2024/12/04 オカルト好きの高倉健って、パワーワードだなぁ。
というわけで
「ルナ・ヴァルガー」
シリーズのルビについてでございます。
「ルナ・ヴァルガー」
シリーズのルビについてでございます。
「ルナ・ヴァルガー」シリーズ
(秋津透/
角川スニーカー文庫/昭和63(1988)/4)
には、以下のようにフリガナの域を超えた、
過剰とも言えるルビがついてございます。
このフリガナの域を
超えたルビと申しますのは、
直接的には黒丸尚先生の訳された
『ニューロマンサー』
(ハヤカワ文庫SF/
昭和61(1986)/4)
あたりの影響でござましょう。
(秋津透/
角川スニーカー文庫/昭和63(1988)/4)
には、以下のようにフリガナの域を超えた、
過剰とも言えるルビがついてございます。
このフリガナの域を
超えたルビと申しますのは、
直接的には黒丸尚先生の訳された
『ニューロマンサー』
(ハヤカワ文庫SF/
昭和61(1986)/4)
あたりの影響でござましょう。
サイバーパンクといえばの作品でございますな。
この作品では、新語・造語を何の説明もなく過剰に入れて、
その過剰な積み重ねによって世界を作りあげておりますな。
作品の合間に情景描写を入れて独特の作品世界を作っていくやり方は、
ハードルドルドの手法でございますが、
それを過剰な新語・造語でやっているところが、
サイバーパンクのパンクたるゆえんだとわたくしは思います。
(ウィキペディアを見ますと、そうは書いてございませんが)
サイバーパンク、スチームパンクなど色々なパンク作品がございますが、
やはりこの言葉の過剰さがないと、
単なるサイバー小説、スチーム小説の域を出ないのではないかと、
個人的には感じてしまいます。
『ニューロマンサー』でのルビの役割は、ブーストでございますな。
日本語にした単語のもとの単語を示すという本来的な役割はもちろんですが、
それによって日本語でも英語でもないニュアンスを表現したり、
その相乗効果に意味を持たせたり、
造語の過剰によって作りあげられた世界をさらに加速させて、
見たことのない世界を作りあげる。
それが目的であり、成功しているように思えます。
それによって日本語でも英語でもないニュアンスを表現したり、
その相乗効果に意味を持たせたり、
造語の過剰によって作りあげられた世界をさらに加速させて、
見たことのない世界を作りあげる。
それが目的であり、成功しているように思えます。
たとえば、バビロンのルビには悪徳都市の語があてられております。
つまり悪徳都市としてのバビロンと規定しているのでございますな。
つまり悪徳都市としてのバビロンと規定しているのでございますな。
単に「バビロン」と書かれていても、「悪徳都市」と書かれていても
そのまますっと読んでしまうようなところでございますが、
こうした重層的な意味をもたせることによって、
引っかかりを、この世界の独特さを表現しているわけでございます。
一方の「ルナ・ヴァルガー」は、それほどのものを感じません。
スタイリッシュに世界を構築するためのルビの過剰ではないと思うのでございます。
むしろこの作品の過剰さは過剰のための過剰、
つまり過剰なルビを振ること自体が作品のスタイルになっているのだと存じます。
つまり過剰なルビを振ること自体が作品のスタイルになっているのだと存じます。
もちろんこの作品でも造語につけられたルビはございますが、
それが統一して作品世界を構築するとは至っていないと思うのですな。
それが統一して作品世界を構築するとは至っていないと思うのですな。
むしろこの作品での説明としてのルビは、
ライトノベルの分かりやすさに貢献しております。
たとえば、パッと開いて1巻p.55。
ここでは、妹公女、妹にヴィーナ。このこにヴィーナのルビが振られております。
普通の文章ならルビなしでこれらの単語が登場するところでございますが、
うっかりしているとこの人誰だっけということにもなりかねない。
それがルビが入っていることで、どんなにボーッと読んでいても
同一人物だということがわかります。
しかも、いちいち本文でヴィーナ、ヴィーナ書くよりも、くどくはございません。
それにルビに書くことで、情報と固有名詞が紐づけられます。
この場合ですとヴィーナは
ルナにとって妹であり「このこ」と呼ぶ立場の人物であり、
公女であるということがわかります。
常にルビによってそれが示されているために、
読者の認識にブレが生じたり、この人誰だっけということがなくなるわけですな。
二つ目は読みやすさと申しますかくだけた文体に統一するため、
三つ目としてはギャグと申しますか、
ひねったルビをつけること自体の面白さがございます。
三つ目としてはギャグと申しますか、
ひねったルビをつけること自体の面白さがございます。
例えば、「難行苦行」に「しんどいよーくるしいよー」とルビを振ったり、
「意気高揚」に「やったるでー」とかでございますな。
またルビでは「さけ」、本文では酒瓶というように、
ルビだけでは不正確な言葉を、本文で補正するためにも使われてございます。
ですが中でも、三つ目の意図が一番大きくございましょう。
「意気高揚」に「やったるでー」とかでございますな。
またルビでは「さけ」、本文では酒瓶というように、
