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2024/11/21 ソニーがKADOKAWAの買収を検討している。交渉は早ければ数週間で決着する可能性も、という話が2~3日前飛びこんでまいりましたな。これが本当でしたら、KADOKAWAのサイバー攻撃直後から話があったのでございましょう。これが成立すると紙媒体が減りそうですなぁ。清濁併せ呑むKADOKAWAの濁の部分が捨てられそうな気も。niconicoなんて過激な書き込みはアウトになって、映画やアーチストのプロモーションに使われそう。コンピュータゲーム界隈も合併・再編で面白くなくなった気がするけど、そうなるんだんだろ……のかなぁ。まぁ、技術のソニーでございますから、サイバー攻撃に対してはかなり信頼度の高いものとなりそうではございますが。
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2021/02/01 (Mon)の記事永遠回廊からの脱出に対する
ただ者ならぬポール・ブリッツ 様の、コメントに対する回答でございます。
 
 直接の回答は、コメント欄に記しておきました
 回答といたしましてはそれで十分と思われますが、
この記事もあわせてお読みいただければ幸いにございます。
 
 また、自分のゲームとパズルに対する考えは、
に書いておきました。
 そこからそう変わるわけではございません。
 ただし、あれは、雑誌の記事に対してのものでございましたし、
 書き方が変わると印象も変わるかもしれませんので、
あらためて書いておくことにいたします。
 
 
 
     ☆     ☆     ☆
 
 
 
 とは申せ、基本的には同じことを書いております。
 その辺りはご了承を。
 というわけで、   


コスティキャンのゲーム論
コスティキャンがお書きになっておられますな。
 
「パズル」は静的であり、「ゲーム」はインタラクティブである と。
 
 ただし、これはパーセンテージで表わされることである、
ともお書きになっておられます。
 
 ほぼ純粋なパズルは存在するが、
そこにゲーム性を加えていくことでゲームのパーセンテージは上がるし、
ゲームと呼ばれるものでも、何パーセントかはパズル性を含むのが普通である、
ということでございますな。
 

 純粋なパズル(とクイズ)

 
 そこでまず、純粋なパズルというものを考えてみましょう。
 
 これには数学の証明問題や、クロスワード詰め将棋などが含まれます。
 
 これら純粋なパズルは、
 必要な条件が問題ですべて提示され、
それに対して解答者は思考だけで解いていく
ものであり、
 加えて、
知識や知能だけで単純に解けるものではないもの、でございます。
 
 
 単に知識や知能で解ける問題というのは、
計算や漢字の読み書き、なぞなぞのたぐいでございますな。
 これらをクイズと呼んでおきましょう。
 
 そうではなくて、論理試行錯誤パズルには必要でございます。
 具体的には操作でございますな。
AをBに置きかえる、矢印の方向に動かすなど、
何らかの操作があるものがパズルであると存じます。
 
 つまりクイズは、因→果の関係が直(ちょく)であるのに対し、
 パズルは、起→結の間に承や転が入るのでございますな。
 
 クイズにしろパズルにしろ、正解がございます。
 単数か複数かはわかりませんが、
その正解に到達することこそ、クイズパズルですることであり、
それ以外ではありません。
 
 純粋なパズルとはつまり、
 必要かつ十分な条件がはじめから提示され、
解答者が純粋に思考のみを用い、
何らかの過程を経て正解に到達するもの、
ということになります。
 
(ここで難癖をつける方がおられるかもしれませんので申し添えておきますが、
 クロスワードといったらクロスワードの、
 詰め将棋といったら詰め将棋のルールは、
 その言葉で暗にはじめから提示されていると考えてください)
 
純粋でないパズル(定義から条件を外す)
    
    
 それでは、純粋ではないパズルというのはどういうものになるでしょう。
 
 先に掲げた定義から、条件を外す、もしくは変えてやれば、
それは純粋なパズルではないことになります。
 
 
 まず、
☆ 必要かつ十分な条件がはじめから提示され──
 
 つまり、隠された要素や、ランダム性があるものは、
 それだけ純粋パズルから遠ざかるということになります。
 
 例えばトランプの一人遊びや「マインスイーパー」でございますな。
 
 運の要素が強ければ、それだけパズルから遠ざかります。
 たとえランダム性が入っていても解けるものだとしても、
純粋からは遠ざかると考えるべきだと存じます。
 
 
☆ 解答者が純粋に思考のみを用い──
 
 思考過程における試行はパズルとしてアリですが、
思考以外の能力が入るのはパズルから遠ざかるということでございます。
 
 例えば、知恵の輪で無理な力を加えなければ解けないのであれば、
それはパズルとして失格でございますな。
 同様に、器用さや思考以外の何らかの才能が必要とされるものは、
パズルから遠ざかると存じます。
 
