ゲームブックのブームは、1990年代を待たずして衰退した。
「Wikiペディア」にはそのように書かれている。
この「1990年代を待たずして」というのは、人によりブレがあるだろう。
ある人は、1988年ぐらいを考えているかもしれないし、
別の人は'90年代に入ってもブームの余韻はあったと思っている人もいるかもしれない。
私はそのどちらにも与しない。
ゲームブックのブームは、もっと早い時期、
『火吹山の魔法使い』が刊行されてから、1~3年で終わった
と考えている。
『火吹山の魔法使い』が日本で出版されたのが1984年末だから、1985年ということとして、
1986年から1987年末あたりまででブームは去ったということだ。
「ウォーロック」誌を持っている人限定で言うと、
第四号(1987年4月) 「(こんなゲームブックが出た! 1986ゲームブックリスト)」
と
vol.16(1988年4月) 「こんなゲームが出た! (1987ゲームブックリスト)」
あたりまでがゲームブックのブームということだ。
1~3年のなかで、3年(1987年あたりまで)というのは、わかりやすいと思う。
何しろ、その次の年の総括である、
vol.29(1989年5月) 「こんなゲームブックが出た! (1988ゲームブック総リスト)」では、
ゲームブックの数が半減しているのだから。
そのため、この特集では、
ゲームブックだけではなく、
TRPGやゲーム小説、それにゲーム攻略本などの関連書
まで扱っている。
そこには、編集者のゲームブックからTRPGへという意図が読み取れるが、
それだけではなく、
実際にゲームブック自体が、もはやブームではなくなっていることを示している。
では、2年(1986年あたりまで)というのは?
「ウォーロック」誌の発刊は1986年12月、
まさに『火吹山の魔法使い』から2年目ということになる。
とすると、
「ウォーロック」は、ブームが去ったあとに出た
ということなのだろうか?
そのとおりだ。
「ウォーロック」誌 vol.63(休刊号)p.59には
創刊時の状況について
「当時のゲーム界の状況は、ゲームブックのブームが一段落して、
その後の展開を模索しているとき」
だったと書かれている。
つまり、創刊以前の時点で、ブームはひとまず終わったと見ているのだ。
さらに、1年目にしてブームは去った という考えも出来る。
というのは、 「EQ」誌 MAR'86.No.50に、
次のような文章があるからだ。
「EQチェックリスト鼎談」p.159
数藤(康雄) 現象面で挙げれば、『火吹山の魔法使い』が文字どおり“火付け役”となって、この一年爆発的なブームになった〈ゲームブック〉の流行があります。あまりの数の多さとワンパターン化に、さしもの「EQチェックリスト」でも、書評対象からはずしたという……。
つまり、この頃には他ジャンルからの注目がなくなってきたということだ。
1990年近く と、
『火吹山~』登場から1年。
この差は、
ブームというものに対する考え方の違い
によるものだと思う。
「1990年代を待たずして」とお書きになった方は、
おそらく、当時小学生か中学生(決めつけはよくないが)で、
その頃もゲームブックファンだった人だろう。
つまり、ブームの渦中にいた人間だ。
だが、 ブームというのは、
その中心となる場所にいるもの以外からも注目されなければ、
本当のブームとはいえないと思うのだ。
本来なら取り上げるはずもない雑誌などで紹介され、
その分野に対して興味のない人からも話題にされ、
便乗した商品が世に出回る……。
そのように、世間の注目を集めてこそはじめてブームといえる。
そして、その時期というのは、
『火吹山の魔法使い』から1年ぐらいだと思うのだ(*)。
(*)
『火吹山の魔法使い』がそうした作品であったことは、『バルサスの要塞』のオビを見てもわかる。
「朝日新聞、各地方紙、BRUTUS、BOX、ログイン、週刊文春、宝島ほか多数の紙誌で紹介されました。」とあり、そのあとに「POPEYE」誌の評が載っている。
どういう紹介のされ方をしたのかはわからないが、そのようにマスコミに取り上げられることでゲームブックブームは大きくなったともいえる。
その後の2年――1986年~1987年というのは、
内部での熱気がまだあったころ。
そして次の1年は、その熱気が盛りをすぎたころといっていいだろう。
「ウォーロック」誌
vol.29(1989年5月)
「こんなゲームブックが出た! (1988ゲームブック総リスト)」
p.12「ことしも春が来た! ~88年、ゲームブックシーンを総括する~」(近藤巧司)
では、
1985~1988年までを、次のような言葉でまとめている。
1985 「ゲームブック元年」
何もかもが手探り状態の混乱の時代。
1986 「混乱と淘汰の年」
粗製乱造されたピントはずれな本が姿を消し、実力ある舶来のゲームブックがもてはやされた。
新しい様式を探る時代が終わりを告げた時代。
1987 「安定と文化の年」
各社がスタイルを決定し、独自のセンスで安定したゲームブックをリリースしていった時代。
1988 「先鋭化の年」
ゲームブックは、巨大化、システムの複雑化、難易度のアップをしていき、
専門化すると同時に、一握りのマニアのものになってしまった。
これは、正しい分析だと思われる。
この流れからいっても、やはりゲームブックのブームというのは、
1986~87年あたりまでという判断で、正しいと思うのだ。
ブームというのは、たいていがそのようなものだと思う。
「ヨーヨー」でも「なめ猫」でも「ガングロ」でも「スウォッチ」、「たまごっち」でも、
「お笑い」でも「バンド」でも、
ブームとして話題になったものなら何でもいい。
少し思い出してみてほしい。
そのブームの中にいて、それに熱心に取り組んだ人にとってはともかくとして、
端(はた)から見た場合、ブームというのは案外短いものではないだろうか?
もちろん、もっと命脈を保ったブームの例をあげる人もおられよう。
アニメやガンプラなど、最初にブームになったときから、
ずっとブームが続いていると主張する人もいるかもしれない。
だが、そのようなものは文化として定着したというのであって、
ずっとブームが続いているとは言わない。
それに、最高潮に盛り上がったときから比べれば、
そのポテンシャルはいくらか落ちているはずだ。
さらに、何も関係ない人まで話題にしたり、手にとったりとなると、
その期間は、ますます短いものとなるだろう。
もちろん、ポテンシャルの高い文化の場合、その波が何度も来ることもある。
だが、ブームというべきはその波の部分だけであり、
それ以外の部分も含めてブームがずっと続いているとは、
私は言わないと思うのだ。
ゲーム機を買ったのは、ずいぶん遅かった。
初めて買ったのが、何しろゲームギアだ。
『ゼビウス』が出たとき、ファミコンを買おうかと思ったのだが、
パソコンなら完全な形で出るだろうなどと考えて、スルーした。
結局、現在、
ゲームボーイアドバンスのファミコンミニ『ゼビウス』も買ったし、
プレイステーションポータブルの『ナムコミュージアムvol.2』も買っていたりする……。
まあ、『ゼビウス』の話は、また後ほどにしよう。
ホントはこれよりも前に書く予定だったのだが。
で、そのゲームギアで、最初に買ったソフトが、
『エターナル・レジェンド 永遠の伝説』というRPGだった。
「メガドライブFAN」1993/7の付録
「MEGA FRIVE & GAME GEAR ALL CATALOG'93」には、
「戦闘中にムチを使って敵が持っている武器を取り上げられる」
ことが特徴の、
「オーソドックスなRPG」
となっている。
プレイしてみての私の感想は、
・意外に一本道。
・そんなに長くない話を、戦闘で水増しして長くしている。
というものだった。
だが別に、
この『エターナル・レジェンド』が出来の悪いゲームだからそう思ったのではない。
そのあとも十数本はコンピュータRPGをやっていて、
その中には当然、名の知れたゲームもあるのだが、
このゲームはむしろ出来のいい部類の作品だと思う。
(まあ、ゲームボーイアドバンスどまりだし、リメイク中心にプレイしているので、最新作についてはさておくが。
でも、『ルナ』、『聖剣伝説』や『マザー』、『ドラゴンクエストⅢ』などはプレイした中に含まれる)
そして、それらプレイした十数本のRPGについても、
「一本道」で「戦闘で物語を水増ししている」という印象を受けた。
ゲームの出来不出来に関係なく、そう感じたということだ。
つまりは、コンピュータゲームに期待しすぎていたのだろう。
ゲームブックであれだけできるのだから、
コンピュータで何メガとか謳(うた)っているものだったら、
物語は縦横無尽にいくつも分岐し、変幻自在のストーリーが楽しめるにちがいない。
そのくらいのことを思っていたのだ。
ところが、そうではなかった。
そのため、
これだったら、戦闘が少ない分、
物語をたどりやすいゲームブックのほうが優れているのでは?
