かの作品とは全く異なるルールとなっております。
とりわけ特徴的なのは、プレイヤーが魔法を覚えなければならないという点でございましょう。
魔法は、アルファベット三文字で構成されており、巻末の「魔法書」に記されてございます。
プレイヤーはゲーム開始前にそれをすべて覚え、本編に臨まなければなりません。
(特に必要な魔法6つが最初に書かれているので、それだけ覚えてチャレンジ
という方もおられるでしょうが、それではそのうち太刀打ちいかなくなります)
ゲーム本編では、魔法を使う場面になると、三文字言葉がいくつか選択肢として示されますので、
それを選んで魔法を発動するわけでございます。
選択が正しければ魔法は発動。間違っていると不発、
もしくは間違った結果が起こってしまうというわけでございます。
つまり、プレイヤーの魔法の習熟度が実際のゲームに反映され、それがプレイヤーのゲームへの没入感を高めるというわけでございますな。
要するに、のめりこむほどに面白いゲームと申すわけでございます。
さて、この魔法の覚え方についてでございますが、
山本弘先生のマンガ「私はこうしてソーサリーした」
(「ふぁんろーど」誌 1986年いちがつ号p.28-29)
に、先生ご自身が魔法を暗記した方法を一部記しております。
それを、以下に引用しておきましょう。
○敵を焼き殺しほっと(HOT)する。
○黒い仮面で敵はがくがく(GAK)。
○巨人の骨で巨人呼ぶ(YOB)。
○超能力でが罠を指す(SUS)。
○言うこと聞け、このやろう(LAW)。
○攻撃かわしてフォッフォッフォッ(FOF)。
○宝の幻、だすんだどーん(DUD)。
(赤い字の部分は原作では上に点)
ご参考までに
さて、
そのような、特徴的な部分にばかり目が向いてしまいがちでございますが、
物語的な面白さももちろん見逃すことはできなせん。
と申しますよりも、それなくばこの大部がプレイされることはなかったことでございましょう。
この物語の豊潤さは、『モンスター誕生』において結実するもの
(ホントは、小説『トロール牙戦争』と申したいところでございますが、
読んだことがございませんので……)。
と申しましても、
ここでの物語的な面白さは、
全体的な流れの面白さもございますが、それよりもむしろ、各場所でおこる様々なイベント(そこにはもちろん、魔法の結果も含まれます)に注がれているように思えます。
パラグラフやページ数の制約から解きはなたれて、自由に
(思う存分とまではいきませんのでしょうが、
それでもいつものシリーズとは格段の差でございましょう)
展開していったらここまでやれる、とでもいうように、
次から次へとアイデアを繰り出しているのが魅力的でございます。
まっ、骨が折れるのはご想像のとおりでございますが、
やはりそれは、挑戦しがいのある、と表現すべきものでございましょう。
……。
と、ここまで書いてきて、申すのも烏滸(おこ)なのでございますが、
実を申しますと、わたくし、このゲームブックをプレイしたのは、かなり後のことなのでございますよね。
それも、かなり急ぎ足で。
必要に迫られてというわけでもございませぬが、近い感じの状態で。
だって、このブ厚さ--。
しり込みして、ついつい後回しに……。
ですから、魔法とか、ちょいちょいズルしたよーな……。
そんなわたくしが申しますのも変でございますが、
最初の印象は、「思ってたほど高難度じゃない……」でございました。
考えてみますれば、これだけの分量のものでございますから、
考えもなしに高難度にしたら、よほどの人以外、誰も寄りつかないものになってしまいますものな。
というわけで、
挑戦しがいのある、
さすがジャクソン、と申すべき難度に仕上がっている
ゲームブックにございます。
まず前半は、
戦闘ルールについての話題でございましたな。
戦闘システムについては、いろいろ考えております。
ただ、戦闘をはじめとするランダム要素はあまり重視していない
……と申しますと、語弊がございますな。
運だけでデッドエンドになる要素はなるべく避けたい。
ということでございます。
4/22「難易度について(4:攻略)
で書きましたことと関連いたしますが、
ゲーム性と物語性の狭間で、ストレスとなるようなシステムでございますならば、
避けたほうがよろしいかと存ずる次第でございます。
