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2024/11/22 『赤毛のアン』が『アン・シャーリー』というタイトルになって2025年5月。Eテレで放映されるそうでございますな。キャラクターは以前日本アニメーションで製作された『赤毛のアン』をちょっと大人っぽくか、外国人に寄せた感じ。キャラクター原案:近藤喜文となるのかなぁ。基本的な服装などはどうあっても同じ感じになると思うので、あとは高畑勲先生へのリスペクトを表明するかどうかといった話になりましょうな。過去のアニメ作品をリスペクトして作られるってないですよねぇ。しかも小説などが原作としてありつつ。新しくていいと思います。
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(2022/07/13 (Wed)の続きでございます)

面白いので、
日葡このことについてちゃんと考えてみることにいたしましょう。
  
(最初の方は前回の繰り返しになってしまいますが。悪しからず)
  
 この問題と申しますか説、
いくつかのサイトでも取り上げていたのでございますが、
たいていが一刀両断、にべもなしですよね。
  
 理由は、
 もともと滅多にないという意味で「有り難し」という言葉があり、
それの意味が変わったものなので、
オブリガードが語源だということはあり得ない、ナンセンスだ、

 ということでございます。
 
  
 それで正しいと思うのですが、この『西洋音源の日本語』の作者の方の説は、
  
 有り難うという言葉のそれまでの意味は、
あり得ない、滅多にないで、感謝を意味する「ありがとう」の意味はない
 
 そこにザビエルら宣教師たちが日本に来て、
ありがとうを意味する「オブリガード」を盛んに使ったから
音が似た「ありがとう」という言葉が
感謝の意味に変化していったのだ
 
という主張でございます。
  
有り難い」という言葉がそれ以前からあっても、
意味が違うのなら関係ないというのですな。
  
 ですから、
それはあり得ないだろうというところを証明しなければなりません。
  
 のですが、
  
 まず、結論から申しますと、わたくしの力ではよく分かりませんでした。
 
 まぁ、
そうそう簡単に論破できないゆえに一冊の本、それも文庫本にまでなっている
のでございましょうし、
あり得ないことを証明するのは難しいことなので、
怪しい学説がまかり通るのでございます
 
と言い訳を言っておきましょう。
 
 
 ありがとう以外の言葉でしたら、
簡単そうなのでございますけれどね。
曲がりなりにも根幹。なかなかに難しい。
  
  
 というわけで。
 とりあえず、考えてみたことを列挙しておきます。
  
  
(0)作者の姿勢
(0.5)戦国時代の日本におけるポルトガルの影響力
(1)「ありがとう」の語形
(1.5)意味
(2)「ありがとう」と「かたじけない」の違い
(2.5)対等の関係
(3)時代
(4)結論
  
 流れとしてはこんな感じで。
 
 なんか0.5単位で並んでおりますが、
考えたことを挿入していった結果こうなったしだいで、
さしたる意味はございません。
 


  
(0) 作者の姿勢
 まず、前回も書きました、作者の姿勢でございますな。
  
 例えば、
ザビエル一行は、日本人の親切に触れる度に『オブリガード」を連発した」(p.72)
と、見てきたような書き方をしております。
  
四百五十年前の葡語は異文化ですからあらゆる場面が考えられます。
 場合によって(わかりやすく)スキット(たとえ話、寸劇)にしています」(p.5)
 
とお書きになっておられますが、
都合のいいように場面を作っている感が否めません
 
 また、
 
本書は日本語の音の中からポルトガル語の音の痕跡をたどり推定するものですが、
 これは物証も乏しく状況証拠を積み重ねる検察の作業にも似ている。
 読者は裁判官、裁判員になって
 自由(フレキシブル)な心証でお読みいただければ幸いです」(p.9)と、
 
と「序」では公平そうな態度も見せてはおりますが、
本文にあるのは状況証拠よりも思いつき
 
 自説が正しいと信じ込んでいるので、検証が足りない感がございます。
疑似科学の発信者にありがちでございますな。
  
 しかし、作者の態度がどうであり、理論が正しいことはございます。
  
 
 
 
(0.5)戦国時代の日本におけるポルトガルの影響力
 
 正直申しまして、これは詳しい方に任せたいと存じます。
 
 ポルトガル人は銀と布教のために日本を訪れましたが、
距離が遠いこともまた事実でございます。
九州ではキリシタンに改宗する大名もいたほど、
彼らのもたらすものは魅力的でございましたし、
病院や学校施設が建てられたり、
庶民の間にも広く布教活動が行われたりしたそうでございます。
 
