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2024/05/10 きのう、寝ようと思ったら『プロフェッショナル仕事の流儀特別編・宮崎駿と青サギと』をやっていたので見ました。NHK-BSで。後半一時間ぐらいかな。最初は普通に宮崎先生のドキュメンタリーとして見ていたのでございますが、次第にその構成・演出に目が行くようになりました。きっかけは、先生が鉛筆を落とすシーン。普通に横から捕らえた後、下から鉛筆が落ちてくるシーンを入れているのですが、これって多分別撮りした演出ですよね。そんなところに常にカメラ置いているはずございませんもの。で、それに気がつくと、構図とかエピソードの入れ方とか、制作者の意図みたいなものがどんどん気になってまいります。やはりこういうドキュメンタリーを手がける方なので、そうした演出には知悉した方なのでしょう。そう思いつつ見ておりますと、番組としてしっかりまとまっておりますだけに、カットされた部分も見てみたくなる気がいたします。
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ゴブリンスレイヤーTRPG
↑ 「ゴブリンスレイヤーTRPG」。厚いとおっしゃっている方もおられるようでございますが、
   こうして並べてみますと、そんなこともございませんな
               (「ゴブリンスレイヤーTRPG」以外は、暗くしてございます)

 

「世界設定」(p.413~)
 
 原作を読んだことはございませんが、
一行一文というのは、蝸牛先生の文体なのでしょうなぁ。
 
 叙事詩の書き方に似ておりますが、格調の高さはなく、
むしろ書きやすさとわかりやすさを目指したような……。
 横書きの、ネットの書き込みなんかに向いている感じがいたします。
 
 読みやすさはございますが、
世界設定の部分は、ですます調で書かれているせいか単調な感じ。
 情報量が多いせいもございましょうが、箇条書きを感じるところもしばしば。
 加えて、単調さと、すーっと読めてしまうことが徒になって、
内容が頭を通過してしまうようなところも……。
 
 ただ、1行1文のため、1回読んだあと、
必要な箇所をつまむには向いている気がいたしました。
 
 さて、
 
 設定は、まったくのオリジナルや、パロディ的なゲームあるあるではなく、
 神話や伝説、RPGなどをもとに、整合性をつけていくタイプにございます。
 
 創世の物語は、ゲームの進化をなぞるような形で描かれます。
 
 神々が戦いでの勝負に倦み、
 サイコロの織りなす《宿命》と《偶然》に、その勝敗をゆだねるようになる。
 しかし、それでも勝負はつかない。

 で、その単調な勝負にも飽きた神さまたちは、盤とコマを発明するのですな。
 それらの発明は、より奥深いルールと濃いゲーム性を生み出すことになります。

 同時に新たなゲームの可能性も――。
 神さまは、ウォーゲームを発明します。
 ウォーゲームの発明は、
単に位置を示すだけだったコマに、移動力や攻撃力といった能力の違いを与えました。
 コマに個性を与えたわけでございますな。
 
 それは単に性能としての個性でしたが、
 意図を持って使ううちに、単なる能力にとどまらないものを、神はその中に発見します。
 コマのキャラクター性であり、意思。
 みずからなにかを成し遂げようという思いを、神はコマの中に発見するのでございます。
 単なるコマがキャラクターになった瞬間であり、
キャラクターがみずから何かに向かい困難を乗り越えて挑戦しようとする意思
――冒険の誕生でございます。
 
 この冒険の発見に神々は夢中になります。
 キャラクター自身がみずから考え、工夫して危難を乗り越えていくさまに、
無個性なコマを動かす以上の興奮と感動を神々は得たのでございますな。
 そうして、神は意思で困難に挑む者たち―「冒険者」を好ましく思うようになります。
こうして愛された存在が「祈りし者」でございましょう。
「祈りし者」と申しますのは、逆に考えますれば
祈りに応える存在がいるということでもでございましょう。
すなわち、神に愛されし者という意味でございますな。
 
 ここら辺、ギリシア神話と申しますか、
映画『アルゴ探検隊の大冒険』とその続編『タイタンの戦い』っぽいですよね、
 
 ところで、
 少々、「秩序」と「混沌」と申しますか、
「混沌」と「邪悪」の関係が少々わかりませんでした。
 混沌=邪悪なのか、カオティック・グッドが存在するかというあたりが、でございます。
 「邪教団」(p.488)に「混沌の神々を奉じる、複数の集団」とございますから、
混沌=悪、でいいと思うのでございますが……。
 
 
 もしそうだといたしますと、
コマに個性を見いだし「祈りし者」として愛したのは、
秩序側の神だけだったのかもしれません。
 混沌陣営の神々は、コマが意思で自分勝手に動くことを好ましく思わず、
性能とそれに伴う性格は認めたものの、
コマをコマのままに扱ったのではございませんでしょうか。
 それで怪物たちは「祈らぬ者ども」となったのかと……。
 
 と、
思ったのでございますが、どうも違うみたいですなぁ。
「神々」(p.439)の項目には、
「秩序の神々にせよ、混沌の神々にせよ(……)
 四方世界の生けるものすべてを心から愛しています」と書かれておりますし……。
 
「祈りし者」と「祈らぬ者」については、「怪物」(p.26)に書かれてございますな。
 
「怪物とは、PCたちが冒険中に遭遇する敵対的な存在のことです。
 これらの多くは、野生の獣であったり、四方世界においてねPCとなる
 「祈りし者」に敵対する「祈らぬ者ども」と呼ばれる者どもであったりします。
 しかし、時には「祈りし者」が何らかの事情で敵対者として登場することもあり、
 その場合には彼らもまた怪物として扱われます」
 
 うーん。やはり、秩序・混沌による区別はないみたい
(「祈りし者」が混沌の側にまわるのは、
  何らかの理由で秩序側から転向したなどの説明がつきそうではございますが……)。
 
 まぁ、秩序の神だけがキャラクターの個性を愛した、以降は忘れてください
(でも、面白いアイデアだと思ったから残してはおきます)。
 うーん。うまくいかないなぁ。
 
 脱線はそのぐらいにいたしまして、
 そのあとにカードゲームの時代が来るのでございますが……。
 舌の根の乾かぬうちにまた脱線。
 
 このカードゲームの時代が来るまでに、
神々は数多く、それこそかぎりないほどの
ウォーゲームやRPGのマップを作ったと思うのでございますよね。
 書かれてはおりませんが、
そうやって作られ、放り投げられてバラバラに並んだマップが、
この四方世界を形作っていったのではないかと――。
 
 ですから、もともとこの世界は、とんでもなくツギハギな世界だったのでございますが、
 カードを使う魔法合戦のために、その地形がどんどん変わっていったのでございますな。
 それこそ山や海ができるレベルで。
 
 そうやってツギハギだらけの世界が、ある程度ならされて、ともうしますか、
強引に整合性がつけられたのが、現在の四方世界ではないか、
だったら面白いな、と思う次第でございます。
 
 かなり変わった世界創世ではございますが、いかにもこの世界らしい。
 それにそういう成り立ちで作られた世界でしたら、
全然違う環境がいくつも並んでいても、まったく不思議はない。
 TRPGの舞台として、扱いやすいように思うのでございます。
 
 
 
 
 
(しまった。脱線のまま終わってしまった!!)

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