「『キャプテン・フューチャー』の日本への影響(1)」の続きでございます。
というわけで次に、
アニメやマンガの世界に目を移すことにいたしましょう。
『レインボー戦隊ロビン』でございます。
スタジオ=ゼロ原作 風田朗(大都社/昭和54年7月)
――ちなみに、風田朗(かぜたろう)は鈴木伸一先生のペンネームですが、
ここではスタジオ・ゼロ(藤子不二雄・石森章太郎・鈴木伸一・長谷邦夫)
の先生の合作ペンネームとして使われております――
によりますと、
安孫子素雄先生は、『七人の侍』、藤本弘先生は『八犬伝』などと
申しておりますが、石森先生ははっきりと、
「あれにはネタ本があるんだよ。
『キャプテン・フューチャー』というね……」(p.201)と、
おっしゃっております。
で、その石森先生が原型を作っておられるのですから、
影響は間違いのないところでございますな。
○教授…… サイモン・ライト
○ベンケイ……グラッグ
○ウルフ…… オットー
(マンガ版では見せませんでしたが、アニメではウルフは
一般人になって行動する
変身能力があるようです(←ウィキペディア))
○ペガサス……コメット号
索敵担当のレーダー(アニメではネコ型のロボット・ベル)と
看護ロボットのリリがおります。
情報収集を女性キャラクターにしなかったのは、
『サイボーグ009』の003とカブってしまうからかも知れませんな。
『レインボー戦隊ロビン』で
『キャプテン・フューチャー』に言及しているのなら、
その数年前に連載開始された『サイボーグ009』1964年~
にも、当然のごとくその影響はございます。
初めて取り上げられたのが、「SFマガジン」誌1963年11月の
「SF英雄群像」第三回目(野田昌宏)でございますから、
1964年の中ほどに『少年キング』で連載が開始されたということは、
「SF英雄群像」を読んですぐぐらいということになりましょうか。
もっとも、サイボーグという言葉は、「LIFE」の記事から取った
と本人がお書きになっておりますから、洋書に目を通していて
『キャプテン・フューチャー』のことは当然知っていたでしょうし、
決断は早い方でしょうから、
時期的に早すぎる、ということはございませんでしょう。
というわけで、『サイボーグ009』のキャラクターの配置でございますが、
『レインボー戦隊』とくらべて、むしろこちらの方がわかりやすい。
○005……グラッグ
○007……オットー
○009……キャプテン・フューチャー
○006……地中
○008……水中
と、どんな状況にも対応できるようにして、
○003……索敵・情報収集
○004……攻撃
この2人は、もしかすると宇宙船コメットの能力を、
いずれにいたしましても、巨大な敵と直面するためには、
両方とも必要な能力でございますな。
サイボーグ戦士の能力だと思いますが、
その結果、006や特に008あたりがあまり活躍できない結果になっておりますな。
主要登場人物も、それ以上になると影が薄くなるのだとか。
(……)私たち専門家は「マジカルナンバー7」と呼んでいます。映画やドラマ、物語に出てくる登場人物もたいてい七人以内に押さえられているでしょう。それ以上になると人間の頭が混乱してしまう。瞬時に把握できるのが七個までなんですね。そこには個人差はない。
『経験を盗め』糸井重里(2002/7 中央公論新社)
「記憶のお話」 糸井重里×池谷裕二×樋口清美
名前からして明らかに「007」シリーズの影響を受けていると思われますのに、
石ノ森先生は、野球から思いついた、とお書きになっておられますな。
これは、後づけで無難なことを書いておられると思われるのでございますが、
ただ、役割分担という点は、野球からヒントを得たのかもーー。
「007」シリーズはチームで行動とか、
00ナンバー間の役割分担は、あまりございませんからなぁ。
……。
『スパイ大作戦』(1966年~)にはございましたが、時期的にはあとですし……。
まぁ、作品のヒントやそれを描いた動機などは、
わかりやすくひとつに決まるということは、まずないものでございます。
というわけで、アイデアを形にするまでには、
いくつかの発想の源があったのでございましょう。
さて、もうひとつ
やはり『キャプテン・フューチャー』の影響を受けた
と思われる日本のマンガがございます。
○コンピューター……サイモン・ライト
○ロデム……オットー
