忍者ブログ
2024/11/22 『赤毛のアン』が『アン・シャーリー』というタイトルになって2025年5月。Eテレで放映されるそうでございますな。キャラクターは以前日本アニメーションで製作された『赤毛のアン』をちょっと大人っぽくか、外国人に寄せた感じ。キャラクター原案:近藤喜文となるのかなぁ。基本的な服装などはどうあっても同じ感じになると思うので、あとは高畑勲先生へのリスペクトを表明するかどうかといった話になりましょうな。過去のアニメ作品をリスペクトして作られるってないですよねぇ。しかも小説などが原作としてありつつ。新しくていいと思います。
[794] [792] [791] [790] [789] [788] [787] [786] [785] [784] [783]
なぞのまとめ 5月~6月の中から、
サイボーグ009を関連だけ抜き出しておくことにいたします。
 
2023/05/05 YouTube
サイボーグ009 THE CYBORG SOLDIER』(2001年-2002年)を見ました。
 2話まで。
期間限定・順次配信らしゅうございます。
(後にも書きましたが、6月26日月曜日12:00までだったみたい)
 
 これがわたくしには『シン・仮面ライダー』で
もやっとしたものをある程度解消させてくれるものとなりました。
 
絵柄とか構図とか、コミカルな部分も含めて、
最初のころの『サイボーグ009』の感じを膨らませたり変えたりしながらも、
ちゃんと表現してくれているのでございますよね。
 
他の作品からの引用も楽しく、
例えば手術室のライトがグルグルしながら主人公が目覚めたり、
天井のガラスを破って脱出するあたり、
2話で人殺しと間違えられるところとかは『仮面ライダー』でございますよねぇ。
 
それにしても『ボンボン』のゴンタの口癖「ナンタルチャ」が聞けるとは──。
それを拾ってくるとは思いませんでした。
追記:今、約半分、25話ミュートス篇を見終わったところでございます。
 原作再現度、石ノ森先生の作風再現度という意味では、1~2話が一番でございました。
 



 
2023/05/19 アニメ『サイボーグ009』第14話「再会の地で」。
 
ベトナム篇をどうするのかと思っていたのですが、
アフリカに舞台を移しての再現となっておりました。
当然の成り行きでもございますが、これは発明だなぁ。
 
この作品、008を逃亡奴隷から兵士にすることで存在意義を大きくしておりますが、
その彼の故郷が舞台ということで、当事者感を増しているのでございます。
 
ですが、物語的にはベトナム篇と比してあっさり目な感じもいたします。
 
「ベトナム篇」では石ノ森先生の同時代性がございましたが、
それが薄まっているせいなのかな? 
 
ブラックゴーストの戦車もわりと簡単にサイボーグ戦士たちに倒されてしまったような……。
「ベトナム篇」ではもっと手ごわかった印象がございましたが。
 
 
 
2023/05/20 ベトナム戦争ともうしますれば、『サイボーグ009』でも
たしか使われておりましたが、南ベトナム解放民族戦線は
通称「ベトコン(英語: Vietcong」と呼ばれておりましたな。
 
でもあれはもともと、アメリカ合衆国・ベトナム共和国側による蔑称だったそうで、
ベトナム労働党やベトナム共産党がこの名を名乗ることはないそうな。
 
 
 
 
2023/05/25 2001年版『サイボーグ009』22話でミュートス篇に突入いたしました。
 
原作以上に圧倒的なパワーを見せつけるミュートスたちがよろしゅうございますな。
 
00ナンバーサイボーグたちが勝てないのではと思わせてくださいます。
 
ただ、キリスト教圏の人がアポロンを見て神と認識することにモヤッといたしました。
悪魔としないまでも、神とは呼ばないのでは? 
そういう世界なのだと言われても気になります。
 
