(吸血鬼なので、時代を超えて生きられるのですな)
という共通点はあるものの、
各部は、オーストリア・日本・米国と場所もバラバラ。
ジャンルも
古典的なホラー、ミステリー風サスペンス、そしてSFと、
それぞれ異なるという。実験的な作品ですな。
ジャンルの違う5つの作品が同時進行で展開する
「そして……だれもいなくなった」
と双璧をなすと申してもよろしゅうございましょう。
「霧」「薔薇」「星」に関連する詩が引用されております。
詩や音楽を起点としているものが多いですよね。
「夜は千の目を持っている」は言わずもがな、
「龍神沼」でも「黒く声なく沼は眠れり」という詩が紹介されておりました。
いずれにせよ、意識と教養の高さが感じられます。
p.187の下のコマがそれでございますな。
他のコマは……時間が無かったのでございましょう。
最初のほうの馬車のシルエットなどはカケアミがデタラメですが、
最後の方では方向が統一されているあたり、
描いているうちに修正していったのでございましょう。
逆に申せば、すべて点描にしていないことや、
馬車のところを描き直していないことから、
締め切りがかなり迫っていたのでは、とも勘ぐれます。
結末を暗示しておりますな。
ミステリ仕立ての物語にございます。
ネタバレをしてしまうと、
その予告状の主は当然リリさんではないのでございまして……。
「吸血鬼カーミラ」および、
その映画である『血と薔薇』に拠っているようでございますな。
第二部で花火が出てくるのも、映画準拠でございます(出方は違いますが)
まったく別物と言えるほどテイストはがらりと変わります。
主人公が孤立無援となる話は、石ノ森先生の短編ではいくつかございます。
例えば「護(まもる)」や
ラストがそれに似た『ジュン』の「想い出のジュン」、
それに「おれはだれだ!?」、
「狂犬」などもそれに含めてよろしゅうございましょう。
「護」
「想い出のジュン」
「ファンタジー編」「SF編」などでまとめるよりも、
でも、石ノ森先生の主人公が、終末に向けてどう挑んできたかを考えるのは、
『サイボーグ009』のラストを考えるにあたって、
興味深いことだと思うのでございますよね。
吸血鬼に噛まれた人に対して血清が有効でございましたが、
ここでも薬によって、吸血鬼は人間に戻せる設定になっておりますな。
各部のラストシーンは、
それぞれリリと「霧」「薔薇」「星」でまとめられており、統一感がございます。
本来、霧のところも大ゴマでやる予定だったんじゃないでしようか。
作者コメントを挟んだのは、吸血鬼ものをやる照れくささなのか、
ちょっと言い訳したかったのでございましょうな。
「吸血」という短編も描いておられます。
新聞記事から始まる時事をもとにした風の作品で、
最後に事件に関わった石ノ森氏の推理として、
吸血鬼に支配された超未来の地球が出てくるのでございますな。
それが事件を説明する1つの仮説となっているのでございますが……。
ラストは、ある作品と同じアイデアを使っております。
と思うぐらいに映画的です。
当時の東宝や日活映画にありそうですよね。
クライマックスの、街に歌声が響き渡る中、
ビルの一室では銃撃が行われ、
その室内に歌声が聞こえてきて……、
という展開は元がどこかにありそうで、
小骨が喉に引っかかった思いがします。
というか、このパターンっていくつかありますよね、
ラジオから歌声が流れてきて改心するとか。
『ゴジラ』の芹沢博士もその例でした。
『続・マンガ家入門』に、構想メモが載っているので明らかです。
原詩で書いていますから、この詩から発想したのでしょうし、
作中の歌も石ノ森先生自身が訳されたものでしょう。
夜の立場はどうなるということになりますが、それはヤボというもの。
イメージの広がりを楽しむのです。
予言や千里眼をイメージさせる詩でもありますね。
ウィリアム・アイリッシュの『夜は千の目を持つ』や
石ノ森先生の『千の目先生』などは、
そうした能力が設定の核になったお話です。
ですが、この話は違います。
「愛が終わりをつげたとき 命のすべての明かりも死んでしまう」という
ドラマチックなフレーズにインスピレーションを受け、
クライマックスのシーンが思い浮かんだのでしょう。
最初はだから、クライマックスは星空だったのではないでしょうか。
この詩を元にしたということは、
星がすべてを見つめているというイメージがあったと思われます。
メモでは「雪の日」とつけ足されていますから、
構想を考える段階でそうしたのでしょう。
物語は1月9日の出来事なんですよね。掲載が正月増加号だからでしょう)
ラストの一コマの星空が、すべてを見守っている。
見事な構成だと思います。
歌詞としてうまいと私は思います。
それらと比較しても優れているのではないでしようか。
それほど難しい詩ではないので誰でもそれなりに訳せるでしょう。
それに、私が素晴らしいと思ったのは、
2連の冒頭、それを忠実には訳さないで1連と同じ
「夜は千の目を持っている」にしたことなのですね。
訳というのは、原典に忠実なのが基本ですから、
そうではないものがそれよりもいいというのは、ずるいと思うかもしれません。
でもこの場合は、その判断がいいのです。
そのあとに heart が来ているので、そうは訳せません。
そこで辞書を調べてみると、理性とか知性とかいう言葉が出てくるんですよね。
ならば、それを当てはめればいいかというと、そうではない気がします。
意味はそれで通ずるもののこの場合、
千の知性や理性に対して1つの心というのは、
対比として合っていない気がします。
heart は中心にあるものであり、1連で太陽にたとえられていますから、
魂であり、相手を思う本当の気持ちでしょう。
だとすると、千のココロとは、瞬間瞬間で現われるさまざまな想い、
感情の揺れみたいなものではないかと思われます。
想いは千々に乱れ、などという言葉がありますよね。
そんなものが、この mind なのではないかと思うのです。
mind という言葉を使ったのは、単に1連の night と韻を踏むためでしょう。
だとすれば、知性とか理性とかとは訳さなくてもよくなります。
では、どう訳せばいいか。
日本では、中心にあるもの、魂としてのイメージが弱いため、
mind にどんな単語を持ってきても
対比としての意味があまり出ないのだと思います。
かといって解説してしまえば台無しですし、
heart を魂と訳すのも違う気がする。
第一、語呂が悪い。
それに劇中出てくるのは、歌われるものとしての詞です。
それも考えると、やはり、1番の繰り返しである
「夜は千の目を持っている」にした判断は正しいな、と思うのです。
最後に重箱の隅を。
写植打つときに間違われたのでしょう。
梅宮のほうは、主人公の女性が梅宮紀子なので、石ノ森先生が混乱したのでしょう。
でも、単行本収録時にそのままっていうのは……。
ちなみに『続・マンガ家入門』では、手直しされています。
初版はサンコミックス版のほうが後ですので
どの時点で直したのかは分かりませんが、
自分の持っているサンコミックス版は、
その手直しされたものよりも後の版なのですよね。
うーむ。
タイトルの「龍」が「竜」になっていた
(そのため「竜」のタイトルでこの作品を語る方もいる)。
「龍」の字が難しいと判断されたのだろうが、
その割に本文中では「龍」表記になっているから、
ぱっと見た場合や目録などに載せる場合、
字がつぶれて見えなくならないようにという
配慮なのかもしれない。
するほど気に入っている作品のようだ。
初期の代表作として衆目の一致するところだろう。
『少年のためのマンガ家入門』(秋田書店/1965/8)では、
この作品が丁寧に解説されているのを知っている人も多いかと思う。
僕がマンガ家になる前に考えておいたものです。
しかし、ここては発表した雑誌(少女クラブ)の関係もあって、