とさえ思う。
アドベンチャーゲームにしても、そうだ。
『かまいたちの夜』や
『逆転裁判』にしても、
フローチャートを描いた場合、
意外と一本道な展開だな、と感ずる。
まあ、仕方ないのだ、推理ものの場合は。
ブレイヤーに推理させるためには、すべてのデータを提供させねばならず、
全員にそれを行なうためには、共通のルートがどうしても必要だからだ。
もちろん、『シャーロックホームズ10の怪事件』や、
ボード、カードゲームのように、
プレイヤーの力量や運によって情報が限定され、
その手に入れた情報だけで推理していく
という方法も成り立つが、
それだとよりゲーム的になってしまい、
推理小説的な物語としての楽しみが殺(そ)がれる結果になってしまうのだ。
だから必然ではあるのだが、
それでもコンピュータの物語ゲームには期待してしまう。
よりマルチに、より複雑に、網の目のように、あるいは神経のように、
分岐し、結びつき、多様に展開し、いくつもの姿を見せてくれる物語を――。
『かまいたちの夜2』は、ある程度それを見せてくれた(ホラーは嫌いだが)。
だが、それでもフローチャートが直線的な部分が多い気がしてしまう
(まあ、ストーリーをつぐむ上で仕方がないのだろう) 。
おそらく、新しい作品の中には、他にもそのような作品があることだろう。
さらに未来の作品には……。
と書くと、
なにかゲームブックを見限っているように聞こえるかもしれないが、
そんなことはない。
容量に限界はあるとはいえ、
ゲームブックにも、まだまだ新しい要素は盛り込める
と私は思っている。
以上、ご主人さまがお送りいたしました。
『エターナル・レジェンド』は、ホントいいゲームですよ~。
それまで、王道のファンタジーRPGだったのに、
最後になってとどーのSF展開、というあたりが
セガらしいと申しますか何と申しますか。
効果音では、矢の音がいいのでごさいます。
ヘッドホンなどで聞きますと、頭の真ん中に突き刺さる感じがして。
あと、闘技場などもございましたが、
いつ行っても試合に参加できなかったような。
あれはどうしてなのかな? 容量の都合?
それとも、ある特定の時間とか、何かの隠し要素で
戦いに参加することが出来たのでございましょうか?
ぐぐってみますと、
攻略サイトや紹介サイトもいくつかある様子。
愛されているのでございますな。
MAHORABA THE PICTURE GAME BOOK
(「まほらばピクチャーゲームブック」)の記事に対する
6/13のコメントにおいて
ププププーさまから、
「クイーンズブレード」のレビューを、とのことでございましたが、
やりません。
だって、レビューできるほどのことしてないモン!
以前、
フローチャートを書こうと思ったことはあるのですが、
やり方がわからなかったレベル。
割符みたいにしてキャラAとキャラBを合わせ……、
みたいな形でできるのでしょうが、
パラグラフナンバーを書き並べた段階で
めんどくさくなってやめてしまいました。
『パンタクル2』で登場したようなマトリクス表や、
何か他の方法のほうが
このゲームブックを解析するのにはいいのかもしれません。
でもマトリクス表って、つながりが直感的にわからないのですよねぇ。
まっ、多くは望みません。
どんな形でもよろしゅうございますが、
このゲームブックのチャート、どなたか書いていただけないでしょうか?
さて、このシリーズ、
ゲームブックとしてよりも、イラスト集として普及しているのは周知のとおりでございます。
(ゲームブックファンとしては言いたくないセリフ)
最近の話題といたしましては、
「リボルテッククイーンズブレイド」あたりですかね。
「フィギュアマニアックス」の付録を立ち読みしておりましたところ、
原型製作の大嶋優木先生が
「M字開脚に命をかけました」と申されておりました。
確かに股関節は、自然さや美しさと可動の向上を両立させるのに、難しそうな部分でございますな。
とまぁ、みなさんの大して興味のない部分はこのあたりといたしまして、
もう少し本質的なことに関するお話を。
隔月刊「TACTICS」誌No.23(1985 September⇒October)には、
「ファンタジーワールドの戦士たち」と題して、
〈ノバ〉社の「ロスト・ワールズ」シリーズが紹介されております(p-24-26)。
ゲームブックファンでしたらご存知の、
「クイーンズブレード」シリーズの原作にあたるゲームでございますな。
このシリーズも、
「クイーンズブレード」シリーズとは別の意味で、
イラストに突っ込みどころのある作品
とは存じますが、それはそれとして。
この記事の中でこのシリーズは、
ブックゲーム
と記述されております。
ゲームブックではなく、
ブックゲーム。
これが新鮮でもあり、また
この作品(群)を指すにはふさわしい呼び方
だと思ったのでございます。
まあ、ゲーム本(=ゲームブック)も、
本の体裁をしたゲーム(=ブックゲーム)も、
そう大して変わらないとおっしゃる方もおられましょうが、
前者は、
『火吹山の魔法使い』など先行する作品によって、どんなものかすでにイメージがついておりますし、
そうしたイメージを抜きにいたしますれば、
ひどくあいまいに広い範囲でゲームに関する本を示すことになります。
(そういう意味合いでゲームブックと称しているものも存在することは、
このブログの「定義」のところで書いたとおりでございます)
それに対してブックゲームという表記は、
ゲームであることを宣言している感がございます。
ブックという単語が、本という形態であって
ストーリーを意味しないイメージがあるのでございます。
そういう意味において、「ロストワールド」(=「クイーンズブレード」)シリーズは、
ブックゲームと呼ぶのが正しいように思うのでございます。
ただ……、現状としては、Hobby Japan社がゲームブックと宣言し、
その呼び方が一般的になっている以上、それをくつがえすことは至難のわざと申せましょう。
ですから、日和見的と申さば申せ、ここでも、通常は
「クイーンズブレード」シリーズを「ゲームブック」として扱ってまいります。
ただし、場合によっては、「ブックゲーム」という呼称も使うやもしれませんので、
その点、お心得いただきたく存じます。
通常ゲームブック、ゲームブックと呼び習わしております、ゲームブックでございますが、
FFシリーズなどをみますと、
アドベンチャー ゲーム ブック
となっておりますな。
そこで、タイトルにある疑問がふと思い浮かびあがります。
これは、
アドベンチャーゲーム・ブックなのか、
それとも
アドベンチャー・ゲームブックなのか?
つまり、
本来はコンピュータ上で行なうアドベンチャーゲームを、
本という形に落とし込んだものなのか、
それとも、
ゲームブックというジャンルがあって、
その中でも特に、冒険を主眼に置いたものであるのか?
そのどちらが本来的な意味なのだろうか、ということでございます。
ちなみに、
アドベンチャーゲームは、ご存知ですな?
当時ですから、
「ミステリーハウス」や「ゾーク」、「ウィザード&プリンセス」
といったあたりでございましょうか。
恋愛アドベンチャーとか申すものは、当然ながらございません!
で、考えてみますに
やはりここは、
アドベンチャーゲームを、本という形に落とし込んだもの
すなわち、
アドベンチャーゲーム・ブック
だったと考えるのが妥当でございましょう。
そのほうが自然ですからな。
ゲームブックの要素の一角を担うパズル的な要素も、
アドベンチャーゲームからの反映でございましょう。
逆に、ゲームブックというジャンルの冒険的なもの、
と考えるとおかしなことになります。
第一、ゲームブックというジャンルが概念として想像できない。
今でこそ、ゲームブックといえばどういうものかだいたいイメージできると思いますが、
もし何もない状態から、ゲームブックといわれれば、
どんなものか見当をつけるのは、なかなか難しゅうございましょう。
ゲーム本ってどんなの? と申しているのと同じことでございますからな。
一番思い浮かびやすいのは、幼稚園の先生が読むような、
子供を遊ばせるためのゲーム集ではございませんでしょうか?
コンピューターがある時代でしたら、
コンピューターゲームの紹介本とか、プログラム集かもしれませんが、
とにかく、ジャンルが確立していない時分には、
単にゲームブックというだけでは、概念として成立しなかったと存じます。
しかし、アドベンチャーゲームブックの登場により、その観念が固着化されました。
そしてその浸透により、ゲームブックという呼称が定着したと申すわけでございます。
そのため、おそらく、今では
アドベンチャーゲームブックといった場合、
アドベンチャーゲームの書籍化
というよりも、
ゲームブックのうち、主に冒険を扱うもの、
という認識が強いのではございませんでしょうか?
