2024/11/22 『赤毛のアン』が『アン・シャーリー』というタイトルになって2025年5月。Eテレで放映されるそうでございますな。キャラクターは以前日本アニメーションで製作された『赤毛のアン』をちょっと大人っぽくか、外国人に寄せた感じ。キャラクター原案:近藤喜文となるのかなぁ。基本的な服装などはどうあっても同じ感じになると思うので、あとは高畑勲先生へのリスペクトを表明するかどうかといった話になりましょうな。過去のアニメ作品をリスペクトして作られるってないですよねぇ。しかも小説などが原作としてありつつ。新しくていいと思います。
さて、『龍神沼』。
サンコミックス(朝日ソノラマ)版では、
タイトルの「龍」が「竜」になっていた
(そのため「竜」のタイトルでこの作品を語る方もいる)。
「龍」の字が難しいと判断されたのだろうが、
その割に本文中では「龍」表記になっているから、
ぱっと見た場合や目録などに載せる場合、
字がつぶれて見えなくならないようにという
配慮なのかもしれない。
タイトルの「龍」が「竜」になっていた
(そのため「竜」のタイトルでこの作品を語る方もいる)。
「龍」の字が難しいと判断されたのだろうが、
その割に本文中では「龍」表記になっているから、
ぱっと見た場合や目録などに載せる場合、
字がつぶれて見えなくならないようにという
配慮なのかもしれない。
この作品、先生も『自画自賛」(『言葉の記』p.98)
するほど気に入っている作品のようだ。
初期の代表作として衆目の一致するところだろう。
するほど気に入っている作品のようだ。
初期の代表作として衆目の一致するところだろう。
『少年のためのマンガ家入門』(秋田書店/1965/8)では、
この作品が丁寧に解説されているのを知っている人も多いかと思う。
その解説の冒頭で、先生はお書きになっている。
「このマンガは、雑誌に発表されたのは、かなりあとになってからですが、
僕がマンガ家になる前に考えておいたものです。
僕がマンガ家になる前に考えておいたものです。
ほんとうは、もっと長い物語で、社会風刺や活劇場面もはいっていました。
しかし、ここては発表した雑誌(少女クラブ)の関係もあって、
ファンタジックな詩情だけを前面におしだし、
活劇やその他のものは一切はぶきました。」(p.76)
しかし、ここては発表した雑誌(少女クラブ)の関係もあって、
ファンタジックな詩情だけを前面におしだし、
活劇やその他のものは一切はぶきました。」(p.76)
藤子不二雄先生の『まんが道』にあった、
手塚治虫先生の『来たるべき世界』のエピソードを思い起こさせる話だ。
手塚治虫先生の『来たるべき世界』のエピソードを思い起こさせる話だ。
方向性を一にして濃縮したからこそ良い作品となったのだろう。
加えて、取捨選択の才もあったということだ。
加えて、取捨選択の才もあったということだ。
社会風刺や活劇など、省いたものは他の作品に回されたと考えていい。
作中に登場する神主と村長のようなキャラクターは、
姿を変えて他の作品でも登場する。
姿を変えて他の作品でも登場する。
『石ノ森章太郎コレクション』の解説では、
時間がない中この作品が描かれたことが強調されていたが、
作画的にはともかく、設定やストーリーはさほど時間がかからなかったと思われる。
時間がない中この作品が描かれたことが強調されていたが、
作画的にはともかく、設定やストーリーはさほど時間がかからなかったと思われる。
前々から考えていた作品でもあることだし、
1957年には「龍神沼の少女」という10ページほどの作品を描いている。
ページ数が少なくて失敗だったということだが、
思い入れのある作品が失敗したことで、捲土重来を考えていたのではないか。
ページ数が少なくて失敗だったということだが、
思い入れのある作品が失敗したことで、捲土重来を考えていたのではないか。
加えて、この作品は臨時増刊号に載った作品だ。
サンコミックス版の前書きによると、
夏冬2回の臨時増刊号では好きな作品を描かせてもらえることになっていた、
そうだ。「龍神沼」もそれに当たる。
おさらく重点的に前々から準備をしていただろう。
