松田行正:著
(牛若丸/2024/12)
表紙を見ればわかるとおり、
字体がすべて異なっていたり
Rが左右逆だったりいたします
表紙にはさらに文字が書かれていて、
カバーののぞき穴の位置を変えると
別の言葉が現れるみたいでございます。
大きさは新書よりもほんの少し大きく、
ほぼ直方体のいわゆるレンガ本でございます。
京極夏彦先生の本などと比べれば……と
言われそうでございますが、
こちらは活字の級数が小さい。
それに内容もぎっしりでございます。
古今東西、個人的なものから世間一般に対するものまで、
興味深い文字・記号を集めたものにございます。
裏表紙にすべての項目が書かれておりますが、
興味深いでしょう。
以前の版では
見開きの1ページに解説、1ページに文字・記号の例となっていたらしく、
家紋などのようにすべてを掲載し切れていないものもございますが、
それにしても面白うございましょ?
その解説も面白い。
こういうのもきっとお好きでございましょう。
役に立つかは分かりませんが、
見て読んで楽しいものではございます。
1つのことを起点にして、そこからパターンや例外など、
いろいろと考えて展開させていく論理的な思考法にございます。
それに対してリゾームと申しますのは地下茎の一種根状茎のことだそうで、
手早く申しますればインターネットのようなネットワーク構造でございます。
すべてがつながっているので、そこには起点も終点もございません。
ツリー構造では起点は不動のものでございますが、
リゾームの場合は各点が影響を及ぼしあっているので、
常に変化している可能性があるのでございますね。
フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズさんの
「生成変化」というお考えだそうでございます。
本当でございましょうか?
墓地では早すぎた埋葬みたいな話もある。
そういう存在が棲みつくのって、お城とか塔とかであって、
教会に、っていうのはないのか……。
なんか普通にありそうではございますけれどねぇ。
悪魔祓い師の話だけど教会に悪魔が現れて、という展開にはならなかったなぁ、とか、
あの作品の舞台ってお城だっけ? とか──。
悪魔まではないのかなぁ。
『悪魔城ドラキュラ』とかでございますな。
絶大だという信仰が深く根づいているのでございましょうな。
化け物のたぐいが棲みつき、
それを退治に行くという物語は、昔からよくある定番なのでございますけどねぇ。
魔物に乗っ取られた教会とかを書いてしまうのでございましょうな。
三中信宏(文)+杉山久仁彦(図版)
(2012/11/NTT出版)
にございます。
見ているだけで楽しい。
まぁ、本文読まないで眺めていただけなりでございますけれどね。
昆虫学者3人による論文集。
各時代の作品に描かれた
昆虫について書いたご本にございます。
と申しますとまともな本に思えますが、
内容はといえば、
かなり片寄っております傾(かぶ)いております。
教科書に載るような現代詩に目を通したら精神が崩壊する──
と前書きで宣言しているような編著者でございますからな。
それ以降は特撮・マンガ・アニメ・ゲーム・カプセルフィギュアと、
ホントにサブカルチャーしか扱ってはおりません。
『仮面ライダー』や『ウルトラマン』に
どんな昆虫怪人・怪獣が出てきたかを表にしたり、
兜ムシなど変なカプセルトイを紹介したり、
マンガでの昆虫の扱われ方を語ったり……。
とにかく
どれだけ美少女の登場するゲームやアニメをプレイしているんだ見ているんだ
というぐらいたくさんの作品がリストアップされております。
クリストファー・チャプリス
ダルトン・シモンズ:著
木村博江:訳
(文春文庫/2014/8)
(興味のある方は、
「見えないゴリラ」で動画検索してみてください)
バスケットボールのパスを数えるのに集中していると、
ゴリラ姿の人がそこに乱入してきても
まったく気づかないという実験でございます。
(そういう実験だと知って動画を見ていると、
ゴリラ丸分かりなのですが)
本書はその実験で2004年の
同様の映像はクイズ番組なんかで見たことがあるかもしれませんな。
人間は、ともうしますか動物はなのでしょうが、
集中しているもの以外の情報は
シャットアウトしてしまう傾向にあるということでございます。