ファンタジックな詩情だけを前面におしだし、
活劇やその他のものは一切はぶきました。」(p.76)
手塚治虫先生の『来たるべき世界』のエピソードを思い起こさせる話だ。
加えて、取捨選択の才もあったということだ。
姿を変えて他の作品でも登場する。
時間がない中この作品が描かれたことが強調されていたが、
作画的にはともかく、設定やストーリーはさほど時間がかからなかったと思われる。
ページ数が少なくて失敗だったということだが、
思い入れのある作品が失敗したことで、捲土重来を考えていたのではないか。
夏冬2回の臨時増刊号では好きな作品を描かせてもらえることになっていた、
そうだ。「龍神沼」もそれに当たる。
おさらく重点的に前々から準備をしていただろう。
物語は十分に練られていたはずだと考えられる。
時間の無さを奇跡のように扱うこともないだろう。
解決したことでその来訪者は去って行く、
というのは、神話の時代からある物語の一つの典型だが、
『二級天使』やヒーローものをはじめとして、石ノ森先生の作品にはそれが多い。
それが主人公に傍観者的な側面と、孤独を付け加えている。
石ノ森先生がジャーナリストを志していたということもあるだろうが、
それ以前に性格的なものがあるのだろう。
そのまんま映画にしてもおかしくないと書いたが、
この作品については、映画のほうが原作より劣るものになるかもしれない。
クライマックスの顕現する龍。
これが映画では難しいと思うのだ。
実写で幻想的に描くこと自体が難しいし、
これを動かすとなるとシーンが格段に難しくなる。
『マンガ家入門』において、詳しい説明がなされている。
それをまんがに活かしたかがよく分かる解説だ。
『石ノ森章太郎論』山田夏樹著(青弓社/2016/11)では、次のように書かれていた。
ごく一部にしか過ぎないだろう』
石ノ森自身は、そうした「風景」によって登場人物の「内面」を表現した解説するが、
泉は単純に森の風景、祭の風景としても”通じる」
ためにその意図した効果に疑問を呈している。
「季節はわりとあたりまえにその季節感を表わす風物をマンガにうつしとり」
「心理は、連想したものを季節や背景に組み入れたもの」
「まるでナニナニのような、
という直喩を使いまくって文章を作るもたつきを感じた」と否定したあと、
「あたりまえな連想や映像の方法に寄りかかる方法は(略)見られなくなってきた」
「内面が風景を作り出す」ことを発見した。
この手法を使った映画にも当てはまるものだ。
『映像のリテラシー』Ⅰ( p.177)には次のように書かれている。
こうした比喩的な対照は独創的なものといえるが、
もしくは理解できないほど不明瞭なものになりやすいことである。
(中略)
映画ではこの種の(文学に見られるような)比喩的な工夫はもっと難しい。
編集することで多くの比喩的対照を生み出すことは出来るが、
それらが文学においてとまったく同じように機能するわけではない。
エイゼンシュタインの衝突モンタージュ理論は、
主としてアヴァンギャルド映画やミュージックビデオ、
テレビコマーシャルにおいて探求されている。
フィクション映画の監督の多くは、
彼の理論は押しつけがましく高圧的すぎると考えているのである。
作家性も高いため、当時の石ノ森先生が感銘を受け、
自作にも素直に貪欲に取り入れたのだろう。
それも「竜神沼」が叙情性を前面に打ち出した作品だからこそ
ふさわしいと思って使ったのだろうし、
『ジュン』についてもアヴァンギャルドな作品だからこそ、
これらの手法が使われたのだ。
だが『佐武と市』などの作品にしても、風景の中に巧みに取り込まれていると思う。
シンボライズだけがことさらに取り上げられているが、
『マンガ家入門』ではそれだけを強調しているのではない。
風景、効果線、カケアミ、白黒の比率など、
シンボライズについては
p.108では、前のコマの少年の呼びかけに対して
何も応えることのない森の静寂を感じることは出来るし、
p.116では、激しい感情を感じ取ることが出来る。
──むしろ、解説どおりに伝わるよりも、
そんななんとなくの雰囲気だけが伝わった方がいい部分だと私には思える。
解説として言語化したためにあのように書いてはいるものの、
石ノ森先生も描くときは雰囲気で書いていたのではないだろうか?
さらに言えば、
ここは小ゴマで違う絵をポンポンと差しはさんでいること自体に意味がある。
そう言う意味でもこのコマたちには意味があるのだ。
それは伝わらない、あからさますぎるという論が発生する。
だが、解説なしで読めば、それらはそんなに気にならない箇所ではないだろうか。
マンガを読む場合、登場人物の言動は印象に残るが、
物語に直接関わりのない背景だけが描かれたコマなど、
サッサと通り過ぎてしまうものだ。
映画なら監督が時間を決めることが出来るが、
それすらも読者に委ねられているマンガの場合、
そのようなコマに費やす時間はほんの一瞬だろう。
効果線や白黒の比率も含め、背景に対する手法を工夫することで、
他とは一線を画す画面となるし、
つまり、より一層深い作品となる。
『マンガ家入門』で書表現を言語化し体系化したことで
「内面が風景を作り出す」ことを発見した、
という山田夏樹氏の説は、言葉のあやのような気がする。
作家の中では同時に行われていることだ。
(山田氏は泉氏の言葉を引いて「風景」という言葉を使っているが、
石ノ森先生の書いたのは効果線や白黒の比率なども含めた
背景についてである。そこに見解の相違が生じたのかもしれない)
次の章で主人公たちの心理について書くためのブリッジとしての説なのではないか。
石ノ森先生の姿勢はそれほど変わっていないように思える。
以降の作品で比喩的な手法が影を潜めたのはそのためではない。
当時は目新しかったがその後あまり見られなくなったものであること、
それに石ノ森先生が自信のマンガのスタイルを確立したこともあるのだろう。
あまり見られなくなったのはそのためだと思われるし、
シンボライズの手法は背景による心理描写の一部に過ぎない。
先ほど書いたとおり、
その後の作品ではこれらは背景の中に巧みに溶け込ませているものと思われる。
流れで書いているところも見受けられる。
情熱が感じられるし、内容も濃い。
それがこれらの作品に、生き生きとした力を与えているように思うのだ。
☆ さてさて。
ところでこの作品、
イメージのヒントとなったと思われる詩が作中に出てまいります。
「茂りし村の奧深く 黒く声なく沼は眠れり」という一節でございますな。
実際には、ピエエル・ゴオチェの「沼」という詩なのだとか。
「茂りし村」も間違いで、「茂りし林」が正しいのだそうでございます。
石ノ森先生の字が雑で読み間違えられちゃった可能性がございますな。
それはそれとして、
ポール・ヴェルレーヌ作と勘違いしていたというのは分かる気がいたします。
なんか、そんな雰囲気の詩ですものな。
そして勘違いしたということは、記憶で書いているということ。
作者を間違えて覚えていたというものの、お気に入りの詩だったのでございましょう。
《追記》
その後、「龍神沼」関連でいくつか見つかりました。
この記事の中心と関係はございませんから、
読んでくださいというものではございません。
単独で読める記事でございます。
もしよろしければ、ごらんくださいませ。
(→)『龍神沼」補遺
『ジェニーの肖像』を基にした作品にございます。
以下のPDFが参考になりましたので、
興味のある方はお読みになるとよろしゅうございましょう。
『ジェニーの肖像』のアダプテーション
https://www.toyo.ac.jp/-/media/Images/Toyo/research/labo-center/ihs/bulletin/kiyou22/22_p47-65.ashx?la=ja-JP&hash=738C0F39DEBFA34691F7C30C58B7447A4397F196