夏冬2回の臨時増刊号では好きな作品を描かせてもらえることになっていた、
そうだ。「龍神沼」もそれに当たる。
おさらく重点的に前々から準備をしていただろう。
これらの理由から、作画のための時間はなかったかも知れないが、
物語は十分に練られていたはずだと考えられる。
時間の無さを奇跡のように扱うこともないだろう。
物語は十分に練られていたはずだと考えられる。
時間の無さを奇跡のように扱うこともないだろう。
主人公は東京から龍神祭を見に村にやって来た研一という少年。
物語は、彼が村にやって来たところで始まり、去って行くことで終わる。
外部のものが共同体内に入ることで、その共同体が抱える問題が解決し、
解決したことでその来訪者は去って行く、
というのは、神話の時代からある物語の一つの典型だが、
『二級天使』やヒーローものをはじめとして、石ノ森先生の作品にはそれが多い。
解決したことでその来訪者は去って行く、
というのは、神話の時代からある物語の一つの典型だが、
『二級天使』やヒーローものをはじめとして、石ノ森先生の作品にはそれが多い。
それが主人公に傍観者的な側面と、孤独を付け加えている。
石ノ森先生がジャーナリストを志していたということもあるだろうが、
それ以前に性格的なものがあるのだろう。
『石ノ森章太郎コレクション』全体を紹介したとき、
そのまんま映画にしてもおかしくないと書いたが、
この作品については、映画のほうが原作より劣るものになるかもしれない。
そのまんま映画にしてもおかしくないと書いたが、
この作品については、映画のほうが原作より劣るものになるかもしれない。
クライマックスの顕現する龍。
これが映画では難しいと思うのだ。
実写で幻想的に描くこと自体が難しいし、
これを動かすとなるとシーンが格段に難しくなる。
やはりここは、一枚絵の魅力というところだろう。
この作品、先ほども書いたとおり
『マンガ家入門』において、詳しい説明がなされている。
『マンガ家入門』において、詳しい説明がなされている。
石ノ森先生がいかに映画を研究し、
それをまんがに活かしたかがよく分かる解説だ。
それをまんがに活かしたかがよく分かる解説だ。
それらの解説、特にシンボライズなどの技法について、
『石ノ森章太郎論』山田夏樹著(青弓社/2016/11)では、次のように書かれていた。
『石ノ森章太郎論』山田夏樹著(青弓社/2016/11)では、次のように書かれていた。
まずは、泉政文氏の文章からの引用。
「『残念ながらおそらく石森が意図したとおりに辿り着いた読者は、
ごく一部にしか過ぎないだろう』
ごく一部にしか過ぎないだろう』
(……)。
石ノ森自身は、そうした「風景」によって登場人物の「内面」を表現した解説するが、
泉は単純に森の風景、祭の風景としても”通じる」
ためにその意図した効果に疑問を呈している。
石ノ森自身は、そうした「風景」によって登場人物の「内面」を表現した解説するが、
泉は単純に森の風景、祭の風景としても”通じる」
ためにその意図した効果に疑問を呈している。
さらに伊藤比呂美氏の評価。
『龍神沼』、『ジュン』に対して。
『マンガ家入門』を読んだ時はすごいと思ったけれど、
「季節はわりとあたりまえにその季節感を表わす風物をマンガにうつしとり」
「心理は、連想したものを季節や背景に組み入れたもの」
「まるでナニナニのような、
という直喩を使いまくって文章を作るもたつきを感じた」と否定したあと、
「季節はわりとあたりまえにその季節感を表わす風物をマンガにうつしとり」
「心理は、連想したものを季節や背景に組み入れたもの」
「まるでナニナニのような、
という直喩を使いまくって文章を作るもたつきを感じた」と否定したあと、
『佐武と市捕物控』が
「あたりまえな連想や映像の方法に寄りかかる方法は(略)見られなくなってきた」
「あたりまえな連想や映像の方法に寄りかかる方法は(略)見られなくなってきた」
と結ぶ。
これらの批評を紹介したあと、山田夏樹氏は、
『マンガ家入門』では「風景が内面を作り出す」と書かれているが、
この『マンガ家入門』を書き、表現を言語化し体系化することで