○ポセイドン……グラッグ
○ロプロス……コメット号
『鉄人28号』の作者らしく巨大化したロボット・ポセイドンや、
正体はロボットらしいのですが、翼竜となったロプロスなど、
元が『キャプテン・フューチャー』だとは、
ちょっとわかりにくいですな(この仮説があっていたとしてでございますが)。
機能だけを引用してそれ以上の要素は取り込まない。
性格やその他の設定は自分で用意することによって、自分のものにしてしまう。
パロディやマネになってしまうのですが、
一流の作家の方々は、そういうことなしに、
完全に自分のキャラクター、自分のストーリーにしてしまうところが、
さすがなのでございますな。
「『仮面ライダー』はなぜバッタ男か」のところでも書きましたが、
ほとんどの人が気づかない形で自分のものにしてしまう……。
一流の方は、この能力が本当に高いと思うのでございます。
「ドラゴンマガジン」の創刊号(1988/3 富士見書房)を読んでいたら、
当時週刊少年マガジンで『バリバリ伝説』を連載中だったしげの秀一先生が、
「メカこそ男のファンタジー」というタイトルで、エッセーを書いておりました(p.39)。
「近頃は愛車トレノのチューニングに夢中で、
エンジンや足回りを改造して夜中のワインディングロードを走りに出かけます。
腕のほうはイマイチだけど気分だけはWRCで、
ドリフト状態でガードレールすれすれに立ち上がれた時なんかは、
我ながらヤルなーなんて、一人で悦に入っていたりもします。
とにかく一度でもチューニングカーを運転する楽しさを知ってしまったら、
もう二度と普通のクルマに乗れないカラダに……なってしまいました。」
とか。
で、そんなしげの先生が、当時描きたかったのが、
ホンダのF1エンジンを開発したスタッフが
第二次大戦中にタイムスリップする話だそうでございます。
敗戦の色が見えてきた時代、零戦のエンジンを、
チタニウムやセラミックといった現代(当時の未来)の素材も使って
チューンナップし、そのスーパーゼロでムスタングを次々と撃墜していくという……。
描かなかった理由はわかりませんが、
もしかすると、そんなマンガを描いていたかも知れないのですな。
ーーでも、これって、ランキング日別だったみたい。
また28922 位 / 28922 ブログ、とかに戻っちゃったよーー
まぁ、それはともかくとして、
『三つの球』
(虫プロ 石森章太郎選集 第14巻/昭和45年2月)。
初出 「少女クラブ」昭和33年4月号~昭和34年3月。
異論反論ございましょう。
が、わたくし的なので、そういうのは関係ございません!
その理由も著者によれば「人気が無かったから」。
それに初期の少女マンガでございますから、
シャープでシリアスな画風が好きな方のなかには、
眼中の外とおっしゃる方もおられましょう。
天狗や滝つぼの精は出てまいりますし、
酒呑童子やハカマダレ、牛若丸と、時代の特定も出来ません。
まぁ、ファンタジーと申しますか、おとぎ話的な平安時代ですな。
東映動画あたりの長編マンガ映画を思わせるもの。
歌あり笑いあり、ドラマあり、映画的な演出も凝っております。
その罪の報いとして、コウモリに姿を変えられてしまいます。
そんな弟を元の姿に戻すため、天女美雪は、
彼女に想いを寄せる天平とともに、三つの珠を探すために下界に降りるのですが――。
天界でのいたずらの結果を解消するため、というのは、
『リボンの騎士』(少女クラブ版昭和28年~昭和31年)が
頭にあったのかもしれませんな。
「この『三つの珠』だけは、(……)終わりまでちゃんと描きたかった。
それだけの構想と情熱を持って始め、途中で終わらせられるまで、
それは続いていた。」
とお書きになっております。
じっさい、本当に描きたかった作品なのでございましょう。
民話的な世界観での少年少女の冒険というのは、
当時の石ノ森先生の資質に最も合っていたように存じます。
『構想と情熱』とお書きになっておられるように、構成にも凝っております。
主人公の美雪は、当初天界での記憶を持っておりません。
下界の暮らしに慣れるようにと、赤ん坊の姿で地上に降ろされ、
天平とは違う場所で過ごすのでございますな。
美雪はヨヒョウとツウの夫婦に育てられ、
天平は遮那王(牛若丸)とともに、天狗に育てられ……、
そのことがドラマを作っていくのでございます。
そんなわけで、物語の軸は、