 当時西洋人は珍しくもございましたから、
その言葉を真似るものもおりましたことでございましょう。
 
 ただ、マスコミがない時代にどの程度定着したかでございますよね。
 
 一方で禁教令が出たりもいたしましたし、
流行は流行として定着しなかった言葉もございましょう。
 
 とりあえず、
一般的にポルトガル語由来とはっきりしている言葉の数に対し、
1000を越えるこの書の単語は多すぎると存じます。
 
  
 ですがしかし、
そのことが「ありがとう」とポルトガル語の関係を否定するものにはなりません
 
 
 
 
(1)「ありがとう」の語形
 
 というわけで、言葉そのものを見ていくことにいたしましょう。
 
 まず、「ありがという」という言葉自体にございます。
 この言葉って、今でこそこの状態で使われておりますが、
本来は感動詞ではなくて形容詞でございますよね。
 
「ありがとう」は「ありがたく」のウ音便でございます。
 
「ありがたく存じます」とか「ありがたきこと」、「ありがたし」等
という使われ方をいたします。
 
ありがとう」でしたら「オブリガード」と何となく似ておりますが、
ありがたく」や「ありがたし」と類似は感じられません
 
 というわけで、この書が論拠としている
日葡辞書』を当たってみましょう。
 
◯ Arigatai  アリガタイ 神聖な(もの)、感謝や尊敬に値するような(もの)、
       また珍しくて手には入りがたい(もの)/
  Arigataya アリガタヤ  尊敬、崇敬、感謝の意味を示す語。
       アラアリガタヤ、トートヤ!=なんと神聖な褒め尊ぶべきことだろう/
       アリガトウ
* 『日葡辞書』は岩波のものが図書館で禁帯出になっていたので、
  『語源海』杉本つとむ:著(東京書籍/2005/3)から採っております)
 
見出し語は「ありがたい」「ありがたや」。
 
 うーん、微妙
 
 本文中には「ありがとう」の記述もございますな。
 
 このうち、ありがたいに関しては、(もの)がうしろについている、
つまり名詞につく言葉なので形容詞でございますよね。
オブリガード○○とは言わないと思われますので、
これは結びつきませんでしょう。
 
 ありがたやの方は、そのままの状態、
つまり感動詞として使われているようなので、
オブリガードと結びつく可能性はあると存じます。

 まぁ、可能性でございますな。



(1.5)意味
 
当時の意味についても考えてみることにいたしましょう。
 
 上で引用した部分を見ますと、
 神聖なものや奇跡に出会えたことの喜び、称賛
 この言葉には込められているようでございますな。
 
 語源的に申しますと、
 
 あり得ない、という意味が、
 あり得ないことが起こってうれしい、すばらしい、神さま感謝します

 と変わっていく段階でございますな。
 
 
 一方、カトリック教会による辞書としての側面を考えると、
 神に感謝という言葉は必要だった、そのためこの言葉が掲載された
 ということも申せると思います。
 
  
 さてところで、
ポルトガル語で神に感謝する場合はなんとおっしゃるのでございましょう?
 それも「オブリガード」でしたら、両者が同じと感じられることはある
かもしれませんが、違うのなら否でしょう。
 
 果たしてどうか? 
 正直、わたくしは外国語に疎く、ポルトガル語などちんぷんかんぷんでございます。
 そこで、ぐーぐるさんに翻訳していただきました。
 
神に感謝」をポルトガル語に変換していただいたところ、
Graças a Deus」だそうでございます。
 
 まったく違いますな。
 こういう言葉は、それほど時代に影響されないので、
当時もこう言っていたのだと存じます。
 
 もし説教などで「神に感謝を」の意味で「Graças a Deus」と言ったところで、
「ありがとう」とは結びつかないでしょう。
 
 
 とも考えたのでございますが、
 
作者の説は、宣教師の方が日本人に対して
「オブリガード」と言ったのを
「ありがとう」と聞き間違え、
それで日本語の「ありがとう」の意味が変わっていった
というのでございます。
  