様々な錯覚について語っているのが本書でございます。
いくつかのサイトでも取り上げていたのでございますが、
たいていが一刀両断、にべもなしですよね。
それの意味が変わったものなので、
オブリガードが語源だということはあり得ない、ナンセンスだ、
あり得ない、滅多にないで、感謝を意味する「ありがとう」の意味はない。
ありがとうを意味する「オブリガード」を盛んに使ったから
音が似た「ありがとう」という言葉が
感謝の意味に変化していったのだ
という主張でございます。
意味が違うのなら関係ないというのですな。
それはあり得ないだろうというところを証明しなければなりません。
そうそう簡単に論破できないゆえに一冊の本、それも文庫本にまでなっている
のでございましょうし、
あり得ないことを証明するのは難しいことなので、
怪しい学説がまかり通るのでございます
と言い訳を言っておきましょう。
簡単そうなのでございますけれどね。
曲がりなりにも根幹。なかなかに難しい。
なんか0.5単位で並んでおりますが、
考えたことを挿入していった結果こうなったしだいで、
さしたる意味はございません。
諸説ありますの諸説の方
日葡辞書にグラッチェ・ミ~レ!』
レナート・ミナミ:著
(幻冬舎文庫/2022/1)
辞書の中でも、注釈が他の項目に跳んでいるものは、
ゲームブックないし、その周辺領域でございますよね。
そういうわけで、この書も
ゲームブックとして紹介できるのでございますが……。
「序文」という短編がございましたでしょう。
『英語語源日本語説』、
日本語の語源は英語にあるというやつ。
それを序文のみではなく、
ホントに一冊の語源辞典にしちゃったのが本書でございます。
ザビエル師を嚆矢に多くのポルトガルの方が日本にやってまいりましたよね。
そのころにそれらポルトガルの方からもたらされた言葉が、
日本語に影響を与え、今日に至ったというのでございます。
雨合羽のカッパとか、ポルトガル由来の言葉ってあるよね、
とお思いでございましょう。
「ポルトガル由来の日本語」みたいな感じで検索すると出てくるかと思います。
「ありがとう」って
ポルトガル語でありがとうを意味する「オブリガード」に似てるよね、ですよ。
著者の説では、いや、それはあることが難しい、滅多にないということで、
感謝の意味はなかった(感謝の意味は『かたじけない』の方だった)。
その「有り難し」に感謝の意味が加わったのは、
この時代にポルトガル宣教師が「オブリガード」を連発したからだ。
いくつかのサイトで取り上げられておりまして、
有り難しという言葉があるのだからそんな莫迦なことはない、
と一蹴しておりましたが、
この著者にとってですからそれは、まったく意味を持たないのですな。
ポルトガル語由来にしているわけですが、
1016語でございますから無理筋もしばしば。
自信たっぷりに断定的に書いているので、
あれ?
ホントにそうかなと思ってしまうのもしばしば。
辞書にも語源が載っていないものも
出てこないものも多くございますし。
『オブリガード」を連発した」(p.72)
自由(フレキシブル)な心証で
お読みいただければ幸いです」
と謙虚なところを見せながら、
ポルトガル文化の影響の大きさに
つくづく驚かされる」と、
自説がすべてはじめから正しいと決まっているか
のような書き方もしていて、
ページを捲ってみればよろしいかと存じます。
(「オブリガードはありがとうの語源なのか」に続いても構いません)
(地球の歩き方・学研プラス/2022/2)
安田均先生が「Role&Roll vol.210」で
紹介していたこともあって買ってみました。
サブカルのコーナー。
なぜなのでございましょう。
『地球の歩き方』は、2021年1月にダイヤモンド・ビッグ社から
学研グループに事業譲渡されたそうで、だからこそ成立した企画なのでしょうが、
それにしても、
こういう発想はいったいどこから出てくるんだ──、
すでにこれまでにも
パワースポットや世界遺産、カレー図鑑とかいろいろとやっているわけですな。
ですがこの『地球の歩き方』は果てしなくポップ。
少なくとも昔は真に迫っておどろおどろしい感じだったけど、
1999年の7の月が終了したことや
「と学会」のせいで変化していったのでございましょうか?
それとも、傍から見るとおどろしげだけれど、中はそうでもないとか?