 
 
☆ 何らかの過程──
 
 については、クイズとの違いに書いたとおりでございます。
 
 
 
☆ 正解に到達するもの──
 
 正解がないものは、クイズやパズルではございません
 正解が複数存在することはございますが、ともかくも正解が必要でございます。
 ゲームの場合、到達するのは目標であり、
それはスタート時に示されるルール(勝利条件を含む)によって
決定されるものでございますが、「正解」というものではございませんな。
 
 その辺りがパズルとゲームの違いでございます。
 
 
 このように、
パズルの定義から何かを外すことでパズルから遠ざかる何かになりますが、
逆に付け加えることでも、パズルから遠ざかっていくことになります。
 
 例えば──。
 
 

純粋でないパズル(定義にそれ以外の要素を加える)

 
☆ ランダム性──

「すべての条件がはじめから提示され──」の項と同じことでございますが、
運の要素が加われば、それだけパズルから遠ざかりますな。
途中でサイコロをふる箇所が出てきたり、
落ちもののように、出てくるピースが解答者には分からないようになっていたり──。
 
 迷路でも、一画面で完結するものはパズルでございますが、
ルートがA・Bのように分岐していて、ページをめくるとどちらかが行き止まり、
というものがございますよね。
 
 そういうのは純粋なパズルから少しだけ遠ざかっているわけですが、
だからといって面白くなくなるわけではございません。
 
 念のために申し添えておきますが、
パズルの純粋性と面白さは別物でございます。
 
 

☆ 得点、制限時間、順位、対戦相手──
 
 ゲームの基本がレース(競走)やコンフリクト(競争)であるならば、
これらを加えることで、パズルはゲームに近づきます。
 
 得点や制限時間は、自分や仮想敵との競争でございます。
 
 これらがゲームならば、先のランダム性のみが加わったパズルはゲームか、
という疑問が浮かび上がりましょう。
 
 これはゴール(到達地点)が解答か否かで判定されるだと存じます。
 最初から提示されている条件で答えが出るならばパズル、
そうでなければゲームでございます。
 
 ただし、
ランダムというだけで最初の設定条件からは変わっているのでございますから、
やはり、何パーセントかは純粋なパズルからは遠ざかっているのだと存じます。
 
 
 
☆ 遊技性──
 
 例えばルービック・キューブの類いは、パズルではございますが、
ただガシャガシャ動かしている手の感覚が楽しいというのがございますな。
これらは玩具でもあり、パズルでもございます。
パズル+玩具で楽しさ120% などとおっしゃる方もおられるでしょうが、
純粋さから遠ざかることに変わりはございません。
 
 例えばもっと遠ざかったプラモデルや変形ロボットのオモチャを考えれば、
お分かりいただけると思います。
これらの組み立てにはパズル的な要素がございますが、
パズルとは申しませんでございましょう。
 
「コスティキャンのゲーム論」ではゲームと玩具の関係に関して
「玩具」もインタラクティブだが、「ゲーム」はそれに加えて「目標」を持つ。
とお書きになっておられます。
 
 パズルの場合は正解ですな。
目標(勝利条件)のかわりに正解を持たせてやればパズルとなります。
 
 先ほど挙げたルービックキューブならば、
色をそろえるという正解を求めるのならパズル
(時間以内に正解に達する、というならゲーム)でございますが、
ただガチャガチャと動かして遊んでいるだけならば、それは玩具でございます。
☆ 思考以外の能力──
 
 コンピュータのゲームでは
器用さや反射神経が求められるものが多くございますな。
基本にパズルがあったとしても、それらは 純粋なパズル ではなく、
アクションパズルゲームなどと呼ばれるべきものでしょう。
アクション性がゲームになっているのですな。
 
 またスポーツやさまざまな芸術も、それぞれの能力が要求されます。
それらにもパズル的な要素がある場合はございますが、パズルとはもうしません。
 
☆ ストーリー──
 
これについては、ここでの本論ですので、後述することにいたしたいと存じます。
 
 要素は他にもあると存じますが、とまぁ、いずれの要素を含んでも、
純粋なパズルからは遠ざかるわけでございます。
 
 
 
     ☆    ☆     ☆
     
 
 