 そういうことがあり得るのでしょうか。
 わたくしといたしましては、ないような気がいたします。
 
「ありがとう」=「オブリガート」起源説のそもそもは、
この2つの言葉が似ているねっていう話ですよね。
 
それに気づいたということは、気づく前はそうは思っていなかった、
違う言葉だという認識があった、ということでございますよね。
 
「ありがとう」と「オブリガード」には、それほどの距離があるわけでございます。
 
また気づいたあとも、外国語と日本語という差は認識しているわけでございます。
そう言う言葉が混同するとも思えません。
 
 ただですが、それを考えているうちに浮かんだことが1つ。
 逆だったらあるかもしれないということでございます。
 
 宣教師の方のほうが
オブリガード」と「ありがとう」が似ていることに気づいて
日本の人に感謝の言葉として「ありがとう」を使っていたという場合──。
 
 語呂合わせで覚えやすいので使いやすい、
意味的にも大体ですが合っている。
宣教師としては必要でもございましょう。
  
 少し変でも感謝していることは分かりますし、
外国人のことだからと受け容れられます。
 
 それを何度も繰り返すうちに、外国人の使う「ありがとう」が
日本語のありがとうの意味に変化を与えた──
 
 そういう流れはあるかもしれません。
 
 そこで立ち戻るのが『日葡辞書』の記述でございます。
 
 もしもここで、アリガトウの意味として
「オブリガード」が入っていれば、その説は成立すると思うのですが……。
 
 原書で読んでいないので、そのあたりわたくしには分かりません。
 
 ただ、
 
もしも「オブリガード」という言葉が直接、日葡辞書に出ているのでしたら、
そのことをポルトガル語起源説の作者の方は、強調すると思うのでございますよね。
 
でも、それをしていない……。
 
ということは、ここには出てこない可能性が高いと思います。
 
 でしたら当時の宣教師の方が
「アリガトウ」と「オブリガード」とを結びつけて考えていない
可能性の方が高いのではございませんでしょうか?
 
 いずれにせよその辺りは、原書にあたらなければ分からないことでございますが。
  
  
  
(2)「アリガトウ」と「カタジケナイ」の相違。
 
著者は、
ありがとう」が感謝の意として使われる以前は、
それに変わる言葉として「かたじけない」を使っていたとおっしゃります。
 
 しかし、この2つの言葉は、感謝を表わすと言っても、
言葉の成り立ちから考えて、意味合いがずいぶん違うと思うのですよね。
  
ありがとう」の方は現象でございます。
 あり得ない、滅多にないことが起こった、すばらしい、うれしい、
自分の喜びを相手に伝える言葉でございますが、
 
 かたじけないは、むしろ謝罪ですよね。
 相手に手数をかけてしまって申し訳ない、
すまなく思っていると負い目を感じていることを相手に伝える言葉でございます。
 
 ☆余談でございますが、申し訳ないとかすまないとか、目上の人に
  謝っちゃう言葉って、日本語に多い気がいたします。
  そのあたり、日本人らしい気がいたします。
 
 
ありがたい」はあることが難しいことが起こったというのがもともともですから、
雨がやんでありがたいでも、思わぬ知らせが届いてありがたいでもいいのですが、
 
かたじけない」は、申し訳ないでございますから、
常に相手、人がいる言葉だと思います。
神に対していうにしても、神の人格に対して言うわけでございます。
 天の恵みに感謝するときには使いません。
 
 この違いは大きいと思います。
 
 一方、両者に共通するのは、目上に言う言葉だということでございますな。
 
 と申しますか、旧き時代におきましてては、
目上の者が下のものに対して感謝や謝罪をするということは、
まずないことと存じます。
 
 身分がはっきりしている時代には、下の人が上のものに何かをするというのは
当然なので何も言わないのでございますな。
 
 あったとしても「うむ」とうなづくのみ、
さらにとなると「大義であった」「苦労であった」と
事実を認識していることを示すことで感謝の意とするのが普通でございましょう。
 お目通りできた、あるいは何かやらせてもらっただけでも
光栄なこととしなければならなかったのだと思います。
 
 ですから、上から下への感謝の言葉というのは、多分ないのですな。
 
 
 
(2.5) では、対等の関係については?
 