触れたこともないわたくしにとっては、謎・謎・謎。
旅行には行きませんし、図書館にもございますが、
絵の資料といたしましては、写真の大きい写真集の方を手に取っちゃいますからな。
『世界をまどわせた地図』
エドワード・ブルック・ヒッチング:著 関谷冬華:訳
(日経ナショナルジオグラフィックス/2017/8)
というご本を図書館で借りてまいりました。
架空の大陸や島、それに怪物などが描かれた地図を解説した本でございます。
ナイル川の源流として
数千年の昔から憶測が飛び交っていた場所だということでございます。
ヘロドトスさんが紀元前5世紀にエジプトに行って足で情報を集めた結果が
『歴史』に載っているとか。
このお方ってものすごい行動的な人だったのでございますな。
意外。
結局ジョン・ハニング・スピークさんが
ナイルの源流はヴィクトリア湖であることを突き止め、
1874年にヘンリー・モートン・スタンリーさんがそれを確認したことで、
ムーン山脈が架空のものであったことが決定づけられたそうでございます。
その辺りの場所を扱ったその後の話でございますな。
と思っておりましたが、思い出しました。
『ジャングル大帝』の最後の方、その舞台がムーン山でございました。
ピエルドメニコ・バッカラリオ/
ヤコボ・オリヴィエーリ:文
マルコ・ソーマ:絵
小林真理:日本語版監修
山崎瑞花:訳
(西村書店/2020/3)
よくある神話や伝説に登場するアイテムを
解説したものかと思っていたのでございますが……。
輝くトラペゾへドロン。
大滝 啓裕 先生のゲームブック『暗黒教団の陰謀』の副題にもなっております、
あれでございますな
(といいつつ、このゲームブックは所持していますものの、
プレイしていないのでございますが)。
とそこで思ったわけでございますよ。
次に開いたのが、アトランティスのシルバーバトン。
神話や伝説から、コナン、指輪物語、ハリー・ポッター、黄金の羅針盤
などなど。
要するに古今東西、有名どころ・変わったところを集めてきた
というわけでございますな。
というのが出てきて「えっ」と思ったのですが
(日本で2020年に発売された本なのに──)、
調べてみたところ、2012年の間違いでした)
魔道具コレクターの方が、
自分の館に集めた魔法の道具を陳列してございまして、
それを紹介していくという形をとっております。
1~2行で簡単に解説したものもございますが、
大抵はある程度の分量で説明しております。
ただ、筋立てから分かるとおり、
手に入れた経緯とかどうやって飾ってあるか
など書かれてりまして、
フィクションありの内容なのでございますな。
ただ、それが悪いというわけではなくて、
ユーモラスなこの本の世界観にしっかりと合っている
感じなのでございます。
所蔵品リストからたどって原作を当たるのがよろしゅうございましょう。
ゲームブック枠から収められているものが一つございます。
3月が軍神マーズの名前に拠ったものであることを書きましたが、
それにしてもよく分からないのが、ローマの暦法でございます。
3月始まりなのは農事暦だからということでいいとして、
ロムルス暦では、神さまの名を冠した月が
マルティウス(マーズ)・
アプリーリス(ウェヌス(アフロディーテ))・
ユーニウス(ユーノー)
と四つだけ。
そのあとはクインティース、セクスティース……。
つまり5番目の月、6番目の月と数えていったのでございます。
何ともいい加減。
それだけの神さましか、ローマでは特に信仰されていなかったのでございましょうか?
曜日の方はローマ暦の途中から採用されるようになったそうですが、
そちらにも マーズとウェヌスの名を冠した日がございます。
火曜日(ディエース・マルティス=マーズの日)と
金曜日(ディエース・ウェネリス=ウェヌスの日)でごすな。
戦いと美は、ローマでもっとも興味のあったものなのでございましょう。
強さと美が、価値基準の中心となっていたのかもしれません。
この数え方ですと、
10番目の月、デケンベルは、今の12月に当たるのでございますが、
そこから次の年のマルティウス、つまり3月までは
月の名前がございません。
特に何の月というのはないのですな。
農耕のための暦なので、
農事のないその辺りの月はどうでも良いらしいのでございます。
何ともいい加減。。
と同時に、当時の日に対する概念もうかがわれて面白いところでございます。
年の初めも、当時は1年が365日とわかっていなかったので、
春めいてきたなぁと思ったら、王さまが年の初めを宣言したのだとか。
そういう形式でしたら、
月のない期間が存在するやり方のほうが合っている気がいたします。
それに王さまが春を宣言するなんて、ファンタジーっぽいと申しますか、
格式があってよろしゅうございますよね。
「少年よ大志を抱け」という言葉に、続きがあるのをご存じでしょうか。
"boys be ambitious like this old man"と、
クラーク博士はおっしゃったのだそうでございます。
生徒の1人が回想で記しているそうですな。
NHK-Bs3「ザ・バックヤード」、北海道大学の回でやっておりました。
(角川ソフィア文庫/平成21年9月)
お能って、なんか高尚ですよねぇ。
その秘伝書だと言いますし、
それを大成したといわれる世阿弥先生のご本でございます。
『風姿花伝』という題名も高尚そう。
そんな感じの本なのでございます。
将軍様の愛顧を得るまでになったのが、世阿弥先生の時代でございます。
今でいえば歌番組やドラマのレギュラーや看板番組を持つようになった
ぐらいの感じでございましょうか。
要するに、能(田楽・猿楽)は人気商売だったのでございますな。
主役であり、座長であり、経営者であり、脚本家であり、
振り付け師であり、指導者であり……。
要するにすべてを仕切る役目を背負っていたのでございます。
年齢による稽古の違い、
「物まね」──役の演じ方ですな──
公演の仕方など、
さまざまなことに及んでおります。
書の性質上、肝要だけを記しておき、あとは口伝という感じで。
ただし、
採算であるとか経営といったものについても触れられてはおりません。
あくまで、芸としてのHow to 本なのでございますな。
「花」とは華がある、というような意味での花でございますな。
で、世阿弥先生がどうお書きなされているかとかと申しますと──。
そのあたり、アイドルグループと同じでございますな。
これを「時分の花」と呼んでおります。
これがなければ、年齢とともに役者としての価値は下がっていく。
さらに、「まことの花」を極めたとしても、
歳の若いものに主役は任せ、自分は脇に回るのがよいともおっしゃっておられます。
これについては、当時の猿楽が
かなり肉体を酷使する芸能だということも影響しているみたいでございます。
やっぱりアイドルグループっぽい感じ?