三つの珠の探索と牛若丸ーー源義経でございますなーーの物語を軸に、
さまざまな民話や物語を織り込みながら展開していく……
はずだったのでしょうが、
酒呑童子の手から弁慶(天平だが、記憶をなくしている)が取り戻したものの、
美雪はだれがそれを持っているのかを知らない……、
というあたりで「第一部完」となっております。
予想でございますが、義経の物語に沿っていくといたしますれば、
「壇ノ浦」あたりで「青の珠」を取り戻して、「第二部終了」、
平泉で「黄金の珠」を取り戻し、弁慶の立ち往生とともに天界へ戻る、
というような話の流れだったのではないでしょうか。
奥州あたりは石ノ森先生の故郷でございますから、
そこをクライマックスに持ってくるからには、
いろいろと描きたいことがあったのでは、と想像されます。
おそらくそれは、叶わぬ夢だったことは、容易に想像できますな。
絵のタッチや、物語の作風が変わってしまったという、
作者由来の理由もございましょう。
加えて、少年・少女マンガというもの自体の変化ということもございます。
この作品が描かれた当時、少年マンガと言えば、児童を対象としたものでございました
ですが、月刊誌の時代が終わり、週刊誌が主流になるにつれて、
その対象年齢は、じょじょに、いや急速にかな? 上がっていったのでございますもの。
このようなマンガの出る幕は、なくなっていたのでございます。
短編はともかくとして、長編は特にーー。
平安朝を舞台にしたTRPGとだけ聞いて、
ものすごーく期待してしまったのでございますが、
その後の特集でまったく違ったのを知り、ガッカリしたのを覚えております。
民話や伝説を多数取り込んだ、
少年少女の冒険のための和風ファンタジーTRPG……。
誰か作ってくださいませんかねぇ。
時代は、やはり大まかな平安時代がよろしゅうございましょう。
江戸時代だと、手垢がついていると申しますか、自由度が低い気がいたしますので……。
《追記》
その後、いくつか見つかりましたので、補遺として記事にいたしました。
石森(当時)章太郎
(講談社コミックス/昭和46年5月1刷/昭和51年2月3刷)
を買ったら、そのラスト部分が乱丁だったことを思い出しました。
お読みになった方ならご存じでしょう。
石ノ森先生が、『2001年宇宙の旅』のラストに触発され、
『ジュン』などで培った実験的なコマ割り駆使してお描きになった、
神との対話シーンでございます。
観念の奔流のようなカットの連続で、
順序が違っていたとしても、実験的な意図があるのかな、と思うほど。
でも、読んでみて、なんかおかしい……。
(↑ この辺。 飛び飛びですが流れは左から右でーー)
画面いっぱいに描かれたコマでございますから、ページ数などはわかりません。
結局さんざん首をひねった後、本屋さんに行って別のものと交換していただきました。
でも、今にして……と申しますか、
交換してもらったあと思ったのでございますが、
その本はそのまま取っておいて、新しいのを一冊買えばよかった……。
乱丁自体が珍しいですし、
この本のこの箇所がーーというのは、ネタとしても面白いですものな。
もっともらしくもいい加減な仮説を書いてみたいと思います。
さて、
ですが、石ノ森章太郎先生は、『スカルマン』――ドクロの仮面ですな――
を推していたのに、それがなぜバッタの怪人になったのでございましょうか?
スポンサー受けが悪いなどの理由で、ドクロが否定されたのは分かっております。
でも、なぜバッタ?
だいたい、あのマスクを見て、バッタと思う方は少ないですよね。
あの目の大きさを見たら、トンボあたりと思うのが普通なのではないでしょうか。
では、それでもなぜバッタなのか。
それには、こんな理由があったのだと思うのでございます。
一流かつ多作の先生のことでございますから、
いくつものアイデアが出てきたと思いますが、
その中に次のようなものがあったのではございませんでしょうか。
『黄金バット』がございますな。
当然石ノ森先生もご存じのはずでございます。
(ご存じでした。
『テレビ小僧』の中に、先生のお描きになる黄金バットを発見いたしました)
で、
黄金バット、バット、バット……。
バットマン……。じゃ、まずいなぁ……。
バット、バット、バット。
バッタ。
バッタ男。
てなわけで、ドクロ男がバッタ男になったのではございませんでしょうか?