とは申せ、まあ、サイコロを振るのは単純に楽しいですし、
完全否定と申すわけではございませぬ。
後半、人が集まってまいりましたところで、
「ゲームブック倉庫番」様がどうやら終了してしまったようだ
ということについて、話題をふってみました。
言いだしっぺにとばっちりがくるのはこの世の倣い、と存じてはおりましたが、
気がついた人間が申しておかなければ、
そのままになってしまう可能性がございますからな。
案の定、けん制しあってチャットは滞った感じになってしまいました。
そのことに関しましては申し訳なく存じておる次第ではございますが、
まっそれも仕方ございませんでしょう。
停滞することはわかっていても、出さずにはおけない話題でございました。
というわけで、一から再生という場合、
率先しようという気はございませんので悪しからず、
でございます。
だって、
めんどくさそうなんだもん。
……。
ではなくて、他にやることもございますもの。
と、いうことで。
で、そういうゲームブックもあっていいのでございますが、
困ったことにわたくしは、そうした「攻略」を主眼としたゲームブックを目指していないのでございます。
ゲームブックのウリの一つといたしまして、「何度でもプレイできる」ということがございます。
が、攻略を主体としたゲームブックの場合、この意味合いが微妙にずれてまいります。
すなはち、「何度でもプレイできる」というよりもむしろ、「何度もプレイしないと楽しめない」という具合になるのでございますな。
わたくしといたしましては、何度もプレイしなければ本当には楽しめない、ではなく、
単純に何度でも楽しめる、ものをめざしていきたいものでございますから、
自分で作るとすれば攻略を主眼としたものにはならないつもりでございます。
具体的には? でございますか?
ふぅむ、難しゅうございますなぁ……。
ゲーム的な面から申しますれば、わたくしにとっては
『火吹山の魔法使い』はそれでございましたな。
適度な長さ、適度な妖怪の強さ……。
攻略を旨とすると、簡単な部類に入ってしまうのでございましょうが、
ゲームとしては、勝ったり負けたりできて楽しかった記憶がございます。
ゲームブックの遊びとしての要素では、
『魔城の迷宮』でございますか。
この書は、攻略的にも楽しめますが、単純に迷路ゲームとしても楽しいのでございますな。
ですから、攻略が終わったあとでも、
ここからここまで、というふうにスタートとゴールを決めて、
何度も何度もルドゥスをさまようことができるのでございます。
物語的には、マルチエンディングで、そのエンディングに優劣のあまりないタイプ。
まあ、優劣がある場合もございますが、明確な序列がないタイプでございますな。
具体的には、
『天国か地獄か恋と遊ぶゲーム』や
『ダービースタリオンゲームブック』あたりを挙げておきましょう。
もっとも、『ダービースタリオンゲームブック』は知っていても、
『天国か地獄か恋と遊ぶゲーム』は、ご存知ない方も多いやもしれませぬが。
『天才コンピュータAI-32』など、講談社から出版されたバンタム社のいくつかのゲームブックもこれに含まれますが、内容量の問題でちょっと……でございます。
エンディングがいくつもあって、それらに優劣があまりないのであれば、攻略というよりも物語を楽しむことがメインとなりますな。
実際には、攻略的な要素もあるとか、すべてのエンディングを見るのには攻略的な方法が必要になってくるだろう、という意見もございましょうが、まぁ、
「何度もプレイしなければ楽しめない」ではなくて、
「何度でも楽しめる」、ゲームブックではございましょう。
「ゲームとは攻略する物という前提」という松友健先生の御言葉
(どういう文脈で書かれているのかは、「難易度について(ちょっとしたこと)」の記事からリンクをたどってくださいませ)は、
ゲームックとして正しいし、主流の考え方だと存じます。
FFシリーズもそうですし、東京創元社のゲームブックもその考えに基づいておりますしな。
傑作といわれるゲームブックは、みなそうでございましょう。
ただ、攻略を主眼といたしますと、フェアなプレイというものが崩れてくるような気がするのは、わたくしだけでございましょうか?
攻略を主眼とすると、フローチャートやマッピングが必須となってまいりますな。
そうすると、ショートカットとかしたくなりません?