 これはよく分かりません。
 
 ただ、貴族や武家社会では、
けっこう上下関係が細かくて、対等の関係は少なかったのかも、と思います。
 
 農村などはさらに分かりかねます。
 とはいえ、貴族や武士のいたような時代の村は、
1つの村で1家族みたいな感じだったと思うのでございますよね。
 
 村のだれもが親戚で、知らないものはいない、みたいな。
 それだからこそ、村八分が怖ろしかったわけでしょうし。
 
 そうなると関係性や絆が強いですから、助け合うのは当然のことで、
感謝の言葉もあまり使わないのかな、という気もいたします。
 
 今でこそ、子供にありがとうと言ったりしますが、昔は家族同士では
そう言う言葉は使わないのではございませんでしょうか。
 
 あるとすれば「苦労さま」みたいな言葉か
あいまいににごして以心伝心か──
 
日本のあいさつって大事なところを省略したようなものが多いですからね。
 
 方言に何かあるかもしれませんが、
あったとしても、今ではたどれないでしょう。
  
 でですねぇ。
 
 もし、
感謝を示す言葉が、存在しない、あるいはあいまいだったりした場合には、
「ありがとう」=「オブリガード」説にワンチャンあるのでございますよ。
 
 もともと言い表せないでもやっとしている概念に、
ぴったりとした言葉が登場すると、
その言葉が定着するという裡意はあるのでございますよね。
  
 例えば、オタクとかロリコン。
 
 オタクは、そり以前はネクラとかマニアとか呼ばれていたものに、
アニメブームによって新しい概念が加わり、生まれた言葉。
 
 ロリコンもやはりアニメブームによって成立した言葉で、
それまでにはないアニメのヒロインを好きになる感情、またはその人。
 
 美少女とかかわいこちゃんとかではしっくりしていなかったものが
新しい言葉で関連づけられ、
さらにロリータコンプレックスのという言葉本来が持つ
病的、性的なイメージが、広がりを与え……。
 
 今回の話とはまったく関係ございませんか、
マイナスのイメージや差別的な意味合いを含む言葉って、
それをよりどころに拡散していったりいたしますよね。
 
 困ったことでございます。
 
 まぁ、それまでもやっとしていたことが、
新しい概念や技術によって具体的になり、定着していくということは、
言葉に限らず、他の例でもございますよね。
 
革新的な発明などはみんなそうでございましょう。
 
 ですから、もしも対等な間柄で感謝を示す言葉がなかったとしたら、
そのニッチを埋める形で
本来神に対するものだった「ありがとう」が援用された
という可能性はあると思います。
 
 ただし、
 
それが「オブリガード」を人々が誤解した「ありがとう」であったのか、
もしくは宣教師が「ありがとう」をそのような用法で使っていたからか、
というと定かではございません。
 
 保留でございますな。
 
 
  
(3)時代
 
 時代については難しい問題を含みます。
 
 それは、
それが記録されなければ後代に伝わらないということでございます。
 
 いくら以前からある言葉であっても、
文献に現われなければあるとは言えないのでございますな。
 
 先ほどの方言の話もそうでございますな。
 昔の本にはまず載ることがない……。
 
 それが難しい。
 
 一応、平安時代の『枕草子』などにはあり得ないの例が載っておりますね。
 
 江戸幕府のころできた『日葡辞書』には、
神聖なものとか、滅多に手に入らないものというような意味が書かれている。
 
 感謝の意味での「ありがたい」は元禄時代だそうでございます。
 
 また、「ありがとう」の定型が一般的になったのは明治に入って、
──地方出身のえらい人が多かったりしたためでしょう──
言葉を統一してからとか。
 
 ですから、意味の流れとしては、
 
「あり得ない」が「滅多にない」となり、
それが「奇跡だ」とか「滅多にないことに出会えてうれしい」、
その喜びが神仏に対する感謝となり、
それが一般的な感謝の気持ちとなり、
それが礼儀としての「ありがとう」になっていく……。
 
 そういう流れはあると思うのでございます。
 
 ただ、いつ頃からとなると分かりかねます。
 
 たとえば『日葡辞書』は宣教師たちが作ったものでございますから、
神に感謝する言葉は当然注目いたします。
 
 元禄時代は商人が台頭してきた時代ですよねぇ。
 
 商人同士でございますから、対等な立場での感謝の言葉が必要となり、
それでそういった世界を描いた作品に
感謝の意味のありがとうが出てくるのは当然とも申せます。
 
 ですから、文献に書かれたような世界、時代で使われたというのは分かりますが、
それ以前はどうだったかは分からないわけでございます。
 
 それ以前にも使われていたけれど、何かに感謝する場面が文献になかったので
書かれることがなかった、という場合もございますでしょう。

 単に記録に残っていないだけで、
もっと前から使っていたということも考えられることでございます。
 
 ちなみに、『日葡辞書』の文例を引用した『語源海』には(p.63)
 
▷現代語のアリガトウは、14、5世紀を目やすに用いられたと思われる。
 しかし、12世紀ごろから、感謝の意、神への尊敬が並行的に用いられるようになり、
 江戸期にはいって、一般的感謝の意が定着してきた。
 地域的な点もあったようにみえる。
 
