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2024/11/21 ソニーがKADOKAWAの買収を検討している。交渉は早ければ数週間で決着する可能性も、という話が2~3日前飛びこんでまいりましたな。これが本当でしたら、KADOKAWAのサイバー攻撃直後から話があったのでございましょう。これが成立すると紙媒体が減りそうですなぁ。清濁併せ呑むKADOKAWAの濁の部分が捨てられそうな気も。niconicoなんて過激な書き込みはアウトになって、映画やアーチストのプロモーションに使われそう。コンピュータゲーム界隈も合併・再編で面白くなくなった気がするけど、そうなるんだんだろ……のかなぁ。まぁ、技術のソニーでございますから、サイバー攻撃に対してはかなり信頼度の高いものとなりそうではございますが。
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石森章太郎 昨日はもう来ない 「きのうはもうこない だがあすもまた」
は、映画もしくはロバート・ネイサンの小説
『ジェニーの肖像』を基にした作品にございます。
 
 この作品と『ジェニーの肖像』については、
以下のPDFが参考になりましたので、
興味のある方はお読みになるとよろしゅうございましょう。
 
『ジェニーの肖像』のアダプテーション
─小説から映画、そして日本の少女マンガへ
ローベル 柊子 
 
 https://www.toyo.ac.jp/-/media/Images/Toyo/research/labo-center/ihs/bulletin/kiyou22/22_p47-65.ashx?la=ja-JP&hash=738C0F39DEBFA34691F7C30C58B7447A4397F196
 
 
  
 この作品、
ファンの女の子が遊びに来て、というがあるのが変わっておりますな。
 
 でも、枠のないバージョンもございます。
 サンコミックスの『竜神沼』(ママ)に収録されているものは
枠のないバージョンでございますな。
 (右上と右はその表紙と一ページ目でございます)
 
 石森章太郎 昨日はもう来ない  枠のあるものとないものでは、まず扉絵が違っております。
 それに枠の話のためにいくつかのコマがなくなっておりますし、
第七章に枠の話が1ページ挿入されたため、
その後のページがズレてしまっております。
 
 この2つはどのようにして成立したのでございましょう。
 
 
 「石森章太郎の世界」の作品年表を見ますと
昨日はもう来ない、そして明日も
という作品が1959年にあるのですよね。
 
ですからそれが、外枠のない話かもしれない……
のでございますが、コミックスをあらためて見ますと、
「そして」ではなくて「だが」なんですよね。
 
 それに、この作品リストの他の部分には間違いがあるみたいなので、
ここも間違っているのかも。
 
 ネットで探しても見つかりませんし。
 
 国立国会図書館デジタルコレクションのデータを見ても
よく分かりませんでした。
調べ方が悪かったのか足りなかったか。
 
他の作品でも、リストにあって載っていないものも、
逆にリストに無くて載ってないものもございました。

 
 加えて、1959年に描かれたとすると、そもそも疑問な点が1つ。
 
p.70に主人公の健二さんが現実に負けて描いたマンガがございますが、
その「まだら」何とかが、快傑ハリマオっぽいのでごさいますよね。
 
 ハリマオの連載は、1960年4月から。
1959年の作品で出てくるのはちょっと難しい
 
テレビドラマ(マンガと同時に放映) のマンガ化ですから
企画がそれ以前から動いていて、
キャラクターデザインはすでに出来ていたなども考えられますが──。
(ちなみに、連載開始からしばらくは、
 手塚治虫先生が下描きまでの構成をしていたのだそうでございます)
 
 月刊誌から週刊誌への移行期で、しかも連載。
仕事量はグンと増える。アシスタントも雇わなければならない、
と困難は認識している一方で、やってみたい作品とも
思っていたらしいのでございますよね(『言葉の記憶』p.97)。
そんな作品を開始前からこのような形で採りあげるかどうか──。
 
 一方で、1959年と申しますと、
先生のお姉さまがお亡くなりになられたのが1958年でございますから、
その一年後
 
 その時期にこの作品を描いたというほうが、
もっとあとよりも納得できる気がいたします。

(一方で、この時期にそれを描いたとすれば、
 そのときの気持ちはいかに、と気にもなりますが。
 精神的な強さなのか、それとも作品にすることが
 気持ちの整理や解消に少しはつながったのか、つなげようとしてなのか……)
 
