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2024/11/22 『赤毛のアン』が『アン・シャーリー』というタイトルになって2025年5月。Eテレで放映されるそうでございますな。キャラクターは以前日本アニメーションで製作された『赤毛のアン』をちょっと大人っぽくか、外国人に寄せた感じ。キャラクター原案:近藤喜文となるのかなぁ。基本的な服装などはどうあっても同じ感じになると思うので、あとは高畑勲先生へのリスペクトを表明するかどうかといった話になりましょうな。過去のアニメ作品をリスペクトして作られるってないですよねぇ。しかも小説などが原作としてありつつ。新しくていいと思います。
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 ただ者ならぬポール・ブリッツ様から、
ゲーム論に関するコメントをいただいたので、2019/05/28 (Tue)
ここでゲーム論を2つほど紹介いたしましょう
 どちらも基本だと存じます。

 わたくしは、多分この2つぐらいしかゲゲーム論って読んでいないかも、です。
 まず1つは、
昔、賢者の石井文弘さまに教えていただいたのが「コスティキャンのゲーム論」。
こちらは今でもネットで読めるみたいなので、検索してみてください
(相変わらずリンクは貼らないなー)。
 
 当時パソコン持っていなかったものでございますから、
賢者様、これをプリントアウトして、郵送してくださいました。
 
パズルとゲーム~ゲームの定義に関して~」に書きましたことは、
この論のパズルは静的である、というところから考えたものでございます。
 もう一つは、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間」。 
講談社学術文庫で出ておりますな。
 遊びと人間
『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ:著
多田道太郎・塚崎幹夫:訳
講談社学術文庫(1990/4)
 

 なにかの折に、ゲームについて考える場合必読
とか書いた文を目にして、読んでみた次第にございます。
 こちらの方について少し書いてみましょう。
(ホントは、ちゃんと書くつもりだったのですが)
 
 
     ☆       ☆      ☆
 

 まずカイヨワは、遊びに関して次のように定義しております。
 
(1) 自由な活動
(2) 隔離された活動
(3) 未確定の活動
(4) 非生産的活動
(5) 規則のある活動
(6) 虚構の活動
 
 このあたりに異論のある方はあまりございますまい。
 
 古い定義なので、新しいゲームにはそぐわないと
おっしゃる方があるいはおられるかもしれませんが、それはそれ。
ニュートン力学と相対性理論、
ユークリッド力学と非ユークリッド力学のような関係で、
たとえばネット上では変わってくるというようなことはあるかもしれません。
 
 でも、基本的には問題ないと存じます。
  
むしろネット依存とか課金の問題とかを見ると、
これを崩すと弊害が出るように存じますな。
 
 こうして定義した遊びを、彼は4つ分類するのでございますな。
 
(1) 眩暈(イリンクス)……「ぐるぐる遊び」など知覚を陶酔させる遊び
(2) 模擬(ミミクリ)……演劇など
(3) 運(アレア)……賭博などなど
(4) 競争(アゴン)……スポーツなど
さらに、遊戯(パイディア) ばか笑いなど
ルドゥス(競技) パズルなど 
という分類もしておりますな。
 
 これは主に一人遊びに対するもので、秩序のあるなしを示しております。
原初的な遊びから、規則のある遊びへ、ということでございますな。またこの分類は、意思レベルの度合いも結果的に表わすことになります。原初的な楽しみは人が意識しなくても楽しいことがあれば自然に湧き出てまいりますが、規則のある遊びに対しては意思を持って挑むものでございますから。
 
 遊びと人間、表  
 
この意思レベルの差に拠る2つの分類は、前の4つのそれぞれの分類にも適応されます。
 いわく、
パイディアは、眩暈(イリンクス)・運(アレア)と結びつきやすく
ルドゥスは、模擬(ミミクリ)・競争(アゴン)と結びつきやすい
 
 陶酔を楽しむことや、運だのみの遊びが意思力とは関係なく、
演劇やスポーツが意思の力を必要とするのはいうまでもないことでございましょう。
 
 これをまとめて、解説では次のような図を示しております。
 
 遊びと人間、表
 
  縦軸にパイディアとルドゥスを置き、
  横軸は判定要素があるかどうか。
  カイヨワの論を端的に示しておりますな。
 
  