ファンの女の子が遊びに来て、という枠があるのが変わっておりますな。
でも、枠のないバージョンもございます。
枠のないバージョンでございますな。
(右上と右はその表紙と一ページ目でございます)
第七章に枠の話が1ページ挿入されたため、
その後のページがズレてしまっております。
「昨日はもう来ない、そして明日も」
という作品が1959年にあるのですよね。
ですからそれが、外枠のない話かもしれない……
のでございますが、コミックスをあらためて見ますと、
「そして」ではなくて「だが」なんですよね。
それに、この作品リストの他の部分には間違いがあるみたいなので、
ここも間違っているのかも。
ネットで探しても見つかりませんし。
国立国会図書館デジタルコレクションのデータを見ても
よく分かりませんでした。
調べ方が悪かったのか足りなかったか。
他の作品でも、リストにあって載っていないものも、
逆にリストに無くて載ってないものもございました。
p.70に主人公の健二さんが現実に負けて描いたマンガがございますが、
その「まだら」何とかが、快傑ハリマオっぽいのでごさいますよね。
ハリマオの連載は、1960年4月から。
1959年の作品で出てくるのはちょっと難しい。
テレビドラマ(マンガと同時に放映) のマンガ化ですから
企画がそれ以前から動いていて、
キャラクターデザインはすでに出来ていたなども考えられますが──。
(ちなみに、連載開始からしばらくは、
手塚治虫先生が下描きまでの構成をしていたのだそうでございます)
仕事量はグンと増える。アシスタントも雇わなければならない、
と困難は認識している一方で、やってみたい作品とも
思っていたらしいのでございますよね(『言葉の記憶』p.97)。
そんな作品を開始前からこのような形で採りあげるかどうか──。
先生のお姉さまがお亡くなりになられたのが1958年でございますから、
その一年後。
その時期にこの作品を描いたというほうが、
もっとあとよりも納得できる気がいたします。
(一方で、この時期にそれを描いたとすれば、
そのときの気持ちはいかに、と気にもなりますが。
精神的な強さなのか、それとも作品にすることが
気持ちの整理や解消に少しはつながったのか、つなげようとしてなのか……)
また、赤塚不二夫先生が、そのころ石ノ森先生にそんな提案をした
という話もあるそうでございますし。
名画座か何かで観たのでしたら時間的に問題ございません。
さらに加えますれば、枠の話で石森先生は「だが」にするか「そして」に
するかを迷っております。
これは、「そして」という作品があったことを示すものではないか。
そう思うのでございます。
それらを総合して考えまするに、個人的な見解ではございますが、
1959年あたりでお描きになったのですが、
そのときはボツになったのではございませんでしょうか。
SFであり、時間ものであり、
主人公がマンガ家の青年。読者とはかけ離れているなど、
ボツになる理由はあると存じます。
それを締め切りが迫っていたのか、受け容れられる素地が出来てきたのか、
石ノ森先生がどうしても発表したいと思ったのか、
描き直しをし、ページ数の都合からか枠の物語をつけて発表したのでございましょう。
枠なしのものは、枠つきに描き直したものから、枠を取っ払ったものなのかも。
ページ数の多い枠付のものを採用するのが当然ですが、
枠のない方が作品としてのまとまりはございます。
両バージョンをと言いたいところでございますが、
似たものを2つも載せると、無駄と思われてしまうでしょうしねぇ。
難しいところでございます。
ただ枠の話を省くだけですので、
枠のない物語は掲載された作品から想像してくださいませ。
この作品、
『ジュン』の底流を流れる主題となっております。
イノセンスや姉の記憶でよいかと思われますが、
『ジュン』では異性を含めた未知未知なるものとか、
理想、神秘なるものとか、
広い意味が付加されているように存じます。
そしてそれらは、少女の死に暗示されているとおり、
手に入れることが出来ないものなのかも──しれません。
時間はどんどん過ぎ去ってしまうというのは、
『ジュン』の
「やがて秋が来て冬が来る」に連なっております。
編集部の要請など外部的な理由によって
描けないことについては、
たとえば『続マンガ家入門』のあとがきでも、
マンガ家を目指す読者に対して
だいたい次のような感じでお書きになっておられますな。
あなたの世界を10として、
それをすべて理解してくれる人はいない。
理解力0の人、5の人……ごく少数は9まで理解してくれる
人はいるかもしれないけれど、10を理解してくれる人はいない。
そこであなたは
あなたの世界を変えていかざるを得ない。
やがてあなたの世界は、
以前1だけ理解してくれた人にも
理解できるような世界になる。
つまりあなたの世界は
だれもが理解できる世界に変わったというになる。
だれもが楽しく遊べる世界を作ったあなたは、
人気者であり英雄でありその世界の”王さまとなった。
けれども、もはやあなたはその世界では遊べない。
アカの他人たちの世界になってしまったから──。
プロの意識が芽生えるというのは、
そういうものを吹っ切ることなのでございましょう。
ただ、その一方で、吹っ切ったあとも、
こうした思いはいつまでも持っていたものではないかと思います。
その一コマだけで特筆する必要は感じられません。
前衛的というよりも、少女のいる部屋を描写しつつ、
彼女の不安や孤独を表現したコマとして
評されるべきでございましょう。
それに語るのてしたら、この一ページだけではなく、
それを起点とした5ページ、p.9までの流れを語るべきですな。
少女がドアを小さく開けて
こっそり外の様子を聞いている一コマ目(p.5)。
二コマ目では彼女の顔がアップとなり、
不安な表情に迫ります(p.6)。
そこからp.7・三コマ目まで彼女がのぞき見る部屋の外が描かれ、
少女の不安の理由──両親の諍いですな──が明らかにされます。
p.7・四コマ目はp.6・一コマ目と同じポーズで扉を閉め、
ここまでを1つのシーンとしております。
そこから、p.9の月光が部屋の中に差し込むまでが一連。
少女がぼくちゃん人形に話しかけるまでをスムーズなカメラワークで描いております。
一本足の兵隊が登場するあたりでございましょうか。
ホフマン、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」も下敷きとなっておりますよね。
「おもちゃのチャチャチャ」はどうなのかなぁ。
ウィキペディアに拠りますと、野坂昭如先生の詞のバージョンは1959年。
1回きり使われ、その後1960年にダークダックスが再度採りあげた、
となっておりますから、ギリギリと申しますか、
リアルタイムということになりますが、
何しろ一度や二度の放送だけみたいでございますからな。よくわかりません。
キッカケにはなったとしても、影響は最小限のはずでございます。
「一本足の兵隊」という作品を描いており、
それがこの作品の直接の元となっているからでございます。
この作品、『二級天使』の中でも唯一の3回連載。
石ノ森先生としても思い入りのあるテーマだったのだと思うのですよね。
コマの関係とこの作品では脇道なので目立たない扱いでございますが。
ここで『二級天使』の「一本足の兵隊」の話をいたしますと、
かの作品では、オモチャたちの持ち主の病弱な女の子が、
『毎日毎日、こんな生活もう嫌」と思わず人形2人をはたき、
ガラス戸を破って窓の外へ。
そこまでが1話で、2話目から放り出された一本足の兵隊人形モンティと、
ジプシー人形ナナパットの冒険の話となっているのでごさいます。
アンデルセンのスズの兵隊の話はご存じでございましょうか?
