2024/11/22 『赤毛のアン』が『アン・シャーリー』というタイトルになって2025年5月。Eテレで放映されるそうでございますな。キャラクターは以前日本アニメーションで製作された『赤毛のアン』をちょっと大人っぽくか、外国人に寄せた感じ。キャラクター原案:近藤喜文となるのかなぁ。基本的な服装などはどうあっても同じ感じになると思うので、あとは高畑勲先生へのリスペクトを表明するかどうかといった話になりましょうな。過去のアニメ作品をリスペクトして作られるってないですよねぇ。しかも小説などが原作としてありつつ。新しくていいと思います。
なぞのまとめの2021/08/29,30で「新しい」って書いちゃいました。
単なる印象ではございますが、思ってしまったものは仕方ございません。
レイアウトが目新しかったから?
それはあるかも。
他のページはそれほど見せ方に工夫しておられなませんからね。
ですが、とりあえずそこは考えないことにいたしまして。
その印象が何だったのか、少し考察してみたいと思います。
後付けの理屈なので意味はあまりないかも。
そう思う方はスルーしてください。
そうでないかたはお目汚しを。
記事自体の意味はなくとも、
TRPGについて考えるちょっとしたきっかけにはなるやもしれません。
TRPGについて考えるちょっとしたきっかけにはなるやもしれません。
眉からつばを垂らしながら、ご笑覧あれ。
さて、
TRPG世代論、というのがございますよね。
近藤功司先生だと思いますが、
ネットを見ると多摩豊先生という説もございます。
ネットを見ると多摩豊先生という説もございます。
まぁ、「ウォーロック」誌界隈から出た言葉
なのは間違いございませんでしょう。
なのは間違いございませんでしょう。
「ウオーロック」誌vol.31-36には、
「講座・ロールプレイングゲームの歴史」と題して、
近藤局長がこの世代論について書いておられます。
「講座・ロールプレイングゲームの歴史」と題して、
近藤局長がこの世代論について書いておられます。
アクチャルゲーム、シミュレーションゲームなど
TRPG以前のゲームから説き起こし、第三世代TRPGまで。
そしてまだ明らかになっていない第四世代のTRPGはどんなものかを
予想する形で稿を終えております。
予想する形で稿を終えております。
で、
「あおはるばーんっ」は、
その第六世代ぐらいにあたるTRPGだと思うのでございます。
その第六世代ぐらいにあたるTRPGだと思うのでございます。
☆ ☆ ☆
これに関して、前掲vol.36で近藤局長は、
シナリオを作るにせよ即興にせよ、すべてはマスターの頭の中。
ルールがなければ酒場のホラ話……。
これは第四世代なのか、第ゼロ世代なのではないか?
ゲームブックやコンピュータのRPG・アドベンチャーゲームに近くなりますが、
実際それらのものは、マスター権限が絶対でございます。
違うのは、マスター判断があるため、対応が固定ではないこと。
それこそがこの世代のTRPGを対人でやる意味となりましょう。
さてところで。
でも、これは世代でございましょうか?