ただの光球にしてしまってもよかったような。
 
原作ではキリスト教教会や一般人は出てこなかった気がいたしますし、
そのあたりうまくやっていたと思うのですが。
2023/05/25 2001年版『サイボーグ009』23話、ミュートス篇はジョーのセリフ、
「あとは勇気だけだ」が、怒りに駆られたような言い方が違うなぁと感じました。
 
原作ではもっと静かな決意という感じがしたのでございます。
2023/05/31 追記:気になったので
原作マンガの「ミュートスサイボーグ」篇を読んでみました。
 
お話、全然違いました。
 
 そもそも原作ではまだブラックゴーストがはっきりと存在しておりますから、
敵はブラックゴーストのサイボーグであることがはっきりしております、
神モチーフの能力を付与されてはいますものの、
彼らが神として振る舞うことはありません。
 
 神を思わせるのは、最終的に神々との戦いまでやることを意識した、
アニメ版だからこその設定なのでございましょう。
 
 アニメ版の中心に据えられたアルテミスは、原作ヘレナの代替にございます。
ヘレナはトロイの木馬モチーフのロボットに乗って戦うのでございますが、
そういうのはアルテミスにはございません。
 
 アルテミスは、1979年のアニメ『サイボーグ009』の際に設定されたキャラ
みたいでございますから、
この作品のミュートス篇は、その時の物語を基にしたものかもしれません。
 
 1979年版の009には、石ノ森先生もある程度関わっておりますから、
この作品でかなりの改編と見えた部分も、
そこで新たにされたストーリーと考えれば納得まいります。
 
 
 再読して意外でございましたが、原作はもっと娯楽に徹している感じでございました。
 
 アクション多め。
 ヘレナの木馬や加速装置と炎熱を持つアポロン、
巨大ロボットなアトラス、恐竜も出てまいりますし──。
 
 小沢さとる先生を思わせる潜水艦のシーンですとか、
007とスパイネズミのトムとジェリー風追いかけっこですとか、
他の作品の影響もございますな。
 
 最終決戦は短め、でもそこに詰め込んだ感がある迫力のあるものでございました。
 
 結末はマグマ島の火山爆発により島は消滅、
 
「その後のサイボーグたちの運命を知るものは誰もいない」
と結ばれて終わっております。
 
 ウィキペディアに拠りますと、少年キングでの連載は打ち切りで終了。
単行本になるときに終章に20ページの加筆がされたそうな。
 
 この神話的ともいえるラストには、そのような裏話があったのでございますな。
 
 
 
2023/06/05 00年代アニメ『サイボーグ009』27-28話。
 
原作の「コスモ・チャイルド編」にあたるものですが、
002を中心に構成していて雰囲気が変わっております。
 
戦いを厭う宇宙人の子供たちを説得するのは原作では004ですが、ここでは002。
 
それがどうもわたくしには発展途上国の紛争に手を貸すアメリカ
という図式に見えてしまいました。
意図しているのかなぁ。
わざわざそう変えているんだから、意図しているんでしょうねぇ。
 
 
 
2023/06/06 同『サイボーグ009』第29話「青いけもの」篇。
009以外の作品『青いけもの』(読んでないや)
を005のエピソードとしたものでございます。
 
中で、自然を映し出すカットバックが出てくるのでございますが、
その最後が、葉に止まったてんとう虫。
これが『マンガ家入門』にも載っております
『龍神沼』の1カットと同じなのでございますよ。
確認してはおりませんけれど。
マニアックなネタ載せてくるなぁ。
 
 
 
2023/06/07 ま、間違えておりました。
『龍神沼』のはカブトムシ。
書いたあとで「あれはカブトムシだったなぁ、と気づいたので確認いたしました。
 
ですが、てんとう虫もどこかで見たことあるなぁ。
 
『ジュン』の『…やがて秋が来て冬が来る…』かとも思ったのでございますが、
それも違っておりました。
 
 いづれにせよ、このたたみかけ方、カットの連続は、
石ノ森先生のものでございますな。
 
自然描写に関して、もっと石ノ森先生のコマ割りを映像に変換して欲しい
と思うところは多々ございますが、それは要求が高すぎなのかも知れません。
 
週一のテレビアニメに対してそれは酷なのでございましょう。
 
それができるのは、石ノ森先生をのぞいて他にいない──
弟子筋の方でも無理という気がいたします。
 
 
 