 とお書きになっておられます。


 一方、
 時代が大きく変われば、文化も変化し、言葉も変化するというのはございますな。
 
 それを考えますと、戦国時代は大きく時代が動いた時代でございます。
 
 市が立つなど商業が盛んになり、
下克上に表わされるように身分的に自由な気分が生まれた時代かと存じます。
 キリスト教の平等の概念も、そこには影響あったと思います。
 
 元禄時代もそうですな。商人の力が強くなり、彼らに自由な気風が生まれた時代。
 
 そのあたりで言葉が変わってもおかしくはございません。
 
 
「ありがとう」に関してもそうでございます。
 
 キリスト教の平等という言葉によって、
対等な他者という関係が発生したといたしましょう。
 
 貴族や武士の身分関係でも、農村の身内の関係でもない
新しい概念でございますな。
 
 となると、その対等な他者の間で
感謝を示す新しい言葉が必要となってまいります。
 
 そのために「ありがとう」は
神への尊敬から、感謝を表わすあいさつへと変わったのでございましょう。
 
 また元禄時代は商人の時代。
 商人のやり取りは対等な関係であり、
またその相手に対して、感謝を表わす場面が多々ございます。
そこで「ありがとう」が定着したのでございましょう。
 
 ピンポイントでここ、ということはできませんが、
そういう予想は出来るのではないかと存じます。
 
 ただし、だからといってオブリガードがありがとうの起源かと言えば、
それはまた別の問題でございます。
 
 この語呂合わせが成立する証拠は、この中にはどこにもございませんものな。
 
 
(4) 以上が考えたことでございます。

 「ありがとう」=「オブリガード」を証明する
確たる証拠は出てまいりませんでした。
 が、当然でございますな。
 一方、そうでないことを証明する確たる証拠も。
 これも当然かと存じます。
 
  以上を総合して、ある可能性を考えてみますと、
 
 宣教師が「オブリガード」と言ったのを日本の人が勘違いしたのではなくて、
 本来神に使うものだった「ありがとう」を宣教師の方が庶民にも使って、
それが商人たちに使われるようになり、広まった。
 
 それが文献に現われるのが、元禄時代、という流れでございましょうか。
 
  こうした形であれば、宣教師の使った「ありがとう」が
本来の「ありがとう」に影響を与えた可能性はあると思います。
 
 ですが、『西洋音源の日本語』に載っている他の語が
日本語に影響を与えた可能性はなくなるかと存じます。
 
 
 いづれにせよ、確たる証拠もなし
 お話としてはあるかも? 程度の話でございますな。
 
 
 確たる証拠がないのでは、定説にはなれません。
 
 うたがわしきは認めず。
 諸説の範囲にとどまりますな。
  
     ☆     ☆    ☆
 それにしても……。
 簡単に終わらせるつもりが、えらくかかってしまいました。
 
 わたくしでなければ至らなかっただろうこともあると自負はしておりますが……。
 
 ホントに救いようのない莫迦でございますな。
 

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証明も反証もできるわけがないから論者は堂々としてるんだろうけど
国語学者の某先生までもが「日本語の源流はタミル語であった!」なんて説を唱えちゃうくらいだから言語の話は躓きの石の最たるものなんでしょうなあ。

言語学者だったら理路整然と説明してくれるんでしょうけど、その説明を聞いて理解できるかどうかも自分には自信ありませんなあ。

「証明も反証も不可能な問題」ばかりに遭遇し、「それらに対して旗幟を鮮明にする」ことを強要されねば生きていくことすら不可能な現実の社会で、人文学は何をするべきなんですかねえ……。
ポール・ブリッツ 2022/07/21(Thu)03:08:48 編集
パラドックス
「証明も反証もできない問題でも、争いをできるだけ回避できる解決を模索するのが人文学の仕事じゃないのか」

「ならば争いを避けるためには、証明も反証もできない問題だがお前には明らかに間違っているとしか思えない解を支持するのが正しい人文学の在り方なのか」
ポール・ブリッツ 2022/07/21(Thu)03:19:35 編集
すべての説は仮説でございます。
(お書き込みになられたのは主張ですよね?
 それに対して、どう回答したものか考えあぐねましたが、
一応書いておきます~ 
 