戦闘とか面倒くさくなりません?
特に、大長編だったりすると。
……。
コンピュータRPGですと、セーブとリセット前提でゲームバランス組んでいたりしますよね?
日本では、ゲームブックの歴史は、家庭用コンピュータゲームの歴史とともにございましたし
(英国では、いざしらずではございます)……。
同じようなプレイスタイルをとりたくなるのは理の当然……。
……。
う~む、書かなかったほうが良かった……のかも。
とにかく、うさぎにつの、
ゲームブックにおける難易度の上昇は、
そのようなアンフェアなプレイの結果にもあったような気がいたします。
それを是とするか非とするかもまた、微妙なところ。
フェアなやり方ではよほど運がよくないと解けないだろう、ってなゲームブックもございますからな。
でございますから、そのゲームブック次第、ということになりますが、
1~2度プレイしてみて、これは無理だわと思ったら、段階を経ていろいろやってみる
というのが、
まっ、優等生的な答えではございませんでしょうかねぇ。
もっとも、プレイ時の状況やさまざまなことが重なりますゆえ、そんなにきれいにはまいらないと存じます。
ですから、せめて、プレイした方は、
どのような状態でプレイしたかだけは、きちんと報告してもらいたいものだと存じます。
※ 基本的には、フェアなプレイが一番なのはいうまでもないことなのですけどね!!
ネット上で、ものすごくフェアにリプレイを綴っていらっしゃる方もいらっしゃいますし……。
やっぱり、書かなかったほうがよかったかなぁ……。
ただ、パズル性のある物語というのは、
作者が難しくしようと思っていると、
作者の思っている以上に読者(プレイヤー)にとって難しくなってしまう
ことがしばしばございますな。
ファミコンのゲームもそうですし、ミステリ小説などでもそうでございます。
作者は、そのゲームなり物語を熟知しておりますから、
このぐらいのことはわかるだろうと思っておりますと、
思わぬところに読者は引っかかってみたり
……などとということもございます。
加えて、ゲームブックには、ゲームブックゆえの特殊性もございます。
一つには、
プレイヤーが自分ですべてをやらなければならないということ。
コンピュータを介するゲームのように自動的にデータが記録・更新されるわけではございませんし、TRPGのようにゲームマスターがいるわけでもありません。
判定したり、記録したりをプレイヤーはすべて一人でやらねばならないのでございます。
その煩雑さの段階で、すでにゲームブックは難易度を一つ上げているとも申せましょう。
それは、ゲームブックのプレイヤーならば、誰もが心得ていることだろう、ですって?
確かにそのとおり! でございますが、
心得ていようがいまいが、そこのところが単純にいって、ひと手間な部分には変わりございません。
それが、ゲームブックへの道を狭くしていることは確かでございましょう。
もう一つは、
ゲームブックがジャンルクロスオーバーな作品であるということでございます。
戦闘ルールがあり、フローチャートにパズル性を仕込め、
しかも、表だったパズルも挿入できる--。
(さらに物語的な難解さを組み込むことも可能ですが、そこまではここでは論(あげつら)わないことにいたしましょう。なぜなら、実際問題といたしまして、そのようなゲームブックあまり例がないからでございます)
その一つ一つはそんなではなくても、組み合わせてしまうと難しくなる
ということは、よくあることでございます。
たとえば戦闘だけに限ってみても、互角でなんとか勝てるだろう、という敵でも、連続して勝ち続けるとなると、その確率はどんどん下がっていくものでございますからな。
さらにパズル的要素も必要だな、とか、試行錯誤もある程度ないと……、
などと考えて、サドンデスのパラグラフを加えていくと、
ゴールへの道はさらに狭き門となる……。