「内面が風景を作り出す」ことを発見した。
「内面が風景を作り出す」ことを発見した。
とまとめている。
自分には、これらは評論につきもののうがった見方に感じられる。
まず、比喩的表見についての伊藤比呂美氏の批判は、
この手法を使った映画にも当てはまるものだ。
この手法を使った映画にも当てはまるものだ。
『映像のリテラシー』Ⅰ( p.177)には次のように書かれている。
こうした比喩的な対照は独創的なものといえるが、
この種の編集の大きな問題点は、見え透いていすぎること、
もしくは理解できないほど不明瞭なものになりやすいことである。
(中略)
映画ではこの種の(文学に見られるような)比喩的な工夫はもっと難しい。
編集することで多くの比喩的対照を生み出すことは出来るが、
それらが文学においてとまったく同じように機能するわけではない。
エイゼンシュタインの衝突モンタージュ理論は、
主としてアヴァンギャルド映画やミュージックビデオ、
テレビコマーシャルにおいて探求されている。
フィクション映画の監督の多くは、
彼の理論は押しつけがましく高圧的すぎると考えているのである。
もしくは理解できないほど不明瞭なものになりやすいことである。
(中略)
映画ではこの種の(文学に見られるような)比喩的な工夫はもっと難しい。
編集することで多くの比喩的対照を生み出すことは出来るが、
それらが文学においてとまったく同じように機能するわけではない。
エイゼンシュタインの衝突モンタージュ理論は、
主としてアヴァンギャルド映画やミュージックビデオ、
テレビコマーシャルにおいて探求されている。
フィクション映画の監督の多くは、
彼の理論は押しつけがましく高圧的すぎると考えているのである。
映像による比喩表現は、当時は新しい手法でもあり、
作家性も高いため、当時の石ノ森先生が感銘を受け、
自作にも素直に貪欲に取り入れたのだろう。
作家性も高いため、当時の石ノ森先生が感銘を受け、
自作にも素直に貪欲に取り入れたのだろう。
それも「竜神沼」が叙情性を前面に打ち出した作品だからこそ
ふさわしいと思って使ったのだろうし、
『ジュン』についてもアヴァンギャルドな作品だからこそ、
これらの手法が使われたのだ。
それ以外の作品では、それが前面に出されることはない
だが『佐武と市』などの作品にしても、風景の中に巧みに取り込まれていると思う。
だが『佐武と市』などの作品にしても、風景の中に巧みに取り込まれていると思う。
さらに言えば、『石ノ森章太郎論』では、
シンボライズだけがことさらに取り上げられているが、
『マンガ家入門』ではそれだけを強調しているのではない。
風景、効果線、カケアミ、白黒の比率など、
シンボライズだけがことさらに取り上げられているが、
『マンガ家入門』ではそれだけを強調しているのではない。
風景、効果線、カケアミ、白黒の比率など、
背景によって心理を表現するものの一つとして、この手法が取り上げられているのだ。
シンボライズについては
p.108上の段の3コマを
蜘蛛の巣にかかったチョウ=少女に対する疑問と魅惑の虜になった少年の心理
ひとりぼっちのカブトムシ=少年の孤独、静寂。
花=少女のイメージ
としたり、
p.116の神楽舞を少女の嫉妬
としているのは、
確かに読み取れない。
ただ、作者の意図がどこにあるのかにかかわらず、
p.108では、前のコマの少年の呼びかけに対して
何も応えることのない森の静寂を感じることは出来るし、
p.116では、激しい感情を感じ取ることが出来る。
p.108では、前のコマの少年の呼びかけに対して
何も応えることのない森の静寂を感じることは出来るし、
p.116では、激しい感情を感じ取ることが出来る。
作者の意図が伝わらなくてもそれが伝わればいい
──むしろ、解説どおりに伝わるよりも、
そんななんとなくの雰囲気だけが伝わった方がいい部分だと私には思える。
──むしろ、解説どおりに伝わるよりも、
そんななんとなくの雰囲気だけが伝わった方がいい部分だと私には思える。
解説として言語化したためにあのように書いてはいるものの、
石ノ森先生も描くときは雰囲気で書いていたのではないだろうか?