「一本足の兵隊」でもやはり飲み込まれます。
でも、自力で抜け出すのですな。
ラストも、アンデルセンのそれは、涙を誘う終わり方をいたしますが、
「一本足の兵隊」は、二級天使・ピントの力を借りてハッピーエンドで終わります。
きっと、アンデルセンの話の結末を不服に思って、
そのような結末に仕立てたのでございましょう。
一方、病弱な女の子は天に召され、人形たちの王国は後日取り壊されるという、
かわいそうな結末に。
初期少女マンガ傑作選」(ちくま文庫/2021/1)
副題のとおり、
ちなみに、
『ぼくの漫画ぜんぶ』(廣済堂/昭和52年6月)では、
『あかんべぇ天使』は、昭和40年となっております。
この年号で正しいのでございましょう。
(解説だと、1955年デビューで17歳となっておりますが、
一月号はその前年に発売されるのが普通ですし、
執筆していたのはそれ以前ですからまぁ同じことでございます)
とすると、
「MYフレンド」をのぞけば、22~25ぐらいで書かれた作品となりますな。
ちなみに、先生のお姉さまがお亡くなりになられたのが、
1958年(昭和33年)4月、
『世界まんがる記』の世界旅行に行ったのが1961年だそうでございます。
スタジオ・ゼロ設立が1963年。
石ノ森先生は『石森章太郎の世界』で次のようにおっしゃっておられます 。
『あかんべぇ天使』など、初期の少女もの短編が好きなんだ。
というのは、このころ、まだ
自分の進む道は絶対マンガ家じゃなければならないとは考えていなかった。
本当に好きなことを書いた作品ということでね。
──結果的には<それがうけましたね?
石森 そうなんだ。同じ感覚で呼んでくれる人がいるとわかって、うれしかったね。
とおっしゃってはおりますが、
小説家とか映画監督とかアニメ作家とかジャーナリストとか、
他の職業と申しましても、
ものを書(描)いたり作ったりする仕事という点は確かぶれていなかったと存じまする
マンガのことをおろそかにしていたというわけではございません。
むしろ、マンガを映画と同じような総合芸術と考え、
マンガを映画と同等、
いや、それ以上のものとするために、日夜考えておられたのでございます。
サイボーグ009(1964)でプロ意識が完全に芽生えたともおっしゃっております。
の特に作中作の主人公と、
「MYフレンド」(1967)を比べて見ると、一目瞭然でございますな。
それを描いて断られているのがプロ以前の段階。
貧しくて、でもマンガに対して純粋で。
一方、「MYフレンド」の石森先生は、先生と呼ばれております。
おうちも立派なものを持っておりますし、自分を二枚目に描いていない。
自分のスタイルもすでに確立している。
つまりは編集者の目で作品を見ることができるということでございますな。
評価される側の作品も、
石ノ森先生らしく手なれているのはご愛敬というところでございましょうか。
ちょっとアマチュアっぽくないですな。
マンガの理想と描きたい作品に情熱的に取り組んでいたのが、
この少女マンガの時代でございますな。
しかも読み切りなので、派手なコマはない代わりにストーリーが濃密でございます。
大人気作家となる以前でございますから、
作品に工夫を凝らす時間もあったのでございましょう。
描きたいものも頭の中にあふれ、また映画などから物語や技法などを吸収して、
それをマンガに取り込んでやろうという意欲にあふれていた時だったとも存じます。
そのまんま映画にしてもおかしくない作りだと思います。
より先鋭化して使われているということもございます。
逆に、日常のていねいな描写などは、作風が派手になってからは
あまり描かれなくなったような気も?
そのあたりは、時代がスピーディな方向に流れたせいもございましょうな。
エンターテイメントを目指すとおっしゃっておられますからなぁ。
尖った作品にはならないかも。
『シン・ゴジラ』もエンターテイメントとしてまとめておられましたからなぁ。
インターネットや
当時の国民総背番号制度に当たるマイナンバー、
新疆ウイグル自治区をはじめとする中国の監視支配体制など、
現実に起こっている出来事から、
原作「仮面の世界(マスカーズワールド)」を映画化するとしたら
などとという妄想はすぐに思い浮かびますが、
万人に受け容れられるものを作るとなりますと、
マイルドになりましょうなぁ。
一方、ホラー性やアクション性には大いに期待、
期待させて欲しいところでございます。
YouTubeで見た記者会見では、どの程度の信憑性かは不明でございますが、
蜘蛛男・蝙蝠男の登場をほのめかしておりました。
スパイダーマンとバットマンですよ。
というヨタはともかくとして、
今やるのでございましたら、
アメコミヒーローレベル動きは当然期待されますよね。
それに応えることが出来るのか。
興味あるところでございます。
それにヨタとは書きましたけれど、
バットマンはともかくとして、
スパイダーマンとの差別化は出来るのかなぁ。
いやできましょうけれど。
ビルの谷間ではロープアクションではなくて、
ビルの壁をかさこそ這い回る動きが中心になるとか、
ロープを使うにしてもターザン的な持ち方にしないとか、ね。
ともあれ、スパイダーマンに似せようと思わなければ、
原作でも違っていたので問題はございますまい。
でも、ビルの谷間での縦横無尽の空中戦は見たいなぁ。
サイクロン号はどう使うのかなぁ?
敵に体当たりとか、ビルの壁を走ったりとか?