まぁ、こういうことは、ゲームブックのプレイヤーならば、誰もが経験していることでございましょう。
またそれを、
マニアックな読者(プレイヤー)が、「簡単だった」とか、「なんてことなかった」などとあおったりいたしますと、さらに難易度を高める結果に……、
などというのことはよくあることでございますな。
それは、ブームが沸騰していい状態ということでもあるのでございますが、
そういうことをいうのは、読者が若い(成熟していない)ということであり、
つまりは、そのジャンルも若い状態であるということである一方、
そうしたマニアックな声を鵜呑みにして難易度をどんどんあげてまいりますと、
結果としてそのジャンル全体が難しいという印象を受け、ブーム自体が衰退してしまう。
そのような例はよくあることでございます。
ゲームブックも、まぁ、そうだったのではございませんでしょうか。
(前回より続く)
もちろん、難易度と申しましても、どういうものであっても高いほうが良いと申すものでもございません。
まず、ランダム要素で高められた難易度はその限りではございませんな。
戦闘や運だめしが難しいから難しいゲームブックというのなら誰にでも作れましょうし、
それに勝利しても、単に運が良い人というだけでございますから。
お定まりの仕掛けによる難易度アップも同様でございます。
例えば、脱出ゲームなら、クリックポイントをシビアにしすぎたり、煩雑な作業を要求したりするのがそれにあたりましょう。
ゲームブックで申しますれば、無意味な迷路などでございましょうか。
アドベンチャーゲーム(ゲームブックもその中に入ります)と申しますのは、
作者から読者(プレイヤー)に対してなされた挑戦なのでございますから、
それが挑戦のしがいのある、フェアなものでしたら難しくてもよろしいものでございましょう。
それに対して、今上に挙げたような、ただ難しくするだけのための難しさというものは、意味がない、排除されるべきものだと存じます。
ゲーム、そしてゲームブックはエンターテイメントなのでございますから、
読者(プレイヤー)が面白くない、やる気が起こらない というものは、一般的に申しまして、排除しなければなりませんでしょう。
『夢幻の双刃』の作者、松友健先生のブログ、「駄人間生誕外部」4/15の記事「夢幻の双刃の評価」に次のような文章がございました。
ぬう。まさか「ベストエンドへ行くのに解析の必要があるなんてしんどい」と言う人がいるとは……。自分的には、ゲームとは攻略する物という前提があるのだ……。
いいんじゃございませんかねぇ。
難易度が高いというのは、この場合褒め言葉でございましょう。
誰でも楽しめるようなゲームブックを作っているのではなく、歯ごたえのあるものを望んでいるプレイヤーに向けて作られたものなのでございますから。
まあ、作者というのは、すべての人が楽しめるものを提供したいと思っているはずですし、そうでなければとも思いますが。
まぁ、失敗したほうが得、というのは、ゲームブックを考えていると、誰でも思いつくことではございましょう。
でも、うまくいっているとクリア不可というのは、ゲーム的にはありえませんな。
では、物語的には?
ゲームブックは、ゲームであると同時に、物語でもございます。
そのため、ゲームとしてみた場合と、物語としてみた場合の二つの側面から論じられるべきでございます。
ゲームとしてみた場合には、成功には報酬を、失敗にはペナルティを、という考えが当然でございましょう。
しかし、物語としては必ずしもそうではございません。
失敗したけど、あるいは、失敗したら、うまくいっちゃったというのは、ギャグなどでよくある例でございますからな。
そこが、ゲームブックに“失敗したほうが成功”という、何とも変な状況を割り込ませる要素となっているわけでございます。
さて、この相反する状況をどうすればいいか?