「超能力」→「チョウ能力」と、サナギから蝶に変身する『イナズマン』を、
「機械」→「奇怪」で、左右非対称な『キカイダー』と
(このあたりは、原作マンガの中でほのめかされておりますな)、
地口から発想することも多い方でございます。
ですから、「バットマン」から「バッタ男」が出てきても何の不思議はないかと……。
実際、と申しますか、
原作の『仮面ライダー』には、『バットマン』由来と思われる設定がございます。
大邸宅に住み、忠実な老執事がいるですとか、地下に研究所を持っているですとか。
TVシリーズの本郷猛さんにはそんな環境にいないことからも分かるとおり、
これらは『仮面ライダー』と分かちがたい設定というわけではございますまい。
ゴシックな感じがホラーテイストに合うとか、
研究所の存在意図も作中で述べられておるとは申せ、でございます。
さらに申せば、
もしかするとテレビシリーズの1話と2話が、『蜘蛛男』と『蝙蝠男』なのも、
『スパイダーマン』や『バットマン』への対抗意識なのかもしれません。
(『蜘蛛男』が江戸川乱歩先生の著作にあるとしても、
それを掛け合わせて、ということは考えられることでございます)
「サソリ男」はそうではないようでございますから、
そのあたりから考えてみましても……。
むろん石ノ森先生は、アメコミを
読んでいらっしゃったでしょう。
ですから、そうした対抗意識や引用は
抜きにしても、あるかもしれません。
いう方もおられるかもしれませんが、
ほとんどの人が気づかない
こういうものは、パクリではなくて
アレンジ力というものでございます。
ましょうが、一流のプロ方は、
こういうのが本当にうまい。
してしまうわけですな。
単なるパロディにしかならないので
ございますが。
☆ 2018/08/30 追記
「宇宙船」vol.26 p.78「特撮研究 仮面ライダー」を読んでいたら、
「第一話の蜘蛛男のデザインも『十字仮面』の時点でまとまっている」
という記述が――。
そうなると、蜘蛛男がスパイダーマンという説は、弱くなるかも……。
やっぱり異説は難しい。
『少女・ネム①』
作:カリブ・マーレィ 画:木崎ひろすけ(ASCII COMIX/1997/1)
a-Tooでたまたま見つけたので買いましたよ~。
まさか、あるとは思わなかったので、探していませんが、偶然見つけちゃったよ。
天才的なマンガの才能を持ちながら、それを発表できないでいる
繊細で引っ込み思案な少女の話。
どれぐらい似た存在なのだろうとか思ってしまうぐらいに……。
荒れた生活に嫌気がさして故郷に帰ってきた(元)マンガ家、木村ゴローと、
ネムの絵をすごいと感じて、アシスタントに欲しいと思っている人気マンガ家
(でも、ネムの居場所を知らない)、伊藤れい子、
という人物の配置もいい。
(木村さん)
……。
のですが、作品内容については、そのあたりでやめておきましょう。
なんかね、あとがきマンガで、
☆ ちなみに、「みかん」でございます。
2巻というのはございません。
(「連載中」の広告があるので、このあとちょっと続いたみたいですが)
このような投稿がございました。
もっとも、わたくしは「ゲームブックマガジン」は持っていないので、
まご引き、いやまごまご引きかな、ではございますが。
あの『火吹山の魔法使い』に出てくるミノタウロスのイラストに惹かれたからです。
社会思想社のゲームブックシリーズのイラストはとてもいいと思います。
特に好きなのは『火吹山の魔法使い』、『盗賊都市』、
そして『死のワナの地下迷宮』です。すばらしいと思います。
スクリーントーンや定規などいっさい使わない、
ウスズミなどはもってのほかのち密なペン画に魅力を感じます。」(……)
(愛知県 PN 薄羽かげろう 20才)
このミノさんが、
どうやったらここ
につながるの~?
と首をかしげたくなる
ところでございますが、
養分の一つということで
ございましょう。
「スクリーントーン」以下の文は、まさに、御自身の作風を表しておりますな。
藤子・F・不二雄大全集
藤子・F・不二雄
藤子不二雄(A) 著
小学館 2009/7
オ~ボケなんだ
オ~ボケなんだ
オ~ボケなんだけれど~
というわけで買ってまいりましたよ~。
藤子・F・不二雄大全集版の
『オバケのQ太郎』[1]。
編集方式が読者に優しいですな。
掲載誌別。
しかも学年誌に関しては、
小学生のころ自分の読んだところだけ読めるようにと、
学年繰り上がり方式を採用しているのだそうで。
まっ、その方式はともかくとして、 ご主人さまは、
少年サンデー版だけ読みたかったので、
この配慮は大変うれしかったとのこと。
『オバケのQ太郎』は、
読んだこと、もしくは見たことがある方ならわかると思いますが、
『ドラえもん』とは全く異なります。
『ドラえもん』が、基本的に
のび太がボケ、ドラえもんがツッコミなのに対し、
『オバケのQ太郎』は、
オバQがボケで、正太がツッコミですかな、役割としては。
ドラえもんは友達であるとともに保護者的な部分も持ち合わせておりますが、
オバQと正太の関係は対等…。
そのため、
ドラえもんに比べオバQの方が、
独立独歩な感じがいたします。
あと申すまでもございませんが、
のび太は消極的で正太は積極的。
オバQは、
失敗してもあまり気にしない、
憎めないおおらかさがございますな。
人物構成について申しますれば、
あとからできた『ドラえもん』の方がまとまっておりますな。
オバQの方は、最初からいるのはゴジラぐらい。
あとの友達は固定されていないのですな。
友達との関わりの重要性と申すのは、
この作品などで徐々に気づき始めたのでございましょう。
作品的には、このあたり、
まとまっていなくて、と申したらよろしいでしょうか?