    ☆     ☆     ☆
 
 とまぁ、カイヨワの論の基本はこんなところでございましょう。
 ホントなら細かく書かなければならないところをいろいろすっ飛ばしてきたので、
実際に本にあたってください。
 
 でないと、いつまでたっても書き終わりませんので。


 で、この論に対するわたくしの考えといたしましては、

 まず感じるのが、眩暈(イリンクス)の領域に入る遊びが単純で極端に少ない
 図ではすべての領域が同じになっておりますが、
遊びの数にしたがって面積を割りふったら、
この領域が最も小さいものになるのではないでしょうか。
 
 理由のひとつには、眩暈という名称にもございますな。
この単語から連想できる遊びはひどく少なく、また単純なものでございます。
 これは、後半カイヨワが、
現実の社会と結びつけて論を展開していったせいでございましょう。
 
 シャーマンが支配する混迷たる原始社会から、秩序だった西洋的な契約社会へ。
 
 遊びに優劣はないと書いてはいるものの、
そのような社会進化論的な考えがあったためにこのような形になったのだと思われます。
 
 では、どんな名称にし、どんな遊びを入れればこの分類のバランスが取れるのか。
 
 そうですね。
 わたくしは、「受容」という言葉を借りに考えております
 (ギリシャ語やラテン語はわからないのでパスで)。
 
 入れるのは、読者ですとか視聴者ですとか、観客ですとか、
そういうものすべてでございますね。
 
 観光やもともとの眩暈もこの中に入れておきます。
 要するに、五感のいずれかもしくはすべてで感じ、楽しむもの、でございます。
 
 
 
 カイヨワの分類では、スポーツ観戦の観客などは
模擬(ミミクリ)に分類されておりますが、
これは分けて考える必要がございましょう。
 
 実際に会場におもむいて声援を送りながらの観戦は、
ミミクリでいいと思うのですが、家でゴロ寝しながらテレビ観戦は
「受容」でいいと思うのですよね。
 意思レベルの差によってそこら辺は分かれるわけでございます。
 
 眩暈(イリンクス)を「受容」にすると、この図は実にバランスが良い。
 
 たとえば眩暈だけでしたら、
模擬領域に入るのはダンスぐらいでございましょう。
演劇に向かうようには思えません。
 それに対して、「受容」、つまり観客でしたら、
そこに意思レベルが加わった状態として演劇が入るのは、むしろ当然でございます。
 
「競争」(アゴン)から、意思や実力といったものを使えなくすると、
「運」(アレア)だけの遊びになるのに対し、
 
「模擬」(ミミクリ)からそれらを奪うと、
ただ受け入れるだけしかなくなるわけですから、
図としても対称になっていると思います。

 各領域に収まる遊びの種類も、ですな。
 ちょっと「受容」が多くなりすぎかもしれませんが、
ただ受け入れるだけの楽しみなので、それでバランスが取れていると存じます。
 
(* 追記:今思いついたのですが、
   縦だけではなく、横や斜めのベクトルもあり得るのかもしれません。
 
   スポーツなどの場合は、見ながらルールも覚えていくわけですからな。
   斜めに進んで競争(アゴン)領域に行くのかもしれません。
   その過程では、模擬的であったり運まかせであったりという
   曲折を経るのでございましょうが……。
 
   直接意思レベルの上昇である「模擬」だけではなく、
   そうした斜めや「運」の遊びへの横移動もございましょう。
   単純なサイコロ遊びなら、見てやってみようと思えばできますからな。
 
   カイヨワは「競争」と「眩暈」という斜めの遊びは
   結びつかないとお書きになっておりますが、
   それは個々の領域の遊びを比較してのこと。
    
   彼が原始社会から契約社会へという流れを考えていたように、
   この斜めのベクトルはあるのだと思います。
   
   そう考えると、
   「受容」領域の遊びの種類が多くなるのも当然ではございましょう)
 
 
 このように変えると、
それぞれの遊びの分類も少しずつ異なってくるとは思いますが、
そこはそれぞれの方がお考えください。
 
 あとは、図の縦軸・横軸につけられた名前も考える余地がありそうでございます。
 
 縦軸はそのまま、「意思」・「脱意思」でいいですが、
そこに「実力」という言葉も入れてもよろしゅうございますな。
 演劇にしろスポーツにしろ、実力によって左右される世界でございますから。
 
 横軸は、いろいろと考える余地がありそうでございます。
 この図の横にあった図では、横軸を「計算(脱所属)」・混沌(脱自我)」となっておりますな。
 
 わたくしといたしましては、「現実」・「虚構」あたりでいいと思うのですが、そうすると定義の「虚構」と重なってしまうのでちょっとマズい。
 でも、思うところは汲んでいただけましょ?
 