2023/06/11 00年代版『サイボーグ009』は
6月26日月曜日12:00まで公開とのことでございます。
 
現在36話まで見ました。
なるべく全部見る予定。
 
この作品は、原作を踏まえながら、
神と人間、戦いというテーマで構成・変更を行っているみたいですな。
 
原作はゴールが見えていない状態での進行でございましたので、
それほど明確なラインは見えませんでしたが、
このアニメ作品では「神々の戦い」の決着
(どの程度のものかは存じませんが)を決めて、
そこから話の方向性を決めているので、それができるのでございますな。
 
神と申しましても、
石ノ森先生はそれこそさまざまな文化における多様な神に興味を持ち、
それを描いているのでブレがあるわけでございますが、
そこら辺を構成しているために、原作との違いが出ているという感がございます。 
 
 
 
2023/06/18 00年版『サイボーグ009』第48話。
ヨミ篇最終話。
マンガで読んだときは気になってすぐ次の巻を読んでしまったので、
あらためてそうだ、この物干し台の場面で〆だったんだ、と感動いたしました。
 
ただね、アニメといたしましてはラスト、
もう少し余韻があってもよかったかなと思いました。
 
最終話が急ぎ足になるのは仕方がないところではございますが、
最後は感動に浸る間があとちょっと欲しいかなと思いました。
 

『黒い幽霊船』の首領、三巨頭の声を男性、女性、子供としたのは、
すべての人間に宿る悪の意思ということなのでございましょう。
 ですが多分、男性の声だけだったら何でもなく聞けたところを、
それぞれ変えたことによって各セリフに付加的な意味がついてしまった感じで、
違和感が否めませんでした。
とは申せ機械合成で中性的な声にするのも
人間の悪について語る部分としては変出ございますしねぇ。
 
難しいところではございます。
 
  
 それにしても、「黒い幽霊船」の幹部・スカールさんは
世界の破滅を盛んにのたまわっておりましたが、これ不思議でございますよね。
 
 世界が終わったら死の商人の意味はなくなってしまいますのに──。
一度お亡くなり遊ばされておかしくなられたのかなぁ? 
 
 単に本人がそう思っているだけということも考えられはいたしますが、
でも本当にそんな計画っぽくございますのでモヤッとなってしまいます。
 
 
 
2023/06/20 00年代版『サイボーグ009』、
視聴了。
49-51話は「神々の戦い-序章」にございます。
 
 ヨミ篇の答あわせ、002と009がどうなったかは結局描かれませんでした。
  原作どおりの展開と考えても、2人は星になったのだでもいい
ということなのでございましょうな。
 
 視聴者に判断を任せているのだと存じます。
 
 実質的な最終回ですのであそこで終わるのが美しいですが、
でもやはり、生きている可能性を知っている以上、生きて欲しくございますよねぇ。
  
 
 
 この作品の「神々の戦い」は、石ノ森先生の構想に基づいてはいるものの、
「天使編」や「神々との戦い」の直接の続きというわけではなさそうでございます。
 
 先生亡きあとに描かれた小説やマンガ版をもとにしているのかな? 
そちらの方は読んでいないので分かりませんが。
 
  
 
 このアニメの「ヨミ篇」からの直接の続きというわけでもなさそう。 
 
服が青くなっていることも含め、
おそらくパラレルワールドの話でございますな。
ギルモア博士が石ノ森先生の元に訪れて
「これは少し未来に実際にあることなんじゃ」と語り出す体裁が、
かえってフィクションよりもさらに遠い夢物語を表わしている感がいたします。
純粋にアニメ作品だけで見ると、この展開はとーとつでございますな。
 