でも、そんなアクションは無くてもいいかな。
あまり何でもありというのも、
ヒーローが強くなり過ぎちゃってつまらない気がいたしますし──。
仮面ライダーの場合は特に。
ライダーキックはそう叫んで蹴るのだろうか?
叫ぶ意味はないですし、リアリティという意味からも必要ないですから、
叫ばないんだろうなあ、
でも、キックでトドメは変わらないのかなぁ。
原作ではそれほどキックでもないですよね。
映像表現にも期待。
それほど極端なものは入れてこないかもしれませんが、
それでも期待せずにはいられません。
主人公が死んでエンドということはないでしょう。
続編やシリーズ化への含みを残すのかなぁ?
『仮面ライダー』という作品ということで考えますと、
2、3作は作って欲しいところでございます。
アメコミヒーローと肩を並べるぐらいに注目されるためにも
それはやって欲しいですな。
一方、映画として考えますと、「仮面の世界(マスカーズワールド)」中心で考えますと、
1作の映画としてきれいにまとまるんですよね。
テレビシリーズなどの関係もあるのでございましょう、
原作でもキッチリと終わらせてはいなくて、
続いていく体で話を終わらせてはいるけれど。
話としてはテーマを書き切ってあそこで終わりという感がございます。
一作ごとに完結する三部作で、
そのラストに「仮面の世界(マスカーズワールド)」を持ってくるぐらいが、
贅沢だが満足のできる作りになるという気はいたしますが。
それはやはり、贅沢ともうすものでございますなぁ。
連続して起こる怪事件を刑事か記者が捜査しているうちに、
仮面ライダーに出会う、みたいな形にしても良さそうなぁ。
誕生編を描いた方がそれが生きる気もするので、一長一短ではあるけれど。
うーん、もうホント、
「仮面の世界(マスカーズワールド)」をやってくれるものと思って書いているなぁ。
あそこに書くのには余談すぎる。
けどちょっと書いておきたいというあたりを書いておきますね。
というわけで、
ラジオドラマ版の『ブラックジャック』にございます。
ウィキペディアによりますと、
ブラックジャックのラジオドラマは2つあるらしいのですが、そのうちの最初、
1977年にTBSラジオ
「ラジオ劇画傑作シリーズ」の第2弾として放送された方でございます。
おそらく、『ブラック・ジャック』の別メディア化作品としては
最初になるんじゃないのかな。
これ、けっこう好きなのでございますよ。
主人公のブラックジャック役が岸田森さん。
これだけでも聴いてみたい気になるでしょ?
これが渋くてかっこいいんですよ。
ピノコ役は松島みのりさん。
『キン肉マン』のミート君などの声をあてた方でございますな。
こちらもピノコらしい。
でも、それを知るまで、てっきり小山茉美さんだとばっかり……。
『Dr.スランプ アラレちゃん』の則巻アラレさんに
感じが似ていたものでございますからてっきり。
失礼なことに……。
配役として特徴的なのは、
「ブラックジャックギャング団」というのがおりまして、その子役たちが、
ナレーションやモブ、効果音なんかを、
一言ずつ、代わる代わる担当していくのでございますよ。
リアルにやるとなると、
役者がたくさん必要だったり、話が長くなったりするところを、
適度に省略して10分という尺の中に収める役に立っているわけでございます。
同時に、マンガ的なテンポやコミカルさも、それによってうまく表現しておりました。
ラジオドラマならではの手法でございますな。
主題歌は、ブラックジャックに宛てたラブソング。
ちょっと甘すぎな感じもいたしますが、いいお歌でございます。
今回、YouTubeで聴いたのでございますが、
ラジオドラマでございますから、音質や雑音の点で、
どうしても他の動画とくらべて見劣りしてしまいますな。
AMラジオですからモノラルですし。
いや、でも残っているだけで貴重でございますな。
こういうものが残っていること自体、本当に驚きでございます。
いわずとした望月三起也先生の傑作アクションマンガ。
やはり初期メンバーが一番でございますな。
個人的には八百のトンデモバイクの機構を完全再現して、
プラモデルか何かで出てほしいものだと思う次第でございます。
それはそれといたしまして、
最初の最初のほうでは、
ヘボピーと八百のニックネームが違うものだったことはご存じでございましょうか?
『オバケのQ太郎』
1・4
藤子・F・不二雄
藤子不二雄(A)
(小学館/2009/7・2010/1)
石ノ森章太郎先生のファンとしては
外していけないのが、
少年サンデー版の『オバケのQ太郎』
でございますよね。
サブやゲストキャラクターのいくつかを
先生が手がけていたことはご存じでしょうが、
特に注目すべきは、
いったん終了する前の初期9話でございます。
このあたりは、
スタジオゼロ作品としてみんなで作っていこうという思いがあったのでございましょう。
絵もストーリーも、藤子先生が取り仕切ったそれ以降とは違っておりまして、
その違いが面白い。
たとえば二話「まとめてめんどうみてよ!!」などは、
石ノ森先生のアイデアと思われるスラップスティックコメディでございます。
藤子先生のギャグは、四コマの起承転結をつなげていくようなものが多いので、
はっきり違います。
あるいは、スタジオゼロ全員でやっていくということで、
こういう方向性もあるよと幅を広げるために描いたの、かなぁ?
第三話「Qチャンと正ちゃんの裸一貫」のこんな表情も、
明らかに藤子作品とは異質でございますな。
第四話「正ちゃんのペットはオバケQ」は、
なんかキャラクターが混乱しているような……。
いろいろな意味で見どころがございます。
もうひとつ、石ノ森章太郎先生の ファンとして
見逃せないのが、「超能力入門」。
藤子・F・不二雄大全集の
『オバケのQ太郎』では
4巻に所収されております(p.260-)。
この作品には、超能力を説明するために
石林正太郎先生の『ぼくはエスパー』というマンガが
登場するのですが、キャラクターがミュータントサブ
なのでございますな。
幼いころ、友達の家で
虫コミック版のこのシーンを見た時、
びっくりしたものでございますよ。
藤子不二雄先生ってどんな絵でも描けるんだ、
すごいなぁ、って。
でも、まぁ、
これは石ノ森先生が描いたものでございましょう。
☆ 追記
しまった~!
2009/7/29にも『オバケのQ太郎(1)』の記事を書いておりました。
しかも、書いていることが同じところがかなり。
こっちには書いていないことも少し。
……。
まぁ、仕方ないですな。
「拳銃無宿」居村真二
(「COM 1970/11」(虫プロ)
ぐら・こん=コミックスクール ストーリーマンガ教室 p.250-256)
居村先生は、COM誌(虫プロ)の新人発掘コーナー
「ぐら・こん」に何度か掲載されているようなのでございますが、
これはたまたま持っていたものに掲載されていた作品。
21才の時のもののようでございますな。
この号は入選はなく、第2席が筆頭。
その第2席となっているのがこの作品でございます。
選と評は石ノ森章太郎先生。
絵と構成はうまいが、ストーリーは古くさいと評されていますな。
逆に申しますれば、
ストーリーはオーソドックスながらそれをきちんと見せる実力を持っている、
とも申せましょう。
のちの居村先生の作風がすでにこの時現れておりますな。
「COM」という雑誌に合っているかは疑問でございますが、
この雑誌に挑んでみたかった、とか、
石ノ森先生の評価をもらいたかった、などの思いがあったのかも?