逆転現象とも申せますが、
ゲームブック自体が拡散を遂げた以上、
この逆転現象は、むしろ正しいと申せますな。
追記:
『火吹山の魔法使い』よりも早い時期からシリーズが出ているバンタム社の作品
(今回参考にしたのは『天才コンピュータAI32』ですが)の前書きには、
「そう、アドベンチャーゲームが本になっているんだ」と書かれております。
やはり、「アドベンチャーゲーム・ブック」が、
もともとのゲームブックのイメージだったようでございますな。
FFシリーズ全体の中ではどのようなとらえ方をしたらよろしいのでございましょうか?
『ハウス・オブ・ヘル』の時も書きましたが、
『ソーサリー』シリーズは、
FF4『さまよえる宇宙船』から
FF10『地獄の館(ハウス・オブ・ヘル)』
の間に書かれました。
その間にリビングストンは、
FF5『盗賊都市』(1983)
FF6『死のワナの地下迷宮(デストラップ・ダンジョン)』 (1984)
FF7『トカゲ王の島』 (1984)
FF9『雪の魔女の洞窟』 (1984)
と、やはり4つの作品を発表しております。
1984年に、『ファイティング・ファンタジー』
というTRPGシステムを発表しておりますから、
その背景世界の構築というのが、
おそらく、「ソーサリー」シリーズとこれらのゲームブックに
課せられた大きな課題だったのだと想像できます。
『火吹山の魔法使い』や『バルサスの要塞』では、
背景世界がいまひとつ明確ではございませんでしたからな。
リビングストンがアランシアを、
ジャクソンが旧世界を手がけたのは、
それぞれに独自性と統一感を持たせたかったのでございましょうな。
雰囲気におきましても表記におきましても。
矛盾があっても困りますし。
あとは、ジャクソンのチャレンジ精神が、
旧世界という新しい世界を求めていたのでございましょう。
リビングストンの作品が、いつもの単発作品であるのに対し、
ジャクソンの『ソーサリー』が、四部作なのも、
ソロシナリオと
キャンペーンゲームという
RPGの二つの楽しみ方を示したということなのでございましょう。
ただ、構想の上ではそうだとしても、実際にできたものは
紛れもなくジャクソンらしい緊密さに充ちたゲームブックであり、
これをそのままRPGに、というわけにはいかないでしょうな。
まあ、形式を示したということは確かでごさいますし、
TRPGの舞台をゲームブックという物語形式で提示したという点では、
意義深きことではございますが。
スティーブ・ジャクソンが、
TRPGの足がかりとしてゲームブックを意図していたことは、
『ファイティングファンタジー』の
「はじめに」と「1.アドベンチャー・ゲーム・ブックからロールプレイング・ゲームへ」から、
読み取れることでございます。
実際に、ゲームブックを足がかりにしてTRPGを始めたという人も多いようですし、
この意図は成功したと申してよろしいでしょうな。
「ウォーロック」誌もそうした流れで編集されておりました。
そのあたり、ゲームブックファンとしては微妙なところではございますが。
ただ、ではゲームブックはRPGの代価物か、というと、もちろんそうではございません。
そのことは、ゲームブックファンのかたがたなら
よ~くご存じのことでございましょう!
前回抜けた部分を、
安田均先生の
『ファイティング・ファンタジー ゲームブックの楽しみ方』
(1990/社会思想社)から、
引用補足しておきましょう。
おお、そうそう。
その前に。
この当時は、創土社版はございませんから、当然、東京創元社版を元にに書かれております。
ですから、タイトルに関しては、
以下のように、脳内変換してお読みいただけると光栄にございます。
『魔法使いの丘』 ⇒ 『シャムシャンティの丘を越えて』
『城塞都市カーレ』⇒ 『魔の罠の都』
『七匹の大蛇』 ⇒ 『七匹の大蛇』
『王たちの冠』 ⇒ 『諸王の冠』
このあたりを理解したところで、さっそく参りましょう。
まず、全体の構成。
○第一部『魔法使いの丘』は、
オーソドックスなオープンフィールド。
散発的なイベントを順次解決する、ある意味プロローグ的な冒険。
○第二部『城塞都市カーレ』は、
シティーアドベンチャー。
『バルサスの要塞』でジャクソンが見せた、パズル性と複雑なプロットの組み替えが冴えわたる。
○第三部『七匹の大蛇』。
森・湖・沼といった特殊なオープンフィールド。
モンスターと主人公の競争がサスペンスを盛り上げる。
○第四部『王たちの冠』、
要塞内部。
構成は『バルサスの要塞』を思わせるものの、プロットは遙かに複雑になっている。
つまり、
アイデアと新しい試みがこれでもかとばかりに盛り込まれていて、驚きの連続であると。
以降、量とシリーズ性で『ソーサリー』を凌駕しようとする類似品がでてきたが、
それだけではこのクレバーな作品にはとうていかなうことはできない、と。
そう、安田先生は申しております。
もう一つ、魔法システムについてでございますが、
同書によりますれば、これが経験・成長のシステムになっているのだそうでございます。
選択肢にある呪文の結果を、
A:魔法の成功
B:魔法の失敗(不適切な使用)
C:魔法の失敗(アイテムの欠如)
D:ニセの魔法
と分けた場合、魔法の失敗例は、
『魔法使いの丘』では 、Dが多くBがない。
『城塞都市カーレ』は、どれも均等。
『七匹の大蛇』C、Dがなく、Bが増え、
『王たちの冠』になると、やはりC、Dがなく、Bがさらに増える
ということでございます。
要するに、駆け出しのころは、
魔法を間違えたかどうかが、成功失敗の分かれ目になる けれど、
一人前の魔法使いとなり、魔法をすべて覚えたあとは、
それを正しく使えるかどうかが正否を分ける ということですな。
そういう成長を、魔法ルールによって表現していると
安田先生はおっしゃっております。
FFシリーズには、社会思想社から出版されたナンバーつきのものだけを指すのではございません。
狭義ではそうなのかもしれませんが、
FFシリーズの共有世界であるタイタンを舞台にしたものは、
すべてファイティング・ファンタジーのシリーズと考えて良いでしょう。
もちろん今回紹介する「ソーサリー」も、その中に含まれることに異論などないと存じます。
この「ソーサリー」シリーズは、
現在、創土社という出版社から発売されております。
学術系の難しい専門書が本分の出版社なのでございますが、
2002年ごろからアドベンチャーゲームノベルという呼称でゲームブックを出版し始め、
ゲームブックファンには、ゲームブックの出版社、
と認識されている感さえある会社でございます。
まあ、ゲームブックに関して話題にする際には、それで問題ないとは存じますが、念のため。
さて、
「ソーサリー」のシリーズでございます。
このシリーズは、4部からなる大作にございます。
その概要は、以下のとおり。
どなたかが、「第二ゲームブック倉庫番」を作ってくださるその日のために、「ゲームブック倉庫番」に準じた形式で書いておきましょう。
紹介は『夢幻の双刃』の広告から、そのほかは他の本の広告や、「創土社」のサイトなどからの引用でございます。
(でも結局最後は、ご主人様がご自身で調べないとならないことに。
初出年は載っておりませぬものな。けっこう面倒……とか申しておりました)
紹介は「創土社」のサイトのそれと少し違う文言がございますが、原文のママでございます。
シャムシャンティの丘を越えて(ソーサリー! 1)
スティーブ・ジャクソン 著 浅羽莢子 訳 ジョン・ブランシュ画
四六版並製・198ページ 総項目数456 2003/8
本体1200円+税
○大魔法使いのいるマンパン砦に至るには、途中広大なジャバジ河を渡る必要がある。河上に建てられたカレーの街がその唯一の手段である為、貴方は目の前に広がるシャムタンティ丘陵、カントパーニからトレパニを抜けてまずはカレーに向かう。諸王の冠を取り戻す旅が始まった。
魔の罠の都(ソーサリー! 2)
スティーブ・ジャクソン 著 浅羽莢子 訳 ジョン・ブランシュ画
四六版並製・238ページ 総項目数511 2003/12
本体1200円+税
○靴紐一本を奪うのに平気で人を殺す悪意に充ちた輩が大勢住まう魔の都カレー。そのあまりの無法ぶりに、街路をうろつく犯罪者から身を護るため、住人達は手のこんださまざまな罠を考案した。〈魔の罠〉と呼ばれるようになったのはそのためだ。君はこの都を通り抜けなければならない。
七匹の大蛇(ソーサリー! 3)
スティーブ・ジャクソン 著 浅羽莢子 訳 ジョン・ブランシュ画
四六版並製・254ページ 総項目数498 2004/5
本体1200円+税
○危険の迫るを報せねばならぬ。任務が漏れた! マンパンの眼が我らの企てを盗み見、今も報せが闇の砦に向かいおる。任務の報せは、大魔法使いの最も信を置く配下なる七大蛇により、ザメン高地に運ばれつつある。七大蛇は、七手に分かれた。可能なれば七大蛇を探すべし。
諸王の冠(ソーサリー! 4)
スティーブ・ジャクソン 著 浅羽莢子 訳 ジョン・ブランシュ画
四六版並製・350ページ 総項目数800 2005/3
本体1200円+税
○ついにたどり着いたマンパン砦。“諸王の冠”を取り戻すための旅も最終章を迎えようとしている。砦の守りは堅く、近づくだけでも命をかけなければならない。最後の難関スローベンドアを開け、大魔法使いを倒すことができるのだろうか? そして失われた呪文ZEDの正体とは?
