2024/11/21 ソニーがKADOKAWAの買収を検討している。交渉は早ければ数週間で決着する可能性も、という話が2~3日前飛びこんでまいりましたな。これが本当でしたら、KADOKAWAのサイバー攻撃直後から話があったのでございましょう。これが成立すると紙媒体が減りそうですなぁ。清濁併せ呑むKADOKAWAの濁の部分が捨てられそうな気も。niconicoなんて過激な書き込みはアウトになって、映画やアーチストのプロモーションに使われそう。コンピュータゲーム界隈も合併・再編で面白くなくなった気がするけど、そうなるんだんだろ……のかなぁ。まぁ、技術のソニーでございますから、サイバー攻撃に対してはかなり信頼度の高いものとなりそうではございますが。
「<アドベンチャーゲームブック>
ループ・ゴールドバーク・マシンである人間の魂」
『第七階層からの眺め』
ケヴィン・ブロックマイヤー
金子ゆき子訳
(武田ランダムハウスジャパン/2011/11)
p.153-236
ループ・ゴールドバーク・マシンである人間の魂」
『第七階層からの眺め』
ケヴィン・ブロックマイヤー
金子ゆき子訳
(武田ランダムハウスジャパン/2011/11)
p.153-236
これも、図書館で借りてきたもの。
ただし、こちらは開架書庫。
『第七階層からの眺め』
短編集。
日常の中にちょっとした不思議が舞い込む話や、
逆にSF的な舞台の中で、
ものすごく日常的な物語が展開する作品が特徴だ。
こうした小説は、
従来ならSF・ファンタジー的な解決が求められたりするのだが、
この作品集はむしろ逆。
そのような普通とは違う状態を取り入れることで、
日常をより際立たせ、登場人物らの心理をより色濃く描いている。
解説の小川隆先生によると、
このような作品を寓話小説(fabulist fiction)というのだそうだ。
p.373「ここでいう寓話とは、動物やものを擬人化して、
そこに何らかの隠喩をこめ、教訓や洞察を含む何らかの寓意を伝えよう
とする話というよりも、現実を写しただけでは描けない、目に見えにくい真実を
描くために、空想的な設定を用いた話という程度のニュアンスだ。」
描写が丁寧で、比喩も的確。
それでいて、落としどころがちゃんとあるのが心地いい
(すべてというわけでもないようだが)。
終わったのか終わらないのかわからないような結末は、
どうにも落ち着かないので、個人的にうれしい。
それとは関係なくこの作者、物語に絡む絡まないにかかわらず、
何かがだんだんに増えていくという話が好きなようだ。
「千羽のインコのざわめきで終わる物語」ではインコが、
「静寂の年」では、最初静寂、その後喧噪が、
「ポケットからあふれてくる白い紙切れの物語」では、願い事が書かれた紙切れが、
多くなっていく。
一方のモチーフが「宇宙大作戦(スタートレック)」の
「トリブルを連れた奥さん」でも、どんどん増えていく生物、トリブルが登場する。
(物語の中心には絡まないが)
この「トリブルを連れた奥さん」。最後の2行(?)が好きだ。
もう一方のモチーフである「犬を連れた奥さん」の作者が
チェーホフであることを示しているのだが、
これを「宇宙大作戦」のあの人物が書いたのだとすると、視点的に面白い。
どんどん増えていくといえば、拡散型のゲームブックもそうだ。
物語がすすむにつれて並行するエピソードが次々に増えていく。
作者がゲームブックを題材としたのも、そこに興味があったためかもしれない。
というわけで、本題。
「<アドベンチャーゲームブック>
ループ・ゴールドバーク・マシンである人間の魂」。
アドベンチャーゲームブックと題されているが、ゲームではない。
これは、バンタム社などの
一般的なゲームブックの形式で書かれた作品といった程度の意味だろう。
めまいに襲われた「あなた」が死ぬまでの数時間の日常が描かれる。
家にいて本を読んだり、外出して店に入ったり、
誰かと話したりする中で選択肢が発生する。
超常的なことは特に起きない。
主人公は「無色透明」ではなく、
思ったことや過去の経験などもどんどん出てくる。
本や音楽のタイトルとその感想まで書かれているが、
描写が丁寧で物語としてもしっかりしているため、特に気になることはない。
そういう意味で、『石蹴り遊び』とも似ているのだが、悪印象はなかった。
分岐に意味があるためだろう。
どの分岐をたどったとしても、それぞれに主人公は考え、それぞれの人生を歩むのだ。
移動型からみると、この作品は拡散収縮型にあたる。
作中に示されているフローチャートは、こうだ。
本当に純粋な拡散型で、最後に行き着くまで、合流するパラグラフはない。
選択が違った行動が、あとでまったく同じ状態になることは本来不可能なので、
こういう形にしたのだろう。
(ゲームブックで合流ができるのは、描写その他に省略があるからだ)
最後のパラグラフであるp.200は死の場面だ。
普通のゲームブックでは、死はゲームエンドの意味しかないので、たとえば
ブレナンの14のように、1つのパラグラフに担わせていても、
移動型としては考慮しないのが普通(○○収縮型とは呼ばない)だが、
この作品では、最後は死に収斂する(加えて、「あなた」の死後に着地点となる話が
少し続く)ということに意味があると思われるので、拡散収縮型に分類する。
作者の書くフローチャートの中心に、どこからも行けないパラグラフがあるが、
そこ(p.171)ではタイトルにある「ループ・ゴールドバーク・マシン」について
説明をしている。
「インクレディブルマシーン」や「ピタゴラ装置」のようなものの、
大もとであり、総称らしい。
「人生そのものが一種のループ・ゴールドバーク・マシン、つまり、
人の魂を構成するというきわめて簡単な仕事を実行しているきわめて複雑な装置」
だと考え、それに細やかな説明を加えている。
あとのほうに「人生のあらゆる瞬間に変化があり」と書かれていことから考えると、
人生何が起こるか分からない、という意味合いよりも、人生の瞬間瞬間に意味がある、
ということにこそ力点が置かれているような気がする。
「ループ・ゴールドバーク・マシン」が瞬間の仕掛けにこそ楽しさがあるように。
ただ、このようなテーマ的なものが書かれているとはいえ、
テーマのためだけに作者がこの作品を書いたとは思えない。
ある一点から展開する、さまざまな日常、そこでの行動、心の動き。
それを描く為にこの作品を書いたのだろうし、
読む側も「ループ・ゴールドバーク・マシン」を見守るように、
それぞれの動きを楽しむべきだろう。
ラスト(ちょっとネタバレになるが)は、ちょっと疑問が残る。
数千年後、「あなた」の最後の数時間の記憶(つまり、この短編の部分)は、
取り出され展示されることになるが、
その記憶は、ここに書かれたすべてではなくて、
「あなた」が選び、経験した一本の記憶となるはずだが、それをどうとるか?