などと、想像する次第でございます。
自作を例に取った描き方の本ですとか、落書帳、エッセイみたいなものって、
出た時には書かれたとおりの意味しか持ちませんが、
後になって読み返すと意外な発見とかがあるものでございますよね。
たとえば、『石森マンガ教室』のコママンガの投稿作品には、
静岡県・菅谷充くんや、千葉県・河あきらくんや、
大阪府・居村真二くんの作品などが載っております。
まぁ、コママンガの一作品ではございますが。
第三部、本のおわりに「きのう・きょう・あした」と題した自伝が
書かれているのも興味深いですな。
生い立ちについては他の本でも読むことが出来るのかもしれませんが、
わたくしがそういうの読んだことあまりないので、書いておきます。
それはさておきまして。
この『石森マンガ教室』では、
ストーリーマンガの発案から最初のページにいたるまでの過程を、
『サイボーグ009』を例にとって紹介しているのでございますな。
7ページの短いものでございますから、
さらっと眺めていたのでございますが、あらためて見るとこれが興味深い。
たとえばノート6。
ここには、サイボーグ戦士のメンバー候補が書かれております。
面白いでしょ?
ロシア人は赤ん坊ではなくて大男ですし、オーストラリア先住民がいる。
この前のコマで世界視点の話だから、とおっしゃっているので、
まず場所から考えていったのでございましょうな。
で、オーストラリアなどは、
資料が少ないかイメージが湧きにくいなどの理由で、アメリカ先住民に。
それでしたら西部劇などのイメージがございますし作者も読者もわかりやすい。
「2番ピッチャー」のアメリカ人との対立も描きやすいだろう、
という思惑もあったように存じます。
その他、実際の作品に反映されているところは多いものの、
そうでない部分が興味深いところではございますな。
各キャラクターの前には、ポジションが書かれてございます。
この何ページか前に『サイボーグ009』が
野球からヒントを得たように書かれておりますが、それはまゆつばといたしましても、
キャラクターを練る過程で、野球の役割分担を考えてみたということはうかがえますな。
四番サードが主人公で、ファーストが三・四番というあたり、
長島・王時代の巨人軍でございましょう。
ただ、ポジションとキャラクターの性格にあまり関係はない……。
試しにやってみた程度だったのでございましょう。
まぁ、あまり関係させましても、
キャラクターがつまらないものになってしまいますからな。
下手をするとパロディになってしまう……。
わたくしはついついそれをやってしまうので、困ったことでございます。
ところで、
この段階では人種などによる対立を描くつもりがあったようでございますが、
実際の作品ではそれがほとんど出てこない。
メンバーのうち8人は最初から団結していますし、
後から加わる島村ジョーさんも自然に受け入れられておりますし――。
少しあとで、ピュンマさんのウロコ問題なども出でまいりますが、
メンバーの対立ではございませんし、
そういう要素も入れないとと、とってつけた感じもございます。
もともと住んでいる違いすぎるせいで対立要素にならなかったとか、
ストーリーがメインになるうちに書く必要がなくなったとか、
作者の性格とか、
サイボーグとしての悲しみのほうに重心が移って民族的な対立要素は薄くなった、
など、理由はまぁ、いろいろと考えられはいたします。
あと、特殊能力については、まだこの段階では考えていないようでございますな。
001なんかは特殊能力を考えている段階で生み出され、
オーストラリア人とロシア人が統合されて005になったという感じでしょうか。
それとも逆かな?
オーストラリア人とロシア人が統合され、
ロシアがあまったから特殊能力から生まれた001が加わったのかも?
以前、『サイボーグ009』の能力は、
『キャプテンフューチャー』なんかがもとになっているのでは、
と妄想を書いたことがございますが(*)、
キャラクターの能力と性格はそれぞれ別に考え、
あとで結びつけたような気もいたします。
イギリス人(007)ですとかドイツ人(004)などは能力と結びつきやすいですが、
中国人(006)の地中やアフリカ人(008)の水中などは、
性格とは結びつきにくいですからな。
2つを1つにすることで、元ネタに引きずられることがない、
新しいキャラクターを作り出しているのではと、
わたくしなどは考えているのでございます。
朝日ソノラマ・サンコミックス版・2巻(昭和42年)の冒頭には、
「点と線」――「テレビ小僧」に寄せて――
というタイトルで、
立川談志師匠が稿を寄せております(p.6-8)。
物語の筋をとおして語る従来の笑いを線とすれば、
瞬間瞬間で笑わせるスラップスティックギャグは
いわば点の笑いだ。
「石森章太郎のマンガには、
自分の『線』をもちながら
『点』にわが身を投げようとする
意欲と挑戦があるわけだ。」
とお書きになっておられます。
とは申せ、それに同調するつもりはないようでございます。
最初に手塚治虫のマンガや古典落語が好きだ、
と宣言していらっしゃっており、
宗旨替えをするつもりはないようでございます。
ただ、線の笑いがのうのうとしていれば、
「点族」に席巻されてしまうのではないか
という危惧は抱いているようでございますな
(リップサービスが入っているやもしれませんが)。
「守るのもいい。私の趣味からも、まもってほしい。
しかし、その反面、攻撃に出ないと、えらいことになる。
石森章太郎の「テレビ小僧」を読んで、
おとなマンガのふがいなさに義憤を感じるとともに、
「点族」のすさまじい台頭を見た。」
と、結んでおられます。
これは、談志師匠がみずからの落語に対する姿勢を表明した
ものと考えても差し支えございませんでしょう。
これって今電子書籍になっているバージョンには収録されているのかなぁ、
談志師匠のファンの方は知っているのかなぁ、
などと、ちょっと気になるところではございます。
『テレビ小僧』や『がんばれロボコン』といった
石ノ森章太郎先生のスラップステック(ドタバタ)マンガでございますが、
それほどわたくしの趣味ではございません。
石ノ森先生の執筆スピードとバイタリティ、
それに『テレビ小僧』の場合は「モーレツ」が時代の言葉となった
高度成長期を感じさせますが。
さて、こうしたギャグマンガのアイデアでございますが、
意外と『ジュン』のイメージの連想と似たところがあるように思うのでございますよね。
特に、テレスケが妄想するところあたり……。
意外と思いましょうか?
それとも、同じ頭から出たものだから、とお思いでしょうか?