 
 さて、そんなわけで、ストーリーとパズルについて考えてみましょうか。
 
 コスティキャンストーリーはゲームではない、と書いているのと同様に、
ストーリーはパズルでもございません
 
 ストーリーには、パズルのように厳然としたルールが存在するものでもなく、
終わりはあるものの、それは解答というわではございません。
 
 加えて「必要な条件が問題ですべて提示され」るとも限りません。
むしろ条件が変わっていく展開があるからこそストーリーは面白い、とも申せます。
 
 とは申せ、パズルとストーリーが一緒になったものはいくつかございます。
 
 それらをいくつかに分けて考えてみることにいたしましょう。
 
 
☆ まず、文章問題。
 
 小学校の算数の問題ですとか、
パズルを物語に織り込んで出題する形式でございますな。
 文章はパズルのために存在しそれ以上のものでないのならば、
ほぼほぼパズルと言ってよろしいかと存じます。
 
 
☆ パズルをストーリーでつないでいる形式
 
 今よく出ております「ナゾトキ本」はおおかたこれでございましょう。
パズルとストーリーは関係あったり、あまりなかったり──。
 
 いずれにせよパズルとストーリーは分離しております。
ゲームブックでは結果がその後のストーリーを変える場合もございますが、
その場合でもパズルは独立しておりますな。
 
 絵本などでストーリーとパズルが同時進行という場合もございますが、
それも独立していると考えてよろしいございましょう。
 
 
☆ 推理小説。
 
 の場合、ストーリーとパズルが結びついているといえど、
やはりそれだけで純粋なパズルからは遠ざかっております。
 
 長い文章は、それだけでパズルとしての条件をあいまいにいたしますからな。
 
 さらにパズルとストーリーの違いに着目しなければなりません。
 
 パズルはルールが存在し、正解がございます。
 そして解答者がそれを解いていくものでございます。
 
 ストーリーの場合は、それらが作者に委ねられております。
 物語の中での法則は作者の掌中に存在し、
場合によってそれは厳密なものではありません。
 
 結末もそうでございます。
 したがって、読者はその行方を予想したり当てることは出来ても、
結末は答ではございません。
 
 推理小説の場合、パズル要素はその中にちりばめられていますが、
ルールや条件が完全に示されるとは限らず、
結末もやはり作者の掌中にございます。
それがフェアであるとは限りません。
 
 たとえ完全に「フェア」な推理であっても、
ストーリーが存在しますから純粋なパズルとは言えません。
 
 作品によって差異はございますが、
いずれにせよ、純粋なパズルではないことは言うまでもないことでございます。
 
 
 
 
☆ さて、ゲームブックの場合でございます。
 
 パズルとゲームの関係のところで書きましたとおり、
ランダム性は純粋なパズル性をマイナスするものでございますから、
ここでは省きます。
 
 また、作品中に入るパズルに関しましても、先ほど書きましたので省きます。
 
 というわけで、考察するのは、
サイコロもふらない、途中でパズルも出てこない、
文章を分岐でつなげたのみのシンプルなゲームブックでございますな。
 
 記号など、フラグチェックはアリといたします。
 
 そこまでいけば、ただ者ではないポール・ブリッツさまが
コメント欄でお書きになったとおり
ゲームブックは迷路ゲームに還元可能 でございます。
 
 コメントでは、サイコロというランダム要素を入れておりましたから
ゲームとお書きになっておられますが、
それも取り去れば、これはストーリーという皮をかぶったパズルに他なりません。
 
 言ってみれば、大長編の「おはなし迷路」でございますな。
 
 
 ストーリーという皮を剥ぎ、フローチャートを作って、
いわば骨組みだけにして正解を導こうとすれば、これはパズルに他なりません。
 
 感じとしては、正しい順番に並べ替えるパズルみたいなものが近い気がいたします。
 
 ただし、ゲームブック本来の遊び方は、そうではないと存じます。
 
 解剖して骨格を調べるのではなく、
表面を歩いてその様相を楽しむものでございますな。
 
 そうなると、道中の光景や未知の展開を楽しむものでございます。
その点で、ストーリーでもあることが意味を持ってまいります。
 
 
 だいたい、ストイックにフローチャートのパズルになっているゲームブックって、
それほど多くはないのではございませんでしょうか。
 スティーブ・ジャクソン(英)と若桜木虔先生ぐらい?
 