プレイヤーやマスターの負担の軽減は、
どの世代のゲームにも結びつけられますし、
それによって元ゲームが大きく変化するという事もなさそうだからでございます。
となりますと、『ウィザードリィ』のように
コンピュータRPGとなったものは、完全に種類違いでございますが、
そう言う意味では、他の世代の変え方とは違いますが、
支援は一つの世代なのかもしれません。
サイコロの目をごまかすことが是か非かという問題が出てくるのも、
物語重視だからでございますな。
たいていのTRPGは、世界にしろ物語にしろルールにしろ、
マスター側から与えられて、それがあたりまえなのです。
小林正親先生もプレイヤーとして参加なさっているそうで、
ご苦労さまだと思いはします。
が、やはり対象となるのは女子高生、
もしくはそれに憧れるそれ以下の世代で、
比重としては二番目の方が多いと思うのですよね。
世界もリアルな女子高生ではなく、イメージとしての女子高生。
理想の女子高生に憧れる女の子たちがイメージする女子高生時空──。
そうした世界を共有できる人限定なのがこのTRPGなのだと思います。
強固にイメージできる世界があるからこそ、
このゲームではプレイヤー主導が可能なのです。
世界に何があるか、そこでできることは何か、雰囲気は──。
そうしたことも、強固な共通認識があればこそ、
プレイヤーキャラクター主導が可能なのです。
ヤンキーもアイドルもそれに憧れる人はいるでしょうし、
特殊な世界を持ってはいますが、
これらの作品ではプレイヤーキャラクターは作るものとして存在しているのですね。
要するに、プレイヤーとイコールではなくて、距離があるわけでございます。
リプレイを見ても、プレイヤーがヤンキーというわけではない。
ヤンキーの世界を体現していない。
そういう特定の集団ってあまりないような気がするのでございます。
『2つの川の物語』で、近藤局長がお書きになられておりますが、
インターネットの書き込みサイトと似たような構造でございます。
マスターは、投稿されたものを整理して、世界を作っていくことになりますな。
TRPGの世代論と申すのは、
RPGの各要素のうち、何を重視するかということでございます。
RPGの各要素のうち、何を重視するかということでございます。
一から三世代までについて、わたくしは以下のように理解しております。
第一世代 シミュレーションゲームから発展した、
ルール中心・データ中心のTRPG。
ルール中心・データ中心のTRPG。
第二世代 主にファンタジーの世界を描き、
その中で遊ぶことを主眼としたTRPG。
世界設定が中心であり、ルールもその世界を描くために存在する。
その中で遊ぶことを主眼としたTRPG。
世界設定が中心であり、ルールもその世界を描くために存在する。
第三世代 ジャンルものや原作つきTRPG。
ホラー、SFなど、テーマ、コンセプト中心であり、
世界設定はそれを描くのに必要なものに限定され、
ルールもそのために存在する。
ホラー、SFなど、テーマ、コンセプト中心であり、
世界設定はそれを描くのに必要なものに限定され、
ルールもそのために存在する。
コンセプト主導なので、必要のないルールは省かれることもある。
例えば第一世代ではルールの中核だった戦闘が
第三世代TRPGではないということもある。
例えば第一世代ではルールの中核だった戦闘が
第三世代TRPGではないということもある。
で、第四世代でございます。
これに関して、前掲vol.36で近藤局長は、
第一世代を、ゲームデザイナー
第二世代を、プレイヤー
第三世代を、ワールドセッター(原作者)
がそれぞれ生きるゲームであるとした上で、
がそれぞれ生きるゲームであるとした上で、
第四世代は演技者・演出家としてのマスターが
輝くゲームなのではないかと推察しております。
輝くゲームなのではないかと推察しております。
わたくしとしてはよくわかりません。
マスターに演劇でもやれということでございましょうか。
ですが、第四世代がマスターだとして考えてみることにいたしましょう。
第二世代のTRPGは、設定のすべてを覚えなくてはならないので大変。
ということで、ジャンルを特化し
、それに必要かつ適切なルールだけにしたのが第三世代ですよね。
、それに必要かつ適切なルールだけにしたのが第三世代ですよね。
となれば第四世代は、もっと狭い範囲に、
もっと共通認識が近い世界限定のものになるのではございませんでしょうか。
もっと共通認識が近い世界限定のものになるのではございませんでしょうか。
マスター主導という枠でそれを考えると、
マスターが絶対かつすべてというTRPGが考えられます。
マスターが絶対かつすべてというTRPGが考えられます。
マスターが考えたオリジナルのストーリーにPCが参加する。
あるいはマスターのきまぐれ、まったくの即興でゲームを進行する。
あるいはマスターのきまぐれ、まったくの即興でゲームを進行する。
シナリオを作るにせよ即興にせよ、すべてはマスターの頭の中。
ルールとしては単純な判定だけ、という感じになりましょう。
公式ルールはなさそう。
強いていえば『モンスターホラーショー』(J・H・ブレナン)の
基本ルールかな?