「面白きこと」「珍しきこと」が挙げられております。
かなり広い意味のことはでございますな。
芸として完成されている、美しい、ストーリー的に素晴らしい……。
そうしたすべての魅力を含めての面白さ、珍しさ=新しさのようでございます。
「花伝書」とは、いかに観客にとって魅力的な舞台にするか、
いかに人気がある役者、劇団にするかについて書かれたもの。
言い替えれば、いかにウケるかの本なのでございますな。
「秘すれば花」という言葉にしても、そう。
言葉だけが一人歩きすると、なにかものすごく深遠な言葉に思えますよねぇ。
それを公演前に観客に知られてしまっては面白くない、台無しだ、
そういう意味の言葉なのでございます。
ですから、定番の、誰もが知っているような演目をやる場合には、
どこかしらアレンジを加えろ、ともお書きになってもいます。
公演する作品についてはどこかしら常に新しい要素を入れていけ、
ということでございましょう。
地方に行ったらその地方なりの公演をすべし、みたいな文もあって、
それもいかにしてウケるかということでございますな。
伸び盛りの気鋭の能がこのご本にはあるわけでございます。
そのあと、それに基づいた考えであるニューエイジ思想というものについて、
ウィキペディアなどで読んでいたのでございますが、
面白かったので自分の考えを交えて書いてみたいと思います。
わたくしの考えヌキのものを読みたい方は、ちょっと調べてみてください(雑)。
というわけで、2020/03/26 のタイトル下に書いたのはこんな感じ。
アクエリアンエイジ――水瓶座の時代と申しますれば、
真っ先に思い浮かぶのが、映画にもなったロック・ミュージカル、
『ヘアー』の劇中曲「アクエリアス」でございますな。
『輝く星座』という邦題がございます。
物質文明は終わりを告げ精神の時代がやってくる。
すべての人が心でつながる時代。
そうなれば、戦争や不平等はなくなり、世界は愛で満たされるだろう。
ヒッピーの中心思想と申してよろしゅうございましょう。
超能力やニューエイジの神秘思想とも結びつく考えでございますな。
この歌、
ヒッピーに関するNHKのドキュメンタリーか何かで流れていたのでございますが、
ヒアリング力が壊滅的なわたくしは当時、
「アクエリアス」と歌っているところを「オフィーリア」だと思いこんでしまいました。
ヒッピーの映像でどうして『ハムレット』なんだろうと
ちょっといぶかしんだものでございます。
最後の一文は、タイトル下では見切れておりましたけれど、
でもオフィーリアではなさそうだ。ということで、
タイトルを知るまで、なんて歌っているんだろ?
と、けっこう疑問に思っていたのでございますよね
テキトーに、
エイジ オブ アメーリカ アメーリカ
ですとか、
エイジ オブ アーケーディア アーケーディア
などと歌ったりしてですね。
アーケーディアはアルカディア、理想郷でございますな。
理想郷の到来を祈念するっていう感じはありそうじゃないですか。
実際の歌詞も、水瓶座の時代を素晴らしいときのように歌っておりますし。
☆ ☆ ☆
で、その水瓶座の時代でございますが、
いつ来るか、解釈によってかなり開きがあるみたいなのでございますな。
昔読んだ山本弘先生の御著書では、いつだったかは忘れましたが、
少なくとも、今いる人が生きている時代には訪れないみたい。
でも、西洋占星術の世界では、
人間の歴史を12宮の進行に当てはめて、
2000年周期で次のようになるとしているようででございます。
BC 2000~西暦元年 白羊宮の時代 ゼウス・デュオニソス・牧神パンなどの時代
西暦元年~西暦2000年 双魚宮の時代 キリストの時代
西暦2000年~西暦4000年 宝瓶宮の時代 世界的組織化・国際的兄弟愛の時代
(『イメージ・シンボル事典』アト・ド・フリース:著
山下圭一郎:主幹/大修館書店/1984/3)
ちなみに、原典は1974年の出版にございます。
何か、すごく西洋中心的でございましょ?
