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2024/11/22 『赤毛のアン』が『アン・シャーリー』というタイトルになって2025年5月。Eテレで放映されるそうでございますな。キャラクターは以前日本アニメーションで製作された『赤毛のアン』をちょっと大人っぽくか、外国人に寄せた感じ。キャラクター原案:近藤喜文となるのかなぁ。基本的な服装などはどうあっても同じ感じになると思うので、あとは高畑勲先生へのリスペクトを表明するかどうかといった話になりましょうな。過去のアニメ作品をリスペクトして作られるってないですよねぇ。しかも小説などが原作としてありつつ。新しくていいと思います。
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奇想天外」2月特大号 (1978年2月 奇想天外社)
p.138-165


第一回 奇想天外SF新人賞 佳作受賞作品。

 ちなみにこの回の入選作は、ナシ。

佳作は

「あたしの中の…」        新井素子

「カッチン」             大和真也

「ぼくの思い出がほんとうなら」 藤原金象

「ローレライの星」         美作知男

「スタンピード!」          山本弘


 新井素子先生のデビュー作。
 ライトノベルの嚆矢とでもいえる作品。
といっていいだろう。

「ライトノベル完全読本」 (2004/8 日経BB)
p.65「ライトノベル30年史」三村美衣
……
だと、1974年を起点として、胎動期から書いているために、
軸がぼけているな。

え~と、
「SFマガジン」2003年7月号(2003/5/25 早川書房) の

「表現とリアリズムの変遷--ライトノベル25年史」三村美衣(p.29)では、

ライトノベルの歴史を1977年からとし、
高千穂遙と新井素子をその例として挙げている。
(ただし、1977年といっても、両方とも末のことだ)

 1978年になると、

栗本薫が『ぼくらの時代』で登場する。
映画『スターウォーズ』が日本に上陸。
TVゲーム『スペースインベーダー』がブームとなり、
アニメ雑誌が続々と刊行される。

1979年には、

アニメでは
『機動戦士ガンダム』
『ルパンⅢ世 カリオストロの城』
 マンガでは、
『うる星やつら』
『キン肉マン』
などが登場する。

(「ライトノベル完全読本」p.70-71参照) 
このあたりで文化が大きく動いているのがわかるだろう。

 というわけで、
『あたしの中の…』について。

 読み返してみて驚いたのは出だし。
 もっと軽い調子で始まるかと思ったら、
意外とサスペンフルだった。
 イラストも不気味な感じで、
あれ? こんな話だっけ? 
と、違和感ありまくり。
 それが、
章を新たにするごとに話がどんどん転がり転がり
ラストではあの、
シュールというかコミカルというか、
新井素子ワールドとしかいえないオチ
へともつれ込む。

 もう、最初の部分と比べると、なにこれ、って感じなのだ。
 とにかく話の転がり方がすごい
 何の前知識もなしで読めば、驚くこと必至だろう。


 雑誌掲載版をここで取り上げるのは、もちろん、
このときの選評

「新人賞選考座談会」
   選考委員:星新一/小松左京/筒井康隆(p.122-136)

が有意味だからだ。

 よく知られている話だと思うが、
ここで
星新一先生はこの作品を新人賞候補の筆頭として推し、
小松左京先生と筒井康隆先生がそれを否とする。

 先生が推したのは、
独特な文体と二転・三転するストーリーであり

ほかのお二方は、
ストーリーについては認めたものの、
文体については女子高生の書く普通の文章だとむしろ否定し、
そのほかにもいろいろと挙げて、
この作品を大賞とするのを否定する。

 ただそうした否定要素というのは、
これを大賞とするのはどうか
という考えが先にたっての発言に思える。

「奇想天外」の第一回新人賞を受賞するにふさわしくないだろう、
という考えが無意識に働いての否定的な意見だと思うのだ。

 では、新井素子先生を見出せなかった、
小松左京先生や筒井康隆先生のセンスが古くて、
星新一先生は新しかったのかというと、
そういう話でもない。

 ただ、
お二方は、
SFの入門書を書いたり
SFに対する自論を展開したりしていて、
SFに対して一家言あった
のに対し、

星先生のほうは、
SFというよりも
むしろストーリーの構築というものに対して興味があった

ということなのではないかと思う。

 そうした興味の方向性の違い が、
この選評の違いとなっているのだ、おそらく

(さらに突っ込んだ見方をすれば、
この選評の違いは、
「奇想天外」という雑誌をどう見るか
もっといえば、この雑誌のその後をどうするか、
に関わることだとさえいえる。
つまり、みずから謳っている「SF専門誌」としての方向なのか、
「奇想天外」というタイトルどおり、
SFというよりも、奇妙な話、不思議な話、面白い話といったものを強調した路線で行くのか
の分かれ目ということだ。
まあ、これは、うがった見方でしかないとは思うが)

『あたしの中の』という作品は、
テーマ性がおそらくない。
わたくしの読みが浅いのでなければ、とにかくない。

 戦争や人間の攻撃性について触れられるものの、
テーマという扱いではないだろう。
 強いていえば、面白さがテーマという感じか――。

 そうした作品がコンテスト、
しかも「第一回」の
「奇想天外SF新人賞」の代表とすることに対して、
お二方は忍びなかったのだろう。

 サスペンスのあり方とか、いろいろと言っているが、
実はテーマ性のなさに引っかかりを感じているのだと思うのだ。

 そして、この作品に対する選評というのが、
後のライトノベルの登場を暗示しているというか、
それらに対する評になっている。

 つまり、
それまでの小説、特にSFでは、

(1)にテーマやメッセージ性
であり、
(2)がストーリー性、面白さ

だったのが、
ライトノベルになって、
その関係が逆転したということだ。

 この逆転現象は、
もちろん新井素子の作品の影響というわけではない。
(少しはあるかもしれないが)

『スター・ウォーズ』のように、
テーマ性よりも娯楽性を重視したSF映画のブーム、
アニメブームによるマンガやアニメのノベライズが、
小説のジャンルとして現れたこと、
テレビゲームの登場、
70年代と80年代の気風の違い、

などというものが、
テーマ性よりも面白さ優先に流れを変えていったのだろう。

 これはライトノベルに限ったことではない。
 文化が、そして社会が、
規範的なテーマ性よりも、
自由な面白さを求めていった時代だったのだ。



 さてさて、道化の真実にございます。

 ところで、
 山本弘先生の「スタンピード」という作品が気になる方もおられましょう。
  わたくしも気になります。

 ですが、それが掲載されたのは、この次の号。
 それは、ご主人さま、持ってないのでございます。

 だって、
 奇想天外のこの号を古本屋さんで見つけたときは、
新井素子先生は人気でしたけれども、
山本弘先生についてはまだ存じておりませんでしたものな。
 山本先生には悪いですけど、仕方のないことでございます。
 

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