 説を受け容れるか否かは、読む側にかかっております。
 論者の態度がどうかは、関係ございません。
 論証も反証も出来ない仮説については、不明でよろしゅうございましょう。
 いくつかあるうち、より正しいと思われる説を読者は選べばよろしいのでございます。
 
 選んだ人が多ければ、それがより確からしい、定説として扱われることになりましょう。
 どれも不確かだとお思いならば定説なしでよろしい。
 また、定説以外を正しいとする方もおられるでしょう。
 
 それでいいのでございます。
 
 そうした多くの方の支持を受けた説でも、
一つの発見から間違っていたとなることがございますな。
 教科書などでも、昔とは違っていたりいたします。
 新発見や新しい説で定説が否定されたのですな。
 
 
 1つの発見から説が無意味になることもございますから、理路整然とした説明が出来たといたしましても、
それがいいというわけではございません。
 むしろ危険なこともございます。
 
 クイズ番組でもございませんか?
 そんなに簡単に一言で説明しちゃっていいの? ってこと。
 現実には、簡単に説明できないことも多いのでござます。
 
 説明できないことなら研究しなくてもいいだろう、というと、
そういうわけでもございません。
 研究するということは、それについて知りたいのでございますし、
不明部分があったといたしましても、研究することによって分かることはあるわけでございますから。
  
 
 
 
 仮説は、どんなものでもいいのでございます。
 たとえ、常識から考えて変なものでもですな。
 
 分からない部分があっても構いません。分かる部分については検証し、問題点を洗い出し、あるいは補強する。わらかなかった部分は調査し新事実を発見する。
 
 それを承けて論者は自説を破棄するか、変更補強する。
 
 それを繰り返して、より確からしい説にしていくわけでございますな。
 あるいは、その過程で新しい説が生まれる場合もございます。
 
 そうした過程を無視して、検証の方が間違っているというのが、疑似科学によくある態度でございますな。
 まぁ、その問題点を受け容れると、自説を撤回しなくっちゃならない場合がほとんどだったり……。
そこにお金が介入していたりするとなおさら……。
 
 大野晋先生のタミル語説は、問題点を指摘されて修正をしているみたいでございますから、学術的な態度と申してよろしいのではございませんでしょうか。。
 
 それをどう考えるかは、受け取る側次第。
 
 と申しますか、普通の人は信憑性がないと感じたら信じなければよろしいのではないでしょうか。
 そのことに関して、おそらく必要に迫られることもございませんでしょうし。
 
 まだよく分からない、という認識でいいと思います。
 
 受け容れるか否かは自由でございます。
 
 ……
 ああ、論者の態度が気に入らないというのですか?
 それもそれでいいと思います。
 別に論者に直接会うこともないでしょうし──。
 
道化の真実 2022/07/24(Sun)11:13:56 編集
なるほど
すべては仮説であるがゆえにすべては仮説ではないと考えるしかなく、仮説と仮説ではないものの二項対立自体を考えること自体が無意味であるという意味ですべては仮説ではない、ということなのですね。

ご指摘多謝です……。
ポール・ブリッツ 2022/07/28(Thu)03:50:06 編集
なるほど……ですか?
わたくしには、尋常ならざるポール・ブリッツ様のコメントが分かりかねました。
「仮説ではない」状態と申しますのは、何を指すのでございましょう?
 仮説に二項対立はないと存じます。
 
 言い表すとすれば、何パーセント正しいかとなりましょう。
 
 100%正しいと認められた定説があり、間違いが証明された退けられた説があるとして、
その100%から0%の間が未解決問題でございます。
 
 その未解決の問題を証明すべく、99%から1%の与えられたデータを検証、あるいは新たなデータを得るために実験・観察・調査・発掘などをし、それらの結果から、正解を予測、解決への筋道を立てるのが仮説でございます。
 
 で、考えにくいことではありますが、定説や間違いも逆転する可能性はゼロではないので、その1%(以下かも知れませんが)を考慮に入れてすべての説は仮説であるとなるわけでございます。
 
 その仮説を、発表者だけでは視点や考えの間違いや偏りがある可能性がございますから、研究者全員で検証していくわけでございます。
 そうやって第三者である研究者が客観的な評価をくだしていくわけですな。
 その結果、多くの人に認められた説が、諸説の中から浮かび上がって正しい説とされるのでございます。
 ですが、その正しいと思われる説も、その後の研究によって間違いとされる可能性もないわけではございません。
 ただ、多くのデータが正しいことを示しておりますれば、そうなる可能性は低いとは申せます。
道化の真実 2022/07/31(Sun)12:41:19 編集
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