基本ルールかな?
親しい仲間うちでやるのなら、
これはこれでめっぽう面白いと思いますが、内輪ウケというかフィクショナルな雑談。
これはこれでめっぽう面白いと思いますが、内輪ウケというかフィクショナルな雑談。
ルールがなければ酒場のホラ話……。
これは第四世代なのか、第ゼロ世代なのではないか?
公式ルールがないものを第四世代と呼ぶかは、難しいところでこございます。
一方
vol.36で近藤局長が、門倉直人先生の名を挙げていることから考えると、
その頭には遊演体のネットゲーム(大規模メールゲーム)があるのでは、
とも考えられます。
その頭には遊演体のネットゲーム(大規模メールゲーム)があるのでは、
とも考えられます。
そういうものは、主催者=マスター=公式でございます。
マスターがすべてを用意し管理するのならば、
たしかにそれはマスター主導と申してよろしゅうございましょう。
たしかにそれはマスター主導と申してよろしゅうございましょう。
ゲームブックやコンピュータのRPG・アドベンチャーゲームに近くなりますが、
実際それらのものは、マスター権限が絶対でございます。
違うのは、マスター判断があるため、対応が固定ではないこと。
それこそがこの世代のTRPGを対人でやる意味となりましょう。
さてところで。
「ウォーロック」誌の他のところでは、
マスター支援、プレイヤー支援を第四世代として
想定していたような気がいたしますが、
そちらはどうでございましょう。
マスター支援、プレイヤー支援を第四世代として
想定していたような気がいたしますが、
そちらはどうでございましょう。
それを第四世代とするならば、
例えば藤浪智之先生の『6つの世界の物語』のように、
シナリオや名前などをサイコロを使って決めていくシステムなどは、
それに当たりましょう。
例えば藤浪智之先生の『6つの世界の物語』のように、
シナリオや名前などをサイコロを使って決めていくシステムなどは、
それに当たりましょう。
でも、これは世代でございましょうか?
プレイヤーやマスターの負担の軽減は、
どの世代のゲームにも結びつけられますし、
それによって元ゲームが大きく変化するという事もなさそうだからでございます。
第一~第三の世代を見ても、概念が大きく変わっているのに対し、
支援というだけではそれは見られません。
支援というだけではそれは見られません。
ただし。
負担軽減ということなら、
コンピュータによる支援もこの中に含まれますな。
コンピュータによる支援もこの中に含まれますな。
となりますと、『ウィザードリィ』のように
コンピュータRPGとなったものは、完全に種類違いでございますが、
オンラインセッションなどは、TRPGを変えると申してよろしいかも知りません。
そう言う意味では、他の世代の変え方とは違いますが、
支援は一つの世代なのかもしれません。
では第五世代は?