……。
文字数ピタリに納める苦労がうかがえる文章ですな。
擬古調にしたのが失敗している部分もある気がいたしますし--。
一巻が貴方で、二巻が君というのも統一されておりませんな。
ま、それはさておき。
ストーリーの核は、『指輪物語』を思わせると申しますか、その逆展開と申しますか--。
あちらは、すべてを支配する「力の指輪」を山に捨てにいく話ですが、
こちらはちょっと性質が違うとはいえ、似たような冠を大魔法使いから取り戻す話ですからな。
それにしても、
この冠がないと国を治められない王様たちって無能……。
いやいや、そうではございますまい。
旧世界(「ソーサリー」の舞台)の野蛮さは人の手に余る、
ということなのでございましょう。
この設定は、ゲームブック本編にも活かされております。
つまり、平和だった地が野蛮に侵されているという、
その混交が挑戦のしがいのある冒険の舞台を、形づくっているのでございます。
さて、
このゲームブックで最大の特徴と申さば、魔法ルールでごさいましょう。
もちろん、魔法を使わないルールも「初級ルール」として用意されております。
魔法使いではなく、「戦士」として冒険するルールでございますな。
そちらは、能力的にもルール的にも、通常のFFシリーズと変わりはございません。
魔法を使用するルールよりも能力値が高く
(と申すより、魔法使いは技術点が2低い、といったほうがわかりやすいですな)、
魔法を覚えるという過程がないので、
すぐに始められるのは初心者向けと申せるかもしれませんが、
だからといって、これが「初級ルール」かどうかと申しますと、疑問が残ります。
と申しますのも、難易度的に楽というわけではないからでございます。
魔法なら切り抜けられるところでも、
剣一本とあとはパラグラフの選択で切り抜けなければならず、
そうなると、けっこうキビシー部分があるからでございます。
最後まで冒険を続けることを考えますれば、
魔法使いのほうが無難なのではございませんでしょうか。
「ソーサリー」というシリーズ名がございますとおり、
このゲームブックは、魔法使いでプレイすることを前提として作られていると思いますし、
魔法ルールがウリのゲームブックでございます。
大抵の方が魔法使いでゲームを進めるのではございませんでしょうか。
魔法ルールと申さば、『バルサスの要塞』にもございました。
が、このゲームブックのそれは、かの作品とは全く異なるルールとなっております。
とりわけ特徴的なのは、プレイヤーが魔法を覚えなければならないという点でございましょう。
魔法は、アルファベット三文字で構成されており、巻末の「魔法書」に記されてございます。
プレイヤーはゲーム開始前にそれをすべて覚え、本編に臨まなければなりません。
(特に必要な魔法6つが最初に書かれているので、それだけ覚えてチャレンジ
という方もおられるでしょうが、それではそのうち太刀打ちいかなくなります)
ゲーム本編では、魔法を使う場面になると、三文字言葉がいくつか選択肢として示されますので、
それを選んで魔法を発動するわけでございます。
選択が正しければ魔法は発動。間違っていると不発、
もしくは間違った結果が起こってしまうというわけでございます。
つまり、プレイヤーの魔法の習熟度が実際のゲームに反映され、それがプレイヤーのゲームへの没入感を高めるというわけでございますな。
要するに、のめりこむほどに面白いゲームと申すわけでございます。
さて、この魔法の覚え方についてでございますが、
山本弘先生のマンガ「私はこうしてソーサリーした」
(「ふぁんろーど」誌 1986年いちがつ号p.28-29)
に、先生ご自身が魔法を暗記した方法を一部記しております。
それを、以下に引用しておきましょう。
○敵を焼き殺しほっと(HOT)する。
○黒い仮面で敵はがくがく(GAK)。
○巨人の骨で巨人呼ぶ(YOB)。
○超能力でが罠を指す(SUS)。
○言うこと聞け、このやろう(LAW)。
○攻撃かわしてフォッフォッフォッ(FOF)。
○宝の幻、だすんだどーん(DUD)。
(赤い字の部分は原作では上に点)
ご参考までに
さて、
そのような、特徴的な部分にばかり目が向いてしまいがちでございますが、
物語的な面白さももちろん見逃すことはできなせん。
と申しますよりも、それなくばこの大部がプレイされることはなかったことでございましょう。
この物語の豊潤さは、『モンスター誕生』において結実するもの
(ホントは、小説『トロール牙戦争』と申したいところでございますが、
読んだことがございませんので……)。
と申しましても、
ここでの物語的な面白さは、
全体的な流れの面白さもございますが、それよりもむしろ、各場所でおこる様々なイベント(そこにはもちろん、魔法の結果も含まれます)に注がれているように思えます。
パラグラフやページ数の制約から解きはなたれて、自由に
(思う存分とまではいきませんのでしょうが、
それでもいつものシリーズとは格段の差でございましょう)
展開していったらここまでやれる、とでもいうように、
次から次へとアイデアを繰り出しているのが魅力的でございます。
まっ、骨が折れるのはご想像のとおりでございますが、
やはりそれは、挑戦しがいのある、と表現すべきものでございましょう。
……。
と、ここまで書いてきて、申すのも烏滸(おこ)なのでございますが、
実を申しますと、わたくし、このゲームブックをプレイしたのは、かなり後のことなのでございますよね。
それも、かなり急ぎ足で。
必要に迫られてというわけでもございませぬが、近い感じの状態で。
だって、このブ厚さ--。
しり込みして、ついつい後回しに……。
ですから、魔法とか、ちょいちょいズルしたよーな……。
そんなわたくしが申しますのも変でございますが、
最初の印象は、「思ってたほど高難度じゃない……」でございました。
考えてみますれば、これだけの分量のものでございますから、
考えもなしに高難度にしたら、よほどの人以外、誰も寄りつかないものになってしまいますものな。
というわけで、
挑戦しがいのある、
さすがジャクソン、と申すべき難度に仕上がっている
ゲームブックにございます。
で、そういうゲームブックもあっていいのでございますが、
困ったことにわたくしは、そうした「攻略」を主眼としたゲームブックを目指していないのでございます。
ゲームブックのウリの一つといたしまして、「何度でもプレイできる」ということがございます。
が、攻略を主体としたゲームブックの場合、この意味合いが微妙にずれてまいります。
すなはち、「何度でもプレイできる」というよりもむしろ、「何度もプレイしないと楽しめない」という具合になるのでございますな。
わたくしといたしましては、何度もプレイしなければ本当には楽しめない、ではなく、
単純に何度でも楽しめる、ものをめざしていきたいものでございますから、
自分で作るとすれば攻略を主眼としたものにはならないつもりでございます。
具体的には? でございますか?
