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2024/11/22 『赤毛のアン』が『アン・シャーリー』というタイトルになって2025年5月。Eテレで放映されるそうでございますな。キャラクターは以前日本アニメーションで製作された『赤毛のアン』をちょっと大人っぽくか、外国人に寄せた感じ。キャラクター原案:近藤喜文となるのかなぁ。基本的な服装などはどうあっても同じ感じになると思うので、あとは高畑勲先生へのリスペクトを表明するかどうかといった話になりましょうな。過去のアニメ作品をリスペクトして作られるってないですよねぇ。しかも小説などが原作としてありつつ。新しくていいと思います。
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 パスティーシュという言葉を誤解しておりました。
シン・仮面ライダー
 この言葉をはじめて知ったのが、
シャーロック・ホームズ』を扱った本だったため
でございましょう。
 なので、作品に敬意を表して作者の意図を曲げずに書くのが
パスティーシュと、思っていたのでございます。
 
 ですが、そうでもないようでごさいますな。
 視点や意図を変えたものも、パスティーシュのようでございます。
 
 ですから、『シン・仮面ライダー』も
『仮面ライダー』のパスティーシュとなりますな。
 
 元作者の意図とは違うものは、パロディかと思っておりました
 
 まぁ、言葉だけの問題でございます。
 言葉はどうあれ、『シン・仮面ライダー』は庵野先生の意図の元に
『仮面ライダー』を組み替えたものにございます。
 
 しかし、パンフレットではお書きになっておられるのですな。
『僕の考えた仮面ライダーを作りたい』ではなく
 『仮面ライダーという作品に恩返しをしたい』
 
と──。
 
 そういうわりには、庵野節全開じゃないか。
 そう思うわけでございます。
 
『仮面ライダー』をはじめ、
様々な作品に対して好きだと公言しているわけですが、
本当に作品が好きなのだろうか? 
とまぁ、そう思ってしまうわけでございます。
 
 いや、確かに好きなのでございましょうが……。


 そんな矢先
──実際には、パンフレットを紐解くちょっと前なのでございますが、
  そこは大目にみて──
YouTubeをぼーっと眺めていて、
岡田斗司夫先生の『シン・エヴァンゲリオン』に対する解説に目が留まりました。
 
 そこで、庵野先生が宮崎駿先生に叱られたエピソードを紹介してございます。
 
 シーンを庵野先生が、コマ送りしたり、スローモーションにしたり、止めたりして
何度も何度も繰り返してみているものだから、
「作品全体で見ろ」と宮崎先生におっしゃられたとか。
 
 自分たちはビデオが出てきた最初の世代だから、
そのように同じシーンを何度も何度も見るということをやる──
と岡田先生はおっしゃっておりました。
 
 これだな、と思いました。
 
 つまりですねぇ、庵野先生は、作品全体も愛してはおりますが、
それと同等、あるいはそれ以上に作品を構成する部分部分にも
愛を感じているのでございますよ。
 
 それもその作品を構成する一要素としてだけではなく、
作品からまったく切り離した状態で、
パーツとして美しい、仕組みが素晴らしい、好きだということでございます。
 
 時計の内部構造や自動車のエンジンだけを取り出して語るのと
同じようなことでございますな。
 
 そういうバラバラな部品を調整し、
ピッタリとなるように組合わせ貼り合わせ、
自らの作品にコスプレさせていくのが、
庵野先生の流儀だと思うわけでございます。
 
 動画の中で岡田先生は、
庵野先生の作り方は帰納的だとおっしゃられておりました。
 
 これは、結末をどうするかを最初に決めて、
それをどうするかにとどまらないと思うのでございますよね。
 
 こうやって色々なところから集めてきた作品の構成要素
──一作品にはとどまりません──を自分のやりたいこととともに並べてみて、
その配置を並べ替えたり、加工したり、組合わせたりして、
自分の作品に合うようにあつらえ直していくのだと思います。
 
 そうそう、その中にはSF的なこだわりも入っておりますな。
 
 物理法則ですとか、
今回の作品でしたら、コウモリオーグの飛び方などでございます。
 
 しかし、そうした空想科学読本的なこだわりも
パーツの1つなので、作品的に不具合なら使いません。
例えば、「追告」にも出てまいりました、
ライダー同士が空中でパンチし合うところなど
物理的にはああなりませんな。
 
絵的なかっこよさ、美しさを優先させた結果だと存じます。
 
 で、こういう元作品での扱いや意図から切り離した状態で、
自由に組合わせていくやり方が、
ネタ的でありハロディ的だと思うのでございますよね。
 
 それは理であり情ではない
 
 はコスプレする側、元となる自分の作品にあるのでございますな。
 
 ですが、岡田先生はこれはパロディではなくオマージュだ
とおっしゃっておられます。
 おまじないとかけて、それは作品が成立する上での儀式だ
ともおっしゃっておられます。
 
 仮面ライダーでもうしますれば、
プラーナを浴び、仮面を装着するということでございますな。
 
 まじないは呪いと書き、それは庵野監督が作品を作る際に自分にかける、
一種の呪いでもあるのでございましょう。
 
 オマージュともうしますと、
たいてい作品全体に対する愛を言うと思うのでございますが、
この場合それだけではなく、そうしたパーツに対する愛も、
全体に劣らず、いや、それ以上にあるのでございましょう。
 
 その愛を作品にまとわせるのが儀式なのでございましょうな。
 
 細部に対する愛ということてであらためてパンフレットを見ますと、
単なるこだわりと思って読んでいたものの意味合いが異なってまいります。
 
マフラーの位置ですとか物理法則ですとかいったものも、
物神的(フェティッシュ)な儀式なのでございますな。
そうしなければ作品が成立しないのでございましょう。
 
 本作は52年前の『仮面ライダー』を構成していた
東映生田スタジオの作り出したテレビシリーズや劇場映画、
石ノ森章太郎先生のテレビシリーズを補完すべく描かれた漫画などを
分析・検証・変換・再構成することで新たな劇場映画とする事を目指しています。
 
 庵野先生のこのお言葉も、そういうことを表明したものだったのでございますな。
 
 ですが、わたくしには、
パーツをひとつひとつ分析・検証・変換・再構成すること、
情ではなく理によってパズル的に結びつけていくことがネタ的でありパロディ的だと、
そのように感じてしまう次第にございます。
 
 
 ですからですねぇ。
 わたくしのようなものが困るのはこれ、
シリアスな展開なの? それとも笑っていいところ?
と迷うことなのでございますよね。
 
 岡田斗司夫先生が『トップを狙え』でお約束展開のパロディをやったとき
回り込みとそれっぽいBGMにしたら、
見ている人が笑わないか、困惑した笑いしか起こらなかった
というエピソードを披瀝しておられましたが、
それと申しますか、それの逆と申しますか……
なのでございますな。
 
 この作品の場合、ギャグではないのでしょうが、
わたくしにとってはどうにも微妙でございまして。
感動とか、そういう方面には行かなかったのですな
  
 ですから、これまでもそうした作品の評価はしておりませんでしょ。
 今後もおそらくそう。
 
 わたくしには出来ないのでございます。

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