これはやはり、『サタスペ』『迷キン』あたりになると思うのですよねぇ。
これらの作品の特徴は、ファンブルを重視する点です。
つまりゲーム性が重視されたわけでございます。
物語を遊ぶゲームとして紹介され、
アニメやラノベのブームとともに育ってきた日本のRPGは、
コンピュータRPGもふくめ、
常に物語中心のゲームとして発展してまいりました。
第一世代の本筋であるハック&スラッシュ的なゲームは
一部で盛り上がっても主流にはならなかったのでございます。
アニメやラノベのブームとともに育ってきた日本のRPGは、
コンピュータRPGもふくめ、
常に物語中心のゲームとして発展してまいりました。
第一世代の本筋であるハック&スラッシュ的なゲームは
一部で盛り上がっても主流にはならなかったのでございます。
サイコロの目をごまかすことが是か非かという問題が出てくるのも、
物語重視だからでございますな。
それがここに来てゲーム性が脚光を浴びたのは、
間にトレーディングカードゲームのブームがはさまったせいでございましょう。
間にトレーディングカードゲームのブームがはさまったせいでございましょう。
それによってゲームの駆け引きの面白さが、広まったのでございます。
その認識の転換が、大きいものだったことは間違いございません。
ゲーム性が重視されるというのなら、第一世代と同じなのか
と申しますれば、もちろん違います。
と申しますれば、もちろん違います。
第一世代が重視するのは、シミュレーションであリデータでございます。
それらは、作品なりのリアルのために存在します。
シリアスなものであれコメディであれ、
作品世界を成立させるために存在するのですな。
作品世界を成立させるために存在するのですな。
一方、第五世代のゲームの場合は、ゲームとしての面白さを重視します。
シミュレーションよりも、カードゲームやボードゲームのような
駆け引きの面白さを追求するのがこれらのゲームだと思います。
シミュレーションよりも、カードゲームやボードゲームのような
駆け引きの面白さを追求するのがこれらのゲームだと思います。
ルールの絶対性よりも、プレイヤーの機知が試される、
それがこの世代なのでございましょう。
それがこの世代なのでございましょう。
第一世代のルールが世界のためにあるのに対し、
第五世代のルールはプレイヤーのために存在する。
第五世代のルールはプレイヤーのために存在する。
極端を申せば、そう言うことでございます。
ですから、第五世代のTRPGは、
ボードゲームやカードゲームの方向へ向かっていくのかな、
と、そのようにも思います。
ボードゲームやカードゲームの方向へ向かっていくのかな、
と、そのようにも思います。
さて、第六世代にございます。
ここまで読んできて予測は付くかも知れませんが。
第四世代がゲームマスター。
第五世代がゲームプレイヤーときて、
第六世代はプレイヤーキャラクター、
もしくは演技者としてのプレイヤーを中心としたゲームなのではないか。
「あおはるばーんっ」は、はじめてその、
プレイヤーキャラクターを主導としたゲームなのではないかと思うのです。
プレイヤーキャラクターを主導としたゲームなのではないかと思うのです。
ロールプレイするプレイヤーが主導のゲームなんて
TRPGとしてはあたりまえじゃないか、と思う方もおられましょうが、
そんなことはございません。
TRPGとしてはあたりまえじゃないか、と思う方もおられましょうが、
そんなことはございません。
たいていのTRPGは、世界にしろ物語にしろルールにしろ、
マスター側から与えられて、それがあたりまえなのです。
プレイヤーキャラクターは、そのアクションに対してリアクションする側。
「あおはるばーんっ」は、それをくつがえす可能性があるのではと、
わたくしは感じたのでございます。
わたくしは感じたのでございます。
この作品の想定するプレイヤーは、どんな方々でしょう。
小林正親先生もプレイヤーとして参加なさっているそうで、
ご苦労さまだと思いはします。
が、やはり対象となるのは女子高生、
もしくはそれに憧れるそれ以下の世代で、
比重としては二番目の方が多いと思うのですよね。
世界もリアルな女子高生ではなく、イメージとしての女子高生。
理想の女子高生に憧れる女の子たちがイメージする女子高生時空──。
そうした世界を共有できる人限定なのがこのTRPGなのだと思います。
強固にイメージできる世界があるからこそ、
このゲームではプレイヤー主導が可能なのです。
世界に何があるか、そこでできることは何か、雰囲気は──。
そうしたことも、強固な共通認識があればこそ、
プレイヤーキャラクター主導が可能なのです。
このお店では何がおいしいとか、ここでは何をしてはいけないみたいなことが、
プレイヤー側が理解できている。