ふぅむ、難しゅうございますなぁ……。
ゲーム的な面から申しますれば、わたくしにとっては
『火吹山の魔法使い』はそれでございましたな。
適度な長さ、適度な妖怪の強さ……。
攻略を旨とすると、簡単な部類に入ってしまうのでございましょうが、
ゲームとしては、勝ったり負けたりできて楽しかった記憶がございます。
ゲームブックの遊びとしての要素では、
『魔城の迷宮』でございますか。
この書は、攻略的にも楽しめますが、単純に迷路ゲームとしても楽しいのでございますな。
ですから、攻略が終わったあとでも、
ここからここまで、というふうにスタートとゴールを決めて、
何度も何度もルドゥスをさまようことができるのでございます。
物語的には、マルチエンディングで、そのエンディングに優劣のあまりないタイプ。
まあ、優劣がある場合もございますが、明確な序列がないタイプでございますな。
具体的には、
『天国か地獄か恋と遊ぶゲーム』や
『ダービースタリオンゲームブック』あたりを挙げておきましょう。
もっとも、『ダービースタリオンゲームブック』は知っていても、
『天国か地獄か恋と遊ぶゲーム』は、ご存知ない方も多いやもしれませぬが。
『天才コンピュータAI-32』など、講談社から出版されたバンタム社のいくつかのゲームブックもこれに含まれますが、内容量の問題でちょっと……でございます。
エンディングがいくつもあって、それらに優劣があまりないのであれば、攻略というよりも物語を楽しむことがメインとなりますな。
実際には、攻略的な要素もあるとか、すべてのエンディングを見るのには攻略的な方法が必要になってくるだろう、という意見もございましょうが、まぁ、
「何度もプレイしなければ楽しめない」ではなくて、
「何度でも楽しめる」、ゲームブックではございましょう。
「ゲームとは攻略する物という前提」という松友健先生の御言葉
(どういう文脈で書かれているのかは、「難易度について(ちょっとしたこと)」の記事からリンクをたどってくださいませ)は、
ゲームックとして正しいし、主流の考え方だと存じます。
FFシリーズもそうですし、東京創元社のゲームブックもその考えに基づいておりますしな。
傑作といわれるゲームブックは、みなそうでございましょう。
ただ、攻略を主眼といたしますと、フェアなプレイというものが崩れてくるような気がするのは、わたくしだけでございましょうか?
攻略を主眼とすると、フローチャートやマッピングが必須となってまいりますな。
そうすると、ショートカットとかしたくなりません?
戦闘とか面倒くさくなりません?
特に、大長編だったりすると。
……。
コンピュータRPGですと、セーブとリセット前提でゲームバランス組んでいたりしますよね?
日本では、ゲームブックの歴史は、家庭用コンピュータゲームの歴史とともにございましたし
(英国では、いざしらずではございます)……。
同じようなプレイスタイルをとりたくなるのは理の当然……。
……。
う~む、書かなかったほうが良かった……のかも。
とにかく、うさぎにつの、
ゲームブックにおける難易度の上昇は、
そのようなアンフェアなプレイの結果にもあったような気がいたします。
それを是とするか非とするかもまた、微妙なところ。
フェアなやり方ではよほど運がよくないと解けないだろう、ってなゲームブックもございますからな。
でございますから、そのゲームブック次第、ということになりますが、
1~2度プレイしてみて、これは無理だわと思ったら、段階を経ていろいろやってみる
というのが、
まっ、優等生的な答えではございませんでしょうかねぇ。
もっとも、プレイ時の状況やさまざまなことが重なりますゆえ、そんなにきれいにはまいらないと存じます。
ですから、せめて、プレイした方は、
どのような状態でプレイしたかだけは、きちんと報告してもらいたいものだと存じます。
※ 基本的には、フェアなプレイが一番なのはいうまでもないことなのですけどね!!
ネット上で、ものすごくフェアにリプレイを綴っていらっしゃる方もいらっしゃいますし……。
やっぱり、書かなかったほうがよかったかなぁ……。
ただ、パズル性のある物語というのは、
作者が難しくしようと思っていると、
作者の思っている以上に読者(プレイヤー)にとって難しくなってしまう
ことがしばしばございますな。
ファミコンのゲームもそうですし、ミステリ小説などでもそうでございます。
作者は、そのゲームなり物語を熟知しておりますから、
このぐらいのことはわかるだろうと思っておりますと、
思わぬところに読者は引っかかってみたり
……などとということもございます。
加えて、ゲームブックには、ゲームブックゆえの特殊性もございます。
一つには、
プレイヤーが自分ですべてをやらなければならないということ。
コンピュータを介するゲームのように自動的にデータが記録・更新されるわけではございませんし、TRPGのようにゲームマスターがいるわけでもありません。
判定したり、記録したりをプレイヤーはすべて一人でやらねばならないのでございます。
その煩雑さの段階で、すでにゲームブックは難易度を一つ上げているとも申せましょう。
それは、ゲームブックのプレイヤーならば、誰もが心得ていることだろう、ですって?
確かにそのとおり! でございますが、
心得ていようがいまいが、そこのところが単純にいって、ひと手間な部分には変わりございません。
それが、ゲームブックへの道を狭くしていることは確かでございましょう。
もう一つは、
ゲームブックがジャンルクロスオーバーな作品であるということでございます。
戦闘ルールがあり、フローチャートにパズル性を仕込め、
しかも、表だったパズルも挿入できる--。
(さらに物語的な難解さを組み込むことも可能ですが、そこまではここでは論(あげつら)わないことにいたしましょう。なぜなら、実際問題といたしまして、そのようなゲームブックあまり例がないからでございます)
その一つ一つはそんなではなくても、組み合わせてしまうと難しくなる
ということは、よくあることでございます。
たとえば戦闘だけに限ってみても、互角でなんとか勝てるだろう、という敵でも、連続して勝ち続けるとなると、その確率はどんどん下がっていくものでございますからな。
さらにパズル的要素も必要だな、とか、試行錯誤もある程度ないと……、
などと考えて、サドンデスのパラグラフを加えていくと、
ゴールへの道はさらに狭き門となる……。
まぁ、こういうことは、ゲームブックのプレイヤーならば、誰もが経験していることでございましょう。
またそれを、
マニアックな読者(プレイヤー)が、「簡単だった」とか、「なんてことなかった」などとあおったりいたしますと、さらに難易度を高める結果に……、
などというのことはよくあることでございますな。
それは、ブームが沸騰していい状態ということでもあるのでございますが、
そういうことをいうのは、読者が若い(成熟していない)ということであり、
つまりは、そのジャンルも若い状態であるということである一方、
そうしたマニアックな声を鵜呑みにして難易度をどんどんあげてまいりますと、
結果としてそのジャンル全体が難しいという印象を受け、ブーム自体が衰退してしまう。
そのような例はよくあることでございます。
ゲームブックも、まぁ、そうだったのではございませんでしょうか。
(前回より続く)
もちろん、難易度と申しましても、どういうものであっても高いほうが良いと申すものでもございません。
まず、ランダム要素で高められた難易度はその限りではございませんな。
戦闘や運だめしが難しいから難しいゲームブックというのなら誰にでも作れましょうし、
それに勝利しても、単に運が良い人というだけでございますから。
お定まりの仕掛けによる難易度アップも同様でございます。
例えば、脱出ゲームなら、クリックポイントをシビアにしすぎたり、煩雑な作業を要求したりするのがそれにあたりましょう。
ゲームブックで申しますれば、無意味な迷路などでございましょうか。
アドベンチャーゲーム(ゲームブックもその中に入ります)と申しますのは、
作者から読者(プレイヤー)に対してなされた挑戦なのでございますから、
それが挑戦のしがいのある、フェアなものでしたら難しくてもよろしいものでございましょう。
それに対して、今上に挙げたような、ただ難しくするだけのための難しさというものは、意味がない、排除されるべきものだと存じます。
ゲーム、そしてゲームブックはエンターテイメントなのでございますから、
読者(プレイヤー)が面白くない、やる気が起こらない というものは、一般的に申しまして、排除しなければなりませんでしょう。
『夢幻の双刃』の作者、松友健先生のブログ、「駄人間生誕外部」4/15の記事「夢幻の双刃の評価」に次のような文章がございました。
ぬう。まさか「ベストエンドへ行くのに解析の必要があるなんてしんどい」と言う人がいるとは……。自分的には、ゲームとは攻略する物という前提があるのだ……。
いいんじゃございませんかねぇ。
難易度が高いというのは、この場合褒め言葉でございましょう。
誰でも楽しめるようなゲームブックを作っているのではなく、歯ごたえのあるものを望んでいるプレイヤーに向けて作られたものなのでございますから。
まあ、作者というのは、すべての人が楽しめるものを提供したいと思っているはずですし、そうでなければとも思いますが。
まぁ、失敗したほうが得、というのは、ゲームブックを考えていると、誰でも思いつくことではございましょう。
でも、うまくいっているとクリア不可というのは、ゲーム的にはありえませんな。
では、物語的には?
ゲームブックは、ゲームであると同時に、物語でもございます。
そのため、ゲームとしてみた場合と、物語としてみた場合の二つの側面から論じられるべきでございます。
ゲームとしてみた場合には、成功には報酬を、失敗にはペナルティを、という考えが当然でございましょう。
しかし、物語としては必ずしもそうではございません。
失敗したけど、あるいは、失敗したら、うまくいっちゃったというのは、ギャグなどでよくある例でございますからな。
そこが、ゲームブックに“失敗したほうが成功”という、何とも変な状況を割り込ませる要素となっているわけでございます。
さて、この相反する状況をどうすればいいか?
