篠田節子
(2008/12 新潮社)
"The Seisen-shinpo-Kai Case"
(p.284まで)
訂正。
金もうけ主義ではないと書いたけど、
この宗教活動で、ベンツを乗り回すぐらいに儲けたいという野心が、鈴木にはあるようだ。
やっていることが誠実なので、そうは見えなかった。
もっとも、そうした誠実な外見の裏で、
しっかりとした計算が働いているのは本文中でもわかる。
でもそれは、危ない橋を渡らないためのものであり、大きな野心は見出せない。
一体、ベンツに乗り回すほどというのは、どの程度の本心なのだろう?
とりあえず危険をおかしてまで、ということではないようだ。
事を急ぎすぎれば失敗する。
そのことを彼は、しっかりと心得ている。
だからこそこの教団も、泡沫として消えたりせずに、着実に信者を増やしていけたのだろう。
…… ……
まあ、金もうけ主義でないといってもいいんじゃないかな?
そんな教団にも、ほころびが出始める。
信者同士が対立し、さまざまなトラブルが持ち込まれる。
まあ、それも当然のことだ。
世代間のギャップ基礎となる考え方や立場の違い――。
現実でも容易に起こりうることが、ここでも起こる。
ここが自分の居場所であると認識しているから、それを冒されないようにと真剣に主張をするし、
常識的な人間ばかりがいるわけではない、
今回読んだあたりは、
起承転結の承にあたる部分といっていいと思う。
そうしたトラブルに対して、鈴木は厳しい戦いを強いられ、なんとか教団を切り盛りしていくのだ。
その過程で去っていく信者もいるし、新しいトラブルが持ち込まれることも――。
うまいなと思うのは、キャラクターだ。
人間が描けているし、人間とその関係性が物語を面白くしている。
そうした中からトラブルが生まれ、そのトラブルを解決するために鈴木が奔走し、説教をする。
それに反対するもの賛成するもの、別の意見を言うもの、そして全然別のトラブルを持ち込むもの……。
そうした流れに起伏があり、葛藤があり、
それらが物語を意外性に富んだ面白いものにしている。
中でもすごいのは、
鈴木の発言にブレがないということだ。
自分の本心とは必ずしも一致しない教義だというのに、
ちゃんとその教義に則(のっと)った説明をして、説得している。
ともすれば、相手の話に圧(お)されてしまったり、ついうなずいてしまいそうな部分でも、
ちゃんと教義の言葉で切りかえしている。
そのために教団を離れていく人もいるが、
それでも教義にブレはない。
しかも、その言葉がちゃんと説得力のあるものになっているのだ。
小説だから、といってしまえば簡単だが、
それが、この教団の存続に説得力を与えている。
もし、教祖がその場限りのことを言っていたら、
その場は収めることが出来たとしても、
信者を減らす結果となっていただろう。
またこの鈴木の切り返しの見事さは、
彼の有能さ、頭の良さの証座となっているし、
小説としても面白いものにしている。
さて、
そうした日々を送る中で、
鈴木は食品加工会社の社長、森田と出会うことになる。
いつものように教義に絡めているとはいうものの常識的なアドバイスを、鈴木は説教する。
その効果は覿面(てきめん)で、森田は信者となる。
そんな折、大手食品会社が食中毒事件を起こす。
それをきっかけに、その食品会社のずさんな管理体制が浮き彫りに出される。
これは森田にとって僥倖(ぎょうこう)だった。
信用を失墜させたその食品会社の注文の何%かが、森田の会社にも回ってきたのだった。
森田の会社は成長し、
インドネシアに工場を作ったり、事件を起こした大手食品会社の工場のひとつを買収する計画も出てきた。
ついては、老朽化した工場を取り壊して研修施設を作るので、そこを自由に使ってもらえないだろうか。
税金などの問題で面倒なので、寄進というわけにはいかないが……。
森田は、鈴木にそう持ちかけてきた。
おりしも、中野新橋の教場もボヤ騒ぎを出しており、この申し出は鈴木には魅力的だった。
そんなわけで彼は、それを受け入れる……。
と、今回読んだのはこのあたりまで。
願ってもない申し出だが、それゆえにトラブルの芽を感じさせる部分でもある。
いずれにせよ、ひとつのターニングポイントだということはことは確かだろう。
この作品が「小説新潮」誌に連載されたのは、2004/4~2007/5 ということだから、
2007年6月 のミートホープの事件などはかかっていない(加筆などはしているかもしれないが)ものの、
BSE(狂牛病)、雪印やハンナンの偽装など、
食の安全は今世紀に入って特に注目される問題となった。
ここでこうしたことが出てくるのは、
そうした世相をとらえてのことだろう。
いや、ここだけではない。
この作品全体が、
この時代の社会の流れや大きな時代のうねりの中での
人間というものを描こうというものなのだろう。
宗教団体というのは、
それを切り取って浮かび上がらせるための舞台なのだ、
おそらく。