 もちろん双方向移動型のゲームブックは、そのまま迷路でございますが──。
 とりあえず、
 フローチャートのパズルをカッチリ作ると、難しくなっちゃうんですよね、大抵。
  
 そんな構造としてのパズルのみが、
 ゲームブックの面白さというわけではございませんでしょう。
  

 ちょっと脱線してしまいました。
 未知の展開を楽しむというストーリー要素のために、
ゲームブックはパズルではございません。
 
「ストーリーとパズル」の関係の冒頭にも書きましたように、
「条件が問題ですべて提示され」るのではなく、
条件が変わっていく展開があるのがストーリーの面白さだからございます。
  
 まとめますと、
 
ゲームブックは構造上はパズルではあるが、
ストーリーを楽しむものであり、
また勝敗の要素があるためゲームでもある。
 
 そんなところでございましょうか。
 
 
 
*)ですから、ひるがえって考えてみますに、「おはなし迷路」は、
  おはなしを楽しむ、
  正解ルートでなくて寄り道にもストーリーとしての楽しさがあるということで、
  パズルから遠ざかっていると申せましょう。
 

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申し訳ありません
疲れていたのか、なにを見てもマイナス思考的に物事を考えるようになってしまっていて……。

また変で失礼な絡み方をしてしまいました。

ご無礼のほど、平にご容赦下されたく。

もう、どうして自分はこうなんだろう。



それはそれとして、「ファイティング・ファンタジーコレクション」注文してしまいました。ものすごい値段ですが、届くのが楽しみです。
ポール・ブリッツ URL 2021/02/15(Mon)07:06:58 編集
マルバツはゲームか
子供がよくやる「マルバツ」はゲームなのか?

・完全情報で運の要素は一切入らない
・通常の人間でもほぼすべてのパターンを思考可能
・勝敗および引き分けが明確に決まる

となると、「マルバツ」は「静的に考えたことの結果を適用することに成功するか失敗するか」でしかないので「詰め将棋」のような純粋なパズルというべきなのか、それでも「ゲーム」と考えるべきなのか。

マルバツがそうであるならば、「先手必勝/後手必勝/引き分け」の手順がすべて明らかになっていて、「無限の時間と無限の記憶力があれば原理的には必勝手順を見いだすことができる」ゲームはすべて本質的には「パズル」なのか。

われわれが「インタラクティブ」と見なしているものはどこまでがインタラクティブといえるのか、という問題が出てきて、なんとなく納得ができかねるような……。
ポール・ブリッツ URL 2021/02/17(Wed)14:10:56 編集
ありがとうございました。
 いろいろと考えをまとめる機会を与えていただきありがとうございました。
 
 さて、「マルバツ」というのは、三目並べのことでいいのでしょうか。
 これも、一から百まで数えて百を言った方が負けという遊びと同様、両者が正解を知らなければゲームとして機能すると思います。
 どちらかが必勝法を知っていてそのとおりに実行するならば、ゲームの形はとっているものの、やっていることはゲームでないですね。ゲームにはどんなに少ないパーセンテージでも負ける可能性がなければなりません。ゲームは勝利を目指すものだからです。
 
 パズルはそれとは別で、三目並べにおいて必勝するパターンを求めなさい、という具合に、正解を要求する問題になります。
 勝敗ではなく、正解を求めるのがパズルです。
 
 ゲームとパズルは確かに似ています。
 ですから、ゲームはパズルを含む、とかパズルはゲームを含むと考えてしまいがちですが、
 例えば、馬と鹿が四足だし形も似ているから馬は鹿に含まれる、あるいは鹿は馬に含まれるなどといえば馬鹿にされてしまいます。
 両者とも哺乳類ですが、奇蹄目と偶蹄目の違いがありますからね。
 
 すごく乱暴なたとえですが、ジャンル分けというのはそういうものです。似ているからといって同じと考える必要はありません。
 むしろ、似ているからこそ、その違いが奈辺にあるかを考えることが重要だと存じます。
道化の真実 2021/02/22(Mon)19:15:16 編集
つまり
必勝法が解明されてしまったら、その瞬間にとつぜん「将棋」はゲームではなくなる、と考えてよいのでしょうか。

「先手必勝」と証明されたのであれば、「先手が勝つ」という「正解」を導くこと、と、将棋というゲームを解釈し直すことも可能であると思われます。「先手が勝つ」が正解で、「後手が勝つ」が誤答であると解釈したそのとき、「将棋を指す」とは「パズルを解く」ことそのものではないのでしょうか。

先ほども申しましたように「無限の時間と無限の記憶力」があれば、将棋は「理性と悟性」だけで完全分析が可能です。「人間には無限の時間も無限の記憶力もない」から「ゲームはゲームだ」というのは、「本質的に将棋はパズルと等しいかどうか」「本質的に完全情報ゲームはパズルと等しいかどうか」という質問については答えていないのではないかと思います。

ポール・ブリッツ URL 2021/02/28(Sun)03:15:15 編集
「勝敗」がないところにゲームは存在しない、と考えるのは妥当なのか
囲碁の中盤戦、盤上の解説……。

「名人戦、この手に対し、名人、ここに打ちました。名人のこの手に対して、ここにこう打ったらどうなるでしょう、九段?」
「そうなったら、ここにこうきて、ここにこうきて、こうですね」
「では九段、ここにこう置いたら、どうなりますか?」
「それは、ここにこうきて、ここにこうきて、ここにこうきて、こうなります」
と、交互に石を置いて取り合いをする。

そのとき、解説者の手でそこに行われているのは「ゲーム」ではないのか? 「ゲームをしている」のではないとしたら、いったいなんなのか?