これも2つのケースが考えられます。
まず、判定要素がない場合。
パラレル小説型と呼ばれるヤツですな。
戦闘ルールや技能チェックがない、もしくは意味合いが軽いゲームブックの場合。
この場合は、物語要素が強く現れているわけでございますから、話の展開次第ではアリでございましょう。
うまくやったと思ったら、失敗……。
そのような理不尽なデッドエンドも、説明がつけば(しぶしぶ)納得できることもございますし、逆にその理不尽さがウリとなっていることもございます。
(まあ、それでもやはり、納得できない場合も多ございますけどね。
FFシリーズでも、判定なしにバッドエンドはございますな。
それで納得できないことも……。それと似たようなものでございます)
もう一つは、失敗すればクリア、成功すればクリア不可というような、極端な話ではございません。
が、ゲーム性と物語性を両立させつつ、失敗したほうがお得感がある方法でございます。
どういうことかと申しますと、
成功すれば、すんなり障害をパスできるけど、
失敗すると、目標にたどり着くのにさらなる展開が必要となる。でも、そのイベントが楽しい。
という仕組みでございます。
つまり、失敗したほうが面白い展開が用意されている、ということでございますな。
単行本として発売されたものとしては日本初のゲームブックの一つに
『騎士ローラン妖魔の森の冒険』(朝日ソノラマ)がございます。
このゲームブックの後書きに、次のようなことが書かれております。
あなたは小説や,映画を見ていて,たとえば主人公が悪役の罠にはまったりした時,(なんであんな単純なトリックに引っかかるんだろう?)とか,(僕ならああいう判断はしないな)などと考えたことはありませんか? あるいは,(私ならこちらの道を選んだのに。そうしたら一体どんな展開になっていただろう?)とか……。
この本はそういった,たくましい想像力をお持ちのあなたのために創られました。
これは、ゲームブックの説明として、非常に基本的なものだと存じます。
でも、考えてみてください。
映画などでは、しばしばそのような場面が登場しますが、
でもその「僕なら~」を採用した場合、本当に面白い話になるかどうかを……。
もちろん、そうなる話もございましょう。
でも、そうではない話も多くございます。
たとえば、
『ダイ・ハード』や
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は
失敗が面白い展開を生んでいく話だったように存じます。
主人公が完璧な行動をしていたら、お話にならない場合さえございましょう。
TRPGでも、判定に失敗したから面白くなったという例はございましょう。
と申しますか、もし失敗にシビアな要素しかないのだとしたら、
マスターの意味など半分になってしまうでしょうし、
TRPG自体の面白さも半減してしまうことでございましょう。
『ディオゲネスクラブ殺人事件』というゲームブックがございます。
シャーロック・ホームズもののゲームブックと申しますと、二見書房の『10の怪事件』が筆頭に挙げられますが、個人的にはホビージャパン社のこのゲームブックのほうが、ゲームブックらしくわかりやすくて好みだったりいたします。
一回しかプレイしていないので、実際のところはわからないのですが、
このゲームブックでおもしろいのは、判定に失敗しても、続きがあるということでございます。
成功していたら簡単にいきそうなところで、判定に失敗して、こりゃダメかな、と思いつつページをめくると、ちゃんと展開が用意されている。
こういうゲームブックだと、判定に失敗しても、ズルをしないで結果に従おうという気になるというものでございます。
あとは、『SDガンダムガシャポンウォーズ』。
このゲームブックの場合、判定に失敗した場合、デッドエンドなのはデッドエンドなのですが、
それが単に「君は死んだ」ではなく、ちゃんと工夫されていて楽しいのでございます。
ただ、このゲームブック、戦闘は主人公が勝ちやすくできているので、
デッドエンドになかなか行きあたらないという……。
わたくしも、ゲームをクリアして、あとで全体を読みなおして、改めて気づいた次第でございます。
このように、失敗しても面白い、というゲームブックなら、ゲーム的にも物語的にも条件を満たせると思うのでございます。
ただ、こうしたゲームブックは、けっこう少ないのですな。
理由は、作るのに面倒だからでございましょう。
ルートがそれだけ増えるのでございますから。
加えて、正解ルートでとおるパラグラフがそれだけ減るということでございますから、
ある程度のページ数がないと、満足できる作品にはならないのでございます。
そのため、判定に成功し続けてクリアした人からは、なんだこれだけ? と感想を持たれそうでございます。
正解ルートでより豊かな物語を読ませたい、しかもページ数の制約がある……、
となると、どうしてもメインの物語が中心になってしまいますな。
☆ ☆ ☆
失敗と申せば、『カイの冒険』は、エンディングが必ず失敗ですな。
どんなにがんばっても、ドルアーガに囚われに行く旅でしかない。
これについて、以前賢者の石井文弘さまに手紙で話題にしたところ、
もし、カイがドルアーガをやっつけてしまったら、ギルガメスの冒険がなんだったんだ、ということになる、
と、いうような答えが返ってきて、それはそれで正しいと思うのでございますが、ありえないレベルのシビアな判定で、カイがドルアーガを倒すというエンディングもいいと思ったのでございますよね。
もっとも、それでも、そのような可能性があると、やはりギルの冒険の意味は薄れてしまうかな?
