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2025/02/02 節分。2月2日が節分なのはめづらしい、と思っておりましたところ、これからしばらくは4年に一度2月2日が節分になるのだとか。一年が365日よりもほんのちょっと長いせいでこのようなことになるらしいですな。
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白蛇伝』を見ました。
YouTubeで。
すみません。1月15日までの期間限定公開だったようでございます。
 
東映動画初作品。初の長編カラー漫画映画。
(白黒の長編はそれ以前にございます)
  
許仙(しゅうせん)と白娘(ぱいにゃん)の恋愛譚
漫画映画としておとぎ話的な動物たちが絡むのが
今見るとちょっと不自然
 
なのですが
白夫人の妖恋』の香港でのヒットを受けての企画だったそうで、
それは仕方ないことなのでしょう。
 
2人が恋に落ちるところ。
その恋は描かれず、つがいの蝶が飛ぶ場面となるのが、
いかにも当時風の奥ゆかしさでございますな。
 
 ミュージカル風に歌が挿入されるところ、
途中ナレーションで話を繋いでいるところなども、
いかにも昔の作品でございます。
 
 
 まぁ、それはさておきまして、
 昔見たときは大して気にも留めず見たのでございますが、
宮崎駿先生が漫画映画をこころざしたきっかけとなった
ということを踏まえて見ますと、
ちょっと興味深くございます。
 
 まず以前書きました、
 
宮崎駿先生の手塚治虫先生批判。
 
についてでございますが、これは、
手塚先生ご本人を直接の対象としておりますが、
むしろこの時代の流れに対する反論であって、
その分かりやすい対象として手塚先生に向けられたのではないかな、
ということでございます。


 マンガ月刊誌から週刊誌中心へとシフトしていったとき、
人によっては進化、人によっては堕落となる大きな変化が起こりました。
 
 より本数が増え製作期間は短くなり、また貸本屋からの流入もあり、
マンガは、子供のものからより対象年齢が上のものとなってまいりました。
 
 粗製濫造が言われたり、
悪書追放運動が起こるのも昭和30年あたりからでございます。
 子供のための良質なマンガを──というわけでございますな。
 
 ただですねぇ、調べてみて分かったのですが、
対象年齢の上昇には、単純で実質的な理由が合ったのでございます。
 
 と書けば、お分かりの方もいらっしゃるかもしれません。
 ちょっと考えてみてください。
 
       (p)
       (p)
       (p)
 
     (ポーン)
 
 では
 
 単純に、子供が減ったからでございます。
 
 戦後すぐ、1947~1949年あたりを第一次ベビーブームと呼びます。
昭和22年から24年ぐらいでございます。
 
 その方々が昭和30年代になると十代になって、
もはや児童ではなくなるわけでございますな。
 雑誌もそれに合わせて対象年齢を上げていき
結果児童の読み物としては、悪書となっていくわけでございます。
  
  
 アニメの方もそれと同じような経緯をたどります。
 月刊誌から週刊誌に主体が移ったように、
アニメは映画からテレビに移行し、それによって制作期間が短くなりました。
 そこにマンガ原作が入ってまいりまして、
 マンガと同じような作品が作られるようにあいなります。
  
 同時にベビーブーム世代の年齢が上がり、漫画映画の需要が減ってまいりまして。
 
 そうしてアニメもまた、
漫画映画からアニメへと変わっていくわけでござい゛ます 


そのような時代を象徴する存在として、
宮崎駿先生は手塚治虫先生を槍玉に揚げておられるのだと思うのでございます。
 
 上記、宮崎駿先生の手塚治虫先生批判。の時に引用した、
 
 「手塚治虫に『神の手』を見たとき、ぼくは彼と訣別した」
に書かれておりました、
 
昭和20年代の作品では 作家のイマジネーションだったものが、
 いつの間にか手管になっている
 
ですとか、
 
その後の『西遊記』の「そのほうが感動するからだエピソードも、
 
こうした時代の流れによるものでございましょう。
 
 一つには、
手塚先生は1960年代に入る前に少年マンガの代表的な作品を全部描いていた
──つまり描きたい作品はだいたい描いちゃったというのもございますが
(手塚先生の年表をご参照ください)、
 
連載を何本もかかえる中でそうした決断力が必要だった
ということもあると思うのでございます。
 
 手塚先生は絶対納期を守らなければならない立場立ったのに対し、
宮崎先生はそうした矢面に立つ立場になかった。
 そこら辺の違いがあると思うのでございます。
 
 それが後にジブリ作品においても、
起承転結といった物語の都合によらない作品を目指し、
しかし公開日は遅れる、といった結果になったのだと思います。
 
  
☆ あと調べていて気がついたのでございますが、
テレビアニメ『鉄腕アトム』が始まったのが1963年。
   宮崎駿先生が東映動画に入社したのも1963年
なのでございますな。

 そこら辺なのでございましょう。
 
あの時彼がやらなければあと2、3年は遅れたかもしれない。
 そしたらぼくはもう少し腰を据えて
 昔のやり方の長編アニメーションの現場でやることができたと思うんです
 
とおっしゃっているのは。
 
そのころは、テレビアニメのために引き抜きもあったと言いますし、
それ以前の長編アニメの作り方が出来なくなったことを、
悔しく思っておられるのでございましょう。
 
 
 
☆ ただですねぇ、
でもでは、
手塚治虫なかりせば漫画映画ないしアニメは上手く行っていたか、
と申しますと、そうも思えません。
 それは海外のアニメ事情を見ればわかります。
 子供むけの質の低いテレビアニメになったり、
個人制作のマイナーな作品にとどまったり……。
 
 一方で、『マッハGO-GO-GO』や『キャンディキャンディ』
『グレンダイザー』『鋼鉄ジーグ』『ボルテスⅤ』など
日本のアニメが海外で人気を博していることや
昨今の海外での日本アニメの注目ぶりを見てもわかります。
 
 歴史にifはつきものでございますが、
完璧な選択というものもまた滅多に出来るものではございません。
 
 宮崎先生にとっては不満でも、
やはり手塚先生の決断は評価すべきものでございましょう。
 
(参考:『鉄腕アトム』の最大の功績は何か――50周年のテレビアニメを振り返る)
 
  
 唐突かもしれませんが、
 ディズニー・手塚治虫・宮崎駿(敬称略)、
この三者三様のアニメに対する取り組みと申しますは、
似ているところ違っているところ、
エピソードを読んでみますと、いろいろ面白いと思います。
 
 
      ☆     ☆     ☆
 
 
 さてもう一つ、この漫画映画で面白いのは、
主人公がほとんど活躍していないということでございます。
 法力使いや妖怪の類いばかりの中、
ひとり普通の人間なので仕方ないことではございますが、
ほぼうろうろするだけ。
 
 まぁ、そういうことではないとは思いはしますが、
これが宮崎先生の女性が活躍するアニメのルーツになっていたとすると
面白いことでございますな。
 
 いづれにいたしましも、
外国の方が、日本のアニメはジェンダーが云々(うんぬん)……、
とおっしゃってきたら、
日本では、初の長編カラーアニメから、
女性が活躍していたことを示せばいいわけでございます。

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