 もう一つの案は、Ⅰ図の言葉にちょっとつけ足して、「ルール(判定)」・「脱ルール(判断)」とするものでございます。小説の場合、物語は作者の判断によって決定されるものですし、ルールによらない社会も慣習やえらい人の判断によって成り立ってまいります。受容領域の遊びも、面白さは読者や体験する人次第。つまり感受者のの判断でございますからな。
 
 
    ☆   ☆   ☆
 
 
 こんなところでございましょうか。
 とにかく、この2つは、ゲームを考える上で基本と思いますので、読んでおいた方がよいと存じます。
 

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こんばんは。
こんなジャンルの本があるのは知らなかったです。
ゲームブックは模擬辺りに入るのでしょうか。
最近の記事を見ていて、色々ゲームブックやってた頃の事思い出しましたが、頭の中から出てきたのはやってた時のドキドキ感と詩的魔神ぐらいでした。
タウルス 2020/09/24(Thu)23:05:52 編集
カイヨワの時代には、ストーリーゲームというものは存在しませんでしたから、考慮はされておりません。
 ただ、ストーリーゲームという言葉からもわかるとおり、このジャンルのゲームはルール・脱ルール、両方の性質を備えているので、すべての領域に渡ると考えていいでしょう。
 そのため、RPGはゲームでもありストーリーでもあるパーフェクトな遊戯だと主張する方もおられるような気がいたしますが、実際にはそういうものでもございません。
 よくコンピュータRPGなどで、ゲームとストーリーの融合という言葉が宣伝文句として使われたりいたしますが、それが宣伝文句として使われるということは、ゲームとストーリーはそれほど融合しないということなのですね。
 コンピュータRPGのストーリーにしても、別に戦闘不可欠じゃございませんよね? ストーリーも面白い、戦闘も面白いので面白いゲームにまとまっているということはございますが、戦闘ばかりが続くとストーリー忘れちゃったり……。
 そこら辺は、今後書くと思います。
 
 まっ、それはそれとして、
 この2つは、読んでおくとよいと思います。
 カイヨワの著書は、1958年のフランスですし、わかりにくいこともあるかもしれませんが。
 両者とも、ゲームについて考えさせてくれると思います。
道化の真実 2020/09/24(Thu)23:53:37 編集
ちょっと考える
わたしはPCで「ライフゲーム」をするためにスイッチを入れ、プログラムを入力する。PCがランダムでドットを置く。ルールに従ってPCがドットを消したり出したりする。わたしはそれを見ている。

その時わたしはゲームをしているのか。カイヨワの論では、「ルール」に従ったうえで「脱意志」状態ではあるが、わたしは運を賭けているわけではない。「競技」をしているわけでもない。知覚の陶酔をしているわけでもない。ミミクリするには意志を使っているわけでもない。