特に、ゲームブックはズルができますし……。
難しいところではございます。
ププププーさまのブログ、2009/04/10日の記事「黒き血脈の予言の罠」に、次のようなことが書かれておりました。
この「黒き血脈の予言」というゲームブックでは、
ゲームをクリアするために、運試しに失敗しなければならない らしいのですな。
で、これはアリなのか と。
この作品をわたくしはプレイしておりませぬので、具体的なことは申しあげられませぬ。
が、一般的にはナシでございましょう。
当然ながらゲームブックは、ゲームとしての側面を持っております。
ゲームは、成功には報酬を、失敗にはペナルティを、というのが基本でございますから、
成功がペナルティとなるというのは、あり得ませぬ。
そういう意味において、これはナシでございます。
ただし、次の二つの場合には、成功したらクリアできない、という部分を組み込んでも良いように思います。
一つは、能力値を高く設定しているプレイヤーにたいする警告。
PCの能力値をいつも最高レベルに設定してプレイするプレーヤーはよくいるので、
作者がそれに対してペナルティを与えたくなるのも当然でございましょう。
いわば、失敗ではなく、反則に対するペナルティでございますな。
ゲームブックは自己申告のゲームでございますから、イカサマに対する作者側のチェックというのは基本的にできません。
そこで、このような方法を導入するというのは、考えとしてはアリかとぞんじます。
(確か、『ラプラスの魔』は、一度死なないとクリアできないのではないでしたっけ?)
ただしその場合、運点が低くてもクリアできる難易度である、
ということが作品の必須条件になってくると思われます。
運点が低くないとクリアできないのに、運試し自体が多かったり高い点を要求しているのでしたら、いたずらに難易度を上げているだけですからな。
※ 14日の記事を読みますと、やはり、いたづらに難易度を上げるための存在だったようでございますな。
もう一つは、ゲームブックに対する考え方の問題でございます。
もし、作者が、ゲームブックを、
“何度も失敗して成功へとたどり着くアドベンチャーゲーム”、
として捉えておりますのならば、どんないやらしい仕掛けもアリとなりましょう。
その場合、運試しに失敗しないとクリアできない、というのが謎であり、
それを解くことが成功=クリアへの道、となるからでございます。
まぁ、それを言ってしまったら何でもアリになってしまうのではございますけどね。
でも、実際に、解決に理不尽なことを要求されるアドベンチャーゲームやゲームブックは多いものでございます。
その場合、マッピングでもフローチャートでも、丹念に書いて、とにかく解け、ということなのでございましょう。
このように、何でもアリ、と考えた場合、それがアリかどうかは、プレイヤーにゆだねられるものだと存じます。
で、場合、アリかどうかは、面白いかどうかにかかってくるのだと思いますな。
つまり、物語の展開とうまく絡まっていたり、ゲームバランスのために貢献しているかなどと申すことですな。
ププププーさまが、アリかを問題にされているのは、結局、運点が低くなければゲームをクリアできないという条件が、ゲームを面白くする要素となっていないからだと思うのでございます。
一般的に申しましても、
失敗しなければクリアできない、というのは、思いついたときには画期的に思えるのですが、実際にやってみると面白くない、というケースの一つだと思いますな。
さて、それでは、原作と申しますか、社会思想社版との違いについて見てまいりましょう。
社会思想社版では、作者であるJ・トムスン、M・スミス両先生の名前が書かれていたのに、今回は、英語表記の、いわゆる奥付に当たる部分のみ。
作者の名前は、スティーブ・ジャクソン、イアン・リビングストンということになっております。
ジャクソンとリビングストンの名で売っていこうという考えなのでございましょうか。
何か、コンピューターゲームで、実際の開発メーカーの名前が表に出ないのを想像させます。
作品だったものが商品と認識されている感じがして、
文学部ゲームブック科といたしましては、好きになれない表記でございます。
社会思想社版と、ホビージャパン版で大きく違っているのは、ネーミングでございますな。