これも2つのケースが考えられます。
まず、判定要素がない場合。
パラレル小説型と呼ばれるヤツですな。
戦闘ルールや技能チェックがない、もしくは意味合いが軽いゲームブックの場合。
この場合は、物語要素が強く現れているわけでございますから、話の展開次第ではアリでございましょう。
うまくやったと思ったら、失敗……。
そのような理不尽なデッドエンドも、説明がつけば(しぶしぶ)納得できることもございますし、逆にその理不尽さがウリとなっていることもございます。
(まあ、それでもやはり、納得できない場合も多ございますけどね。
FFシリーズでも、判定なしにバッドエンドはございますな。
それで納得できないことも……。それと似たようなものでございます)
もう一つは、失敗すればクリア、成功すればクリア不可というような、極端な話ではございません。
が、ゲーム性と物語性を両立させつつ、失敗したほうがお得感がある方法でございます。
どういうことかと申しますと、
成功すれば、すんなり障害をパスできるけど、
失敗すると、目標にたどり着くのにさらなる展開が必要となる。でも、そのイベントが楽しい。
という仕組みでございます。
つまり、失敗したほうが面白い展開が用意されている、ということでございますな。
単行本として発売されたものとしては日本初のゲームブックの一つに
『騎士ローラン妖魔の森の冒険』(朝日ソノラマ)がございます。
このゲームブックの後書きに、次のようなことが書かれております。
あなたは小説や,映画を見ていて,たとえば主人公が悪役の罠にはまったりした時,(なんであんな単純なトリックに引っかかるんだろう?)とか,(僕ならああいう判断はしないな)などと考えたことはありませんか? あるいは,(私ならこちらの道を選んだのに。そうしたら一体どんな展開になっていただろう?)とか……。
この本はそういった,たくましい想像力をお持ちのあなたのために創られました。
これは、ゲームブックの説明として、非常に基本的なものだと存じます。
でも、考えてみてください。
映画などでは、しばしばそのような場面が登場しますが、
でもその「僕なら~」を採用した場合、本当に面白い話になるかどうかを……。
もちろん、そうなる話もございましょう。
でも、そうではない話も多くございます。
たとえば、
『ダイ・ハード』や
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は
失敗が面白い展開を生んでいく話だったように存じます。
主人公が完璧な行動をしていたら、お話にならない場合さえございましょう。
TRPGでも、判定に失敗したから面白くなったという例はございましょう。
と申しますか、もし失敗にシビアな要素しかないのだとしたら、
マスターの意味など半分になってしまうでしょうし、
TRPG自体の面白さも半減してしまうことでございましょう。
『ディオゲネスクラブ殺人事件』というゲームブックがございます。
シャーロック・ホームズもののゲームブックと申しますと、二見書房の『10の怪事件』が筆頭に挙げられますが、個人的にはホビージャパン社のこのゲームブックのほうが、ゲームブックらしくわかりやすくて好みだったりいたします。
一回しかプレイしていないので、実際のところはわからないのですが、
このゲームブックでおもしろいのは、判定に失敗しても、続きがあるということでございます。
成功していたら簡単にいきそうなところで、判定に失敗して、こりゃダメかな、と思いつつページをめくると、ちゃんと展開が用意されている。
こういうゲームブックだと、判定に失敗しても、ズルをしないで結果に従おうという気になるというものでございます。
あとは、『SDガンダムガシャポンウォーズ』。
このゲームブックの場合、判定に失敗した場合、デッドエンドなのはデッドエンドなのですが、
それが単に「君は死んだ」ではなく、ちゃんと工夫されていて楽しいのでございます。
ただ、このゲームブック、戦闘は主人公が勝ちやすくできているので、
デッドエンドになかなか行きあたらないという……。
わたくしも、ゲームをクリアして、あとで全体を読みなおして、改めて気づいた次第でございます。
このように、失敗しても面白い、というゲームブックなら、ゲーム的にも物語的にも条件を満たせると思うのでございます。
ただ、こうしたゲームブックは、けっこう少ないのですな。
理由は、作るのに面倒だからでございましょう。
ルートがそれだけ増えるのでございますから。
加えて、正解ルートでとおるパラグラフがそれだけ減るということでございますから、
ある程度のページ数がないと、満足できる作品にはならないのでございます。
そのため、判定に成功し続けてクリアした人からは、なんだこれだけ? と感想を持たれそうでございます。
正解ルートでより豊かな物語を読ませたい、しかもページ数の制約がある……、
となると、どうしてもメインの物語が中心になってしまいますな。
☆ ☆ ☆
失敗と申せば、『カイの冒険』は、エンディングが必ず失敗ですな。
どんなにがんばっても、ドルアーガに囚われに行く旅でしかない。
これについて、以前賢者の石井文弘さまに手紙で話題にしたところ、
もし、カイがドルアーガをやっつけてしまったら、ギルガメスの冒険がなんだったんだ、ということになる、
と、いうような答えが返ってきて、それはそれで正しいと思うのでございますが、ありえないレベルのシビアな判定で、カイがドルアーガを倒すというエンディングもいいと思ったのでございますよね。
もっとも、それでも、そのような可能性があると、やはりギルの冒険の意味は薄れてしまうかな?
特に、ゲームブックはズルができますし……。
難しいところではございます。
ププププーさまのブログ、2009/04/10日の記事「黒き血脈の予言の罠」に、次のようなことが書かれておりました。
この「黒き血脈の予言」というゲームブックでは、
ゲームをクリアするために、運試しに失敗しなければならない らしいのですな。
で、これはアリなのか と。
この作品をわたくしはプレイしておりませぬので、具体的なことは申しあげられませぬ。
が、一般的にはナシでございましょう。
当然ながらゲームブックは、ゲームとしての側面を持っております。
ゲームは、成功には報酬を、失敗にはペナルティを、というのが基本でございますから、
成功がペナルティとなるというのは、あり得ませぬ。
そういう意味において、これはナシでございます。
ただし、次の二つの場合には、成功したらクリアできない、という部分を組み込んでも良いように思います。
一つは、能力値を高く設定しているプレイヤーにたいする警告。
PCの能力値をいつも最高レベルに設定してプレイするプレーヤーはよくいるので、
作者がそれに対してペナルティを与えたくなるのも当然でございましょう。
いわば、失敗ではなく、反則に対するペナルティでございますな。
ゲームブックは自己申告のゲームでございますから、イカサマに対する作者側のチェックというのは基本的にできません。
そこで、このような方法を導入するというのは、考えとしてはアリかとぞんじます。
(確か、『ラプラスの魔』は、一度死なないとクリアできないのではないでしたっけ?)