それでもわたしがやっているのは「ライフゲーム」であり、「ライフゲーム」をやろう、としてPCの電源を入れたのである。

そしてわたしは30分の時間を過ごし、満足して電源を切った。

このわたしの30分とは何なのだろうか、とわたしは考える。

それと、眩暈を「受容」とするのはいかがなものであろうかと思う。その他すべての領域においても、人間が対象物の存在を外部に持つ限り、「五感で味わわない」物は存在しえないからだ。そういう意味でカテゴリーで分けるには「受容」は万能すぎるのである。
ポール・ブリッツ 2020/09/26(Sat)19:18:12 編集
受容という言葉は、適当でないかも知れません。
 それはわたくしが語彙力がないためでございましょう。
 しかし、ここで書こうとしているのは、カイヨワの遊びの定義の範囲内でのことでございます。
 それ以上のことを申しているのではございません。ですから主に、視聴者とか読者とか、メディアを受け入れる側についてのことでございますな。
 観光を入れたのがまずかったのかな。あれは完全に現実と切り離されているとは申せませんから。しかし、目的地に行って素晴らしい光景と出会うのは、現実と切り離された体験だと思うのでございます。
 遊びの分類でございますから、すべての遊びを分けなければなりません。
 そうすると「花火大会」はなんだろう。あれを眩暈とするのもおかしいし、かといって他の分野にも入らない。だからといって、遊びじゃないってこともないだろう。そう考えると、眩暈以上に広いカテゴリーが必要になると思うのでございます。
 そんなわけで「ライフゲーム」も、わたくしは「受容」に入れておきます。
 どう考えるかは、ご随意に。
 
「ライフゲーム」に関してましては、コスティキャンのゲーム論の、「シムシティ」のところもお読みくださるとよろしいかと。
「目標」がないのはゲームではないのでございます。逆に申しますれば、「すべてのマスを埋めれば勝利」ですとか「十字形に駒を配置すれば……」など、勝利条件をつければゲーム的になるのでございますな。
道化の真実 2020/09/27(Sun)00:02:57 編集
その前に「自由な行為」というところで引っかかってしまった
外部からの視界を遮断された密室内において、わたしと友人はそれぞれ自由意志で、チェスの勝負を三回行う。わたしはそれにより「楽しい」と思う。そのとき、遊戯としてのゲームは成立しているだろうか。

わたしは頑迷な「強い決定論」の支持者である。わたしは自由意志の存在など信ぜず、「原因と結果の連鎖」の末の必然的な行動として、同じく自由意志の存在など信じない友人と、外部からの視界を遮断された密室内において、チェスの勝負を三回行う。わたしはそれにより、必然的な結果として「楽しい」と思う。その時、遊戯としてのゲームは成立しているだろうか。もし成立していないとしたら、それはどういう理由によるものか。

外部からの視界を遮断された密室内において、チェスのオートマトンを二つ用意する。それぞれ、コマを並べたり動かしたりするアームと、AIを搭載しており、チェスの勝負をすると、部屋の外の「楽しい」というランプが点灯するようにプログラムされている。AIはチェスの勝負を三回行い、「楽しい」というランプが点灯する。そのとき、遊戯としてのゲームは成立しているだろうか。もし成立していないとしたら、それはどういう理由によるものか。

外部からの視界を遮断された密室内において、チェスのオートマトンを二つ用意する。それぞれ、コマを並べたり動かしたりするためのアームと、完全機械式の、差動式の歯車の機構により、「相手がここにコマを進めたらこちらはこう動かす」というシステムと、そのシステムに変化を与えるものとして、差動式の歯車が、「疑似的な乱数機構」を搭載しているものとする。さらに、チェスの勝負をすると部屋の外の「楽しい」という旗が上がるようになっている。オートマトン同士を組み合わせてチェスの勝負を三回行い、「楽しい」という旗が上がる。その時、遊戯としてのゲームは成立しているだろうか。もし成立していないとしたら、それはどういう理由によるものか。

わたしはひどい独裁制国家の住人で、刑罰として、頭に「チェスのオートマトン」と、それに連動した多幸薬の放出装置を埋め込まれてしまっている。そしてわたしはそれを知らない。外部からの視界を遮断された密室内において、わたしは同じように機械を埋め込まれた友人と、自分から望んでチェスの勝負を三回行う。わたしの指す手はすべてオートマトンの疑似乱数と機械的な歯車動作によるものである。勝負が終わった後、オートマトンの作用により、わたしは脳内に多幸薬を放出され、「楽しい」と感じる。そのとき、遊戯としてのゲームは成立しているだろうか。もし成立していないとしたら、それはどういう理由によるものか。

外部からの視界を遮断された密室内において、わたしは友人と、同時に6面体のサイコロを1個ずつ振る。足し合わせた結果が奇数だったら、わたしは「うれしい」と感じる。結果が3の倍数だったら、友人は「うれしい」と感じる。ふたりで30回サイコロを振り、互いに「うれしい」と感じたり感じなかったりする。そのとき、遊戯としてのゲームは成立しているだろうか。もし成立していないとしたら、それはどういう理由によるものか。また、私と友人が頑迷なまでの「強い決定論」の支持者だったらどうなるのか。