社会思想社版、すなはち松坂健先生の訳は、日本語の固有名詞など、原作者がこう書きたかっただろう言葉に置き換えて訳しております。
これが、一般的な訳し方でございましよう。
対して、ホビージャパン社版、デジタル・メディア・ラボ社の訳は、
松坂訳とは違うものにするという制約があったのでございましょうな。
面白がっているのか苦労しているのかは存じませんが、ちょっとひねった語が当てられております。
たとえば、こんな具合ですな。
松坂健先生訳 ゲームブック・ラボ社訳
八幡国 蜂漫国
鍔鳴りの太刀 鳴海の太刀
長谷川喜平 馳皮奇兵
今市 紺壱
鬼軽 御仁駆
処水山 寿司牡胃山地
貞信公 津江鎮公
: :
: :
ゲームブック・ラボ社訳のほうは、無理な当て字があったりして、
それで笑いをとろうとしているのかな? などと考えますが、
無理して笑いを取りにいくと失敗する、という例のような感が否めませぬ。
思いついたものを見てまいりますと、
蜂漫国と申すのは、"Be(e) Comical"というシャレなのでございましょうな。
「鍔鳴りの太刀」「鳴海の太刀」は、原作では"Singing Death"となっているようでございます。
どっちが良いかと申しますと……、う~む。
原作の「歌う死」のほうがカッコいいような……。
日本の話ではなくなりそうな気もいたしますが。
あと「悪死」の旗印が、亡霊武士(死霊サムライ)(パラグラフ82)のものだったのが、主人公の旗印に変わっております。
「悪死」は"Evil Death"の訳語だと、確か「ウォーロック」誌に書いてございました。
それを
「悪には死を与えて罰する」
と、主人公の旗印にしてしまったのは、
主人公を表紙に描くというホビージャパン版の選択ゆえでございましょう。
原書は逆に、主人公は描かれておりませぬ。
おそらく、主人公は無色透明のキミという観点からでございましょう。
その表紙に描かれていたのが「悪死」の旗ざおを持つ亡霊武士で、
そのインパクトが非常に強く、
『サムライの剣』といえば、「悪死」の旗印というイメージが刷り込まれてしまいました。
そこで、
この「悪死」の旗印と主人公を同時に描く必要上から、
ホビージャパン版では、「悪死」が主人公の旗印となったのでございましょう。
まあ、そうした違いを些細なものとしてしまう変更点が、
このゲームブックにはございます。
ご存知のとおり、イラストですな。
原作のイラストは「ここ、どこ?」ってな感じの、間違った日本観バリバリの、しかもファイティング・ファンタジーらしいリアルなイラスト。
対してホビージャパン社版のそれは、現在のライトノベルらしい絵柄。
二つが同じもの!? という感想は、このシリーズ共通のものでございましょう。
ですが、特に今回は、日本に似た場所が舞台となっているだけに、それが特別なものとなっております。
間違った日本観大好き!! という方は、ぜひとも社会思想社版を手にとってくださいな、
とだけ申しあげておきましょう。
4月1日、ついに『サムライ・ソード』が発売とあいなりました。
社会思想社版の『サムライの剣』でございますな。
つまり、これ(『サムライ・ソード』)も購入可能なゲームブックの中に入ったわけでございます。
まず、社会思想社版を知らない方にむけて、結論を書いておきましょう。
このあと、原書(社会思想社版)との相違について書いてまいりますが、
そんなものはナシにしてプレイしたほうが楽しめることでございましょう。
『デストラップ・ダンジョン』や『ハウス・オブ・ヘル』のときも書きましたが、このシリーズは、FFシリーズの装いだけを変えて出版された、いわばお色直しバージョンでございますから、ストーリー展開やゲームバランスなど、基本的な部分については手を加えられておりませぬ。
装いを変えた部分についても、原作とは異なるテイストではございますが、読みやすく楽しめるものとなっております。
原作のテイストとの違いについては、これはもう仕方がないことでございましょう。
申してみますれば、あちらは天然でございますからな。
天然ボケのキャラをあなた自身が演じて、もっと面白くできるかどうか想像してごらんなさい。
天然ボケのすごさは、予想のつかないことにあり、
それを超えるとなると、今度は逆にさらに高度なギャグセンスと知性が必要になると思われますからな。
原作とテイストを変えたのは成功、と申しますよりも、
必然、とさえ申してよろしいでございましょう。