ルビだけでは不正確な言葉を、本文で補正するためにも使われてございます。
ですが中でも、三つ目の意図が一番大きくございましょう。
作者の頭の冴えの見せ所として、
その言い換えを楽しんでいると思うのでございます。
それがなければこの過剰さは生まれませんでしょう。
「中年」に「おっさん」、「朗報」に「いいしらせ」、
「反転した」に「かえ」など、
別に漢字に、あるいはルビにしなくてもいいのでは、
というのも含まれていたりしますが、
それをルビにしてしまうのが、この作品の文体なのですな。
「反転した」に「かえ」など、
別に漢字に、あるいはルビにしなくてもいいのでは、
というのも含まれていたりしますが、
それをルビにしてしまうのが、この作品の文体なのですな。
それがこの作品の独特のユーモアを形作っているのだと存じます。
☆ ☆ ☆
とまぁ、このあたりまでは普通。
ルビの過剰について、もう少し書くことがございます。
というわけで、話題とするのは「ファンロード」。
この雑誌の巻末あたりに「ファンロード・キャッスル」
というコーナーがございます。
というコーナーがございます。
マンガ雑誌に限らず雑誌によくございます、
作者や執筆者、編集者のあとがきのコーナー。
雑誌のその号に登場した人のうち、
招待状が送られてきた人が好きなことを書く場所でございます。
そのコーナーである時期から、
過剰なルビをつけた文章が流行り始めるのでございます。
過剰なルビをつけた文章が流行り始めるのでございます。
その嚆矢は、おそらくこれ。
1984年2月号に掲載されたものでございます。
それまでも、
単語に注釈めいたルビをつける方は
ございましたが、
単語に注釈めいたルビをつける方は
ございましたが、
それが全面にわたってとか、
かなりの部分にわたって、
となるのは
おそらくこの文章からだと存じます。
かなりの部分にわたって、
となるのは
おそらくこの文章からだと存じます。
もう少し例を見てみますと、こんな感じですな。
全体にわたって本文とはまったく関係ないことを書いているものもあれば、
単語単語にそれに関連したことを書いているものもあり。
単語単語にそれに関連したことを書いているものもあり。
さまざまでございますな。
書くことがいっぱいあって、
容量を増やしたいというのがそのはじめだといたしましても、
注釈が生む文章の変化ですとか、
小さな字で書かれているがゆえに興味が引かれるですとか、
あるいはルビのほうに本心が書かれていたりして、
生き生きとその人のキャラクターを感じさせるものになっていたりと、
こうした文章ならではの面白さを感じさせます。
容量を増やしたいというのがそのはじめだといたしましても、
注釈が生む文章の変化ですとか、
小さな字で書かれているがゆえに興味が引かれるですとか、
あるいはルビのほうに本心が書かれていたりして、
生き生きとその人のキャラクターを感じさせるものになっていたりと、
こうした文章ならではの面白さを感じさせます。
もしかすると「ルナ・ヴァルガー」の文体というのも、
これの影響を受けているのかもしれません。
で、こうした文章のさらにルーツはと考えますと、
当時と申しますかその少し以前から、
マンガ家の方でコマ枠の欄外に、
読者への私信やら近況やらを書く人がございましたでしょう。
当時と申しますかその少し以前から、
マンガ家の方でコマ枠の欄外に、
読者への私信やら近況やらを書く人がございましたでしょう。
こうした文章は、ああした文の影響下にあるのではないかと存じます。
欄外をマンガの枠線の外と同じような感覚で使っているのでございますな。
枠外の文章というのは、作者と読者の距離を縮めるものでございまして、
どちらかと申しますればアマチュア的、同人誌的でもございます。
どちらかと申しますればアマチュア的、同人誌的でもございます。
そのような雰囲気が、
ファンが参加する「ファンロード」のあとがきにあっていた
ということはあるかもしれません。
ファンが参加する「ファンロード」のあとがきにあっていた
ということはあるかもしれません。
☆ ☆ ☆
他にもルビが過剰な作品はあるかもしれませんが、今回は思いつきませんでした。
いづれにせよ、影響は薄いかな、と思います。
それらについて考えるとすれば、文豪がつけた特殊な読みがな
みたいなものにまで言及する必要がございますでしょうが、
それは今回の題から離れましょう。
みたいなものにまで言及する必要がございますでしょうが、
それは今回の題から離れましょう。
ただし、小栗虫太郎先生のルビは、
『ニューロマンサー』と同じく、作品の雰囲気に貢献していると存じます。
『ニューロマンサー』と同じく、作品の雰囲気に貢献していると存じます。
あとは
田中康生先生の『何となくクリスタル』(1981/1)のような注釈小説は、
あまり関係ないかな……。
この作品、
どんな感じか見るためにパラパラッとめくってみただけでございますが。
田中康生先生の『何となくクリスタル』(1981/1)のような注釈小説は、
あまり関係ないかな……。
この作品、
どんな感じか見るためにパラパラッとめくってみただけでございますが。
「ルナ・ヴァルガー」や「ファンロード・キャッスル」が