正確に考えればそうだが、
シャンデリア状のフローチャートが書かれており、
そのすべてが作品として書かれていることを考えると、
全体が展示されていると考えた方が美しいし、たのしい。
まぁ……。
どちらととるかは、読者次第、好みということでいいのだろう。
ループ・ゴールドバーク・マシンである人間の魂」。
アドベンチャーゲームブックと題されているが、ゲームではない。
これは、バンタム社などの
一般的なゲームブックの形式で書かれた作品といった程度の意味だろう。
めまいに襲われた「あなた」が死ぬまでの数時間の日常が描かれる。
家にいて本を読んだり、外出して店に入ったり、
誰かと話したりする中で選択肢が発生する。
超常的なことは特に起きない。
主人公は「無色透明」ではなく、
思ったことや過去の経験などもどんどん出てくる。
本や音楽のタイトルとその感想まで書かれているが、
描写が丁寧で物語としてもしっかりしているため、特に気になることはない。
そういう意味で、『石蹴り遊び』とも似ているのだが、悪印象はなかった。
分岐に意味があるためだろう。
どの分岐をたどったとしても、それぞれに主人公は考え、それぞれの人生を歩むのだ。
移動型からみると、この作品は拡散収縮型にあたる。
作中に示されているフローチャートは、こうだ。
本当に純粋な拡散型で、最後に行き着くまで、合流するパラグラフはない。
選択が違った行動が、あとでまったく同じ状態になることは本来不可能なので、
こういう形にしたのだろう。
(ゲームブックで合流ができるのは、描写その他に省略があるからだ)
最後のパラグラフであるp.200は死の場面だ。
普通のゲームブックでは、死はゲームエンドの意味しかないので、たとえば
ブレナンの14のように、1つのパラグラフに担わせていても、
移動型としては考慮しないのが普通(○○収縮型とは呼ばない)だが、
この作品では、最後は死に収斂する(加えて、「あなた」の死後に着地点となる話が
少し続く)ということに意味があると思われるので、拡散収縮型に分類する。
作者の書くフローチャートの中心に、どこからも行けないパラグラフがあるが、
そこ(p.171)ではタイトルにある「ループ・ゴールドバーク・マシン」について
説明をしている。
「インクレディブルマシーン」や「ピタゴラ装置」のようなものの、
大もとであり、総称らしい。
「人生そのものが一種のループ・ゴールドバーク・マシン、つまり、
人の魂を構成するというきわめて簡単な仕事を実行しているきわめて複雑な装置」
だと考え、それに細やかな説明を加えている。
あとのほうに「人生のあらゆる瞬間に変化があり」と書かれていことから考えると、
人生何が起こるか分からない、という意味合いよりも、人生の瞬間瞬間に意味がある、
ということにこそ力点が置かれているような気がする。
「ループ・ゴールドバーク・マシン」が瞬間の仕掛けにこそ楽しさがあるように。
ただ、このようなテーマ的なものが書かれているとはいえ、
テーマのためだけに作者がこの作品を書いたとは思えない。
ある一点から展開する、さまざまな日常、そこでの行動、心の動き。
それを描く為にこの作品を書いたのだろうし、
読む側も「ループ・ゴールドバーク・マシン」を見守るように、
それぞれの動きを楽しむべきだろう。
ラスト(ちょっとネタバレになるが)は、ちょっと疑問が残る。
数千年後、「あなた」の最後の数時間の記憶(つまり、この短編の部分)は、
取り出され展示されることになるが、
その記憶は、ここに書かれたすべてではなくて、
「あなた」が選び、経験した一本の記憶となるはずだが、それをどうとるか?
正確に考えればそうだが、
シャンデリア状のフローチャートが書かれており、
そのすべてが作品として書かれていることを考えると、
全体が展示されていると考えた方が美しいし、たのしい。
まぁ……。
どちらととるかは、読者次第、好みということでいいのだろう。
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