ただしその場合、運点が低くてもクリアできる難易度である、
ということが作品の必須条件になってくると思われます。
運点が低くないとクリアできないのに、運試し自体が多かったり高い点を要求しているのでしたら、いたずらに難易度を上げているだけですからな。
※ 14日の記事を読みますと、やはり、いたづらに難易度を上げるための存在だったようでございますな。
もう一つは、ゲームブックに対する考え方の問題でございます。
もし、作者が、ゲームブックを、
“何度も失敗して成功へとたどり着くアドベンチャーゲーム”、
として捉えておりますのならば、どんないやらしい仕掛けもアリとなりましょう。
その場合、運試しに失敗しないとクリアできない、というのが謎であり、
それを解くことが成功=クリアへの道、となるからでございます。
まぁ、それを言ってしまったら何でもアリになってしまうのではございますけどね。
でも、実際に、解決に理不尽なことを要求されるアドベンチャーゲームやゲームブックは多いものでございます。
その場合、マッピングでもフローチャートでも、丹念に書いて、とにかく解け、ということなのでございましょう。
このように、何でもアリ、と考えた場合、それがアリかどうかは、プレイヤーにゆだねられるものだと存じます。
で、場合、アリかどうかは、面白いかどうかにかかってくるのだと思いますな。
つまり、物語の展開とうまく絡まっていたり、ゲームバランスのために貢献しているかなどと申すことですな。
ププププーさまが、アリかを問題にされているのは、結局、運点が低くなければゲームをクリアできないという条件が、ゲームを面白くする要素となっていないからだと思うのでございます。
一般的に申しましても、
失敗しなければクリアできない、というのは、思いついたときには画期的に思えるのですが、実際にやってみると面白くない、というケースの一つだと思いますな。
さて、それでは、原作と申しますか、社会思想社版との違いについて見てまいりましょう。
社会思想社版では、作者であるJ・トムスン、M・スミス両先生の名前が書かれていたのに、今回は、英語表記の、いわゆる奥付に当たる部分のみ。
作者の名前は、スティーブ・ジャクソン、イアン・リビングストンということになっております。
ジャクソンとリビングストンの名で売っていこうという考えなのでございましょうか。
何か、コンピューターゲームで、実際の開発メーカーの名前が表に出ないのを想像させます。
作品だったものが商品と認識されている感じがして、
文学部ゲームブック科といたしましては、好きになれない表記でございます。
社会思想社版と、ホビージャパン版で大きく違っているのは、ネーミングでございますな。
社会思想社版、すなはち松坂健先生の訳は、日本語の固有名詞など、原作者がこう書きたかっただろう言葉に置き換えて訳しております。
これが、一般的な訳し方でございましよう。
対して、ホビージャパン社版、デジタル・メディア・ラボ社の訳は、
松坂訳とは違うものにするという制約があったのでございましょうな。
面白がっているのか苦労しているのかは存じませんが、ちょっとひねった語が当てられております。
たとえば、こんな具合ですな。
松坂健先生訳 ゲームブック・ラボ社訳
八幡国 蜂漫国
鍔鳴りの太刀 鳴海の太刀
長谷川喜平 馳皮奇兵
今市 紺壱
鬼軽 御仁駆
処水山 寿司牡胃山地
貞信公 津江鎮公
: :
: :
ゲームブック・ラボ社訳のほうは、無理な当て字があったりして、
それで笑いをとろうとしているのかな? などと考えますが、
無理して笑いを取りにいくと失敗する、という例のような感が否めませぬ。
思いついたものを見てまいりますと、
蜂漫国と申すのは、"Be(e) Comical"というシャレなのでございましょうな。
「鍔鳴りの太刀」「鳴海の太刀」は、原作では"Singing Death"となっているようでございます。
どっちが良いかと申しますと……、う~む。
原作の「歌う死」のほうがカッコいいような……。
日本の話ではなくなりそうな気もいたしますが。
あと「悪死」の旗印が、亡霊武士(死霊サムライ)(パラグラフ82)のものだったのが、主人公の旗印に変わっております。
「悪死」は"Evil Death"の訳語だと、確か「ウォーロック」誌に書いてございました。
それを
「悪には死を与えて罰する」
と、主人公の旗印にしてしまったのは、
主人公を表紙に描くというホビージャパン版の選択ゆえでございましょう。
原書は逆に、主人公は描かれておりませぬ。
おそらく、主人公は無色透明のキミという観点からでございましょう。
その表紙に描かれていたのが「悪死」の旗ざおを持つ亡霊武士で、
そのインパクトが非常に強く、
『サムライの剣』といえば、「悪死」の旗印というイメージが刷り込まれてしまいました。
そこで、
この「悪死」の旗印と主人公を同時に描く必要上から、
ホビージャパン版では、「悪死」が主人公の旗印となったのでございましょう。
まあ、そうした違いを些細なものとしてしまう変更点が、
このゲームブックにはございます。
ご存知のとおり、イラストですな。
原作のイラストは「ここ、どこ?」ってな感じの、間違った日本観バリバリの、しかもファイティング・ファンタジーらしいリアルなイラスト。
対してホビージャパン社版のそれは、現在のライトノベルらしい絵柄。
二つが同じもの!? という感想は、このシリーズ共通のものでございましょう。
ですが、特に今回は、日本に似た場所が舞台となっているだけに、それが特別なものとなっております。
間違った日本観大好き!! という方は、ぜひとも社会思想社版を手にとってくださいな、
とだけ申しあげておきましょう。
4月1日、ついに『サムライ・ソード』が発売とあいなりました。
社会思想社版の『サムライの剣』でございますな。
つまり、これ(『サムライ・ソード』)も購入可能なゲームブックの中に入ったわけでございます。
まず、社会思想社版を知らない方にむけて、結論を書いておきましょう。
このあと、原書(社会思想社版)との相違について書いてまいりますが、
そんなものはナシにしてプレイしたほうが楽しめることでございましょう。
『デストラップ・ダンジョン』や『ハウス・オブ・ヘル』のときも書きましたが、このシリーズは、FFシリーズの装いだけを変えて出版された、いわばお色直しバージョンでございますから、ストーリー展開やゲームバランスなど、基本的な部分については手を加えられておりませぬ。
装いを変えた部分についても、原作とは異なるテイストではございますが、読みやすく楽しめるものとなっております。
原作のテイストとの違いについては、これはもう仕方がないことでございましょう。
申してみますれば、あちらは天然でございますからな。
天然ボケのキャラをあなた自身が演じて、もっと面白くできるかどうか想像してごらんなさい。
天然ボケのすごさは、予想のつかないことにあり、
それを超えるとなると、今度は逆にさらに高度なギャグセンスと知性が必要になると思われますからな。
原作とテイストを変えたのは成功、と申しますよりも、
必然、とさえ申してよろしいでございましょう。
さて。
『地獄の館』
(この方が言いやすいので、それで勘弁してくださいませ)は、
スティーヴ・ジャクソンが、のちほど出てまいる予定の、
大著『ソーサリー』を書き上げたあとの第一作となる作品でございます。
大作を書き上げたあとですから、
今度は逆に、
400パラグラフという制限の中に、フローチャートのパズル性を思いっきり詰めてみよう
とでも、考えたのでございましょうか。
作家と申すものは、得てしてそんなことを考えるものでございます。
とにかく、難しい……。
その難しさは、リビングストンの難しさとは異なっております。
リビングストンのそれは、
一つ一つの罠の難易度が高かったり、
出てくる怪物が強かったり、
ルート選択にしても、ああ、これを探せばいいんだなとか、
ある程度見当がつく謎だったりするのですが、
ジャクソンのほうは、そうはまいりませぬ。
たしかに、あれを探せば--というのはあるのでございますが、
複雑に絡み合うルートの中にそれが隠されていて、
どこをどう通ったら手に入れられるかわからない。
どこをどう通ったら生き残れるのかわからない、
そういう謎なのでございます。
そのために、難易度が高くなっているのでございますが、
一方で、これはゲームブックの特徴でもあるのでございますな。
よく、ゲームブックはTRPGと比較されますが、TRPGではこれができない。
そんなにタイトに物語を作ってしまったらプレイヤーに怒られますし、
何度もトライすること前提でなければこうした罠は仕掛けられないからでございます。
こうしたゲームブックの要素は、
アドベンチャーゲーム(とくに、テキストアドベンチャー)から取り込んだ要素なのでございます。
『ミステリーハウス』や『ゾーク』など、今では古典的とも申せるアドベンチャーゲームを、
わたくしはあまりプレイしたことがないので、よくは存じ上げないのでございますが。
ともかく。
そんなわけでございますから、戦闘に勝ってももうそこは蟻地獄。
どうあがいてもバッドエンドの袋小路、という場面もございます。
さらに難易度を高くしているのが、恐怖点の存在ですな。
このゲームブック、最短ルートをとおっても、8点は恐怖点が加算されるのだとか。
つまり、恐怖限界点は9点以上でないとクリアできない ということだそうでございます。
恐怖限界点は、[サイコロ一個+3]でございますから、
平均といえば平均なのでございますが、それが最低必要な点数となのでございますから、けっこうハード。
要するに、ヒイラギマキ様は相当タフな女性ということでございますな。
でも、それではイメージにあわないと申す方もおられるでしよう。