それだけでうさんくささを感じるのでございますが、
水瓶座の時代は、このような考えから出発しているのでございますな。
西暦2000年でキリストの時代は終わりを告げる。
つまり、キリスト教に対する否定でございますな。
そのあたりが、カウンターカルチャー(対抗文化)と呼ばれる原因かと。
ですからニューエイジ思想は、
キリスト教的な神の否定から始まっているわけでございます。
で、神の救いを得られないとすれば、何を頼りに、何を力にしていけばいいのか……。
その一方が、チャネリングとか指導霊とかいった、
シャーマニズムを参考にしたような、高次精霊との合一。
チャネリングという言葉から、
こっちにはUFOとの交霊――宇宙意識みたいな話まで含まれてまいります。
もう一方が、チャクラとか気とかいった考えを基にした
人間の精神には無限のパワーを発揮する可能性があるという思想。
超能力もここに入ってまいります。
ニンジャや『ドラゴンボール』が人気があったり、
『スターウォーズ』のフォースなんかも、この考えでございましょう。
2つのエネルギーの源の関係はあいまいでございます。
個人の無限のパワーの源は宇宙にあまねく存在する生体エネルギーであるとして
前者と結びつく場合もございますし、そんなに意識されない場合も――。
ただし、両者についていえるのは、
東洋思想や先住民族の信仰がそのまま導入されたのではない
ということでございます。
それらを、アメリカ流の個人主義や合理主義、功利主義で解釈しちゃう。
東洋思想にしろ先住民族の深い知恵にしろ、
本来は教えられるものではございませんでしょう。
体験し、思索し、みずから学んでいくのと思われます。
そして、それらから得られるものは自己の深化であったとしても、
現実の場面ですぐになにかに役立つというものであるとは思えません。
そういうものをアメリカでは、解体し、自分たちの解釈で理論化するわけですな。
で、セミナーなどに人を集めやすいように、現実の利益を前面に出し、
教えやすいように、言葉にならないものを言葉にしていったわけでございます。
現実の利益と申すのは、
自分の思う自分になれるとか、成功する、お金持ちになれるというものでございますな。
個人主義が土台にございますから、超自己中心的。
魂のレベルを上げていけば何でもできる。
思ったことは実現するというのでございます。
RPGの、経験値をためレベルアップすることで能力が上昇するというのも、
こうした考えにもとづくものかもしれません。
何しろRPGは、サブカルチャーの産物でございますからな。
甘い認識や浅はかな考えも、高みに達するための一里標。
間違ってもそれは魂を成長させるための試練、みたい。
失敗という言葉はない、超ポジティブなのでございますな。
わたくしといたしましては、ちよっと気味が悪い感じが……。
★ 実際問題といたしましても、
この自己中心的・目的達成特化型の思想には
ついて行けない方もおられるようでございますな。
とにかく自分が一番なので、
友達なくしちゃったり、
目的は達成できても心の安定は得られなかったり……。
で、ですねぇ。
「自己責任」という言葉も、
こうした思想の中から生まれた言葉だそうでございますな。
精神は運命をコントロールできる。
なので、貧乏も病気も災害に遭う運命も、すべて変えることができる。
それを変えられないのは、その人自身の責任。
傍目で見ての無責任な感想として、これってすごく面白いと思いません?
愛と平和すべての人の平等の到来を待望した水瓶座の時代が、
超利己的な「自己責任」の時代になってしまうのですよ。
歴史でもございますでしょ。
理想の社会をめざして、困難に困難を重ねて打ち立てた社会が、
いつの間にか理想とは別の、ともすれば全く逆のものになってしまう、
というようなことが。
そんな皮肉を感じてしまいます。
そしてもうひとつ。
「こころの時代」ともうしますと、
すべての人の心が通じ合い、わかり合う時代だと思ったものですが、
このように超利己的で、まったくわかり合えない
こころの時代というのもあるものでございますな。
これも皮肉でございます。
さらにもうひとつ。
最初の「イメージ・シンボル事典」の宝瓶宮の時代に立ち戻ってみましょう。
国際的兄弟愛はともかくとして、「世界的組織化」。
これも現在起こっていることでございましょう。
図らずもでございましょうが、当たっている――。
そういえば、「グローバル化」というのも、ニューエイジ思想みたい。
この新しい考えは、
アメリカ発のさまざまな新しい規範と結びついているようでございますな。
先ほど見ましたように、ニューエイジ思想は、
昔からある信仰をカット&ペーストして加工した、
大地に根ざさない都市の宗教と申してもよろしいかもしれません。
インターネットが世界の中心になれば、
思想はますます大地に根ざさないものになるのかもしれませんな。
なにしろ、インターネットやそのサービスの中心となっている方々は、
ニューエイジの人だったりいたしますから。
水瓶座の時代であるかどうかはともかくといたしまして、
そのなかでこのアメリカ発の思想が広まれば、
まさに「ニューエイジ」――新しい時代の宗教と申せるのかもしれません。
――今後この考え自体も、時代の流れで変わっていくやもしれませんが……。
11/14 のタイトル下では、『古語拾遺』における「面白」の語源を紹介いたしました。
なんと、天岩戸神話が語源……。
面白い。
それはともかくといたしまして、その天岩戸の話。
『世界の伝説と不思議の図鑑』
サラ・パートレット:
著 岩井木綿子:訳
(エクスナレッジ/2015/1)
という、オカルト系といえばいいのかな、本にも載っておりました。
が、
これがヒドい。
天照大神は鏡に映った自分の姿を自分より美しい女性がいると勘違いし、
彼女を滅ぼそうとして岩戸から飛び出してきたことになっております。
他にも、
イザナミノミコトは、復讐のために毎日1000人の人間を
食い殺すと宣言したことになっておりますし……、
天の沼矛が宝石で飾られているなんて話、どこから出てきたんだろ?