けっこう楽しい。
コロコロコミックに載ったものなども読んでみたのでございますが、
あとで描かれた作品は、
コマ割りも『ドラえもん』のように落ち着いて、
キャラクターも安定している分、
作品的にも落ち着いた感がするのでございますな。
その点、このあたりは、
まだまとまりがなくて、
破天荒な感じがいいのでございます。
特に、「初期9作品」と書かれている、
連載が一度打ち切られる前の作品が、
それ以降の作品と違って面白い。
『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画史』
(藤子不二雄 文春文庫 1980/9 初出:昭和52年)によりますと、
p.232 スタゼロ雑誌部としては少年マガジンの『わかとの』で手がいっぱいだったので、今度はやむなく藤子不二雄個人で描くことにした。別に個人名義にしたからというわけではないが、再開後の『オバQ』は前回にくらべて丁寧に描いた。
とありますから、つまり
その前は「藤子不二雄とスタジオゼロ」名義だったというわけでございますな。
その「~スタジオゼロ」名義のあたりが、その後の『オバQ』とは違うのでございます。
当時「週刊少年サンデー」誌は、
赤塚不二夫先生の『おそ松くん』がギャグの看板として存在していたのだそうですが、
連載再開後はその、
「奇人変人・狂童怪童が入り乱れてのナンセンスな大混戦のオカシサ」や、
「奇抜な言葉とギャグを機関銃のように乱射する」
といった特徴を意識し、それに対して、
「普通の子供たち」と「ごく日常的な事件」、
「ふつうの言葉をしゃべり、ギャグにしたってノンビリ、オットリムード」
にしたのだそうでございます。
「赤塚不二夫と藤子不二雄との個性、本質の違いからくるものだが、
これなら両立、共存はできる……と思った。」(以上p.232-233)
ということで。
逆に申しますと、連載再開前のほうは、
『おそ松くん』に影響されて藤子作品らしくないドタバタな感じになってしまった、
ということなのでございましょうな。
実際、それ以降の『オバQ』では見られないスラップスティックなギャグがあったりいたします。
でも、それがいいのでございます。
と申しますか、このあたり、スタジオゼロ作品ということで、
かなりそのメンバーの手が入っていたのではないかと思うのでございます。
特に2話の石ノ森章太郎先生の当時の自画キャラがたくさん出てくる
「まとめてめんどうみてよ!!」は、
(同じキャラクターが何人も出てくるというところが
『おそ松くん』に影響されたのかもという気がするのはともかくとして)
アイデア・作画ともにかなり石ノ森先生が加わっているのではないか
と思うのでございます。
だいたい1話が完成したのは、 「〆切りギリギリ」(p.230)だったそうですし、
週刊連載でございますからな、
2話目もかなり切羽詰った状況で描かれたもの だと、
想像に難(かた)くはございませぬ。
ですから、手の早い石ノ森先生が多くかかわったということは、充分に考えられることでございます。
また、
「この仕事を僕たちは、スタゼロ雑誌部のためのピンチヒッターと思っていたので、そう期待をしていなかった」 (p.230)
ので、当初
「『オバQ』にアンマリ力を入れていなかった」(同、1行前)
との記述にも、それを感じますな。
で、ご主人さまは、石ノ森章太郎先生のファンでございますから、
そういうスタジオゼロ作品としての部分が読みたかったのだと申すのでございます。
ご主人さまは、虫コミックス版の『オバケのQ太郎』の9巻だけ
持っているのでございますが。
その中に、「超能力入門の巻」という作品が収められているのですな。
で、その作中作として、 「ぼくはエスパー」石林正太郎作 というのが登場するのでございますが、
そのキャラクターが完全に石ノ森先生の『ミュータントサブ』なのでございます。
その作品を偶然どこかで目にしたので、後で古本屋さんで見つけたときに買ったみたいでございますが、
一番最初に読んだときは、ご主人さま、
藤子不二雄先生って、いつもはあんな絵を描いているけど、他人の絵も描けるんだ。
と、素直に感心したとか。
いや、少しは疑念を挟んだみたいでけどね。
今にして思えば、石ノ森先生が描いているわけですな。
道理で似ているわけでございます。
さらに若いみぎり、はじめてマンガに接せられたころには、
藤子作品や石ノ森作品の脇役・端役に同じようなキャラクターがいること、
それに手塚先生が、スターシステムで、同じキャラクターをいくつもの作品で登場させていたこと。
さらに、手塚フォロワーの先生方も、
手塚先生のキャラクターに似たキャラクターを脇役・端役で使っていたこと、などから、
脇役・端役のキャラクターは、みんなで使っているんだ。
などと思っていたということ。
その当時はそのような言葉は知りませんでしたか、共有ということですな。
実際にそのような側面がないではございませんが、
ウィキペディアやファンサイトによりますと、
『オバケのQ太郎』の場合は、脇キャラを石ノ森先生がお描きになっている
そうでございますから、
そういう印象が特に強いのも当然ということでございます。
で、やはり、そうした
藤子不二雄先生以外の方が描いた部分を探すのが、
この作品の楽しみの一つ
と申せましょう。
それにしても、Qちゃんが動物語をしゃべれるとか、意外に怪力
だという設定などは忘れておりました。
あと、この巻で印象に残ったのは、
p.91 「名画を描こう」
5コマ目 Q太郎の中身下半分が見えますが、
どことなくドラえもんに似ている……!