外部からの視界を遮断された密室内において、6面体のサイコロ1個を振る機能を持った完全機械式のオートマトンが2台ある。片方のオートマトンには、オートマトン2台の振ったサイコロの目の合計が奇数だったら「うれしい」という旗を上げる機構がついている。もう片方のオートマトンには、2つのサイコロの目の合計が3の倍数だったら「うれしい」という旗を上げる機構がついている。このオートマトンを動かして30回サイコロを振り、2台のオートマトンは、互いに「うれしい」という旗を上げたりおろしたりする。そのとき、遊戯としてのゲームは成立しているだろうか。もし成立していないとしたら、それはどういう理由によるものか。

などと考えてたら抑鬱的になってきましたので、しばし頭を冷やしてまいります。

それと、「目標」が存在しなければゲームではない、ということですが、「目標」自体かなりあいまいな言葉ではないかとも思います。わたしは40年前、生まれて初めてデパートのデモでPCをさわったとき、キーを押せばカーソルが動くのが面白くてカルチャーショックで、長いことキーを押してカーソルを動かして楽しんでいましたが、わたしはそれを「ゲーム」以外のどんな言葉で表せばいいのかよくわかりません。シミュレーションゲームのソロプレイも、楽しみとして行う時、明確な「目標」があってやるのか、といったら、それは疑問でありますし。
ポール・ブリッツ 2020/09/27(Sun)09:59:01 編集
哲学的ですね。
 そのようなゲーム論には、カイヨワもコスティキャンも対応していないと思います。
 わたくしもこのような思考実験には敬意を払いつつ、考えないで逃げておきます。
 このようなお考えを元にゲーム論を展開していくならば、やはりご自身で構築していくしかございませんな。きっとユニークなものになりましょう。
 わたくしは存じませんが、ゲーム論にはもっといろいろなものがあるでしょうから、別にこれらの論を支持する必要はございません。
 ただ、支持するせよ反対論を展開するにせよ、理論武装するにせよ、元の文章に当たってみるべきだと思います。
 カイヨワの論について、わたくしがここに書いたのは(面倒だったので)非常に大まかなことだけでございますからな。

 キーをカタカタさせるだけでしたら、カイヨワの論では遊びでございましょう。もしかすると、遊び以前なのかもしれません。
 それをゲームだと主張するならば、単に言葉の問題でしたら「遊び」を「ゲーム」と置きかえて読めばいいのでは? ともわたくしなどは思います。が、そうではない、全然違うとおっしゃられるのでしたら、やはり、「ポール・ブリッツのゲーム論」が必要でございましょうな。

  
  目標(勝利条件)はあいまいなものではございません。
 と申しますよりも、逆ですな。
 ゲームの定義としての目標(勝利条件)は、ルールによって判定された結果の達成か否かなのでございます。判定は明確なものでございますから、その結果もあいまいなものにならないのでございます。
 
 つまり定義が違うのでございますな。
 
 これは従来の、複数人が競い合うコンフリクト(闘争)や、レース(競争)型のゲームではまったく問題ないことだと存じます。
 誰が勝ったかがはっきりしないと、もめちゃいますものね。

 
 問題となるのは、ストーリーゲームといった新しいゲームや、一人遊びの場合でございますな。
 
 TRPGでは、みんなが楽しめたら勝利、みたいな言い方もされたりしますが、それは物語的な達成であり、判断でございますから、ゲーム的な意味合いでの勝利ではないと存じます。ですから、それを目標とするのも、物語的としてのものでございまして、ゲーム的な目標とは違うと存じます。
 
 一人遊びの場合、ここまでやったから勝ちとしよう、ということはございましょう。ですがそれも判断上のものでございますから、ゲーム的な目標ではございませんな。
 もしはじめに明確な勝利条件を設定し、それがルール上成立して、それで勝ち負けを決定するならば。それはゲームとなり得ますが、そうでなければ、この定義ではゲームと申せないのでございます。
 
※ というわけで、まとめ。
 ゲームの定義としての目標(勝利条件)は、ルールによって判定された結果の達成条件である。
 まぁ、そういうことでございます。
道化の真実 2020/09/27(Sun)14:35:59 編集
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