崇徳天皇(上皇)は天狗となり、長いかぎ爪で少年や僧を襲った。
僧たちは青木ヶ原樹海の木に逆さ吊りにされ放置された、
なんて話、聞いたことがないけど……。
日本についての項目は、それほど多くはございませんが、
それでも、他にも聞いたことのない話や、首を傾げざるを得ない記述がございます。
この手の本にはよくあることではございますが、
何か恐ろしい方へ恐ろしい方へと話を盛っているふしがございますな。
眉につばをつけて読んだ方がよさそうでございますな。
作者はロンドンの方だそうで、
ヨーロッパの話は下手なことしていないかもしれないかもしれませんが、
信用は出来ません。
逆に、フィクションとして書く場合には、
こういうのがヒントになるのではないでしょうか。
キリスト教は、異教の神を怪物呼ばわりしてきた歴史がございますが、それにしても。
それにしても、日本の神さまに対してなんてことを書くんだ!!
ぐらいは申しておいた方がよろしゅうございましょう。
昔の農家では、この日が晴れるのを嫌ったところもあるそうでございます。
(とは申せ、旧暦の七夕でございますから、
実際には今から一ヶ月ほどあとのこととなりますが)
たとえば佐渡では、この日雨が降らないと、
七夕さんが作物を持っていくので不作になるというのだとか。
大分では、2人が会えると
一年に一度しか会えないつらさやたがいの貧しさを語り合うので凶作になる。
茨城の猿島郡では、この日が天気だと、
2人はカササギに乗って鎮守さまの裏の小豆畑に降りてきて、
その晩に7人の疫病神を産み、それが作物に被害をもたらす
(そうならないように、七夕の短冊は小豆畑に捨てにいくのだそうでございます)、
とまぁ、なにか、RPGで倒されるボスキャラみたいなことに……。
七夕の夫婦神さまも災難でごさいますな。
そんな風に、農村では、織女さまは農作の女神、
七夕祭は厄除けと豊作祈願の祭だったりするわけでございますな
(しかも祭は6日の夜で、7日の朝には竹は川に流されたのだそうでございます)。
ですから、2人が出会うのも天上ではなく、そこら辺のウリ畑とかササゲ畑。
2人の甘い語らいを立ち聞きすると作物に虫がつくなどと、
いましめる地方も多かったそうでございます。
(参考:『星三百六十五夜 夏』野尻抱影(中央文庫ワイド版/2004/10))
アニミズムについて 少し触れましたが、
そのアニミズムに関する本でわたくしが好きなのが、
この
『カミの人類学』岩田慶治
(講談社/昭和54年5月)
でございます。
その先を予想したくて、図書館の宗教のコーナーを探していたのでございますな。
キリスト教や仏教、神道といった本や、
霊界やUFO・ムー大陸といったオカルトまである中、
目についた本がこの書だった、というわけでございます。
タイトルが良ござんしょ?