009を知っている大部分の人が「神々の戦い」篇が未完であることを知っていて、
それを本作品で描くと決めたことに起因するちぐはぐさでございます。
 
 
 
原作「天使篇」の、すべてを知り心まで支配してしまうような圧倒的な力を持つ敵には、
どうやって勝つんだ、いや相対することさえ可能なのかという
絶望感しかございませんでしたが、
 
仕切り直しされたこの「神々の戦い」では、そこら辺が調整されております。
 
このあとの展開は分かりませんですが、
このぐらいの敵だったら別に改造強化しなくても00ナンバーサイボーグ
勝てるんじゃないの、と思えるぐらいに。
 
 なんか最後、ギルモア博士が
「永遠に戦い続けている」みたいにおっしゃるのが悲しすぎます。
 
 あの時点での発言ということで永遠には続かないと解釈したいところでございます。
 00ナンバーサイボーグには、救いと安らぎが欲しいところでございます。
 
 
 
 ちなみに原作。
『サイボーグ009とその世界』のあとがきによると
その時点では009たちは001によって、
超能力を付与され、それで戦う構想だったみたいでございます。
 
なんか『幻魔大戦』みたいになりそう。
話が009ではなくなりそう。
 
なのでそういう方向には持っていかなかったのでございましょう。
 
 
考えますに、あの当時の石ノ森先生が描くのだとすれば、
やはり『リュウの道』や『ドッグワールド』みたいになったのではないかなぁ、
と思います。
 
いろいろな世界に飛ばされ、さまざまな経験をし、
最終的にいろいろと欠点はあるもののと念をおされながらも、神さまたちに認めらる……
そんな感じではございませんでしょうか。

ただ、その後は新しい世界を託され作っていくというのではないと思います。
特に『ドッグワールド』のように
テレパシーを主体としたコミュニケーションにより理想的な社会を築いていく、
というのは『009』ではございませんでしょう。
むしろ、サイボーグの機械の部分をすべて取り去られ、
生身の人間にされて(それはクライマックス前かもしれません。
そんな武装解除された絶望的な状態で天使の前に出るというのはありそうでございます)、
もとの世界にもどっていく、という方が、
『サイボーグ009』という作品の終わり方といたしましてはよろしいかと。
 
記憶も剥奪されて、だけど009が003に会ったとき、何かをぼんやりと思い出す──
そんな感じの終わり方でございますな。
 
 結局「天使篇」の続きである「神々の戦い」を石ノ森先生が
描かなかった、描けなかったのは、
『リュウの道』ですべてをやり尽くしちゃったからじゃないかな。
 そのようにわたくしは思っております。
 
 少しぐらい変えてみても、
石ノ森先生の本質から生み出されるものでございますから、
結局行き着く先は同じ、
変えようとしてもこれじゃないものになってしまうのだと思います。
 
 
  
 処女作にはその作家のすべてが現われている、
などとはよくいうことでございますな。
 石ノ森先生の場合、『二級天使』でございますな。
 
 特殊な能力を一つだけ与えられた未完成な天使が、
さまざまな世界を体験し、見て回って、
おそらくは、神に認められる物語にございます。
 
 それが未完なのでございますな。
 もしも完結していたのなら気持ちの整理がついたかもしれませんが、
未完ゆえに決着をつけたいという気持ちは
いつまでも強かったのではないかと思います。
 
 それが『リュウの道』のような作品と相成っているのだと──。
 
 そう思う次第にございます。 
2023/06/21 "Cyborg 009: Call of Justice"
の加速装置を中心としたあらすじ動画みたいなものがございましたので、
見てみました。
 
「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」の神山健治が
総監督を務めた作品にございます。
 
ストーリーにしろデザインにしろ3DCGによる動きにしろ、
原作とはかけ離れているので、まったく別ものとしてみることができました
(まぁ、そう見ることができない方もいらっしゃるでしょうけどね)。
 
能力を駆使した対決は、忍者ものの感覚があり、結構面白うございました。
アクション中心のダイジェストだったからそう思えたのかもしれないですけどね。
ただ、加速装置を作品テーマに持ってきているためなのでございましょう。
 