さらに言えば、
ここは小ゴマで違う絵をポンポンと差しはさんでいること自体に意味がある。
それによって目新しさとテンポが生まれるからだ。
この場面、こういう挿入がなくて話は通じる。
だが、他と同じようなコマが続いたら単調なものになってしまったことだろう。
それほどの静寂も、ドラマチックな緊張感も伝わらなかったはずだ。
そう言う意味でもこのコマたちには意味があるのだ。
そもそも、こうした批判は『マンガ家入門』の解説ありきのものと言っていい。
この本で、一つ一つのコマを取り上げ、それについて解説するから、
それは伝わらない、あからさますぎるという論が発生する。
それは伝わらない、あからさますぎるという論が発生する。
だが、解説なしで読めば、それらはそんなに気にならない箇所ではないだろうか。
マンガを読む場合、登場人物の言動は印象に残るが、
物語に直接関わりのない背景だけが描かれたコマなど、
サッサと通り過ぎてしまうものだ。
映画なら監督が時間を決めることが出来るが、
それすらも読者に委ねられているマンガの場合、
そのようなコマに費やす時間はほんの一瞬だろう。
では必要ないものではないかというと、それも違う。
効果線や白黒の比率も含め、背景に対する手法を工夫することで、
他とは一線を画す画面となるし、
効果線や白黒の比率も含め、背景に対する手法を工夫することで、
他とは一線を画す画面となるし、
作品が持つ雰囲気もより読者に伝わるはず。
つまり、より一層深い作品となる。
そのためにこそこれらは、作品において不要ではないのだ。
「風景が内面を作り出す」が、
『マンガ家入門』で書表現を言語化し体系化したことで
「内面が風景を作り出す」ことを発見した、
という山田夏樹氏の説は、言葉のあやのような気がする。
『マンガ家入門』で書表現を言語化し体系化したことで
「内面が風景を作り出す」ことを発見した、
という山田夏樹氏の説は、言葉のあやのような気がする。
背景が心理を表現するためには、心理がそのような状態でなければならない。
背景によって内面を語ることと内面が背景を作り出すことは、
作家の中では同時に行われていることだ。
作家の中では同時に行われていることだ。
(山田氏は泉氏の言葉を引いて「風景」という言葉を使っているが、
石ノ森先生の書いたのは効果線や白黒の比率なども含めた
背景についてである。そこに見解の相違が生じたのかもしれない)
風景→心理から心理→風景の変化という、山田氏の説は、
次の章で主人公たちの心理について書くためのブリッジとしての説なのではないか。
次の章で主人公たちの心理について書くためのブリッジとしての説なのではないか。
言葉として書くことによって認識を新たにした部分はあるかもしれないが、
石ノ森先生の姿勢はそれほど変わっていないように思える。
石ノ森先生の姿勢はそれほど変わっていないように思える。
以降の作品で比喩的な手法が影を潜めたのはそのためではない。
映画の場合で見たように、この手法がジャンルを選ぶものであること、
当時は目新しかったがその後あまり見られなくなったものであること、
それに石ノ森先生が自信のマンガのスタイルを確立したこともあるのだろう。
当時は目新しかったがその後あまり見られなくなったものであること、
それに石ノ森先生が自信のマンガのスタイルを確立したこともあるのだろう。
あまり見られなくなったのはそのためだと思われるし、
シンボライズの手法は背景による心理描写の一部に過ぎない。
先ほど書いたとおり、
その後の作品ではこれらは背景の中に巧みに溶け込ませているものと思われる。
後の作品ほど洗練・進化をするのは当然だろう。
だが、だからこそ、この時代の石ノ森作品が私は好きだ。
プロとして手法が確立した後の作品は、その辺割り切っている部分もあるし、
流れで書いているところも見受けられる。
流れで書いているところも見受けられる。
それに対して初期の作品は、まだその方法論が確立されていない。
そのため、映画の手法をもってマンガに新しい風を吹き込もうという
情熱が感じられるし、内容も濃い。
情熱が感じられるし、内容も濃い。
それがこれらの作品に、生き生きとした力を与えているように思うのだ。
☆ さてさて。
ところでこの作品、
イメージのヒントとなったと思われる詩が作中に出てまいります。
主人公の研一さんが口ずさむ
「茂りし村の奧深く 黒く声なく沼は眠れり」という一節でございますな。
「茂りし村の奧深く 黒く声なく沼は眠れり」という一節でございますな。
これ、ベェルレェヌの詩と言っておりますが、
実際には、ピエエル・ゴオチェの「沼」という詩なのだとか。
「茂りし村」も間違いで、「茂りし林」が正しいのだそうでございます。
実際には、ピエエル・ゴオチェの「沼」という詩なのだとか。
「茂りし村」も間違いで、「茂りし林」が正しいのだそうでございます。
確かに村が茂るという表現は変ですよねぇ。
「村」と「林」でございますから、
石ノ森先生の字が雑で読み間違えられちゃった可能性がございますな。
石ノ森先生の字が雑で読み間違えられちゃった可能性がございますな。
それはそれとして、
ポール・ヴェルレーヌ作と勘違いしていたというのは分かる気がいたします。
なんか、そんな雰囲気の詩ですものな。
そして勘違いしたということは、記憶で書いているということ。
作者を間違えて覚えていたというものの、お気に入りの詩だったのでございましょう。
《追記》
その後、「龍神沼」関連でいくつか見つかりました。
この記事の中心と関係はございませんから、
読んでくださいというものではございません。
単独で読める記事でございます。
もしよろしければ、ごらんくださいませ。
(→)『龍神沼」補遺
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