参照にしているとは思いません。
ただ、時代の雰囲気として、
そういうものを受け容れる土壌はあったということはできると思います。
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黒丸先生については指摘を忘れてました
ニューロマンサーは発売当時に読んだはずなのに、すっかり忘れてるなあ。歳かなあ。歳だろうなあ。
FRについては知りませんでした。なるほど。
なんというか、この技法(?)が大成しなかったのは、中身うんぬんより、書くのに倍の手間とするする読ませるための超絶技巧のテクニックが要求されるからじゃないかな、と思います。読むほうも疲れますしねえ……。
黒死館は好きです。何回か読み返しましたが、読むたびに変なことに気が付いて面白いですな。今の自分としては、あの事件は、「名探偵法水麟太郎が、思わず惚れてしまった犯人をなんとかして死刑台から救おうと、ペダントリーをまくしたてて捜査を妨害するものの、犯人の殺戮は果てしなく、法水のカバーできる領域を超えてしまったうえに自殺までされてしまった顛末」だと思ってます。(そうか?(^^;))
FRについては知りませんでした。なるほど。
なんというか、この技法(?)が大成しなかったのは、中身うんぬんより、書くのに倍の手間とするする読ませるための超絶技巧のテクニックが要求されるからじゃないかな、と思います。読むほうも疲れますしねえ……。
黒死館は好きです。何回か読み返しましたが、読むたびに変なことに気が付いて面白いですな。今の自分としては、あの事件は、「名探偵法水麟太郎が、思わず惚れてしまった犯人をなんとかして死刑台から救おうと、ペダントリーをまくしたてて捜査を妨害するものの、犯人の殺戮は果てしなく、法水のカバーできる領域を超えてしまったうえに自殺までされてしまった顛末」だと思ってます。(そうか?(^^;))
『ニューロマンサー』はわたくしの場合、
まずルビの付け方がすごいというレビューを読んで興味を持ったので、ルビと聞いてすぐにこの書のことが頭に浮かびました。
「ファンロード」誌の例は、字数制限と書きたいことがたくさんある筆者という条件がそろって発生したと申してもよろしいかと存じます。
いくらでも長く書けるのでしたら、このような手法は生まれなかったかもしれません。
読みや注釈ではなく、本文と関連があるにせよまったく違った文章を書くと申しますのは、長編ではかなりアクロバット、ほぼ不可能でございましょう。
短編でしたらセリフとは裏腹な心中ですとか、何気ないしぐさに隠された本心ですとか、日常的な行動のときに頭を占めていた思いですとか、行動とは別の心の流れを描くということはできましょう。
そういう作品があっても不思議ではないと存じます。
ただ、実験的でございますな。
短編であっても通常の小説ならば、地の文として書いてしまって何の問題のないところだと存じます。
『黒死館殺人事件』を精読していらっしゃるのでございますね。すばらしい。頭の悪いわたくしは、ただ終わりまで文字を追ったというだけでございます。
どこかにありはいたしますが、それを捜すとなるとまたエラい時間がかかってしまいそうなので、今回はやめておきます。
以前紹介した『人外魔境』のほうは見つかったのでございますが
にしても『黒死館』、愛されておりますな。
少し前、図書館で分厚い本を見かけました。
ネットで調べてみますと、「【「新青年」版】黒死館殺人事件」小栗虫太郎著、松野一夫挿絵、山口雄也註・校異・解題、新保博久解説(作品社/2017/9)これかな。
A5判で480頁、すごいなぁ。
「ファンロード」誌の例は、字数制限と書きたいことがたくさんある筆者という条件がそろって発生したと申してもよろしいかと存じます。
いくらでも長く書けるのでしたら、このような手法は生まれなかったかもしれません。
読みや注釈ではなく、本文と関連があるにせよまったく違った文章を書くと申しますのは、長編ではかなりアクロバット、ほぼ不可能でございましょう。
短編でしたらセリフとは裏腹な心中ですとか、何気ないしぐさに隠された本心ですとか、日常的な行動のときに頭を占めていた思いですとか、行動とは別の心の流れを描くということはできましょう。
そういう作品があっても不思議ではないと存じます。
ただ、実験的でございますな。
短編であっても通常の小説ならば、地の文として書いてしまって何の問題のないところだと存じます。
『黒死館殺人事件』を精読していらっしゃるのでございますね。すばらしい。頭の悪いわたくしは、ただ終わりまで文字を追ったというだけでございます。
どこかにありはいたしますが、それを捜すとなるとまたエラい時間がかかってしまいそうなので、今回はやめておきます。
以前紹介した『人外魔境』のほうは見つかったのでございますが
にしても『黒死館』、愛されておりますな。
少し前、図書館で分厚い本を見かけました。
ネットで調べてみますと、「【「新青年」版】黒死館殺人事件」小栗虫太郎著、松野一夫挿絵、山口雄也註・校異・解題、新保博久解説(作品社/2017/9)これかな。
A5判で480頁、すごいなぁ。
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