p.166 「オバケットに協力しよう!」
タケコプターの前身とでもいうべきギャグが……。
p.304 「正ちゃんは名選手」
4コマ目 『ドカベン』の殿馬の秘打、
「白鳥の湖」の前身がここに……。
っていうことでいいのか?
この話では、草野球の実況と解説の子供と
プロ野球の実況と解説が、年が違うだけで
顔は同じというギャグをやっておりますな。
それにしても、Qキャッチング能力のすごいこと。
プロの投球をホームランにするということは、
まず、そのピッチャーの投げた球を、
捕らなければならないのですから……。
というあたりでございますか。
それにしても、
後発であったために藤子・F・不二雄先生の作品集は立派なものになってしまって。
藤子不二雄(A)先生のものも同じような装丁で出さないと釣り合いが取れないのでは?
と余計な心配をしてしまいます。
いずれにせよ、
これで『オバケのQ太郎』何度目かの再アニメ化への道も期待が開けると申すもの。
いまの時代にどういう作品になるかはわかりませんが、楽しみでございます。
安彦良和
原案:矢立肇・富野由悠季
メカニックデザイン:大河原邦男
2009/6 角川書店 KADOKAWA COMICS A
このマンガでは、原作アニメでは描ききれなかった、
あるいは制作者側も当時は明確には捉(とら)えきっていなかった
キャラクター――特に主人公でございますな――の心の動きをていねいに描き、
主にそれをはっきりとさせるために、
ストーリーや描写の変更を行なっている部分が多々ございます。
それがこの作品の特徴であり、意義でもございますな。
アムロ・レイ少年自身の性格に関してもそうでございまして、
アニメ版よりも精神的にはじめから強く設定されているような気がいたします。
原作の‘根の暗いパソコン少年’
(当時と申しますか、注目されはじめてからの評)から、
もう少し普通の少年に変更されているのでございますな。
アニメでは、いつ戦場を去ってもおかしくない少年が、いつの間にか一線で活躍している感じでございましたが、
その流れを、最初の軸を少し上向けることにより、より自然な流れにしているわけでございます。
さらに各エピソードをていねいに描くことにより、
アムロ少年の心の揺れをより深く描き、彼が一人前に成長していく様を
わかりやすくしているというわけでございます。
そのような流れの中で、この巻前半は、まあ、停滞期。
マグネットコーティングの実装とメインテナンスのために
出撃ができないで焦れるアムロを描いております。
このマグネットコーティングのエピソードでございますが、
実は原作のアニメではソロモン戦のあとなのですな。
改造を行なうモスク・ハン博士も、
アニメでは無個性な二枚目風だったのでございますが、
マンガでは、大柄でハッキリとものをいう人間に変更されております。
変更の理由は申すまでもございません。
出撃をあせるアムロと対立させて、
アムロの焦燥を強調するエピソードとしているのでございますな。
ここでのアムロは、以前の、戦争から逃げ出したいアムロではございません。
イライラの原因は、ガンダムが使えないために、戦いに出れないことなのでございます。
「戦いたくて戦っているんじゃない」
「コワいけど戦っている」
――などと申しておりますが、
これは逃げ出しているのとは明らかにベクトルが違います。
(だいたい、戦いたくて戦っているなんてことになったら、もはやアムロではございませんでしょう)
ここで焦燥感は、自分が戦力として価値があると自負しているのに出撃できない、
ということももちろんございましょう。
しかし、そうした表面的な理由以上に、
これまでの出来事から来るさまざまな思いや鬱積(うっせき)が積み重なった結果が、
出撃不能となったことであふれ出したというのがホントのところでございましょう。
ロマンアルバムEXTRA 42
『機動戦士ガンダム MOBILE SUIT GUNDAM The Motion Picture』
(徳間書店 1981)
によりますと(p.85)、
サイド7の空襲(1話)は、UC0079 9月18日のことだそうでございますから、
ソロモン戦が行なわれた12月10日までの3ヶ月のあいだに、