『石森マンガ教室』では、
発想の練習法として次のような方法を紹介しているのでございますよね。
まず、簡単な図形を描きます。
そこから、○なら太陽ですとか、まり突きをしている女の子ですとか
、地球ですとか、どんどん連想をつなげていくのですな。
それを何十回か繰り返し、元の○に戻ってくるという。
(講談社の「石ノ森章太郎デジタル大全」では、
『石森マンガ学園』というタイトルで出ております。
試し読みでギリギリそのあたりまで見ることができるので、
興味のある方は探してみてください)
この方法はまさに、『ジュン』のイメージの膨らませ方だと思うのでございますよね。
そして『テレビ小僧』もまた、このように
1つのテーマからイメージを膨らませるという
手法をとっているのでございます。
(参考:『続・マンガ家入門』
石森章太郎(秋田書店/1966/8))
あるいはその呪縛。
前回紹介いたしました
宮崎駿先生の記事の載っておりました
「COMIC BOX」誌は、
手塚治虫先生の追悼特集号なのでございますな。
宮崎駿先生の手塚先生に関するインタビューも、
そこに掲載されております(p.108-109)。
もちろん、と申してよろしゅうございましょう。
お上品な亡き人を悼む追慕ではございません。
手塚先生の作品の何がきらいかということを、
歯に衣着せぬ口調でハッキリとおっしゃっておられます。
よく言われますアニメの制作費の安さの元凶を作ったことに対する批判は、
ここでは簡単に触れられているのみでございます。
それについては、もう語り尽くしたということでございましょう。
それよりも、手塚作品の安っぽい悲劇性や安易な作劇に対して否を唱えておりますな。
と、その方向性でこの記事をまとめようと思ったのでございますが、
そのうしろには、手塚先生の '89年の長いインタビューが……。
とりあえずついでに読んでみました。
「手塚さんは10年前何を語ったか 再録「珈琲と紅茶で深夜まで」
●interview 手塚治虫 ●企画・構成・制作/香月千成子(初出「ぱふ」'89 10月号)
すると、手塚治虫先生は頭のいい方でございますからな。
自分の作風については、ちゃんと理解しておられる。
見えてくるのは、次の3つ。
(1)キャラクターは、パターンであり、記号である。
(2)自分は作家ではなく、職人。
(3)キャラクターよりもお話に重要性がある。
このあたりが、宮崎駿先生とは一線を画す部分でございますな。
(1)は、おわかりでしょう。
ジブリの仕事は、まさにパターンではない自然な動きや、
自然な感情を表現した演技を目指しておりますからな。
手塚先生は、みずからのマンガを
センチメンタリズムはあるが感性はないと評しております。
生身の感覚はなく、キャラクターは怒りとか悲しみとかを表す
記号・文字のようなものおっしゃっておられます。
(2)は、常に雑誌に発表しウケ続けなければならない、
そういう思いが、手塚先生には強かったようでございますな。
そうしなければすぐに忘れ去られてしまう。
だから、時代やジャンルにあわせて売らんがための職人的な細工をするのだと
おっしゃっておられます。
(その細工に隠された、本当に描きたいものを見て欲しいともおっしゃっておりますが)。
キャラクターも話にあわせて変えられるように、
パターンとしての性格はあるが、内面は割と空っぽだと自己分析しておられます。
(3)は、お話が重要で、
ロックやケン一といった主人公クラスでも本当に愛してはいない、
だから、話の都合で簡単につらい目にあわせてしまう、のだそうでございます。
宮崎先生が問題にされていた、
感動するからという理由でキャラクターを簡単に殺してしまうことができる
というのも、そうした姿勢からでございましょう。
キャラクターの動きや表情をパターンや記号とし、。
ウケやテーマやストーリー上の都合のために、キャラクターをコマのように扱う。
そうした
キャラクターの人間性を軽視した作り方に、宮崎駿先生は反発したのだと思います。
ですから、これとは逆の方向を目指したのでございますな。
1つ進化したスタイルと申せるかもしれません。
ただ、この方法って、時間がかかるやり方でもあるのですよね。
キャラクターの表情や動きをパターン化し、
ストーリーが詰まったり盛り上がりに欠けるときは定番の手法で切り抜ける。
そうすれば、時間をかけずにストーリーを展開していくことができます。
連載を何本もかかえていた手塚先生にとっては必要な手段だったと申せましょう。
(こういうのって、ノッているときはそれほど必要ないものですよね。
鉄腕アトムの初期と初期の映画を比較したところで、
宮崎先生が引き出しにあった残骸とおっしゃっているのが、こうした定番の手法でございますな)
宮崎先生の作品が、制作期間が長くかかってしまったというのは、
こういう割り切りかたができなかったためでございましょう。
そのことは、「いまひとたび『少女ネム』」のところにさし入れた、
『魔女の宅急便』のインタビューでもうかがえますな。
後期の宮崎アニメが、起承転結がないなどと批判されるのも、おそらく
お話のために、登場人物をコマのように動かすことに対する反発があるためと存じます。
ところで、手塚先生のインタビューで面白いのは、新人のマンガ家に対して、
先生がすなおに絶賛をするところでございます。
自分の描けない新しい感性をものすごく評価している
(新しいマンガに対抗・挑戦していったのが手塚先生でもあるのですが)。
一方で、そうしたマイナーな、一部の熱烈なファンしか持てない作家ではなく、
マンガ界全体をひっくり返すほどの大きな潮流を生み出すマンガ家の出現を期待している。
おそらくこれは、
マンガ界をひとりで変革・牽引してきた手塚先生の思いなのでございましょう。
自分に匹敵するような人物が現れて、マンガの新しい道を示してくれるのではないか。
でなければ、マンガというのはそのうち他のメディアに圧倒されてしまうのではないか。
そんな期待と少しの恐れがあったのだと思います。
結局、手塚先生亡き後はそうした大きな存在が現れることはなく、
いくつかの潮流はあるものの、個性的なそれぞれが乱立している時代となっておりますな。
マーケティングのウケを狙った作品が一方であり、
エッジの効いた作品があり、
何でもない日常をつづった作品あり、
中心はなくとも、マンガの多様性は広がっているようでございます。
『漫画原作者・狩撫麻礼 1979-2018
《そうだ、起ち上がれ!!
GET UP.STAND UP!!》』
狩撫麻礼を偲ぶ会・編
(双葉社/2019/7)を、
どうしようか迷ったあげく買いました。
木崎ひろすけ先生の
『少女ネム』については、
鈴木健也先生が、
「少女ネムの想い出」という
タイトルで、4ページのマンガを
描いていらっしゃいます
(p.164-167)。
1ページ目が、その出会い。
2ページ目が、作者の死による別れ。
3ページ目が、「ネム」の内容。
そして、4ページ目が、
鈴木先生のの予想する、
描かれなかったハッピーエンド
という構成でございます。
なぜ鈴木先生が『少女ネム』についてお描きになっているのか、
この4ページだけでは伝わり方が今ひとつという感じがいたしますが、
この
http://w01.tp1.jp/~a303594771/
あたりを読みますと、その思いが伝わってまいります。
そんなわけで、このマンガ。
4ページの中で、『少女ネム』という作品を
うまく紹介しているとは思うのでございますが、やっぱりなぁ。
これだけではもの足りない……。
みかんですし、一巻の分量しかございませんし、
狩撫先生にはたくさんの知名度の高い作品がございますし……、
というのはわかるのですが、何か残っていなかったのかなぁ……。
さて、前回『少女ネム』の内容には触れませんでしたが……。
あの記事を書いて少ししてから、
「COMIC BOX vol.61
1989年5月号 特集 ぼくらの手塚治虫先生」
(才谷遼(株)ふゅーじょんぷろだくと)を読んでいたのですね。
すると、p.176にこんな記事が。
ねっ。
これ読みますと、『少女ネム』って上京後は、
こういう話をやろうとしていたんじゃないのかなぁ、
って思うわけでございますよ。
木崎先生や狩撫先生が、この記事を読んでいるかどうかはわかりません。
でも読んでいるんじゃないかな?