理解できているから発信できるのです。
マスターのシナリオと齟齬を来たす場合もあるかも知れませんが、
世界が豊かになることは確かです。
プレイヤー側が理解できている。
理解できているから発信できるのです。
マスターのシナリオと齟齬を来たす場合もあるかも知れませんが、
世界が豊かになることは確かです。
シナリオも「R&R」の記事を見るかぎりでは、
かっちりしたものではなく、エピソードの積み重ねみたいですが、それもいい。
プレイヤーが細部を変えられるのでございましょうから。
かっちりしたものではなく、エピソードの積み重ねみたいですが、それもいい。
プレイヤーが細部を変えられるのでございましょうから。
それ以前のTRPGでこうしたものをわたくしは知りません。
平野累次先生の「ヤンキー&ヨグ・ソトース」や
「ビギニングアイドル」なんかは、惜しいけど違う。
「ビギニングアイドル」なんかは、惜しいけど違う。
ヤンキーもアイドルもそれに憧れる人はいるでしょうし、
特殊な世界を持ってはいますが、
これらの作品ではプレイヤーキャラクターは作るものとして存在しているのですね。
要するに、プレイヤーとイコールではなくて、距離があるわけでございます。
リプレイを見ても、プレイヤーがヤンキーというわけではない。
ヤンキーの世界を体現していない。
それに対して、「あおはるばーんっ」の場合は、プレイヤーがJKの世界を周知のものとしてプレイしている感があるのでございます。
それを実現しているのは、ひとつには文体の問題だと思います。
「あおはるばーんっ」の文体は、プレイヤーの目線に近いですよね。
「あおはるばーんっ」の文体は、プレイヤーの目線に近いですよね。
客観的なものではなくて。
それが、プレイヤーとキャラクターの距離を縮めるものになっているように思うのです。
ただ、それも含めて、
JKの世界という題材の勝利と申してよろしゅうございましょう。
JKの世界という題材の勝利と申してよろしゅうございましょう。
他ではこんなにプレイヤーが共有感覚を持てそうなのは、ちょっと考えられません。
一方で、それゆえプレイヤーを選ぶゲームではございます。
JKの世界をプレイヤーが
他のプレイヤーと共有感覚を持てるほどに知悉していることが、
このRPGでは求められるのでございましょから。
JKの世界をプレイヤーが
他のプレイヤーと共有感覚を持てるほどに知悉していることが、
このRPGでは求められるのでございましょから。
いずれにせよ、
現実で、プレイヤーが共有感覚を持てるほどによく知った世界であり、
それでいてシナリオになるような華がある、
それでいてシナリオになるような華がある、
そういう特定の集団ってあまりないような気がするのでございます。
とある職業に就きたい人が参加するその職業についてのTRPG、
では、需要あるかもしれませんが、プレイヤー主導とはなりませんし──。
では、需要あるかもしれませんが、プレイヤー主導とはなりませんし──。
キャンプとか鉄道とか、趣味が一緒の人がその趣味について遊ぶゲームなら
どうなんでしよう。
どうなんでしよう。
イケるかな?
ただ、そういう人がTRPGをやるかという問題が──。
いずれにせよ、人を選ぶゲームのように存じます。
ワンオンワンだったら可能かな?
マスターがプレイヤーのことをよく知っていて、その人似合わせたゲーム。
何か接待的だけど、それだったらできるかもしれません。
と申しますか、それでしたらマスターとプレイヤーの関係を対等にして、
2人で世界を広げていくってことも可能そうでございますよね。
2人で世界を広げていくってことも可能そうでございますよね。
さて、
はじめて、と書きましたが、
もう一つ別の方向性を示した演技者としてのプレイヤー主導のゲームというのも
既存の中に見いだせます。
もう一つ別の方向性を示した演技者としてのプレイヤー主導のゲームというのも
既存の中に見いだせます。
『2つの川の物語』みたいなものでございますな。
大規模メールゲームや読者参加企画などで、
プレイヤーが自由に行動を選択し、
それによって世界が作られていくというものにございます。
プレイヤーが自由に行動を選択し、
それによって世界が作られていくというものにございます。
『2つの川の物語』で、近藤局長がお書きになられておりますが、
これらはむしろ共有感覚とは逆に、
プレイヤーキャラクターの個性が世界を形作っていくという形にございます。
プレイヤーキャラクターの個性が世界を形作っていくという形にございます。
インターネットの書き込みサイトと似たような構造でございます。
マスターは、投稿されたものを整理して、世界を作っていくことになりますな。
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