アムロ少年の身にはあまりにもいろいろなことが起きたわけでございます。
戦いに巻き込まれ、
敵味方を問わずそれまで関わったことのないさまざまな人々と出会い、
ご母堂と別れたり、お父上の元を離れたり……。
さまざまな思いにイライラが募り、
そこに何もできない時間ができてしまったため、何かせずにはいられないのでございましょう。
そのイライラから解放されて、物語の後半では、
ソロモン戦へと乗り込んでいくわけでございます。
流れとして、すごく自然でございます。
だけど嫌い。
どこが嫌いかと申しますと、
一人前の戦士として成長していくところ、その一点が……。
何か、この作品を全否定してしまうようではございますが、
戦争なんて――、といった感じの人物が戦いに巻き込まれていく部分に魅力を感じたものでございますから、
どうもこの部分が好きになれないのでございます。
ま、道化師でございますもの、戦争などと申すものは好みではないのでございますな。
(繰り返し見たというほどでもないので、印象でございますが)
アニメではそこらへん明確にはなっておりませんでしたから、
戦争が嫌いなまま戦闘に勝ち続け、
最終話で「ぼくには帰る場所があるんだ」とおっしゃったあと、
戦場から退場し、二度と戦争とはかかわらずに平穏に暮らしていくのだろうな、
と予想しておりましたのに、
『Ζ(ゼータ)ガンダム』(おおっ、「Ζ」(ゼータ)と「Z」(ゼット)ではびみょーに形がちがう!)で再登場し、
その後も戦っているあたりが、
『Ζガンダム』は途中で見るのをやめたため、いきさつは知りませんが、
あまり好きではございませんでした。
当初の予定では『Ζガンダム』にレイ様は登場するはずではなかったみたいですけどね。
というわけで、話の流れは自然でございますし、しかも展開として正しいのですが、
わたくしといたしましてはその点だけが嫌いなのでございます。
まあ、ロバート・A・ハインラインの『宇宙の戦士』が底本のひとつにあったみたいでございますから、
理の必然と申せばそうなのでございますが。
とまあ、その話はそのあたりにしておきましょう。
ホワイトベースの面々と、ジオン軍のかたがたに関しましては、
とにかくもう、ドズル・ザビ中将とスレッガー・ロウ中尉が死亡フラグのお手本をやってくれております。
やはり定番をやるといたしましても、うまいもっていき方と申すものはございますな。
戦争に関しましては、
まず、全体の状況説明が実にわかりやすくて、良(よ)ございますな。
静止画でしかもコマを自由にわれ、文字情報も入れられるマンガの強みと申せましょう。
実際の戦闘に関しては、
ザクレロ最強!
スーパーロボットもののザコみたいなデザインのモビルアーマーですが、
なにか時を経るうちに愛着がわいてきたのでごさいましょうな。
あるいは、その愛嬌あるお姿が、戦場に一服のやすらぎを与えてくれると申しますか、単なるお遊び?
何気にカッコよくなって、ジムやボールを次々と撃墜してまいります。
(たしかに、前出の「GUNDAM GAMES」月刊タクティクス5月号別巻(ホビージャパン 昭和63(1988)年には、「ボールやGMとなら少なくとも対等くらいには戦えるだろう」(p.42)と書いてございますが――)
しかも、このザクレロ、一機だけではございません。
機体に書かれたローマ数字を見ますと、何か十数機は用意されている様子。
たしかアニメでは、試作で作られてもので欠点の多い失敗作で、廃棄処分寸前だったはずでは――?
もう、ザクレロとしては本望と申すところでございましょう。
ガンダムにはあっさり負けてしまうんですけどね。
ところで、
マンガとは直接関係ないのでございますが、
この世界、
資源の調達とか開発、生産についてはどうなっているのでしょうか?
まあ、3ヶ月のあいだの出来事ですし、
連邦軍側はGMとボールしか基本的に生産していないから問題はないのかな?
ジオン軍は、それ以前からの蓄積と新兵器開発に力を注いでいたということ……なのでしょうなあ。
でも、資源調達に関しては、
原料を生産工場まで運ぶためのルートが確保できているのか気になるところでございます。
工場と生産スピードもどのくらいのものだろう?