世界の神について、片寄ることなく、公平な目で書かれている……。
そんな印象があって借りてみたのでございますが……。
読んでみますと、そうではございませんでした。
この「カミ」という言葉に、一神教や二神教の神は入らないのですな。
人格神や英雄神といった神も含まれない。
ここで解かれるのは、そうした神以前の原初のカミ。
まさに人類学や民俗学の扱うところのアニミズム的なカミなのでございますな。
副題に「不思議の場所をめぐって」とございます。
人が自然と出会う。
夜と出会い、獲物と出会う、死と出会う、不思議と出会う……。
そのとき、そこに見いだすものについての書……。
言い足りない言葉で申せば、そのようなものでございます。
と、申しますと、
頭が痛くなるばかりの学術書とお感じになる方もおられるかもしれませんが、
そんなことはございません。
もともとアニミズム自体、
人々の心の原初に根付くものであり、
日本文化の広きに渡って息づくものでございますから、
心情的に理解しやすいと存じます。
文章は詩的で、美しい。わかりやすくて、思索的。
最初の数行を読めば作者の力量がわかる、
とはよく言われることでございますな。
というわけで、冒頭(p.6)を引用してみましょう。
同時にここは、本書の概要を説明している場所でもございますし。
「 はじめにーひとつの展望ー
そこに不思議の場所がある。
眼を閉じておのれの内部を凝視すると、そこに淡い灰色の空間がひろがっているのを感ずるが、その空間の背後に、不思議な場所があるように思われるのである。不用意にそこに近づいてそれを見ようとすると、その場所は急ぎ足に遠ざかってしまう。しかし、おのれを忘れ、その場所の存在をも忘れていると、それが意外に近いところにやってきて何事かを告げる。そういう不思議の場所が、すべてのひとの魂の内部から、身体の境をこえて外部に、どこまでもひろがっているように思われるのである。
その場所、その未知の領域をさぐってみたい。本書はそういう願望、そういう衝迫にうながされて書かれた。
その場所にたどり着いてみると、この世界が違って見える。おのれ自身が違って見える。そういう予感がしたのである。そこでは、木々の緑がより濃く、より鮮やかにみえるのではないか。生きものたちがより生き生きと活動し、おのれの生を超えたやすらぎをえているのではないか。われわれの尊敬してやまない古人の言葉が、単に観念として知的に理解されるだけではなく、現実に、ありありと、たしかな存在感をともなって聞えてくるのではないか。その意味で、そこはわれわれにとって、もっとも根源的な創造の場なのではないか。」
心情的なものを扱っているせいか、文章は学術的と申しますより、エッセイ的。
話は、原始民族や身近な神のイメージからフンボルトの『コスモス』にいたるまで、
多岐にわたります。
自然を観、それを対話するということは、自分自身との対話でもあるので、
禅の話が出てくるのも興味深いところ。
いずれにせよ、描かれる世界が美しいのですな。
「稲魂の輪廻」などは特に好きな章でございます。
ただ……。
古い本でもございますから、絶版のようなのでございますな。
講談社学術文庫版もございましたが、おそらくそちらも……。
(ちなみに講談社学術文庫版は、文化人類学的な見地での解説がついているのですが、
それが蛇足と申しますか要らないと申しますか、
立ち読みですがわたくしにはそう感じました)
調べてみますと、『岩田慶治著作集』(講談社/1995)の三巻にも
収められているようでございますな。
まぁ、図書館かどこかで見つけることができましたら、読んでみてください。
ホルへ・ルイス・ボルヘス マルガリータ・ゲレロ 柳瀬尚紀訳
(1974/12 晶文社)
Jorge Luis Borges and Margarita Guerrero :
EL LIBRO DE LOS SERES IMAGINRIOS(1967)
ボルヘスによる幻獣の辞典(共著)
ア・バオ・ア・クゥー(A Bao A Qu)の名とともに
この書を覚えている方も多いのではないだろうか。
通常のモンスター事典などに採り上げられていない怪物も多く、
また他の事典が、これを資料としている例も多い。
たとえば、RPG系のモンスター事典としては早い時期に書かれた
「RPG幻想事典」には、チョンチョンやカーバンクルが載っているが、
それもこの事典から採られたものだろう。
(参考文献に挙げられている)
特徴としては、ボルヘスがブエノスアイレス生まれということもあって、
南米の幻獣について触れられていること。
西洋のメジャーな神話よりも、
未開社会の民間伝承が好きな私にとって、これはうれしい。
それに、幻想文学の作家だけに、
ふつうモンスター事典では採り上げられないような
形而上の生き物や、
絵として描写不可能なもの、
幻獣とは呼びがたいもの
まで採っているのも、この辞典の独特な点だ。
さきほど、
通常のモンスター事典では採り上げられていない怪物が多い、
と書いたのは、そのためでもある。
ところで、この本には、ザラタンという幻獣がでてくる。
島が実は生き物(亀や鯨)だった、という話なので、
FF24『モンスター誕生』(スティーブ・ジャクソン)の
ザラダン・マーとは関係なさそうだ。
とはいえ、ネーミングのヒントにはなっているのかもしれない。
* ちなみに、ア・バオ・ア・クゥー(A Bao A Qu)は、この書に拠(よ)ると
バートン版の『千夜一夜物語』に出てくる幻獣で、
チトールの勝利の塔に、時の始まり以来すむ生き物。
半透明で、
何者かが勝利の塔の螺旋階段を登り始めると、
そのかかとにピタリとくっついて登っていく。
その内部にやどる光は次第に輝きを増し、
最上階までたどりついた場合、青い光を帯びた完全な形となる。
そこに到達した人間は涅槃に達し、その行為はいかなる影も投じない。
だが、ア・バオ・ア・クゥーがその最上階のテラスに達したのは、ただの一度きりだ。
そうならなかった場合、この幻獣は最初の段に転げ落ち、
ほとんど形のないままに、次の来訪者を待つのだという。
からだ全体でものを見ることができ、触れると桃の皮のよう、ともいわれている。
といった感じだ。
(要約なので、詳しくは『幻獣辞典』を当たっていただきたい)
この記事が『千夜一夜物語』に忠実な記述なのかはわからない。
少々、幻想的・文学的すぎるように思うのだ。
* と思って、少しネット上を調べていたら、こんな記事が。
「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」
2007-01-06 ア・バオ・ア・クゥーはどこにいる(どこにある)
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070106/abao
文学的でっちあげということも大いに考えられる、とのことだ。
ボルヘスらしい。
少なくとも、何らかのアレンジ、もしくは創作が入っているのは確かなようだ。
となると、他でもそれはありそうな気がする。
誰も知らないような幻獣に、少しのスパイスを加えるのだ。
ボルヘスならありうる話だ。
『痴愚神礼賛』エラスムス
"Encomium Moriae " by Desiderius Erasmus (1509)
(渡辺一夫・二宮敬訳 中公クラシックスW47 2006年4月 中央公論新社)
メリーハッピーオールフールズディ!!