読んでなくても、
他でもこのような発言をきっと宮崎先生はなさっていらっしゃるでしょう。
狩撫先生はわかりませんが、
木崎先生の好きな作品には、宮崎作品が入っていそうでございますし――。
『魔女の宅急便』が、'89年。『少女ネム』が'96年なので、
ちょっと離れているのがこの説の弱いところではございますが。
話の中で出てくるということはございましょうし……。
まぁ、影響はなくとも、
そのような話だったのではございませんでしょうか。
2人の物語は、大団円に到るといたしましても、
それまでには大きなうねりが用意されていたと思われます。
どなたか、作品を引きついで、
完結まで描いてくださる方っていないのかなぁ……。
ここまでの物語は魅力的なのだから、
それを大事にすれば、きっと素晴らしい作品になると思うのですが……。
(* 個人的な希望は、作は木村航先生でしょうか、やっぱり。左のリンクにある「野望の王国」ミラーサイト入り口に
書かれた引用からして、多少なりとも木崎ひろすけ先生のことはご存じだったのでございましょうから)
* でも、それにしても、
宮崎駿先生のこのインタビューを読んで、
京都アニメーションの火災事件を思い出すと、
ホントにやる瀬のない気持ちになりますな。
「パグマイアRPG」というD20系のTRPGが紹介されておりました。
犬が主人公。
アフターホロコーストで、剣と魔法の中世風の世界だそうで。
となると、
石ノ森章太郎先生のファンとしては、
『ドッグワールド』を思い出さずにはいられません。
『THE DOG WORLD ドッグワールド』1~3
石森章太郎 (大都社/昭和52年)
基本三銃士的な中世ですが、ロボットや工場なども存在する世界。
都には神が住むという神殿があり、その定めを伝える法王を長とした
僧侶たちの「聖府」を中心に、
貴族・軍族・平民といった階級的な社会が形成されているのでございますが、……。
物語は、
騎士を目指して田舎から出て来たシバと謎の少年・ヒトを主人公に展開いたします。
今で言ったら『けものフレンズ』?(1~2話ぐらいしか見たことございませんが……)。
貴族と軍属の対立、陰謀、ゲリラ組織との出会い……。
世間知らずだったシバは、
さまざまなことを目にして、悩み、行動し、核心に近づいてまいります。
そんな中、ひそかにうごめく不穏の影。
外敵、ネコの襲来。
神殿は崩壊し、その深奥でシバとヒトは、
この世界を造ったカミと呼ばれる存在とまみえます……。
その存在によって、この世界の「歴史」が語られるのでございますが……。
バベルの塔の神殿に、大仏やスフィンクスが収まっているなど、
ビジュアル的にも面白いですな。
先生の作品って、
「次々と新しい作品を描きたくなり、今までの作品の力を抜く」
「竜頭蛇尾」(*)なことがございますが、この作品は違います。
(*) 『三つの珠』虫プロ版のあとがきでございます。
『三つの珠』に関して「終わりまでちゃんと描きたかった」
という文脈の上での言葉でございますから、誤解なきよう、念のため。
もうひとつの『リュウの道』という感じで、
プロローグの『魔法小学校』から
エピローグの『魔法惑星』まで、しっかりまとまっている。
超能力による理想世界が当時的。
その根本思想がアニミズムなのが、石ノ森先生らしさでございますな。
お亡くなりになられたあと小野寺丈さんがお書きになられた「009」の終章を
わたくしは読んでおりませんが、
テーマ的なものは、むしろこの頃の作品のほうが
「神々の戦い」で言い表したかったことを表現できている気がするのでございます。
まぁ、超能力うんぬんは、20世紀の最後あたりでいろいろございましたから……。
今は割り切って読むのがよろしいかも。
いずれにせよ
堂々とした作品でございます。
石ノ森章太郎先生のファンとしては、『ジュン』の「春の宵」でございますよね~。
『ジュン』という作品は、マンガでこんな表現ができるんだ、
と、当時非常に衝撃を受けたものでございます。
大人になって冷静に読んでみますと、ちゃんと筋があって、
それを追うだけならばそれほどでもなかったりするのでございますが。
感性で読むんだ。そこから広がるイメージをとらえるんだ。
というわけでございますな。
内容的には、全編にわたって桜の花びらが舞い散る中、
桜の精が舞い、屍が現在と過去を結びつけ、そしてすべては桜吹雪となって……。
散る花の美しさと死のイメージ。
桜吹雪の見せる夢幻でございますな。
こういう作品を説明するというのは、難しいものでございますが。
黒澤明監督の『羅生門』や、
梶井基次郎先生のの『櫻の樹の下には』ですとか、
坂口安吾先生の『桜の森の満開の下』など、
イメージの基にあったのかとも思われます。
ちなみに、古本屋さんで買った『COM』誌1968年4月号に
たまたまこの「春の宵」が載っていたのでございますが
(この号には、永井豪先生の『豪ちゃんのふあんたじーわらうど バン』や、
石ノ森先生の「『墨汁一滴』の周辺」という一ページのエッセイも載っておりました)、
雑誌掲載時と朝日ソノラマ版(昭和50年)では、
15ページ目のコマの並びが違っていることはご存じだったでしょうか。
わたくしは、この記事を書くにあたり、両者を見比べてみてはじめて気がつきました。
(「COM」 1968/4)
⇩
(朝日ソノラマ)
とまぁ、こんな感じ。
実は、朝日ソノラマ版の15ページは、2ページ目とまったく同じなのですな。
16ページ目は、桜の花びらが舞い散る中、ジュンの全身像の1枚絵。
両側に余白を残し、少し縦長の画面となっております。
これは1ページ目と同じ絵。
(雑誌のほうは、「RENSAI ⑯/章太郎のファンタジイワールド ジュン/
(春の宵) 石森章太郎 と入ります)
ですから、循環するイメージを狙ったものでございましょう。
いや、はじまり、そして終わる、と言ったたほうが正しいですか……。
とすると、雑誌連載時と本になったものではどちらがいいか……。
流れから、雑誌時のほうが自然かなとも思えますが、
実際に比較してみますと、朝日ソノラマ版のほうが効果的なのでございますな。
目のアップから、ポンと全体を見せるのがリズムになっている。
変えただけのことはある、と思うのでございます。