マキは、もっとか弱い女性--、とおっしゃる方もいらっしゃいましよう。
そういう方のために、少々考えてみました。
このような変更はいかがでございましょうか。
恐怖限界点と現在恐怖点で、
たがいに2個ずつサイコロをふって、
戦闘の要領で比較しあう。
で、
限界恐怖点の方が勝っていたらまだ平気、
というルールでございます。
これだと、恐怖限界点を越える前にゲームオーバーになるかもしれませぬし、逆もまたありえます。
なによりもサイコロをふる楽しさが発生しますし、
スリリングで面白いことでございましょう。
さらに加えて、鈍感点なるものをみるのもいいかもしれません。
具体的には、
1.12から恐怖限界点を引き、出た目に2を加える。
12-(恐怖限界点)+2
この数字が、マキの「鈍感点」となる。
2.「恐怖点を○点加える」という指示があった場合は、
恐怖点1点ごとに、サイコロを2個ふる。
3.1と2を比べて、「鈍感点」の方が勝っていた場合、その恐怖点1点は加算しない。
つまり、鈍感なあまり、恐怖の出来事だったということに気づかなかった、ということでございますな。
これだと、ボケボケなキャラクターが表現できて、よろしいかもしれませぬ。
((1)の「12-(恐怖限界点)」は単純に、
「サイコロ一個の出目(1d)」
でもいいかなと考えたのでございますが、
そうすると、恐怖限界点も高くて、鈍感点も高いキャラクターができて、
ちょっと有利すぎな感じがしたのでやめておきました。
まあ、面白ければ、それでもよろしいのですが。)
さらに
それでも難しい。
戦闘ルールって、サイコロをふるのに本を置かなくっちゃならないからめんどう、
という方がおられるかもしれません。
それならば、いっそのこと戦闘はすべて勝ったことにして進めても問題ないと存じます。
最後の戦闘に関しましては、
クリスナイフを持っていれば勝ち、持っていなければ負け、ということで。
この『ハウス・オブ・ヘル』という作品は、最後のほうの敵以外、そんなに強くないのですな。
それはまあ、武器を持っていないために最初の段階では自分も弱いということもあるのですが、
そのことはひとまづ措くといたしまして。
このゲームブックの特徴は、戦闘よりもそのフローチャートの中に組みこまれたパズル性にあるのでございます。
そのパズル性に集中するために、戦闘をオミットしたいと申すのなら、それはそれでアリだと思うのであります。
最後の敵は強いのでございますが、クリスナイフを見つけるとことも同じぐらい大変なので、戦闘をナシにして、難易度を下げるというのは、アリだと思うのでございます。
せっかくここまで来たのに、サイコロ運が悪くってエンドになったら目も当てられないですからな。
それでもクリアできなければ……。
数値を上げるなり、フローチャートを描くなり、すべての項目を読んでみるなり……。
もう、とにかくあらゆる手段を試してみてよろしいと存じます。
そこらへんは、自分の裁量で。
ただし、最初に自分で決めたルールは、最後まで貫くこと。
途中でフラフラと変えるよりも、そのほうが面白いと存じます。
ゲームというのは、ルールのもとでの娯楽なのでございますから。
まあ、これには反論もございましよう。
どんな場合でも、ルールを曲げるのは、間違っている。
それは、制作者の意図に反する行為だ。
それはそれで、非常に正論なのでございますが、
制作者の想定するプレイヤーと、
実際にプレイする「君」とでは、通常違うものでございますからな。
それに何よりも、
途中で放り出して、積みゲーの神さま に許されるよりは、よっぽどよろしいと思うのでございます。
ただ、お願いしたいことが一つ。
そうやって、正規の方法ではない方法でゴールした場合、
「簡単だった」とか「大したことなかった」などとは決して言わないでください。
そういうことが、FFシリーズの難易度を上げていったような気もするからでございます。
☆ ☆ ☆
ヒント:
ノスクカジェイ・エベッツさまのブログ、「社会思想新社」の
「原書を調べないと分からない事 地獄の館 House of Hell篇 」を読みますと、
パラグラフ93のこぶ男のセリフは、
「合言葉……
新しいほうは確か--。
……。
くっ、思いだせん。
ドゥラマー[Drumer]? 違う、それはこの館そのものじゃないか! それじゃ、バラバラのまぜこぜだ!!
あ、あんたが悪いんだぞ! あんたが、酒なんか飲ますもんだから……」
てな感じがよろしゅうございましょうかねぇ。
ただ、ここで書かれている訳の不備に関しては、それほど問題ではないと存じます。
と申しますのは、このヒントに対応する箇所は、
パラグラフ237でございますが、
選択肢の最初の一つは、こぶ男の言葉によって否定されておりますし、四つ目は「館そのもの」でありえないでしょう。となると、ニ択。まあ、ニ択ぐらいは……だめですか?
いずれにせよ、翻訳と申すものは難しいものでございますな。
こちらも、主人公を女性に変えてございます。
イギリスに留学中の女学生だそうで--。
西洋館だからと、何も舞台をイギリスにしなくてもいいのに……、
とわたくしなどは思いますけどね。
『霧の中の悪夢』
(小野寺紳 作/有村コーシ/Wood Y 画・1985/08 成美堂出版)
なんて、
日本の山奥の
地図に載っていない地域を調査に行ったら、そこに西洋館が建っていて……、
という大雑把な始まり方をいたしますし--。
それはともかく原作では、
主人公が自動車で道に迷って山の中でーーと、
あまりにもオーソドックスなホラー展開でスタートいたします。
ところが今作は、主人公を、
同国の成年男性を想定していた原作から、
異国の未成年女性に変更してたものですから、
車を一人で運転することもかないませぬのですね。
そこで、
タクシーの中で寝込んでしまったら、いつの間にか山の中に置き去りにされた、
というプロローグに変えられたわけでございます。
ぱっと見、当たり障りのない導入ではございます。
ただこれですと、
なぜ運転手が、こんな山の中にタクシーを踏み入れさせたのか、
が疑問。
山一つ越えて帰らなければならないところに
ホームステイ先があるわけでもございませんでしょうに。
館の人間が、魔術的手段を使っておびき寄せた、
というのが一番考えやすいでしよう。
途中、それをにおわせる発言(73ですとか)もございますし、
でも、それだと館の住人が、何らかの動機が必要だと思うのでございますが、
そういうものがあまり感じられないのでございますな。
彼女を積極的にいけにえにしようとしているようにも思われませぬし。
もっともホラーなので、そこら辺はいい加減でよいのかもしれませぬ。
男性から女性に主人公が変わったことで、なんとなくおびき寄せられたというのがしっくりとくるような感じもいたしますしーー。
大体が原作からして、主人公の心の動きは曖昧ですものな。
単に館から脱出することだけを考えておればいいものを、
クリスナイフで悪魔を倒すことが目的となる……。
主人公が無色透明であるがゆえに、そのターニングポイントは、曖昧でございます。
一応、脱出口は玄関のほかは地下の抜け道しかない(75)
と書かれておりますから、
それを探していたら、なんかナイフ見つけちゃって、
ボス敵に出会ったものだから殺しちゃった、
ってことなのやもしれませぬが。
プロローグはそのようなのでございますが、
エピローグも大きく変わって……。
いえ、そうではございませぬな。
原作にはエピローグなどございません。
ただ、地獄の館が全焼して終わります。
それに対して、ホビージャパン版では、主人公、ヒイラギマキ様の後日を描いております。
どうやってホームスティ先までたどりついたのかな? と思いましたら、
「どうやって戻ったかほとんど覚えていない」
……。
まっ、賢い解決方法ですな。
実にホラー映画的でございます。
で、ここで唐突に携帯電話が登場します。
忘れていたのだとか……。
普通なら、はじめのほうで書きそうなものですが……。
作訳者も忘れていた、のでございましょうか?
さて、そのようにプロローグとエピローグは主人公にあわせて大きく変えられておりますが、
本文中の変更は、わかり易さに留意したという点以外は、それほどございません。
わかりやすさと申すのは、たとえば、400番。
社会思想社版ではここ、
「生き物」と「もう一人の敵」となっていて、
誰と誰、あるいは何と何のことなのかは、
ここを読んだだけではわかりませぬ。
これがホビージャパン版では、
はっきりとわかるように書かれていて、
前のバラグラフを覚えていなくても、読めるようになっております。
あと、主人公の心情も描かれており、
これも主人公が無色透明の存在であった原作とは違うところでございますな。
ただ、それだったら二人称である「君」はもはや必要もない気もするのでございますが……。
そう考えて改めて読み直しますと、
この本、人称がけっこう楽しいことになっているのですよな。
まず、最初は「彼女」と三人称。
次に、一行あけたところ、「気がついたとき」からは、人称なし……
と申しますか、 「自分」というのが人称の代わりに使われておりますな。
で、本文が「君」で二人称。
最後にエピローグが「私」で一人称。
一つの作品の中で、人称がこんなに変わるのは、けっこう珍しいかもしれませぬ。
ただ、これはある一定の効果をあげているように存じます。
つまり、
俯瞰から入って(三人称)、
主人公にカメラが固定し(「自分」)
さらに主人公視点になっていく。(二人称)
そして最後は、ふたたび、主人公にカメラが向けられる。
しかしそれは、「自分」のときよりも、より主人公よりの見方になっている……。
穿った見方と申されるかもしれませぬが、そのような映画的な手法を
作訳者は考えているのかもしれませぬ。