道化の真実にございます。
一年の中でもっとも讃えられるべきこの日が、割と軽い扱いになっているのは、悲しいことでございますな。
それはおそらく、痴愚の女神様のことを、皆さんがご存じないからだと思うのでございます。
ということで、
わたくしの敬愛いたします神、痴愚女神さまが自らそのすばらしさを讃えた講演をご紹介いたしましょう。
それをエラスムスというかたがまとめたのが、この本にございます。
MORIAなどと申しますと、毛嫌いする方もいらっしゃいましょう。
Moriae とは、ギリシアの言葉で「痴愚・狂気」を表す言葉でございますから、悪いイメージとして描かれることが多いのでございます。
『指輪物語』では、バルログ潜む地下坑道の名でございますし、
シャーロキアンにとっては、19世紀末に君臨する「犯罪界のナポレオン」として知られる、
モリアーティ(James Moriarty)教授をイメージさせるものですからな。
ですが、
痴愚の女神であるMORIAさまは、
実に陽気でほほえましい方なのでございます。
痴愚女神さまは主張します。
人生のあらゆる良いことはすべて、私のおかげだ (p.35)と。
まったくもってして、これはそのとおりでございますな。
気むずかしさや考えすぎは、賢(さか)しさ∴(ゆえに)生まれるものでございますし、
それさえなければ気に入らないことや悩みなども生じなくなりますからな。
まことに至言と申せましょう。
もっとも、「ありとあらゆる良いこと」ばかりではございません。
痴愚の女神さまの司ることは、ありとあらゆることであり、その中には、悪いこともございます。
自分を賢いと思っていらっしゃる方も、別の面から見ればおろかでございますし、
世の中の腐敗や悪徳も、すべて愚かしさゆえに起こること。
そのような世間のありように、
女神さまもあきれかえり、手に余る、もしくは手に負えないとでも申したいご様子。
講演の後半では特に、そのような愚かしさに、いつもは明るくほがらかな女神さまの口調も、ついつい厳しいものとなってまいります。
この講演が記されたのが1509年と申しますから……。
おおっ、今からちょうど500年前のことではございませぬか!!
この書を読んでおりますと、
そのときから現在に到るまで、いや、おそらくそれ以前も、今以降も、人間と申す存在は、
変わらなかったし、変わっていかないだろうなと、痛感する次第でございます。
☆ ☆ ☆
推理小説をたしなむ方なら、ギルバート・ケイス・チェスタートンという名をお聞きおよびになったことがあるやもしれません。
『ブラウン神父』シリーズや、『木曜の男』などを著した方で、江戸川乱歩先生をして、トリックの創案率では随一、と言わしめた方ですな。
わたくしとしては、トリックの案出と申しますよりも、
何でもない出来事をレトリックによってトリックにしてしまう
と申したほうが正しい気もいたしますが、まあ、大同小異、針小棒大、大して違いはございませぬな。
そのチェスタトン先生の作品
(わたくしは、推理小説よりもこの方のエッセイのほうが好きなのでございますが)
が好きならば、この講演集も絶対楽しく読めるはずでございます。
この書は長らく文庫としては絶版になっておりましたものでございますから、わたくしのご主人様などは、かなりくたびれた岩波文庫版を古本屋さんで……900円ぐらいかな? 手に入れたものでございますが、2006年に中公クラッシックスで復刊されることになり、誰でも比較的容易に手に入れることができるようになりました。
いい時代になったものでございます。
きっと図書館にも置いてあることでございましょう。
なければ、リクエストすれば、入れてもらえることでしょう。
わたくしといたしましては、ぜひとも多くの方に読んでいただきたい所存でございます。
* 本の年譜では"Encomium Moriae "となっておりましたが、 ウィキペディアでは"Moriae encomium"……。
どっちなのでございましょうなぁ。