最終的に009が光の速さで明日へダッシュしてしまうんですよね。
ギャバン的な比喩ではなくて、文字通りの意味で。
 
それが何か、映画『スーパーマン』(1978)の
地球を逆回転させて時間を巻き戻すのを思い出してしまってちょっと……
という気になりました。
 
 009にそこまでの能力要らないですし、
通常の方法ではダメだといって、
物語の最後で物理法則を曲げてくるのはやっちゃいけないことでございましょう。
 
 そもそも敵が強くても、自分の持てる力だけでなんとかするというのが
(そこに味方の協力や運が入ったりすることもございますが)、
石ノ森先生のアクションの魅力なので、こういうのは違うとも思います。 
 
 
 
2023/07/01 ちょっと気になったので、
1980年、と申しますか1981年のお正月アニメの『サイボーグ009 超銀河伝説』の
アニメコミック(講談社/1981)を読んでみました。
 
5/21にBs-12で放映されたみたいですが、そんなに印象がなかったので、
スルーしてしまっていたのでございますよね。
 
  
『スター・ウォーズ』などに関わったという触れ込みのよく分からない人物、
ジェフ・シーガルさんが悪目立ちしていたのが記憶にございますな。
 
 この方のおかげで008の身長が伸びたという。
あとどう関わっていたかは存じませんが、
アイデアのもとはこのお方だそうでございます。
 
 石ノ森先生は
「自分の生んだ子ですが、サイボーグたちはすでに親の手をはなれて、
 勝手に動きはじめている……」
「今回のは、原作とはまるっきりはなれたオリジナル作品です。
 話はジェフさんのアイデアがもと」(『アニメージュ」(1980/12 p.34)
とおっしゃっておられます。
 
 この作品、そんなに気に入っているわけではないよ、
という感じが言外に読み取れますな。
 
 そういうメッセージは、作品を見る前は気づかないものでございますが。
 
 この作品、キャラクターの性格が違っている……、と申しますよりも、
物語が主でそのためのコマになってしまっている
と申したほうがよろしゅうございましょう。
  
 その物語もね、
マーケッティング主体と申しますか、ウケ狙いな感がするのでございますよね。
 
 具体的に申しますれば、
ヤマトだったりスターウォーズぽかったり
(石ノ森先生の構想では、外宇宙に行くつもりはなかったようでございます)。
ラブストーリーも加えよう、主人公チームの誰かが死んだら盛り上がるだろう、
神秘的な奇跡も入れようってな感じで、
009関係なく人気があったものを無節操に採り入れている感じなのですな。
 
 ウィキペディアによりますれば、この作品、
『銀河鉄道999』などでおなじみのりんたろう先生が
監督をつとめる予定だったみたいですが、
それだったらよかったのでございましょうかねぇ?
ただ、脚本作りがうまく行かなかったとも書いてございますから、
もっと根本的なところでの問題なのでは、と存じます。
りんたろう監督は、こういう宇宙ものなら、
と安易に呼ばれたような気がするのでございます。
 
  
 それはさておきましてこの作品、後に描かれました原作の
「コスモ・チャイルド編」や「風の都」にヒントを与えておりますよね。
 
 コスモチャイルド篇の、戦いたくないものが戦うべきかなんてテーマは、
はっきりとは分かりませんが、この作品から派生したような気がいたします。
 
 コスモチャイルド篇、力があるのなら、と結論を出しているのでございますが、
でもそれで戦闘的になってしまうのは問題なんだよなぁ、
と両論併記的なのでございますよね。
 
 これは本来の石ノ森先生の中にあったものではなく、
外部から突きつけられた問いかけのように感じるのでございます。

拍手[0回]

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
プロフィール
HN:
道化の真実
性別:
男性
趣味:
ゲームブック
最新TB
ブログ内検索
バーコード
P R
フリーエリア
<
忍者ブログ [PR]