そんなことを考える。眠れない。
ポール・ブリッツ URL 2021/02/28(Sun)03:54:33 編集
答えていませんね。
 なぜかと申しますに、ジャンルの分け方が違っているからです。
 パズルとゲームの違いを解析できるか否かでわたくしは分けてはおりません。
 そうではなく、プレイヤーがパズルとして解答するならパズル、
ゲームとして挑むのならゲーム、という分け方をわたくしはしているのでございます。
 
 その上で、コスティキャンがおっしゃいますように、ゲームはパズル的要素を含んでおり、それはパーセンテージで表わすことができる、ということはいえると思います(それ以外のパーセンテージは、知性以外の能力だったり運だったりするわけでございます)。
 
 パズル要素が100%のゲームは、パズルと本質的に変わらないというのは、コスティキャンがすでにおっしゃっていることでございますな。
 ここで蒸し返すまでもございませんでしょう。
 
 
 とはもうせ、分類としては──わたくしの分類といたしましては、三目並べもゲームでございます。
 正解があるにせよ、それが正解を求めるのではなく勝利を目指すからゲームなのでございますな。
 一般的にそのように遊ばれ、そのように作られているからゲームなのでございます。
 
 まぁ、必勝法が分かっていて、そのとおりにできるゲームはつまらなくはございます。ですが、面白いか面白くないかは、ジャンル分けとは関係ございませんからな。
 
 ただし、これはわたくしの考えでございます。
 ただ者ならぬポール・ブリッツ様は、ただ者ならぬポール・ブリッツ様の理論にふさわしいジャンル分けをなさればよろしいと存じます。
 、
☆ 解説は、解説ですね。最適手を求める行為はパズル的ですが、わたくしの分類ではそれ以上手もそれ以下でもございません。

 ただ者ならぬポール・ブリッツ様の分類は違うのでございましょうが。
道化の真実 2021/02/28(Sun)10:49:18 編集
つきるところは
まあ、いったところは、

「ゲームとパズルは違うものでなくてはならない」というドグマと、

「ゲームとパズルは同じものであってもよい」というドグマの違い、というわけですかねえ。

ドグマには勝てませんなあ……。
ポール・ブリッツ URL 2021/03/03(Wed)22:09:16 編集
ドグマはよくわかりませんが、
 そのようにご解釈でしたら、ご随意に。
 わたくしといたしましては、
「パズルは解くもので、ゲームはするもの」(これは、コスティキャンのパズルは静的であり、ゲームは動的である、にもとづく考えにございます)と違いを起点にしないと、その後の考えがまとまらないのでございます。
 ゲームとパズルは同じですとか、パズルはゲームに含まれるとすると、そのあとの展開・分類ができないのでございます。
 ただ者ならぬポール・ブリッツさまのゲーム論では、そうではないのでございましょう。
 定義が違えば、その後の展開も違ってくるのが普通でございます。ですから、わたくしとただ者ならぬポール・ブリッツさまのゲーム論も違ったものになってくると存じます。
道化の真実 2021/03/04(Thu)00:00:46 編集
本質的に同じならば同じなの?
 ドグマ=独善的な説でございますが。
「仮面ライダースーパー1」の敵じゃなくって?
 エラい言われような気もいたします。
 
 というような無駄話はさておきまして。
 
 ふと思ったのでございますが、
 タイトルのとおり、問題は本質的に同じならば同じか、という点にあるのかなと存じます。
 
 たとえば、小説とそれを忠実に再現したドラマはストーリー自体は同じですよね。
でも、表現方法が違ってくれば違ってまいります。
 それはジャンルとして分けてもよろしいのではないかと。
 本質はともかく、実感としてそう思います。
 
 本質を求めるのは、哲学的な思考なのかもしれませんな。
 哲学などというものわたくしは、いしいひさいち先生の
『現代思想の遭難者たち』ぐらいでしか存じておりませんので、よくは分かりませんが。
 
道化の真実 2021/03/07(Sun)18:07:04 編集
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