 また、赤塚不二夫先生が、そのころ石ノ森先生にそんな提案をした
という話もあるそうでございますし。
 映画『ジェニーの肖像』の日本公開は、1951年だそうでございますから、
名画座か何かで観たのでしたら時間的に問題ございません。
 小説も訳されたものが出ております。
 
 
 さらに加えますれば、枠の話で石森先生は「だが」にするか「そして」に
するかを迷っております
 
 これは、「そして」という作品があったことを示すものではないか。
そう思うのでございます。
 
 
 それらを総合して考えまするに、個人的な見解ではございますが、
 
 1959年あたりでお描きになったのですが、
そのときはボツになったのではございませんでしょうか。
 
 ボツにされるマンガ家を描いた作品がボツになるとは皮肉でございますが、
SFであり、時間ものであり、
主人公がマンガ家の青年。読者とはかけ離れているなど、
ボツになる理由はあると存じます。
 
 新しすぎる、難解すぎるなどの理由でボツになったという話は、
先生のお書きになった文章に出てまいりますから、可能性はあると存じます。
  
 
 それを締め切りが迫っていたのか、受け容れられる素地が出来てきたのか、
石ノ森先生がどうしても発表したいと思ったのか、
描き直しをし、ページ数の都合からか枠の物語をつけて発表したのでございましょう。
 
 それでバージョンが2つになったのでございましょうな。
 
 枠なしのものは、枠つきに描き直したものから、枠を取っ払ったものなのかも。
 
 どちらかを選ばないとならないとなれば、
ページ数の多い枠付のものを採用するのが当然ですが、
枠のない方が作品としてのまとまりはございます。
 
 両バージョンをと言いたいところでございますが、
似たものを2つも載せると、無駄と思われてしまうでしょうしねぇ。
 
 難しいところでございます。
 
 ただ枠の話を省くだけですので、
枠のない物語は掲載された作品から想像してくださいませ。
 
 
 
 
 さて、解説でも描かれておりますとおり、石ノ森章太郎『ジュン』
この作品、
ジュン』の底流を流れる主題となっております。
 
 この作品では解説でお書きになっているとおり、
イノセンスや姉の記憶でよいかと思われますが、
『ジュン』では異性を含めた未知未知なるものとか、
理想、神秘なるものとか、
広い意味が付加されているように存じます。
 
 そしてそれらは、少女の死に暗示されているとおり、
手に入れることが出来ないものなのかも──しれません。
 
 さらに 「昨日は~」の外枠のセリフ、
時間はどんどん過ぎ去ってしまうというのは、
ジュン』の
やがて秋が来て冬が来る」に連なっております。
 
 作中作で語られる自分の描きたいマンガが石ノ森章太郎『ジュン』
編集部の要請など外部的な理由によって
描けないことについては、
たとえば『続マンガ家入門』のあとがきでも、
マンガ家を目指す読者に対して
だいたい次のような感じでお書きになっておられますな。
 
 
 あなたの世界を10として、
それをすべて理解してくれる人はいない。
理解力0の人、5の人……ごく少数は9まで理解してくれる
人はいるかもしれないけれど、10を理解してくれる人はいない。
 
 そこであなたは
あなたの世界を変えていかざるを得ない。石ノ森章太郎『ジュン』
やがてあなたの世界は、
以前1だけ理解してくれた人にも
理解できるような世界になる。
 
 つまりあなたの世界は
だれもが理解できる世界に変わったというになる。
 
 だれもが楽しく遊べる世界を作ったあなたは、
人気者であり英雄でありその世界の”王さまとなった。
 
 けれども、もはやあなたはその世界では遊べない。
 すでにそれは
アカの他人たちの世界になってしまったから──。
 
 
 
プロの意識が芽生えるというのは、
そういうものを吹っ切ることなのでございましょう。
 
 ただ、その一方で、吹っ切ったあとも、
こうした思いはいつまでも持っていたものではないかと思います。
 

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