工場から戦場に持っていく補給路も確保できていないといけませんし……。
もっともテレビアニメ版では、
最終決戦時にはさまざまな機体が持ち寄られたみたいですから(うわさでは鉄人とかも……?)、
かなりジリ貧だったのかもしれませんが。
これが、ゲームとか派生アニメまで考えると、数とか種類とかトンデモないことになりますな。
一体どうやって生産開発しているんだ……!!
触れなければならない問題のような気もいたしますが、そっとしておいたほうがよいことなのでございましょう。
それにしても、『ヱヴァンゲリヲン・序』(2009,7/3 金曜ロードショー)を
見ながらガンダムの記事を書くって、なんだか不思議なものでございます。
と申しますか、見てるとちっとも記事を書ける状態ではないですよ~っ。
というわけで、一日空くハメに……。
ともあれ、『ヱヴァンゲリオン』も、
ストーリーの明確化のために、ていねいな調整がなされておりますな。
笑える……と申しますと誤解を生みますな。
あっ、やってるやってるってな感じで、口もとをほころばせながら、ついつい見入ってしまいました。
安彦良和
原案:矢立肇・富野由悠季
メカニックデザイン:大河原邦男
2009/6 角川書店 KADOKAWA COMICS A
巨大ロボットもののひとつの転換点となった作品の、
ていねいなコミカライズ作品。
原作は、いわゆるリアルロボット系の元祖で、
それまでの
正義と悪の構図や
一話完結型のパターン化された物語の展開などが当たり前だった
いわゆるスーパーロボット系のアニメに、
大きく切り込む形となった作品である、
ということはどなたでも知っておりましょう。
作者は安彦良和先生。
この作品に、
キャラクターデザイン+作画監督+アニメーションディレクター
などとして参加したというだけでなく、
その後もイラストや小説、マンガなど、多数の方面にご活躍
……それも申すまでもございませんな。
さて、
この19巻めはタイトルどおり、ソロモン戦にかかるあたりまでにございます。
「GUNDAM GAMES」月刊タクティクス5月号別巻
(ホビージャパン 昭和63(1988)年)によりますと、
ソロモン戦が行なわれたのは、12月10日。
UC0079の1月3日に始まり、UC0080の1月1日に終わった
(未来形のほうが正しいのかな?)という、
まさにそうとしか名前がつけられない1年戦争も、
あと少しというところでございますな。
なにか、ソロモン戦開始から20日あまりで戦争が終わったとは信じられないですが、
そんなものなのでございますな。
この1年戦争の立役者と申せば、やはり赤い彗星とよばれた謎の男でございましょう。
何しろ、ジオンの首魁をつぎつぎと暗殺していったのでございますから。
全員を、というわけではございませんが、大殊勲には違いございません。
最後のとどめをさしたのでございますし……。
アムロ・レイさまが何人いたとしても、これに匹敵する戦果は得られますまい。
ただ、連邦軍はそれを知らないのですな。
サッカーで申さば、
敵のオウンゴールで勝ったようなものでございましょう。
案外、あれ? 勝っちゃったよ、という感じだったかもしれません。
おっと、また話がそれましたな。
さてさて、
この巻で描かれるのは、
・マグネットコーティングの話。
・戦士としての自負を持ち始めるアムロ。その葛藤。
・ソロモン戦での両軍の動き。
・ドズル・ザビと家族。
・ホワイトベースのかたがた。
といったところでございましょう。
マグネットコーティングと申すのは、ま、トンデモ技術の一つですな。
モビルスーツの体全体に強力な磁界を発生させるそうですが、
コンピュータとか狂わないだろうかとか、
周りの機器とかは大丈夫か、とか、
磁気の働きで肩のこりがなくなってしまったりはしないのかとか、
ニュータイプ能力が飛躍的に覚醒したりするようなことになったりしないのかとか
磁界でビームがゆがまないのか、
その結果、あたりにくくなったり、ねらいがつけにくくなったりしないのかとか、
摩擦は減っても、その分スピードは増すのだから、
軸など負荷がかかる部分とか直接あたるような部分では、
より大きな力がかかるのではないかとか、
動きがカチャカチャして、まるでプラモデルやアニメのような軽い動きにならないだろうかなど
さまざまな疑問点が思い浮びますが、
まあ、
ミノフスキー理論があれば、すべて解決するのでございましょう!
……と、今回はここまでで時間切れ。
ゲームブック以外の記事は、短く済ませたいとも思うのでございますが、仕方ございません。
まっ、日記でございますから、ご容赦くださいませ。
というわけで、続きます。